オレとおれの意図的差分と大量殺戮兵器について

桑原賢五郎丸

オレとおれの意図的差分と大量殺戮兵器について

「オレたちは今、太陽とともに戦っている」


 藤田和日郎の「うしおととら」の中で、主人公の潮が最終決戦前に放った言葉である。

 潮の決意を秘めたこの言葉に、当時中学生の自分は大いに感動した。感動したということは感情が刺激されたということである。内容には触れない。あくまでこの一文のみを考察している。内容は考慮しない。

 この頑なな姿勢は、小中学校ともに読書感想文を書くと必ずせんせいが激怒してた経験から生まれている。


「書き直せ」

「どこを読めばそう感じるんだ」

「端っこのクラスに替わるか」


 時を超えてまざまざと蘇る罵詈雑言の数々。親を呼び出されたことも2回ある。


 早々と言い訳をしておくと、なぜおれがカクヨムで公開されるレビューを書かないかというと、その記憶に縛られているからだ。レビューを頂戴しても書かないのは、恩知らずだからというだけではないのである。


 もし「レビュー書かないと仕事の量減らす」と取引先に脅されたならば書くことはあるかもしれない。

 しかし、読解力の貧しいおれが必死こいて内容読んで、うなりながら書いたレビューをその著者が読んだとしよう。著者は不快な顔をして首をひねった3秒後には迷わず削除ボタンに指を伸ばすのである。

 その点コメントはいい。傍からは見えないのでバカがばれないし、消されてもショックは少ない。


 以上のような経緯があるので、内容には触れない。

 では今回、最初の一文の一体何が我が感情を刺激したのだろうか、考えてみることにする。

 おそらく、おれが書くとこうなる。



「おれたちは今、太陽とともに戦っている」



 MAC OS Mojave10.14.5にてコマンドキー+「そ」→コマンドキー+「ひ」、すなわちコピー&ペーストのコマンドを華麗に入力したので、最初の一文と全く同じものである。コピペである以上、文字列は何も違わない。しかしどこか印象が違う。潮からどことなく敗北感が漂う。5分間モニターを睨み続けて気づいたのは、主語の「おれ」と「オレ」の違いであった。


「するってえとなにか、手前のパソコンはコピペで文字が変わんのか」とお疑いの方もいらっしゃるかもしれない。結論から言うと変わる。

 今お目通し頂いているこのテキストは、せいぜい6PVくらいしか記録されない、良く言えば貴重なレア物である。そのレア物に目を通してくださっている奇特(!)な方になじられる恐れはあるが、変わる。おれのパソコンはバリバリ変わる。コピペで文字変わる。

 しかしたいした問題ではないので置いておく。


 おれがおれと書くのは、筒井康隆のファンだったからである。更に、原稿用紙に書いていた時、漢字で書くと字が下手くそで読め返せなかったというヘルプレスな理由もある。

 どれくらい下手かと言うと「瞳」と書いたものを読み直したら「膣」としか認識できず、大いにもじもじしたことがあるほどだ。しかもインタビュー相手の人名である。表情を反映しやすい顔の重要素材ではなく、それを産み落とす場所になってしまっている。そんな名前が役所に通ってたまるか!

 しかし性格や性癖を踏まえての読み間違えはたいした問題ではないので、やはり置いておく。


 漢字から派生したと言われるひらがなは、貴族社会においては私的な場かあるいは女性によって用いられるものとされた、とwikipediaにある。どことなく優しい印象を与えるから女性が使ったのか、女性が使ったから優しい印象になったのかはわからない。


 何かで読んだが、ご飯をよそう「しゃもじ」は元は「杓子しゃくし」だったそうだ。しかし「なんかかわいいから」というだけの理由でしゃもじになったらしい。

 先程のおれの「瞳膣どうちつ誤読もじもじ問題」も、どこかかわいい印象を与えるのはその為である。かわいいと思わなければおかしいとすら言い切れる。


 一方、カタカナは漢字の一部から取ったものである。例をあげると、於のほうへん・かたへんからオが生まれ、レは礼のつくりから。この辺は考えた側の一生懸命さが出ているのでいいとして、ちからから派生したカナの「カ」と、かなの「か」はやる気がなさすぎではないのか。これでいいや感がにじみ出ていないか。帝とかそれなりにおこなのではなかったろうか。


 オレとおれ。並べて気づくが、ここに、カナとかなの決定的な違いがある。

 それは鋭さである。殺傷力と言い換えてもいい。カタカナのカの最後のはらいの部分を持ってぶん投げれば、敵の首の3つくらいは乗せて帰ってきそうな気がする。何と戦っているのかも、帰ってきたそれを受け止められるのかどうかも分からないが、そういうイメージはある。


 その点、ひらがなのかは柔らかい。そういう形のクッションすら想像できる。離れている部分はオットマンのようなものだ。目を閉じて無理やり想像すれば、何やら大きな犬と子猫が少し離れて眠っているようにも感じるではないか。これがカナとかなの殺傷力の差と言い切っても良いだろう。


 では、オレとおれを比べてみよう。

 オは確実に農耕具、もしくは武器である。縦棒の長い方を持って土を起こせば最後の斜め棒と最初の横棒の部分の2箇所で効率よく耕せるだろうし、縦棒と横棒もって斜めの棒を突き出せば敵の首は3つくらい飛ぶ。

 レに至ってはオを遥かに凌ぐ殺意100%の武器と言っても良い。レとヤ、ミとヘ辺りはカナの中でもトップクラスの殺傷力を誇る。ミなどは一振りで首級3以上確定、ヤは横棒の終わりの部分に引っかかったら一巻の終わりだぜ、という殺意がミエミエである。ああ、ミエミエも怖い。


 その点、お。これは柔らかい。丁寧語のおを想像させることもあるが、丸いフォルムは1967年型のフォルクスワーゲン・ビートルを彷彿とさせる。

 れに至っては最後のうねりのとぅるんとした部分はもはやお遊び、ウォータースライダーもかくやと思わせるほどのうねり具合である。



 別の言葉で考えてみよう。


 ニイタカヤ


 やめた。


 例えば「ザ・バンド」という好きなバンドがあるのだが、これを「ざ・ばんど」とすれば不思議と後ろにビックリマークをつけてみたくなる。

「ざばんど!」。

 一見意味は分からないが、丸ゴシックを基調としパステルカラーで彩色すればまんがタイムキラキラオリジナルフォワード別冊増刊号とかに掲載されている美少女系4コマ漫画にも感じられる。なお、実際のザ・バンドはヒゲモジャのおっさんで、5人中2人がヤク中。

 この「ひらがなほんわか現象」はご存知のように、四文字の時に高い効果を発揮する。


 痛風→つうふう!

 陣痛→じんつう!

 納骨、落選、脱獄、脱税、脱臼、脱糞、脱腸、脱線、脱走、脱落とどれもひらがなにしてビックリマークをつければ、いずれ劣らぬ萌系4コマ漫画の素材になりそうだ。脱という漢字に恨みでもあるのか。



 ここに結論が導き出された。オレとおれの差、カナとかなの差は、殺意と意志と態度の違いである。


「オレたちは今、太陽とともに戦っている」→勝つ

「おれたちは今、太陽とともに戦っている」→負ける


 とがって人に向くか、柔らかく向き合うか。どちらがいいと言えば、前者だろう。後者はおれが使っている時点で信用がならない。

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