Period_1 : Rendezvous With Destiny〈3〉
夕闇の中でわたしは孤独だった。
そのまま誰とも出会わないように祈っていた。
青痣のような空を仰ぐ。薄暮は半ば高楼に塞がれ、切り刻むような架線網に覆われ、その間隙には
今に死にそうなネオンの瞬きが、路傍へまばらに構えたやましい店々を、申し分程度に修飾してやっている。そういう街路だった。
腕時計を確かめる。
午後の4時58分。
残されているのは1分36秒。
サテン地のドレス越しに太腿へ触れる。
隠している25口径。
こんなものを持ちたくなかった。
汗ばんだ掌を握りしめ、逸る動悸を押さえつけようとして、あきらめる。
ほんの昨夜の事だった。
思い出したくなくても、否応なく何度も思い出した。それは今も変わらない。
「折り入って、
おまえに話があるんだ」
まず脳裏へ刻まれているのは、そんな大仰な台詞だ。
脂ぎった声帯の勿体つけた語り出しは、そのとき少なくとも不愉快だった。静かな夜には似つかわしくなかった。
腹から首まででっぷりと肥えた中年が、立ち尽くすわたしの前に座していた。汗染みが節々に滲んだビジネススーツを着て、デスクへ備え付けの安楽椅子に身を委ねている。
無神経な贅肉の
「この客を覚えているな?」
嗄れた声は肯定しか許していなかった。
ゆえにわたしは思考なく頷き、だが投げ出すように机上へ広げられたプロファイルを見て、当惑する。
「イヴ・霏蓮=ハートフィールド。
最近この辺りで名を上げてきた始末屋だ」
忘れもしない。
然るにこの状況下、わたしの個人的な追憶は重要でなかった。
望ましからぬ予感がして、やつが一語一句を語るごとに沸くどぶのような臭いが、尚の事我慢ならなかった。
「北欧系と推定される混血白人女性。
年齢20代前半。身長170cm前後。
髪は黒、青い瞳、中肉中背。
縁戚不明、病歴不明、特筆すべき身体的特徴なし」
「前歴についても確固たる情報はない。
「確かであるのは一つ。
彼女が極めて洗練された諜報・戦闘技術を体得し、
しかもその全てを後ろ暗い使途へ余さず生かせる、
生え抜きの
おのれでも把握せずに垂れる受け売りの長広舌が、この男にささやかな自尊心を与えてやっていると、わたしは理解していた。
だが転瞬、腫れぼったい目元がわたしを睨んだ。内心を言い当てられた気がして、心地が悪くも恐ろしかった。
乾き切った唇が、やすりをかけるような調子で語り出す。やはり、ひどく臭い息をしていた。
「この店の後ろ盾をやってくだすってる方々について、
お前は知っているかな」
後ろ盾と呼べるほど立派なものでないことまで知っていた。
この宿も大した娼館ではない。19のわたしさえ古顔の部類なのだ。
みかじめの送り先は三流のギャングでしかなく、この街で彼らは新顔の部類で、けじめの付いた振る舞いは寡聞にして存じなかった。
「二日前だよ。
マドセン・ストリートで殺しと盗みがあった。
あの人らの直営する貿易会社だ」
「見回りに来ていた幹部一人と、
護衛の数人が殺された。
加えて資金洗浄の記録を含んだ裏帳簿、
数年分が全て逸失していた。
ご丁寧に実物へは一切手を付けなかった。
周到な手口さ」
「カメラの映像と生き残りの証言から、
下手人はすぐにわかったよ。
甘ッたるい柑橘の香水をつけて、
いかれた格好で薄笑う女だ」
新たに禿頭が示したタブレット端末には、防犯タレットの捉えた不鮮明な映像が映されていた。
やや俯瞰の角度から捉えられた人影は、それでも紛れもなく彼女だ。彼女だった。肌を寄せた時と同じ軽薄な笑いをして、錯誤的な装束。
小さな掌に余る大きさの拳銃を構えていた。躊躇なく
さしたる驚きはなかった。むしろ得心していた。彼女は、イヴ・霏蓮=ハートフィールドは、このような微笑みで誰かを殺すのだろう。
それを知れた事が、その力になれた事が、嬉しかった。誇らしかった。うつくしさすら感じた。どうしてかは、やはり、分からない。
「分かるだろう?
見せしめだよ。
この女はおれたちの顔へ、
真っ直ぐくそを塗りに来たわけだ。
この土地で新入りが粋がるなとね」
だが何よりも分からないのは、わたしがここにいる理由だった。
緩やかに背筋へ張り巡る形容しがたい不快な予感が、有り難くもその本質を言い当ててくれた。
浮かべたままの当惑をわたしは持て余して、ただ唇を噤んだまま、視線を合わせる気になれなかった。頷きだけをずっと繰り返している。
「おまえにも、嫌疑がかけられている。
もちろん共犯とは言わんさ――彼らは紳士だからね。
だが何かしらのやりとりはあったかもしれないと睨まれている」
「おれの温情に感謝しておけ。
本当ならあの人らへおまえを突き出して、
存分に可愛がってもらってもよかったんだ」
おぞましい
粗相を働いた娼婦の行く末は誰でも知っている。首輪を付けられ、身ぐるみを剥がれ、どこへでも売り飛ばされる。その後は、ありとあらゆる悪意に陵辱されて死ぬ他ない。
今はそれが威しでしかない事に安堵した。しかし不愉快な予感は、まだ鼓動を支配していた。この男は要件だけを伝えて語れるほど賢くはないが、無意味な脅迫をただ奴隷に聞かせるほど愚かでもない。
そして卑しく浮腫んだ顔面に浮いているのは間違いなく嘲笑だった。
「明日の夕方5時、奴との予約を取り付けた。
ずいぶんおまえを気に入ってる様子だよ。
とんだ色情魔さ」
デスクの下から禿頭は何かを引き出した。
皺の寄った掌で隠しながら資料の上へ置いた。
数枚の紙屑を介して尚ごとりと重々しく鳴った。
残忍に笑う声が臭くて仕方がなかった。
「どう使うのも、
おまえの自由だ」
黄ばんだ掌の下から現れたのは、黒光りする一挺の拳銃だった。
小さな銃だった。寸詰まったような形をしていて、銃身はひどく短く、安っぽい
なにが可笑しいのか、ずっと禿頭はにやついていた。垢汚れの張り付いた歯茎と歯列を、いずれも醜悪に晒していた。
示されたそれをどう使えばよいのか、わたしには分からなかった。分かりたくなかった。かあっと鼓動が熱を帯びて、鼓動と耳鳴りが五感を蝕み、虚脱と緊張が
「自由になりたいんだろう?
せっかく好機が巡ってきたんだ」
「うまく使えば、それなりに取り立ててやってもいい。
棒に振るのは愚かなことだな」
ようやくそこでわたしは分かった。
その後は何を聞かされても理解できなかった。
化粧室で一晩中ひどく吐いた事だけを覚えている。
ゆえに今ここにいて、ただ祈りながら時計盤を睨み、頤をもたげる。
待ち合わせ先は横道奥の喫茶店とされていた。くだんのギャングが傘下としている、裏通りにはありふれた店だ。
口の中が乾き切っていた。右脚に
誰かを殺した事なんてない。こんなどぶのような世界で、わたしは誰も殺さずに生きられると思っていた。
あの何もかも腐った売春宿で一生を終えられると考えていた。まして甘い記憶に刻まれた誰かを手にかける事などないと信じていた。生ぬるい下水に浸かり続ける方が、生き方として容易なのだから。
何もかも手違いであれとわたしは願った。あの日見た幼くも妖艶な横顔は聡明そうに見えた。ならば何かしらを嗅ぎ付けているに違いなかった。わたしは逃げられやしないのだから、せめて彼女は自由であれ。
だが、淡い柑橘の香りがした。
「こないだぶりだね。
――どうしたの?」
耳鳴りに隔てられて尚もその声は鮮明だった。
死に際のように肩口が跳ねた。
紅髪を半ば振り乱して周囲を見回した。
「ひどい顔をしているよ。
少し休んだ方がいい」
不意にわたしの脚元がよろめいて膝をついた。
気付けば喫茶入口の扉にもたれて、荒らぐ呼吸を唇でしていた。
いよいよ彼女は不安げで、それでも宥めるような優しい言葉をしていた。
しかし甘い桃色へ彩られた爪先がわたしの肩へと伸びた。
「――――だめ!」
ほとんど絶叫に等しかった。
愛しい指先を振り払いながらわたしは立ち、運悪くヒールの踵先がコンクリートの上で滑った。
したたかに腰を打ち付けていた。痛みすら直ぐに忘れる。目の前で彼女がどんな顔をしているか、もう分からない。
わたしはそれでもイヴへ縋り付いた。縋り付きながら、言葉を綴ろうとした。なのに呼吸も思考も音節も、全て喉で詰まってしまう。
「あのね、」
青く潤んだ瞳に魅入られて、やっとそれだけの詠歎を吐き出せた。
自分が何をしているのか分からなかった。なにもかも喪おうとしている事を、分かっていながら分かりたくなかった。
不思議と太腿から重みがなくなっている事に気付いた。次にその触感が膝のあたりまで来ていると知覚した。ドレスのスリットから漏れる青黒い金属質の光は致命的だった。
そのまま彼女は銃を抜いていた。
背中へ垂れたフリルの下に隠されていた。小さな右手には余る大きさの、しなやかな輪郭をしたハンドガン。
店の中へ向けられていた。華奢な指先が
どこからかやがて悲鳴が上がり、しかし撃発は繰り返される。
なよやかな細腕に抱かれたまま、震えばかり止まらなかった。なにも分からなかった。テーブルもカウンターも血溜まりと化していた。
鮮血の臭いが鼻腔を刺す。もう物言わぬ彼らの脚元には、いずれも抜かれかけた銃器が落ちていた。あるいは銃爪に指をかけたまま事切れていた。
視界が滲んだ。気付けば両の頬に伝う熱があった。白く柔らかな彼女の指先が、そっと滴りを拭ってくれて、温かさだけが肌に残る。深く歎息を、瑞々しい唇が零した。
「どうやら、
何も聞かされてなかったみたいだね」
憐れむような碧眼はそれでも優しげだった。
再び彼女は躍った。まだ湿ったままの左指先が、シルクの裏に隠した二挺目を引き抜いた。
左肘が強く締められて、腕と胴が両耳を塞ぐ。蜘蛛の子を散らしたように人波は通りから逃げ出してゆく。それに乗ろうとしない人間を、彼女の銃口は捉えていた。
くぐもった
「聞かされたって、
なにを」
「最初ッからキミは使い潰される手筈だったって事さ」
しかし端的で淡然とした一言が、わたしに全てを分からせた。
だとして脚先は
車道脇に止まったままのセダンへ彼女は近付いた。粗悪なサブマシンガンが二挺、ダッシュボードの上に晒されている。
灯りの消された運転席と助手席には、息を殺した男が一人ずつ、もはや動けずに震えているばかりだった。
右手の銃口をパワー・ウィンドウへ押し付け、四発の薬莢が飛んだ。サイドガラスが砕け散り、盗難防止のセキュリティ・アラームが鳴き出したのも無意味だった。
白い指先がドアノブを撫ぜる。恐らくは非接触式の
すぐにブザーは黙りこくって、自動的に開鍵と開扉がなされた。寄りかかっていた死体が二つ転がり出て、にべもなく彼女は彼らの脚を蹴り出した。
「行こう。
これもボクの仕事だ」
背中のホルスターへ両手の銃を納め、当り前のように彼女は運転席へと乗り込む。
まだ温かい血と脳漿のこびりついた助手席へ、否応なくわたしも座る。背もたれに体を委ねたくなかった。
なにも呑み込めていないまま、わたしはイヴの横顔を見つめるより他なかった。慣れた手付きで車載のナビゲーション・システムが立ち上げられ、フロントガラスに
約束を反故にされた事は分かった。行く場所がない事も分かった。これからどうすべきかが分からなかった。詰まる所わたしは、彼女の稼業が何であるかを忘れていた。
「仕事って、」
「言っただろ。
始末をつけるんだ」
そう告げて彼女はアクセルを踏み込んだ。
電気駆動のセダンは静やかに駆け出した。
ディスプレイ上の地図に浮かぶわたしたちの目的地は、
ロッテンリリィとデッドエンダー 舞奴院 七参 @ultimaratio_338
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