Period_1 : Rendezvous With Destiny〈2〉
「ねえ、イヴさん」
堪らずにわたしは切り出していた。
十数分前にリップクリームを塗ったばかりの唇が、もう乾き切っているようにさえ思えた。
さっきよりもずっと上等なベッドの縁で、居心地悪く座り直す。ほの甘く清潔な空気なのに息苦しい。
暗い雨脚は緩やかに夜を愛撫していた。甘ったるく病んだフレーバーの香水が喉まで絡み付いてくる。わたしのじゃない。
「わたしは女の相手ができる訳じゃないって、解ってる?」
整理のつかない腹積もりをそのまま吐き出して、言葉尻が掠れた。
そいつは振り向く。
向き直る円く蒼い瞳に、わたしは一瞬だけたじろいだ。黒縁眼鏡のレンズ越し、アイシャドウの蕩かした
潤いある唇と柔らかな頬の輪郭が、甘えるように緩んでいた。涼しげに通った鼻梁は、しとり膨らんだ涙袋へ繋がって、素雪のような白皙。
何より、すばらしく錯誤した装いだった。――肩口を飾るフリルのケープ、あえかに腰を締めるコルセット、スカートの縁はパニエに膨らむ。
「でも、キミはこうして応じてくれたよ」
甘く透き通るような声色は、背筋を震わす魔性を含んでいた。
男への媚び方を知って、使い熟している雌の声だ。わたしだってこんなに上手くない。
かえってそれが不愉快だった。眉の端っこを、自分でも分からないくらいに少しだけ、歪める。それでも視線は外せない。
壁時計の分針が動いて、不意にわたしの鼓動と重なった。やけに高鳴っていた。あと六十分はたっぷり残っている。
「女の悦ばせ方を知ってる訳じゃないって言ってるの」
的を外した返事にも良い心象は抱けない。
しかも驚いたように、
何がおかしいというのかしら、続けてくすくす息を漏らした。添えた掌で、お上品にも唇を隠していた。
「別に良いよ。
ボクはキミとセックスしに来ちゃいないから」
「はあ?」
半ば戸惑い、だが半ば当て擦って、わたしは素っ頓狂な声を出した。
真白いサイハイソックスに包んだ左脚を軸に、くるり気取って彼女は一回りした。きれいな円を描いて膨らむ、真っ黒なフレアスカート。
そのままわたしの隣へ腰を下ろす。スプリングが軋んで、ベッドが揺れる。甘ったるさがこんなにも近くて、酔いしれてしまいそう。
「ヤマを踏む時は、
こうするのが習慣なのさ」
腑に落ちる。
こいつも真っ当な稼業で生きている人間ではないのだ。
危ない橋を渡ることが当り前なら、頭のネジを幾つでも飛ばさなければやっていけない。
途端、深く円く澄んだ彼女の瞳が、どこか恐ろしく感じられた。娼婦を狙った人殺しの話なんて、いつだって事欠かない。
無意識に
「趣味の悪い願掛けね」
だから幾ばくか
言葉なくイヴは指先をもたげて、長い絹地のグローブに包まれた右掌で、横向くわたしの頬を包んだ。
肩が跳ねそうになるのを由来の知れぬ意地でこらえる。また一つ分針が動いて、沈黙に時を刻み付けた。
蛇の絡みつくように音もなく、彼女の五指が膚に沈む、顎先から目許まで。つめたい。
底の知れない碧眼だと思った。もはや微笑から表情を変えられないわたしが、その双瞳に囚われていた。
淡い桃色に色付く唇が開かれる。
「真っ直ぐモノを言うんだ、キミ」
真意を捉えかねた。
目尻まで震えた。
だから返答は率直だった。
「悪いかしら?」
「気に入ったよ」
ふッと頬から指が解かれた。ほんの少しだけ肌先が名残惜しげに張り付き、すぐ離れて、でも彼女は満面に笑っていた。
破顔とはこういうものだと不意に思った。彼女は果たして幾つなのかしら。だって余りにあどけない笑顔だ。
今にもあははと声を上げそうな、ちょっと晒した白磁の前歯から、邪気ない呼気を零して何とか手打ちにしている。
そういう笑い方だった。目までつぶっていた。つられてわたしも笑った。
不意に彼女の瞼が半ばほど開いたけれど、もう怖くはない。だから、尋ねてみる。
「なんのお仕事なの?」
「ボクかい?
――〝
聞き慣れない響きばかりの人だ。
おかしな名前に、おかしな格好に、おかしな仕事。
ひとしずくの生唾を飲んで、努めて甘く潤んだ声で、上目遣いに続けて尋ねる。
「なあに、それ」
「言葉通り、果たす仕事さ。
頼まれるなら、なんでもね」
答えになっていなかった。
解るようで何も解らない、ぬるま湯のような空気感で、また壁時計は分針を刻む。もう残りの時間なんて見てやらない。
どこか遠くのクラクションが、すぐ外の路地裏で夜雨を浴びていた。
「そんな人がどうして、
仕事の前にわたしを買うの」
「一つはマインドセットかな。
始まりと終わりのハッキリした事をやっておきたいんだ。
次の〝終わり〟も上手く行くように」
「ボクの仕事は本当に色々でね。
本棚の脇に積んだままの専門書を読み果たす。
大企業が持て余した
最高効率の
情報機関の
警察やマフィアや産業スパイに知られちゃいけない
お偉いさん小脇に抱えて
世の中の腐って淀んで止まったもの、ぜんぶ終わらせてやる仕事なのさ」
ひょこり、彼女はベッドから立ち上がった。絹地に包まれた掌二つを後ろ手に組み、演説めかして部屋の中を歩き回って、饒舌は熱を帯びている。
格好を付けていることは少なくとも理解できた。それが何だかおかしくて、けれど、居心地のいい語り口だった。
「要するに、
「
誇らしげに幾ばくか背筋を伸ばして、彼女は胸を張ってみせた。
冗談を解してくれるなら、も少し揶揄ってみようかしら。それとなく、おのれの唇へ人差し指を這わせて、数秒の沈黙。
最低なものをひとつ思いついた。
「――それなら、
わたしも〝果たして〟くれるの」
一拍の沈黙を甘いエッセンスとする。
精一杯にしなをつくって、愛おしげに掠れさせた声調を紡ぎ、小首を傾げて白いうなじを晒した。はァ、と漏らす呼気は潤ませている。
舌なめずりも見せてやればよかった。娼婦が果てたいものなんて、それくらいだ。少なくとも、この体はそうだった。
わたしの媚態を映した彼女の青い目が、愉しむように少しだけ絞られる。一歩と二歩だけ近付いて、だが微笑は変わらない。
「報酬を貰えるならね」
平易かつ端的な答えだった。
変わらず蕩けるような雌の声をしていた。
はじめて誰かを好きになれる気がした。
「最低ね、あなた」
「けど残念でした。
感じないのよ、わたし」
くすくす品なく笑うのを自分でも堪らえられなくて、思わず種明かしまでしてしまう。
卑怯な謎かけにも彼女は怒ったりしなかった。三歩、四歩、五歩。ベッドの縁へ元通り座り直して、また
「腕が鳴るね」
「でもさ。
そんなの、
楽しい?」
遠くを見るようにイヴは天井を仰いでいた。こんな部屋の照明なんて何の意味もないくらい、青い瞳はうつくしく煌めいている。
いっそ明かりを消してもよいと思った。けれどそうしたら、きっとわたしは苦しくなる。彼女を舌先で弄べるほど、わたしは口が上手くない。
「ぜんぜん。
今さっきもひどい目に遭ったばかり」
だから素直になるしかなかった。
こんな仕事を楽しく思った事なんてない。
どうしてか、そこで会話は途絶した。また分針が響いて、強くも弱くもならない雨音と重なり、数秒の静けさを引き立てる。
微笑を描く彼女の唇が不意に崩れた。
「――だったら、
こんな所にいちゃいけないんだ」
はじめてそこで
わたしは向けられた直情を持て余し、ゆえに言葉は戯けて返す。
自分の浮かべていた微笑が、ただの苦笑に成り下がっている事に気付いた。
「あなたが連れ出してくれるのかしら?」
「そうさ」
間髪入れない答えだった。
一口だけ息を呑んで、だが何も悟られぬように、全て気道へ詰まらせてしまう。
努めてわたしは平静を装っているつもりだった。それでも重ねる問いかけの語末は震えている。
「そんな事をして、
あなたに何か得があるの」
「あまり賢くない問いかけだね。
ぜんぶボクの気まぐれさ」
突き放すような言い回しをしていた。喉の奥が渇いて、ねっとりとした唾液を飲み下さずにいられないのは、なぜだろう。
あれだけわたしを見つめてくれていた青い瞳は、ここに至ってずっと天井を見上げているのが、何とはなしに嫌だった。
当てつけるように俯いていた。紅く淫らに纏われたドレスが、まだ痛む股座のかたちを、曖昧に象っている。
「わからないわ」
「わからなくていいんだ」
おのれの頬へ垂れる横髪を疎うように彼女はかぶりを振った。
ひどく凄艶な濡羽色が清らかな濁流のように波打った。
不意に振りまかれた柑橘の香りが優しく心臓を刺す。
「ほんとうに、
わたしは自由になれるの?」
「ほんとうさ。
キミは自由になれる」
ふたたび分針が動いた。
雨はまだ降り止まない。
十数秒の沈黙は耳鳴りに彩られていた。
そうしてわたしは答えを見つけた。
「別にいいわ。
今の暮らしは苦労ばかりですけれど、
救われるほど落ちぶれていないの」
薄ら笑って頤をもたげた。
隣に座る彼女を見つめていた。
青い瞳は白けた天井をもう見上げていない。
だからわたしは、彼女の唇を奪った。
はじめて
わたしは気だるく両腕を絡み付かせ、ゴシック・ロリータに隠された華奢な肩口を、曝した胸許まで抱き寄せる。
焦れったいキスをしてやった。唇だけで蜜柑を食むように、彼女の口先はやわらかく、裏側の幽かに湿った粘膜がいとおしい。
首を傾げた。互いの髪先が揺れて、甘ったるい香りが当て所なく漂い、ひとつになって混ざり合う。
気付けば彼女は目をつぶっていた。わたしに躯体の重さを委ねて、腰に回した両の掌を背筋に沿ってなぞり上げ、縋るように紅色を捕まえてくれる。
ご褒美に時おり舌先で唇を掠める。深い熱を孕んだ唾液を残してやる。その度にびく、と震えてくれた。腕の中で震えてくれた。
堪らずぞくぞくして、けれど絡め合うことはしなかった。その代わりに頭頂から背筋までを抱き、抱かれ、撫ぜて、撫でられ、衣と肌の擦れる音、重ねる女体の瑞々しさへ、腐れ堕ちるように酔いしれていた。
女としたのは初めてだった。男とするよりも余程しあわせだと思った。だって、こんなにも甘美だ。
どのくらいそうしていたかはわからない。
けれど肌と唇を離したのはどちらともなかった。
一筋の唾液はわたしのもので、だから彼女の口先へ残してやる。
薄く白い彼女の瞼が開いて、長く伸びて丸まった睫毛を、静謐なまばたきで揺らした。
息を吸う。芳烈さに肺を充す。眠たげに潤んだ青い瞳へ、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「わたしはわたしで脱け出すわ。
誰の力も借りたりしない」
「あなたみたいな手合いが一番きらいよ。
勝手に哀れまないで」
どうしてか、わたしは浮かんだ言葉を全て並べ立てて、なのに気付けば生易しい微笑を取り戻していた。
胸の中に溜まっていた
嘘のように世界は静かだった。分針も雨音も警笛も、皆あるべき形質を忘れてしまって、甘ったるい室温さえも曖昧だった。
わたしと彼女の体温と鼓動ばかり感じていた。彼女の肌は、少しだけわたしより冷たい。けれど、この柔らかさを手放したくないと思っていた。
それでもはっきりした事実があった。
「そっか」
彼女の返答は簡潔だった。
残りの時間は
また会いたいと言ったかは定かでない。
その日は彼女が最後の客だった。
あの日、あの時、自分の言葉がどこまで本心だったのかは分からない。助けられたくないと願ったのは嘘ではないと信じたい。
どうしてわたしからキスをしたのかも分からない。どうして単なる客の一人へ深い情念を抱いたのかも分からない。
どうして非道い言葉で突き放したのかも分からない。ただわたしはその時はじめて、だれかにとってのなにものかになりたいと願っていた。
しかし何よりも分からないのは、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます