ロッテンリリィとデッドエンダー

舞奴院 七参

Period_1 : Rendezvous With Destiny〈1〉




 そうしてわたしは始末をつけた。

 清潔な色合いで包装されたカプセルを一つ、味のしないミネラルウォーターで飲み下したからだ。

 重ねていた肌の疎わしい熱が、深い紅色に飾り立てた爪先より、喫したばかりの紫煙と綯い交ぜになって溶け出していく。重いタールに堪えかねて、灰皿で火種を揉み消した。

 外は小雨らしい。濡れ始めた窓辺の向うには摩天楼が濫立し、十九時過ぎのダウンタウンを卑しい煌めきで満たす。

 その間隙を縫って飛ぶ警備会社PMSC極小無人機ドローンは、みな〝防腐処理〟に忙しない。べッドライトの織る薄暗く淫靡な陰翳が、くすんだ硝子に淀んでいた。

 当て所なく映り込んでいるのは独りの娼婦だ。緩やかに波打つ長い赤毛に、眠たげな眦、まだ湿ったままの唇、肩口のはだけた朱色のドレス。

 ベッドの縁に座り込んで、青白く透くような首筋に垂れた、小さい三つ編みを弄っていた。瞬きをしてみる。紅い瞳の映すものに、変わりばえはない。




 まだ、幾らか股座が痛んだ。

 粘膜が擦れて爛れた上っ面の痛みと、乱暴に肢体を突き上げられて軋んだ骨の痛みと、両方だった。

 太腿に垂れてくる感覚の正体を考える気になれなかった。

 代わりに指先で所在なく頬を撫ぜる。ほのかな腫れを宿していて、布一枚を介したように曖昧な触覚を伝えた。


 詰まる所ひどい客だった。今日は二人目だ。付けずにと言われた。

 それは出来ないと伝えたら、頬と股を腫らすはめになった。口先は怒っているくせに、いきり立っていた。

 ふつふつと不満を垂れつつも、規定の何倍か料金を支払って、上等に仕立てられたスーツを羽織り直し、彼は帰っていった。

 わたしは一昨日の闇市で仕入れたアフターピルを飲み、先月の給金を少なからず無為にした。

 低用量は頭が痛くなるから飲んでいない。合わないものを取り込み続けて生きていられるほど器用ではない。でも、こうなれば結局は同じ事だから、わたしはきっと愚かだ。


 ゆるやかにベッドへ上体を投げ出す。不愉快な湿り気を帯びたシーツに髪が広がって、だとして頓着する気にはなれない。

 流し目で見た雨脚が、少しずつ衝動的に窓枠を叩き始めていた。どこか遠くから射し込むネオンが、それでも眩しい。




 据え付けの内線が短いコールを繰り返す。三人目が来るらしい。

 かび臭い空気を深く吸って、大袈裟に晒した胸許を目一杯に膨らませ、嘆かわしさ全てを吐き出して身を起こす。

 幾らか苛立ったノックも続いて無慈悲にわたしを急かした。御局おつぼねの清掃員だろう。

 シャワーを浴びなければいけなかった。かかとまで痛む爪先を赤いピンヒールに通す。

 汗と栗花と褪せた香水の臭いを、不意に誰かへ嗅がせるなんて屈辱でしかない。


 街角で振りまく微笑みと同質のメイクを、猶予として与えられる半時間で仕立て直せるかは解らなかった。

 だとしても出来ないならば、わたしは全てに愛想を尽かされるだけだ。「今出るわ」半ば掠れた声が不思議と可笑しかった。

 ドアの向こうへ投げかけたのか、コール音に対する独り言であったのか、曖昧だった。少なくとも指先は受話器を取っている。


 鬱陶しい三つ編みごと赤い前髪を掻き上げた。散々舐られた耳朶へスピーカーを押し当てる。

 フロントが綴るお決まりの文句。客の名前、コースと時間、細かいオプションとプレイの要望その他、マニュアル通りに。

 「はい、――はい」顎と呼吸では頷きつつも、上手く声で返事できていなかった。いつもならそれでも構わず勝手に話は進んだ。わたしの意志は契約に則る限り重要でない。



 わたしは三人目の名前を知った。あまり聞き慣れない名前だと思った。

 過ごす時間と場所を知った。夕食が遅くなるのは辛くとも、この夜雨の中どこかへ出掛けなくて良いのは嬉しかった。

 だがボーイの言葉は途端にそこで歯切れ悪くなった。「そのう、なんと言いますか、ええと」

 確かまだ彼は、ここに来て二週間ほどだったかしら?


 「なにをご希望なの?」問い返して、ますます返答は要領を得なくなる。

 気持ちは分かる。しばらく黙って言葉を待ったほうがよかった。

 続く二回目のノックは痛烈でさえあった。十数秒の沈黙を経て、訥々と区切られた幾つかの単語が返ってくる。

 どうやらおかしなオプションを付けたがる客らしいが、その具体までは詳らかでなかった。

 規定にない奉仕を拒める身分ではないから、早く言い切ってもらった方が面倒でない。

 今ばかりは幼気な彼の良心が忌々しかった。更に重ねた何回かの問答は狼狽を深めるばかりだった。


 結局、わたしが手解きしてやるべきだったのだろう。

 あからさまな害意を隠そうともしない三回目のノックが、白く晒した背中に響いていなければ。

 受話器を握る指先が無意識に焦燥のリズムを取っていた。痺れを切らして呼気を絞り出す。

 「だから、なにをご希望なの」自分でも驚くほど詰問めいた声調に、ついにボーイは根を上げる。






 三人目の男はイヴと名乗った。

 イヴ・霏蓮ひれん=ハートフィールド。

 わたしが初めてキスをした女。

 あるいは、



 

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