最終夜 盆参リ
寝室として与えられた四畳半の部屋。部屋の隅には蛾の死骸。少年は壁に頭をあずけて窓から差し込む淡い陽の光を見ていた。
僅かにカビ臭い畳と敷布団。陽光に染まる部屋の中、白熱電球がチリチリと無機質に明滅し、暖色の中に浮いていた。
きっとひどい顔をしているだろう。唇は乾き、温度の通っていない紫色をしている。少年の腫れぼったく充血した瞳は世界の光を感じるが、世界は少年の瞳に光を見出だせない。
今晩、死ぬ確証なんてどこにもない。否、確証はないが確信がある。
子供が怒鳴られ反射的に涙が溢れ出すように、その言葉を突きつけられた瞬間──やっぱりね、と安らぎを感じてしまったからだ。
枯れるからこそ花は美しい、死とは生の完成、と往々にしてそう言うが、終わりある生とは美しいものなのか。
もし仮に今、この瞬間、終わりが訪れたとして──自分が歩んできた人生に一片の悔いも遺すことなく「終わり」を受け入れられる人間がいるのだろうか。
いや、いない。
漫画じゃあるまいし。生とは恥を晒すこと。恥とは後悔の筆頭だ。朝起きたら終わりを迎えていたかもしれない生の中で、死にそびれを積み重ねた生き恥。
僅かに首を起こす。両指を絡めて壁と頭の間へ。畳んでいた膝を伸ばして、ずるずる滑ってずり落ちて、寝転がって首だけが持ち上がっている姿勢だ。
「最後の晩餐……」
ふと浮かんだ言葉をそのまま口に出す。少年の場合は、昨晩の蕎麦になるのだろう。不満はないが、大好きな一品かと訊かれれば微妙なところである。
今晩、と言われた時間まではいくらか余裕があるはずだ。その間、何か違うものを食べよう。しかし、排他的な盆地の集落に何があるのだろう。すぐに取り出して食べられるのは、リュックサックの中のキャラメルくらいか。
「ひとまず更新」
起き上がり、一粒口に入れる。箱に残っているのはあと一粒。
ほのかな塩味に続いて牛乳の甘み。数回噛んで舌端に寄せると、塩味をより強く感じて唾液が出た。これで最後に口にしたものはキャラメルへと更新された。
再びその場に寝転がって深呼吸する。入ってくる酸素がキャラメルの余韻で甘い。
──彼はひどく冷静だった。死を宣告され、泣きじゃくり、石にかじりついてでも生きていたいと望む、訳ではなかった。
周囲から向けられる身の丈に合わぬ重圧という名の皮を被った、自分が自分に対して勝手に抱いている理想と現実とのギャップ。それから解放されると考えれば、ありがたいとも思えなくもない。
受験やらずにすんだぜラッキー程度。その程度だ。
あのとき、あのようにしておけば良かった──そうやって自分で自分に付けた傷を、自分で開いて痛みの中に自分を見出すのだろう。嫌よ嫌よも好きのうち、自己嫌悪は自己愛のうちなのだ。
後悔はあっても未練はない。恥、悲しみ、痛み、苦しみ、悔い、憎しみ、雨風に晒されてできた傷すらも自分の一部だ。
──と、ニヒリストを気取ることによって少年は気を紛らわせていた。
畳の上、完全に寝転がった少年。腫れた目蓋で狭くなった視界──天井にぶら下がって此方を見下ろすのは無表情の光を放つ電球がただひとつ。
「死にたく……ないよなぁ」
此の世と言われる此岸。彼の世と言われる彼岸。
此岸と彼岸、それの境界線となる三途の川──今、自分はいったいどちらに立っているのか。どちらでもあり、どちらでもない。生きていないし、死んでもいない。
しかし、生きた心地がしないのは今に始まったことではない。生きながらにして死んでいたような人生だ。せめて、家族は悲しんでくれるだろうか。
寝そべっている四畳半が、国と国との境界のようであり、アクリル板で仕切られた面会室のように感じる。会いに来る者はおろか、立会人すらいない。
「──それじゃ、儂が立ち会うよ」
例の如く、後方から聞こえる涼やかな声音。喪服のような着物から、初めて出会ったとき身につけていた藍色の甚兵衛へと着替えた少女だ。
いまさら、彼女に対して恐怖はない。二人並んでアクリル板の前に座る。
入ってきたのは、学校のクラスメート。
対面で、携帯をいじったまま顔を上げようとしない。自分が見えていないのか、あれほど一緒に話して、遊んでいたのに。
少女は頬杖をついて、退屈そうに視線を行ったり来たりさせて二人を眺めている。
進級、クラス替えのたびに入れ替わっていく人間関係。その椅子の温もりの冷めやらぬうちに、次々とそこへ座り、去ってゆく親友と呼んだ人間たち。
駄目だ。友人は悲しんでくれるとは期待できない。ただでさえ不機嫌な朝、通りで肩がぶつかった程度しか心は揺らがないのだろう。
携帯をいじったまま、小さく会釈して彼は出ていった。画面を見ていたから扉にぶつかって、苛立たしげに出ていった。
「つまらんなぁ。別れの言葉くらい遺して逝けばいいのに」
「……うるさい」
足をぶらぶらと揺らす少女。唇を尖らせて上へ息を吐き、己の前髪を揺らして遊んでいる。
次に扉が開いて現れたのは少年の母親。ギターが趣味だった大学生の兄は一緒じゃないようだ。
首元には本物か分からない真珠のネックレス、入学式のような格好で対面へと座った。少年とその母親、二人は視線を伏せたまま口を開こうとしない。
少女は頬杖をついて、退屈そうに視線を行ったり来たりさせて二人を眺めている。何度も同じ光景を見せられてきたかのような表情だ。
自分の息子がもうすぐ死ぬというのだから、もっと積もる話だとか、産みの苦しみだとか、どんな思いで名前を付けたのだとか──
これは後悔だ。本当は、いつもいつまでも褒められて認められていたかった。「アナタこそがワタシの全てだ」とそう言ってほしかった。
互いが互いに過度な期待をすることもなく、少し鬱陶しいと感じるほど温もりを感じていたかった。
「……母さん」
俯く母親へと手を伸ばす。が、冷たい板に阻まれて届かない。よく見れば、この壁には穴が空いていない。声を通したり、手紙を受け渡すような穴が空いていない。それならば、こちらの声が届かないのも頷ける。納得はできないが。
少年の母親は、僅かに此方を見るような素振りののち会釈をして出ていった。
永い永い旅路を前にして、出立を見送ってくれる親しい人間は誰ひとりいない。これは、絶望ではない。アクリル板に額を預ける。もう誰かに触れることさえできない。自分の声は届かないのだ。
こうなるとわかっていたのなら、毎朝祈るようにサヨウナラの代替として、出先で死んでも悔いのないように、ちゃんと「いってきます」を言ったのに。
無意識に少女の手を握った。躊躇うことなく少女は握り返す。
いつしか消え去ったアクリル板。少年と少女は手をつないで畦道の真ん中に立っていた。
宵闇と暮れの混ざった紫色がやんわりと橙の空に落ちていた。まだ、昏くはない。赤トンボが頭上をかすめていく。小川の流れに抗って泳ぐ黒い小魚。ゆっくりと此方を見たような気がした。
乾いた風が青々としたクヌギを揺らし、髪が揺れてふわりとシャツを持ち上げる。
「本当に、本当に死ぬの?」
視線を落として問いかける。少年が口を開くのを待っていたのか、無言で見上げていた少女。
「うん、死ぬよ」
最期通告には似合わない、あまりに透き通った声音。哀れみでもなく、同情でもない、ほんの少し口角を上げた表情で少女は言った。
「なんでだよ。死んだほうがマシって考えたことは沢山あったけど、それは半分冗談みたいな自慰みたいなものでさ。本気じゃないんだよ。その瞬間、最悪な空間から逃げ出していたい雨宿りみたいなもので、本当に死にたかったら口にも出さないでしょう? だから──」
「自分はあくまでも通告人。決定事項を言伝するだけ。傍観しかできないこちらの身にもなれ」
握ってくれていた手を離し、そのまま髪を耳にかけて少年から黒目を逸らす。
ひとつだけ合点がいった。この少女は、今まで何度もこうして人間に死を伝えてきたのだ。それが少女の望みかは判らないが、退屈そうで寂しそうだ。
初めて出会う見ず知らずの人間に、「あなたは死ぬのだ」と伝えること。それは自らが死を宣告されることよりも辛いのではないか。それでもなお、「立ち会うよ」とそう言ってみせた少女は──
「君は、一体……」
少女は少年の数歩先へと歩き、猫のような仕草で己の首筋に手を添え首を回している。少年の問いに対して少女が答えるまでの、静寂を取り持ったのは微温い風の通り抜ける音と草木の擦れる音だ。
納得のいかないカナカナという鳴き声。ジィジィと喚くアブラゼミ。遠くから流れてやってきた蚊取り線香の香り──全てが真新しく、これで最期だ。
橙色が薄く、藍が強く混ざる空に飛ぶカラス。少女は振り返り、か細く白い指で空を示した。
「今は黄昏時。誰そ彼時とも云う。昼が生者の領域だとするならば、夜は死者の域。生と死が混ざり、入り乱れる刹那の時間。お前さんの目の前の幼気な女は、どちらなのかな」
夏風を背に受け、短い髪が表情を覆うように浮き上がる。それは答えではなく、新たな問い掛けだった。人間に対して死を宣告する自分は、貴方にはどちらに見えるのか。
少年は口を引き結んだ──そう云うお前さんは、今の自分がどちらであると答えられるのか。そんな少年自身への問いでもあったからだ。
死んだようにして生きること、それは果たして生きていると言えるのか。
己を殺し殺されて生きること、それは生きていると胸を張れるのか。
夢や理想を追っているはずが、いつの間にか自分の尻尾を追いかけていたのではないか。
「ううん。なんでもない」
少年は口を引き結んだ。晴れぬ表情に少女は等しく笑いかける。からんころんと下駄を鳴らして歩み寄り、小さな手は中途半端に大きな手を取った。
蒸し暑い気温に反して場違いなほどに冷たい。その柔らかみは人間の肉のそれ。しかし、そこに温かみはなく冷たい──否、『冷たい』という温度すら存在しない不可解な感触。
「そろそろ夜になる。歩こうか」
少女に手を引かれ、充満する藍色の中へと歩き始める。
自分がトクベツではない。と、そう気付いたのはいつの事だろう。自分がそう気づいた頃には、既に周りの人間は走り出していた。皆が皆、自分はトクベツではないと解っていながらも走りゆくその背を、呆然と眺めていた。
目の前にどうしようもないトクベツが現れたとき、無自覚なその言葉によって心が砕け散りながらも、何度でも拾い集めてまた歩きだす人間の背を見てしまったからか。
それに憧れ、恋い焦がれながらも。続いて歩くことも、踵を返すこともできなかった。あの時足が動けば、もっと早く引き返していれば──悔いは尽きないが、もう終わったことだ。
──もし、もう少し長く生きることが許されたのならば。きっと、もっと、好き勝手に生きよう。
物語が終わっても登場人物は生き続ける。そしていつか、生を全うして安らかに終わりを迎えゆくのだろう。今ここで訪れる「終わり」とは、「人生の完成」とは違う。
少女を連れて少年は、駆け出した。彼女の手を引き、駆け出したのだ。
あるはずもないバス停に、来るはずのないバスが待っている。どこかへ逃げ出そう。生からも、死からも、浮世のしがらみも、性別も、宗教も、富も、愛も──
軽率にまた会いたいと願ってしまったこと。交わってはならぬ者同士が、軽々しく垣根をまたいでしまったこと。最期に触れ合ってしまったこと──それら全てへの償いのように、手を引いて。
ビー玉を落として、下駄を落として、財布を落として、いつしか服も身体も置いていって。今となっては関係ない。
いまは、幸せだ。
さらば、サラバ──夜に晴れ。
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