第6話


 十一月に入り寒さが益々厳しくなってきていた。

 愛はその日、大量の事務処理を抱えて残業をしていた。

 山崎さんがどうやら風邪を引いてしまったらしい。カオルと七緒は浮気調査を続行し外出しており、林原は猫探しに奔走しているようだった。平和といえば平和だった。カオルはちらりと時計を見る。もう夜の七時を過ぎていた。

「新人」

 不意に白河に呼ばれる。いい加減、その呼び方もどうかと思うのだが、一目惚れの効力は今も有効らしい。呼ばれただけで胸が高鳴ってしまう。

「はい、何でしょう」

「少し休憩しようじゃないか。ぼくの行きつけの喫茶店がすぐ近くにあるんだが、そこで軽く夕食を済ませよう」

 意外な誘いだった。驚きのあまり、ぽかんと口を開いてしまう。するとその反応がお気に召さなかったのか。

「なんだ、他に予定でもあったか? それなら、」

「いっいえいえいえ! ないです! ぜひ!」

 慌てて愛は立ち上がる。白河は「そうかい」と言うとステッキを手に、コートを纏った。黒いコートを羽織った白河は、男装の麗人のようにも見える。見惚れそうになったが、白河が「行くぞ」とすぐ歩き出したので愛も慌てて続いた。

 白河が言っていた喫茶店は確かに白河事務所から近かった。徒歩五分もない場所の、住宅街の奥まった場所にひっそりと店は佇んでいた。こぢんまりとした古い店は、昔の喫茶店といった感じで、木製の立て看板には「喫茶シャーロック」と書かれていた。白河曰く、店主が大のシャーロック・ホームズ好きとのことだった。

 喫茶店内は暖色系の明りで灯されていて、古い猫足テーブルや天鵞絨が貼られた椅子が、何とも言えず洒落ていた。まるで過去に秒針を戻して止めたような、そんな不思議な空間だった。普段カフェに行くことがあっても、こういった昔からやっているような喫茶店に入ったことのなかった愛は、思わずあたりをきょろきょろと観察してしまった。

 店内はオルゴール箱のような長方形で、奥には立派な百合型のスピーカーがある。黒い円盤――レコードだろうか。それを白髪を撫で付けた老店主がセットし、針を落とすとスピーカーからクラシックが流れ始めてきた。店は夕飯時とあってか繁盛しており、空席はちょうど二人分だけしかなかった。白河は迷いなく空いた窓際の席に座ると、ステッキを壁にたてかけコートを脱いだ。脱いだコートは傍らにあったコート掛けにかける。愛もそれに倣ってコートかけにコートをかけ、椅子に座り直した。ステンドグラス調の窓から見る景色は、まるでこちらとあちらの世界を隔てる摩訶不思議な窓のようだった。

「いらっしゃいませ。希くん」

 黒いベストに腰エプロンを着けた老店主が注文をとりにきた。鼻は高く、老眼鏡の奥の瞳はよく見ると深い緑色をしている。顔立ちも西洋の血を感じさせるので、おそらくハーフなのだろう。白河はそんな老店主に「こんばんは」とにこやかに応じる。

「相変わらずここに雰囲気は良いね。実に良い。そうだな、今日はナポリタンと紅茶を頼もうかな。新人、キミはどうする?」

「あ、じゃあ私も同じもので」

 愛も同じものを頼むとにこりと老店主は微笑んだ。

「かしこまりました。お飲み物はいつもどおりお食事より先に?」

「ああ、頼むよ」 

 メニューを閉じた白河が言うと老店主は「それではお待ちください」と言ってカウンターに戻っていく。すらりとしているから分からなかったが、比較的背の高い男性だ。

 紅茶が来ると、愛はまず一口、口にした。香りがふわりと口の中で広がって、まろみのある柔らかい味が喉から胃へと落ちて広がっていく。

「美味しい」

 そう言うと白河は当然だというように「そうだろう」と言った。白河もまた紅茶に口をつける。その茶器を持ち上げて口まで運ぶ動作さえ、どこか品があって所作がきれいだ。普段机に脚をのっけてふんぞり返っているとは他の人は思うまい。

 店内は静かすぎず、かといってうるさくはなく、心地よい談笑の声がクラシックに交じって聞こえてきていた。流れている音楽はどこかで聞いたことのある曲だった。少しこの喫茶店の雰囲気とは合わない、女の悲痛な叫びのような、オペラの曲。

「この曲、キミは知っているかい?」

 心を読んだかのように尋ねてきた白河に愛は首を振る。

「いえ、知らないです。何て曲なんですか?」

「プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の『かわいい坊や』……ああ、『蝶々夫人の死』ともいわれているね」

 蝶々と言えば、と白河はちらりと視線を斜め上へと向けた。視線の先、壁には標本ケースが掛けられていた。青、赤、白、黄、緑と色々な蝶が飾られていた。

「ここには蝶の標本があるけれど……」

 ぐるりと白河は見渡してから愛へと視線を戻した。

「蝶の標本。キミは好きかい?」

 琥珀色の瞳がじっと見た。こういう暖色系の明りの下だと上質な蒸留酒のようだ。

「はい。綺麗だから好きですね」

 正直に愛が頷くと、白河はふっと微笑んだ。

「そうか。奇遇だね。ぼくも好きだ」

 共通項が見えて嬉しく思いつつ、愛は尋ねる。

「どうして白河さんは好きなんですか?」

「キミと同じさ。綺麗だからね。――死んでいるけれど」

 そう言う白河は少しも笑顔の形を崩さなかった。

 死んでいるけれど美しい。確かに、標本はそういうものだ。

「お待たせしました、当店自慢のナポリタンです」

 ことりと、スパゲッティの乗った皿と小さなサラダが目の前に置かれる。鮮やかなグリーンのピーマン、肉厚なベーコンと透き通って色付いた玉葱、それからケチャップ色に染まったパスタ。香ばしく食欲をそそる匂いが鼻腔を刺激し、じゅるりと唾液が出る。

「美味しそうだろう? キミも食べるといい」

 そう言うと白河は、いただきます、と言ってカトラリーを手に取った。愛もいただきますと言ってサラダからつつきはじめる。瑞々しいレタスやキュウリ、ボイルした鶏胸肉と赤いプチトマトはオリーブオイルとバルサミコ酢で和えてあった。他にも何か入っているのか、口に入れると良い香りがして舌を愉しませる。前の白河を見るといつの間にか、とっくにサラダを平らげてパスタの方へと手をつけていた。

 お互い特に会話もなく食事を続ける。食べながら愛は、あとどのくらい仕事が残っていたかを考えていた。今日はいい日だ。なにせ白河とふたりきり。しかも晩餐まで一緒にできるなんてと内心、愛の心は浮き足立っていた。白河のほうも白河のほうで、何か良いことでもあったのか、機嫌良さそうに食事を楽しんでいた。

 そしてナポリタンをお互いに平らげたときだった。

「そういえばキミは【ノックスの十戒】というものを知っているかい?」

 唐突な問いは聞いたこともない単語だった。

「ノックスの十戒? いえ、聞いたこともありませんね」

「ぼくも知らなかったんだがね。この前、推理小説を書いている知人と会った時に聞いたんだ。ノックスの十戒というのは、ロナルド・ノックスが一九二八年に『探偵小説十戒』で発表した、推理小説を書く際のルールのことなんだ。まぁ当の本人であるノックス自身、も十戒を破った作品を発表しているから、お遊びで作ったものなのかもしれないけれど、その十戒というのが、

 1、犯人は物語の当初に登場していなければならない

 2、探偵方法に超自然能力を用いてはならない

 3、犯行現場に秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない

 4、未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない

 5、中国人を登場させてはならない

 6、探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない

 7、変装して登場人物を騙す場合を除き、探偵自身が犯人であってはならない

 8、探偵は読者に提示していない手がかりによって解決してはならない

 9、サイドキックは自分の判断を全て読者に知らせねばならない

 10、双子・一人二役は予め読者に知らされなければならない

――というものなんだ。サイドキックというのは探偵の助手となる存在、つまりシャーロック・ホームズでいうところのワトソン君になるね」

 そこまで言うと白河は紅茶のカップを手に取った。一口、白河が飲むのを見届けてから愛は疑問を投げかける。

「中国人を登場させてはならないというのは、一体どうしてなんですか?」

「中国人というより東洋人全般のことを言うんじゃないかなぁ。兎に角、当時は東洋人は怪しげな東洋の魔術を使う……つまり人ならざる力を持つと考えられていたから、探偵小説からは出禁になったんだろうね。おそらく、だけど」

ぼくも詳しくは知らないんだ、知っているフリをしているようなものさ。

 そう白河は言っていたが、愛は十分に白河は色々なものを知っているように思えた。この人の頭脳、心をのぞけたらどんなに面白いだろう。

「でもノックスの十戒の中でぼくが意外に思ったのは、『探偵は犯人になってはいけない』という文言がなかったことかな」

 紅茶のカップを下ろした白河が言った。その言葉に思わず愛は白河を見遣る。

「それは……そもそも探偵が犯人になっちゃ、物語が成立しないからじゃないですか? だって探偵は主人公でしょう?」

「そうかな? 読み手が勝手に主人公だと思っているだけで、本当は、他の誰かが主人公の可能性だってある。他の誰かが探偵だという可能性だって十分にあるだろう? まぁ、さっきも言った通りこんな十戒はノックスの遊び心にすぎないだろうけど」

 でも、とかちゃりとソーサーにカップを置いた白河が、声を潜めて言う。

「正義の味方なんて、どこにもいない。完璧に穢れのないものがないように。あのシャーロック・ホームズだって麻薬に溺れていた。ぼくも、キミも、他の皆も不完全なものだ」

不完全。そう言われても、どうにも納得できなかった。

「私は」

蝶の標本を一瞥してから愛は告げる。

「それでも完璧にきれいなものを知っています」

 それをあなただ、なんて言えやしないけれど、愛は真っ直ぐに白河を見詰めた。白河はその視線を受け止めて、ふふ、と蠱惑的に笑った。ぞくりと背筋に何かが走っていった。それが恐怖というものなのか、何なのか。愛には理解ができなかった。

「そういえばキミに聞きたいんだが、例の連続殺人鬼についてどう思う?」

「どう思うと言われても……」

 困ると愛は内心思った。岩垣のように刑事でもなければ、白河のように博識でもない。

 けれど白河は愛に特別な回答を求めているわけではないようだった。

「難しく考えなくていい。キミが感じている、そのままを言ってくれたらいいんだ」

「そのまま、ですか」

 愛は少し考えた後、答えた。

「そうですね……普通の人、なんじゃないでしょうか?」

「なるほど。普通の人、ね」

「はい。それこそ白河さんが以前言っていたように、私たちが過ごしている日常生活に巧妙に潜んでいられるほど、普通で在り続けられる人。おそらくですけど、そんな犯人にとって殺人も日常の一部なんですよ。だから良心の呵責も何も無い。私たちがご飯を食べて、それから後片付けをするように、殺人をして後片付けをする」

「食事に例えるのは面白いね。でも確かにキミの言う通りだ。ぼくもその意見には賛同するね。犯人にとって食事やセックスと同じようなものなんだ。殺人は」

 セックスと恥ずかしげも無く言えるのは、白河にとってそれは含蓄ない単語だからだろう。白河は、白河希という人は時々、自分と似ているところがある気がした。その反面で愛が想像もつかないような「何か」を持っているようにも思えた。

 ――「探偵は犯人になってはいけない」。

 白河が言った言葉を反芻する。ちらりと、白河を盗み見る。その美しい瞳は、今は外の空模様を気にしている。そういえば夜は雨が降ると言っていたね、と言う白河に、そうでしたっけ、と愛は適当に相づちを打った。

 犯人が探偵になってはいけない、という記述の無かったノックスの十戒。ならばこの連続殺人事件に於いて、十分に白河が犯人であるという可能性は出てくることになる。勿論、愛はそんなことはあり得ないと知っている。けれどもしも、万が一そうだったらと想像すると、今自分は殺人鬼と食事をし談笑しているのかと不思議な気持ちになった。

 白河の方は、何を考えているのだろうと愛は思う。祐子の死に出くわした時の白河を思い出す。あの時、白河は何の反応も示さなかった。目のお前の凄惨な遺体を前に、そこにただ「死」が転がっているように扱った。

 ――あれは、許しがたかった。

 けれど愛には何も言えなかった。白河を責める権利などどこにもなかった

 何故なら祐子が死んだ原因は、自分にあったからだ。





喫茶店には何だかんだ長居をしてしまったようで夜の9時半を過ぎていた。

 白河探偵事務所に戻ると点灯したまま外出した筈なのに、二階の事務所の明りは外から見ても真っ暗になっていた。その異変に気付いたのか。おや、と白河も声を上げる。

「出て行く時、電気を消した覚えはないんだが」

「そうですよね……なんでしょう。停電とか電球が切れたとか……?」

 しんと静まりかえった暗い白河探偵事務所は、石棺のように愛たちの前に冷たく佇んでいた。寒いと感じたのは晩秋の夜ということだけではないだろう。胸騒ぎというのだろうか。見えない冷たい手が、心臓を摩って、今にも押し潰そうとしているようだった。

「……行くぞ」

 隣の白河が真剣な表情で二階から視線を外し、従業員用の玄関ドアに手をかけた。それは施錠してあった筈なのに簡単に開いた。キィ、と女の悲鳴のように鉄色の扉が開き、暗い廊下へと出る。リノリウムの床に、微かな外光が差し込んで反射し、沼の水面のように仄かに光っていた。バタン、と扉が背後で閉まる音がやけに大きく響く。白河のコートが揺れ、そのすらりとした足が事務所を目指す。ステッキで床を叩く音がコツン、コツンと反響し、その音が愛の鼓動を更に強めていった。痛いほど鼓動している。こんな感覚は生まれて初めてだった。

 二階の事務所の扉前に辿り着く。「白河探偵事務所」と刻まれた金色のプレートが鈍い光を放っていた。白河がドアノブに手をかけ、回す。

 かちゃりと音がして、ゆっくりと扉は開かれていった。

 扉を開いた瞬間、冷たい空気と生臭い――いやこれは嗅いだことのある匂いだ。濃い血の匂いがぶわりと広がった。

 人が立っている。その手にはナイフが握られていた。

 ぴちゃん、ぴちゃん、と滴る音が聞こえる。ここから見るとその雫は黒く見える。けれど色を見なくともそれが何色をしているか、愛には分かってしまっていた。

 隣の白河が足を一歩前に踏み出す。するとその音に反応して、立っていた人物がゆっくりと振り返った。

 あの、洞のような瞳がこちらを見ていた。

 白河が口を開く。

「……林原くん」

 そこにいたのは――林原だった。

 白河探偵事務所に新たに入ってきた青年。林原圭佑。

 その表情は、何もなかった。ただ瞳だけが爛々と光っていて、いつかどこかで見たような感情の炎が静かに揺らいでいた。足元には液体が、いや、血だまりが広がっている。窓から差し込む外灯の光が、黒に近い赤を照らし出していた。

 血だまりの中心には裸体の女が、いた。

 長い金髪を床に横たえ、美しい容貌をさらした女は――カオルだった。

 手首と足首を結束バンドで拘束され、柔い腹は切裂かれ、釘打ちされていた。赤い蝶のように。赤い血と濃いピンク色の内蔵が見えていた。 

 整ったその顔は穏やかだった。目は瞑り、唇は微かに開いている。血で、青ざめた唇が僅かに濡れている。長い睫毛が影をつくっている。

「カオル」

 白河がその名前を呼ぶ。だが、応答はない。林原はこちらを見ている。白河は林原を見据えた。琥珀色の瞳で鋭く見据えていた。

「これは、キミがやったのか?」

 静かな問いだった。

 林原は眉一つ動かすに答えた。

「そうです。ぼくがやりました」

 認めた。

 愛は、愕然とした。

 嘘だと思った。

 林原がこんなことをする必要がない。どうして、と愛は思った。訳が分からなかった。

 状況に追いつけない愛をよそに、白河が問いを重ねた。

「連続殺人鬼の正体も、キミか?」

 ぽたり、と。赤い血の雫が落ちた。静謐が広がった。

 林原の薄い唇が動いた。

「そうです」

 愛は今度こそ、頭が真っ白になった。

 どういうことか分からなかった。何故、という問いが頭の中を輪転する。けれどその問いは喉の奥に詰まって出てこない。

 白河は林原へと近寄る。一歩ずつ、一歩ずつ。相手はナイフを持っているというのに、少しも恐れている様子などなかった。白河は立ち尽くす林原と、血の海に横たわるカオルとを見た。それから暫くカオルの遺体を見下ろし、深く溜め息を吐き出した。

「成る程……確かに手口もこれまでの殺人鬼と同じだ。裸にされ、手首や足首を結束バンドで拘束して、腹を切裂いて――蝶のように釘止めしている」

 あんなに近しかったカオルが死んだというのに白河は眉一つ動かさずに淡々と、目の前の光景を言葉にした。それこそいつか祐子が死んだ時に、検分したように。

「そうか」

 白河は静かに言った。

「キミだったのか」

問いではなくそれは確認だった。そしてその確認に対して、

「そうです。全部、オレがやりました」

 林原はそう答えた。

「どうして殺した?」

 白河が詰問するように問えば、林原は視線を下に向けた。それからまた、視線を持ち上げた。愛と視線が合った。黒い泥濘のような、真っ黒な瞳だった。

「ただ殺したかった。それだけです。それ以上に理由など必要ありますか? オレは、ただオレである為に殺したかった。だからこうした。絶対にこの感情を否定することなんてできません。だって、オレは――」

 もう愛は黙っていられなかった。

「――待ってください!」

静かだった空気が壊れるのを感じた。

 林原と白河がこちらを見る。

 鼓動が早くなる。口の中が渇いていく。それでも愛は言葉を続けた。

「林原さんがこんなことする訳ないじゃないですか! それに、この、カオルさんだって……例の連続殺人鬼の仕業じゃないですよ!」

 その愛の発言に林原が微かに目を見開く。白河は怪訝そうに眉根を寄せた。

「しかしこうして林原くんが自供してくれている。そもそもどうして、カオルを殺したのが例の連続殺人鬼じゃないと言えるんだい? 手口は同じだ」

 ほら、と白河はカオルの遺体へと視線をやる。愛は声を震わせた。

「白河さんも気付かないんですか?」

「気付かないって何の事だい?」

 益々不可解だというように眉間にシワを寄せる白河に、

「だって、違うじゃないですか!」

 愛はカオルの遺体を指差して叫ぶようにして言った。

「カオルさんは金髪じゃないですか! 黒髪じゃない!」

 刹那、水を打ったような静寂が広がった。

 愛はその沈黙の海を必死に泳ぐように言葉を継ぐ。

「今までの被害者たちだって黒髪だったじゃないですか。二番目の、小林茜さんの弟さんだけは違ったけれど……犯人が秩序型なら、金髪のカオルさんを殺す筈がない! それに林原さんにはカオルさんを殺す動機なんて、」

「今、何て言った?」

「え?」

 愛は声を遮られ、戸惑いに言葉を止める。白河が繰り返す。

「今、何て言ったかとぼくは聞いたんだ」

「えっと、その……カオルさんは金髪だから、被害者像にあてはまらないと思うんです。だって、被害者たちは黒髪の人達ばかりだったじゃないですか。だから」

「だから、おかしいんだ」

 白河がようやくそこで表情を緩めた。

 ぞっとするくらい優しく、美しい微笑だった。

「そう、キミの指摘は正しい。北村愛。キミの主張は百パーセント正しいものだ」

だが、と白河は目を三日月のように細めた。

「――此処に、例の連続殺人鬼がいる」

 白河がステッキでカツン、と床を叩く。静寂が細波立ち、愛の声帯が自然と震えた。

「ここに、ですか……?」

「ああ、そうだ。北村愛」

白河はすっとステッキを持ち上げた。

 そしてその矛先を――愛のほうへと向けた。

 白河の琥珀色の瞳がまっすぐに愛を射貫いていた。

「キミだ」

 死刑宣告でもするかのように、けれど心の底から楽しげに、白河は告げた。

「北村愛。キミが、連続殺人鬼だ」

 雨がぽつり、と落ちたような気がした。

「――え?」

 思わず間抜けな声が、愛の喉を抜けて出てしまった。

 それは、すぐに渇いた笑いに変わった。

「白河さん。何を言っているんですか。私はただ、被害者像があてはまらないって言っただけで……前に、教えてくれたじゃないですか。この犯人は秩序型で、そういう人って被害者の好みがあるんでしょう? それで私は、この犯人は黒髪の人ばかり殺すから、だから黒髪じゃないカオルさんが殺される訳がないって言っているだけで」

「そこがおかしいんだ」

 白河は愛の目の前に立ちはだかり、そして形のよい唇で問う。

「どうしてキミが、第二の被害者である小林悠以降の被害者たちが、黒髪だったと知っている?」

「それは、だって、白河さんが言って――」

 そこで喉奥が詰まった。ぶわりと汗が噴き出す。白河が笑う気配がした。外では雨が降り始めたのか。窓ガラスをささやかに叩き始める。

「そう。そうだよ、北村愛。ぼくは一度だって善男以外、誰にも被害者たちが黒髪だったということを教えていないんだ。キミだけじゃない。この事務所にいる全員が知らない事実だ。それをなぜ、キミは知っている?」

 雨が降る。抑えていた箍が外れそうになる。カタカタ、カタカタ、と。心の中の標本箱に磔にされた蝶々たちが、翅をばたつかせている。愛はどうしてか震える声で答えた。

「それ、は……祐子が、黒髪だったから」

「はは、酷い言い訳だね。言い訳も酷いが、やり口も酷いもんだ。キミはキミの為に、友人を理想の被害者に仕立て上げたのだから。……ああいや、正しく言えば、キミはキミとぼくの為に罪なき水橋祐子を被害者にしたんだ」

 カッと頭に血が上り、叫ぶように愛は言う。

「巫山戯ないでください、私と祐子は友だちだったんですよ……ッ!」

「ふうん。でもその友だちが死んだ時、キミは悲しいと思ったかい? 恐怖を覚えたかい? そうじゃないだろう? キミの内側に湧き上がったのは、そう――怒りだ」

 白河の琥珀色の瞳が、闇夜の中なのにはっきりと見える。まるで猛禽類のように、狙った獲物を決して逃さないように愛を見据えていた。

「キミはぼくに水橋祐子の遺体を、いやキミの作品を見せる為に、ぼくを招いたんだ。だがぼくはキミが期待したような反応を一切しなかった。だからキミはぼくに無視されているような気がして、怒りを覚えた筈だ。違うかい? キミが黒髪に染めるよう勧めたのは、水橋祐子のストーカー対策の為じゃない。自分の嗜好に合わせるためだ。水橋祐子の不幸はキミという存在だった。キミは善き友人の皮を被った殺人鬼であり、ストーカーだった。ストーカーがいるのだと、水橋祐子に思い込ませてぼくの事務所につれてきた。そしてぼくと水橋祐子を引き合わせて、依頼人にしようとしたんだ。ぼくが依頼と依頼人だけは大事にすると知っていたからね。だが、キミの目論見通りにはいかなかった。それでも一度会って依頼を断った相手が死ねば、ぼくが絶望する姿でも見られると期待したんだろう。期待して、キミはドキドキした筈だ。それこそ子どもが展覧会で親に自分の作品を見せる時のようにね。けれど残念ながらぼくはキミの作品を作品と見なかった」

 そう言うと白河はコートを脱いでカオルの遺体に被せた。まるで寒くないよう、優しさをかけているみたいに。林原はナイフを持ったまま、静かに白河の話を聞いていた。愛はそんな林原に目を向けた。

 洞のような、真っ黒な瞳。静かに揺らぐ蒼い炎が灯った、瞳。

 どこかで見たことのある瞳。

 あれは、どこだったか。どこだっただろうか――……。

「北村さんが犯人だってことは、オレ、知っていました」

 静かに、そう林原が告白した。

 愛は、

「うそ」

 と咄嗟に口にしていた。だが林原の表情は真剣そのものだった。黒い瞳の奥に揺れている、青い炎。――ああ、分かった。分かってしまった。

 あれは、小林悠の遺族である小林茜の瞳と、同じなのだ。

 愛には理解できない「感情」を持って林原は言葉を継ぐ。

「厳密に言うと、もしかしたら北村さんがそうかもしれない、と白河さんに教えられてから、白河さんに頼み込んでこの事務所に入ったんです。オレの目でオレの従妹を……最初の犠牲者である杉本花菜を殺した人間が、どういった人間か見てみたかったんです」

 杉本花菜。その名前を告げられ、愛の頭の中に過る。可憐な少女だ。その少女と林原が従兄弟だった? 信じがたくて、愛はただただ呆然とするしかなかった。

 林原はそんな愛を初めて憎しみを込めて見据えた。そんな目もできるのかと思った。少し、感心さえした。林原は口を開く。

「驚くほどアンタは普通の人間でした。普通の、可愛らしい女性でした。とても人を殺すようには見えなかった。白河さんに言われてもこの瞬間が訪れるまでは、信じ切れなかったくらいに、アンタは完璧な『普通の人』だった。……花菜を殺したとは思えないほど」

 ぐっと、林原がナイフを握ったのが分かった。けれど愛には理解できない。

 自分がこの探偵事務所に入所したのは、二人目である小林悠が死んでからだ。すべてを白河が予測していたというのなら、なぜ、殺人鬼と思わしき自分を入所させたのか?

「どうして、って顔をしているね」

 まるで心の中を見透かすように白河が言う。どこまでも、楽しげに。

「簡単な話さ。ぼくは、最初の被害者である杉本花菜の従兄にあたる、林原君から既に依頼を受けていたんだ。花菜さんを殺した犯人を知りたい、とね」

 だから、と白河は続ける。

「カオルに黒髪に染めさせて、ぼくとカオルが餌になって街を泳いでいたんだ。ぼくもカオルも容姿は申し分ないからね。地理的プロファイリングやSNS、求人広告も使って殺人デパートに自ら陳列されてにいったのさ。七緒が言っていただろう? ぼくの写真をネットにアップロードしたって。キミもそのアップロードされた、ぼくの写真を見たと言っていた。勿論、何の媒体から最初にぼくを知ったのかは分からないが、運良くキミは釣れてくれた。必ずキミは最終目標にはとびきり善い獲物を選ぶ筈だと思ったが、その通りだったようだ。正直キミが釣れるまでもっと時間がかかるかと思ったけれど、これは僥倖だった。ぼくはキミの尾行に気付かないふりをして求人募集の張り紙を貼り、キミがくるのを待っていた。案の定、キミはのこのこやってきてくれた。正直この段階ではまだ、確信なんて微塵にもなかったけれど、他の面接者と違う点がキミにはあった」

「違う点って」

 愛は面接時を思い返す。完璧だったはずだった。けれど白河はその完璧なる「普通」を見過ごさなかった。

「まず一つ目が、前職が保険営業だった。そして二つ目が、ぼくの『この仕事には危険が伴うこともあるが大丈夫か』という質問に対するレスポンスの速さと反応だった。普通の人間だったら今時の探偵事務所で危険なんて伴うと思わないだろう。高層ビルの窓の清掃じゃあるまいしね。けれどキミだけはすぐさま構わないと答えた。そんなことはどうだっていいというようにね。そりゃあそうだ。キミは、キミこそがサイコパスなんだから。不安や恐怖に鈍い人間。そのスイッチが無いといっても過言では無い人間。それがキミだ」

サイコパス。

 その言葉に、愛は表情を消した。その代わりにぐっと拳に力を込める。

怖い目だ、と白河が笑った。白河の弁舌はとまらない。

「保険営業だった、ということはぼくの犯人像に当てはまる職業だったからだ。実を言うとぼくの知り合いで元保険営業の人がいたんだ。その人曰く、保険会社のバッチとネームプレートを返し忘れても催促は二、三度程度で後は諦めたらしい。つまり、キミは保険営業を辞める時にバッチもネームプレートも返却しなかった。大手企業だ。保険営業なんて常に人員不足で、辞める人間なんてしょっちゅうでいちいち一人に構っている暇はない。まあここまでも、ここからもぼくの単なる妄想に過ぎないんだが、キミは日中も夕方もスーツにバッチ、ネームプレートをつけて『営業』という行動をした。ターゲットは予め決めておいて、どうにか家の中、まぁ玄関まで上がらせてもらえればあとはどうとでもなるだろう。杉本花菜の場合はSNSでリサーチした。今時の若者は本当にネットに対する警戒心が薄い。簡単に個人情報が割れる写真をアップロードして、世界中に拡散している。それが殺人鬼にとって良いリスト……小洒落た言い方をしてみれば『殺人デパートト』の標本になっていることにも気付かずに。そしてキミはそのSNSを利用して、親がいない時間帯を狙って杉本花菜の自宅に訪問した。高校生の年頃で、しっかりとスーツを着た、しかも有名保険会社のネームプレートを胸につけた女性が訪問すれば十中八九、キミの言葉を信じただろう。それに加えキミはサイコパスだ。人を操ることに長けていて、その話は全てでっち上げの嘘塗れだが、専門家でない限り初見で見抜くことはほぼ不可能に近い。事実、ぼくもキミが犯人だと思うまで、ここまで時間を要することになった。それくらいにキミは『人間』に溶け込んでいた」

だが、と白河が続ける。

「想定外だったのは、二番目の被害者。小林悠だ。キミは小林茜を本当は殺害するつもりだった。だが、出会ったのは丁度ぼくと同じ背丈の若い男性。キミは躊躇しなかった。どのみち偽りの顔を見られたのだから、小林悠を殺すことは決定していた。だがキミは偏執的に黒髪に拘る殺人鬼だ。それなのに何故、今までの様式に倣って金髪の小林悠を同様の手口で殺したのか? 答えは簡単だ。キミは予行練習にしようと思った」

 そこで一拍の間を置いて、白河が告げた。

「キミは、同じ背丈、体格のぼくを殺す時の予行練習のために小林悠を同じ手口で殺害したんだ。違うかい? キミの一番の狙いは、このぼくだった」

 外の雨が強くなる。オーケストラのように、潸然と雨は降りしきる。古い、幼い記憶の中の匂いが、光景が濃密に蘇っていく。死んだ父親、美しい母親。蝶々。父と作った蝶の標本。母にプレゼントして喜んだ顔。うつくしい、わたしのりょうしん。

「沈黙は肯定と受け取るよ、北村愛」

 目の前の美しい男の瞳が、琥珀色から満月のような黄金色に変わっているように見えた。

 気付けば愛は、口を開き言葉を紡いでいた。

「つまり最初から気付いていたんですか? ――私が、殺人鬼であることに」

雨で外界から区切られた事務所内は、静かだった。

 白河はその美しい顔に微笑を湛えていた。不釣り合いな微笑だった。

「結果的に言えば、そうだね。ぼくはキミを採用した時から、キミを疑っていた。だが、確信をしたのはキミの友人である水橋祐子が殺された時だ。キミはあの時、黒髪に染めるようアドバイスした自分の所為で、水橋祐子は殺されたんじゃないかと言った。あの発言がキミのミスだった。ストーカーと連続殺人鬼を黒髪という誰も知らない筈の情報で紐付けしてしまったのだから」

「そうですか……あの時、私はミスを犯してしまったんですね」

でも、と愛は笑う。

 抑えていた箍が壊れた。心を黒泥が蝕んでいく。笑いが止まらない。なんて人と出会ってしまったのだろう! これを喜びと言わずに何と言うのか!

「それはつまり貴方は今までの殺人を、看過してきたということですよね? 私のことを疑っていたというのに、確信なんてものを得るまで警察にも突き出さなかった」

そうだ。自分が他人との共感性も恐怖への減弱も含んでいるサイコパスだというのなら、目の前にいる男だってそうだ。それは素晴らしい、運命的な出会いだ。

「先程、サイコパスって言いましたよね? ええ、私は確かにサイコパスかもしれない。けれど白河希。貴方には言われたくない。貴方こそサイコパスじゃない。殺人鬼がすぐ近くにいるというのに、罪なき人々が殺されていくのを止めなかった。今だってそう。そこにいる林原圭佑がカオルを殺したというのに、少しも哀しみもせずに平然としている。貴方は私をサイコパスと言うけど、貴方は私と――同類よ」

 愛は口端をつり上げる。そうだ、同類だ。同じいきもの。知っていたというのなら尚更、残忍だと言えよう。自分が残酷な殺人鬼なら、白河希は残酷な傍観者だ。一番きれいに殺そうと思っていた相手が、自分と同種と知った喜びは、尋常ではなかった。

 けれど白河は、少しもやっぱり表情を崩してくれなかった。狼狽することも傷つくこともなく、むしろこの舞台を楽しんでいるかのように言う。

「勘違いしないで欲しいな」

「勘違い?」

「まず第一に、カオルは死んでいないし林原くんは誰も殺しちゃいない。カオル、そろそろ起き上がっていいぞ。ああ、林原くんは自衛の為にナイフは持っていてくれたまえ」

そう告げた途端、コートをかけられていたカオルの「遺体」だったはずの身体が、がばりと起き上がった。その顔は青白く見えたが、カオルは眠りから今覚めたかのようにくわっと欠伸をして白河をじろりと睨み上げた。

「おい希、ネタばらしが遅いんだよ。真冬に近い中で素っ裸で床に横たわってるの、結構キツいんだぞ。特別手当出してくれよな」

 そう言うとカオルは鬱陶しげに、自分の腹の皮を――いや、腹にひっついていた内蔵やら傷口やらをすべて剥ぎ取った。べろりとめくれたその下にあった腹は、傷一つなく綺麗だった。その光景に唖然とする愛に、白河が声を弾ませて言う。

「凄いだろう? 以前も言ったように、今の特殊メイクの技術は非常に高い。いやぁ、七緒に腕利きの特殊メイク師を探させた甲斐があったよ。勿論あんまり明るい場所だと分かってしまうが、こうも暗いと分からないものだね。ぼくもあんまりにもリアルで、一瞬本当に林原くんが犯人かと思ってしまうほどだった!」

 ははは、と悪魔的に笑う白河に、愛は困惑を隠しきれなかった。だが目の前にいるカオルは確かに無傷で、起き上がってそこにいた。

「特殊メイク? うそ、でも、この血臭は……」

 嗅ぎ慣れた匂いだ。血の匂い。間違えるはずがない。わたしの好きなにおい。何度も嗅いできた。この血の濃さは嘘ではない。

 そんな愛の困惑を見透かしたように、白河が言う。

「ああ。これはぼくが毎週欠かさず献血……のようなものをしていてね。その蓄えてきた血をぶちまけたわけだ。すべてこの舞台を作り出す為に用意したことさ。遺体役のカオルも、殺人鬼役の林原くんもね。林原くんは別にいなくても良かったんだけど、どうしてもって言うから登場してもらったわけさ。いや、なかなかに名演技だった。本当にカオルのことを殺してしまったのかと思ったくらいだ。でも、その殺意は偽物じゃないから、そりゃあ演技だって真に迫ったものになるか」

白河はちらりと林原へと視線を送る。林原はじっと、愛を見詰めていた。愛は信じられない気持ちだった。なぜ、この男はここにいる? いや、ずっとここにいた?

「林原……林原圭佑……あなたは、何故、どうして」

 頭が追いついていかない。それでも愛は言葉を継ぐ。

「私を殺したいからこの事務所に来たの? ずっと私を殺す機会をうかがっていたの? でも何故? 何故、殺さなかったの? 大切な人を殺した殺人鬼と呑気に会話なんかして、いくらでもチャンスなんてあったはずなのに……どうして?」

 分からない。どうして人を殺すチャンスがあるのに、それを逃してきたのか。

 愛の内側に多くの疑問が湧いてくる。林原のナイフは外光を受け、きらりと光っていた。

「……分からない」

林原はその洞のような黒い眼で言った。

「ただ、オレはこれからお前のことを『知る』ことになる。だから、少しは自分のことも語らないとフェアじゃないと思った。それだけだ」

「私を『知る』? ただ、それだけのために? ……だとしたらあんたも異常者じゃない。平然と、殺人鬼と会話をして食事をして」

 そう。狂っている。狂っているのは自分や白河では無い。愛は林原をきっと睨み付けた。この男こそ平凡の皮を被ったモンスターだ。愛はコートのポケットに手を突っ込む。その中にある折りたたみナイフをぐっと握り込んだ。けれど標的は林原ではない。愛は視線を林原から白河へと移した。

「白河さん……あなたは違う。あなたは異常者じゃなくて、私と同じただのサイコパス。でも本当に酷いことをしますね。あなたが私を何処かで止めていれば、犠牲者はこんなにも出なかった。違う? 違わないでしょう?」

 一歩、白河と距離を詰める。林原とカオルが動く気配がしたが、それを白河が無言で制した。視線を合わせたまま愛は言葉を紡ぐ。

「本当はあなたも楽しんでいたんじゃないですか? 私が殺していくのを。あなただけは知っていた。神様にでもなったつもりで、憐れな命を俯瞰していたんじゃない? ええ、確かに私は人を殺しました。でもあなただって同罪。人殺しを止められたのに止めずに見ていた。ただ、見ていたんだから! わたしとおそろいのサイコパス!」

 雨がざあざあと降っている。耳障りだった。雨音が愛を過去へと連れ出そうとする。けれどそれに引きずられまいと、愛はコートの中でそっと折りたたみナイフを広げた。白河の目の前に立ち、少しだけ見上げる。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、冷ややかな鉱物のようだった。その白河の恐ろしく端正な顔が微笑をつくった。

「キミはもう一つ、勘違いをしている」

「……勘違い?」

「ああ、そうだ。ぼくは最初から言っている。ぼくは正義の探偵でも警察でも何でも無い。ただの探偵事務所の経営者だ。そしてもう一つ。ぼくが絶対に守るのは依頼者の依頼だけだ。あとのことはどうだっていい。そもそもキミが殺人鬼である、という証明の確率を高める為に時間が必要だった。他の被害者が出たのはぼくの所為じゃない。だってキミが殺したんだからね。人に妙な罪をなすりつけないでくれ」

白河は笑っている。この状況で、笑っているのだ。何人も人が、目の前にいる愛の手によって屠られてきたというのに。白河にとってはチェスのようなものなのかもしれない。

 チェックメイトをかけているのは、勿論白河だ。本当に、心の底から白河希という人間は「依頼」以外はどうでもいいのだ。どうでもいいと切り捨てられる、サイコパス。

「何度も言うがぼくは探偵じゃない。正義のヒーローでもない。善人でもない。ただ引き受けた依頼を守る、それだけの存在さ。殺人鬼であるキミを捕まえるのは警察の仕事だ。ぼくじゃない。ただ、殺人鬼を『知る』ことはぼくの仕事だ」

「何を言って……」

 訳が分からない。そういえば最初から――あの小林茜との依頼のやり取りも、奇妙だった。殺人鬼を「知る」ことに、一体何の意味があるというのか。そもそも、もうこうして白河は愛が連続殺人事件の犯人であることを「知った」。これ以上、何があるというのか。

 雷鳴がとどろく。窓ガラスに打ち付ける雨の音が、うるさい。

 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。

 せめて、と。愛は目の前の男が欲しいと思った。白河希。最終目標である獲物が、すぐ手の届く場所にいるのだ。もう距離は十分詰めることができている。

 喉を切裂き、その血を浴びるくらいはできるかもしれない。それを考えたら――やはり腹の奥が、子宮が熱くなって、酷く興奮するのが分かった。

 愛はポケットの中で広げた折りたたみナイフを強く握った。一歩、踏み出して切りつければいい。この完璧な、うつくしい人間に傷をつけたい。心臓が鼓動している。歓喜しているのだ! ああ、その血潮をいっぱいに浴びさせて! 愛しい初恋の人よ!

 愛は足に込めて一歩踏み出し、ポケットから素早くナイフを取り出して振り上げた。

 その時。

 白河の琥珀色の瞳が――満月のような黄金色に変わったのが、見えた。


「――おすわり」


 そして、その四つの文字だけで。

 白河の唇から発されたそれを聞いただけで、愛の足は力を失い、ガクリと膝から崩れ落ちた。手からナイフが転げ落ち、硬質な音を立てて床に転がる。雨の音が騒がしい、騒がしい。ノイズのように愛の皮膚から内側へと浸食してくるようだった。

 夜の闇のなかで白河の双眸だけが爛々と輝いているように見えた。

 黄金色の瞳。皮膚が粟立つが理由が分からない。この感覚を知らない。ただ神を前にした信徒のように、愛は白河の瞳から視線を外すことができなかった。

 いや――悪魔の瞳、だろうか。

 禍禍しい美しさを持った瞳が楽しげに愛を見下ろしている。頭の端で赤い警鐘が明滅する。これ以上、この眼を見ていてはいけない。けれど身体が全く別人のものになったように言うことを聞かなかった。ど、ど、ど、ど、ど、と心臓が飛び出してしまいそうなほど激しく早く鼓動している。嫌な汗がじわりと滲んだ。白河が幼子にするようにしゃがみこみ、その白い両手が愛の頬を包んだ。その触れ方の優しさが却って――「恐ろしい」。

 そうだ、今、自分は恐怖しているのだ。

 自覚した途端、愛は逃げ出さねばと思った。それだけで頭がいっぱいになって叫び出したくなったが、それさえも叶わなかった。目の前の、黄金の瞳から眼が逸らせない。

 白河の口端が残忍に歪み、笑みを形作る。

「北村愛。キミはぼくをサイコパスと言ったが、それは大正解かもしれない」

 けれど、と白河は続ける。

「ぼくはぼく自身のことを、人間の皮を被った『何か』だと自負している。聡明なキミのことだ。分かるだろう? この眼は、人ならざるモノだ。そしてキミは今、おそらく産まれて初めてと言っていい、『恐怖』を感じている。だがそれでいい。それがサイコパスであっても人間らしい反応といえる。全く未知のものに出くわした時、人間はそうやって恐怖という警報を頭の中で鳴らして、身体に命令しなければならない。例えば今だったら、危険だ、ここから逃げ出せ、とね。残念ながらもうキミにはそれが出来ないわけだが」

どうして、なぜ、と思った。そんな存在、在ってはならない筈だ。この、「私の物語」には、いてはならない、そうノックスの十戒のような、そんな――。

「さて……キミは常々不思議だっただろう。小林茜や林原圭佑といったぼくの依頼人たちが『犯人を知りたい』と依頼してきたことが。犯人を知るというのならば、もう今の時点でとっくにぼくは依頼内容を達成しているといえよう。だが、よく考えてみてくれたまえ。『犯人を知る』というのは、犯人が誰かということだけでは些か表面的過ぎないか?」

 白河はキスでもするかのような距離で、穏やかな口調で語る。

「詰まる所こうだ。北村愛。ぼくはキミという人間そのものを知ることを目標としており、それを知り、依頼人たちに報せることが依頼の到達点と考えている。では、人間そのものを知るということはどういうことだろうか。ぼくは人を知る上では外在的な部分と内在的な部分があると思っている。外在的な部分というのは外から見える部分だ。名前、性別、身長体重、容姿、社会的立場……目に見える部分だ。可視化できる部分といっても良いのかもしれない。その外在的部分については既に山崎さんたちが調査済みだ。だが内在的な部分――つまり『心』にはどういったアプローチをかけるべきか?」

 そんなものは不可能だ。

 心は人には見えないのだから。

 そんな愛の心を読んだかのように白河も頷く。

「そうだね、普通なら不可能だ。人の心を知ることなんてできない。だが、ぼくはできる。大方の外殻が分からないと使えないがぼくのこの眼は、そう、心を解剖できるんだ」

 心の、解剖?

 理解が追いつけない。そんなものは非現実的だ。

 けれど視線が合ったままの、白河の黄金色の悪魔的な双眸は、言葉なくして雄弁に物語っている。決して離せないその視線が、言っている。

 決して、逃さないと。

 その目は獲物を狩る側の瞳だった。

 初めて愛の喉から、ひっ、と短い悲鳴が漏れた。冷水を頭から浴びたように、震えが起こり、止まらなくなっていく。指先から血の気が引いていって、全身の血が凍り付くのを感じる。知らない。こんな感覚は知らない!

 白河の黄金色の瞳には、恐怖した羊が映り込んでいた。

「それでは、開かせて頂きます――」

 刹那、カチリ、と何かが噛み合ってしまった音が脳の奥から聞こえた。

 白河は決して目を逸らさせぬよう愛の頬を両手で包んだまま、その黄金色の瞳を輝かせ、愛の瞳の、瞳孔の、視神経の、水晶体の、すべてを伝って神経を逆なでしていく。その得体の知れない激痛に叫び出したくなるが、喉を出たのは短い空気だけだった。虫が鋭い脚をざわつかせて内部を這い回るような痛みが眼から脳へと駆け抜けて、やがてそれは食い散らかすように頭蓋の中を暴れ回る。

 白河の黄金色の瞳孔が急激にその瞬間、収縮した。

「――北村愛。年齢二十六歳女性独身。母親は専業主婦、父親は会社員。父親母親共に容姿端麗、性格も温厚で七歳まで何不自由ない暮らしを送っていた。しかし父親のリストラにより家庭が崩壊。父親は暴力をふるうようになり母親を強姦するようになり、その強姦現場を幾度となく見せつけられてきた。やがて父親は酒に溺れギャンブルに走った。その父親との性交で母親は妊娠、DVによって流産している。その時腹に宿った命が流れ出したことに対し母親が『赤ちゃんは蝶になって消えちゃった』のだと言う。その言葉が魔法の言葉のように今も残っている。九歳の時に母親が父親を滅多刺しにして腹を切り開く。母親はざまあみろと言ったが憎悪を知らぬ北村愛には理解はできなかった。その後母親と新潟県N市××山の山中に父親の遺体を遺棄。北村愛は父親の暴力についても母親の暴力についても常に傍観者の視点でいたが、九歳の年齢でその暴行や殺害に対し性的興奮を初めて抱く。母親と二人暮らしを初めてから暫くはその性的衝動をしまいこむことができたが小学校六年の時に交通事故で事故死したクラスメイトの遺体を目の当たりにして二度目の性的興奮を覚える。中学に入学後、クラスメイトと一緒にアダルトビデオを鑑賞するが興奮は低く、スプラッタ映画の殺人シーンで初めてエクスタシーを経験する。以来、自分の性的嗜好が他人とものとは大幅にずれていることを知る。初めてのセックスは十六歳のとき。四つ年上の大学生と寝てみたが、期待するような興奮や快楽は得られなかった。その後別の男性と交際してみるがうまくいかず二ヶ月弱で破綻。セックスでは到底満足が得られなかったこの頃から小動物を殺すようになる。はじめはハムスター、次に野良猫。ステップアップするにつれ求めていた快楽に似たものを感じるようになっていった。理想は父親を殺した母親だった。初めての人殺しのは社会人二年目の時だった。精神を病んだ母親を絞殺後、腹を切裂いた。その切裂いた腹をめくって何度も内臓に触れてキスをした後、そこで自慰をした。十数回以上の自慰の後、母親の遺体を見て蝶々のようだという妄想が膨らみ『工作』をした。ネイルガンで釘打ちして蝶の形を模すと標本を手に入れたような気持になった。スマートフォンで記念写真を何枚も撮影をした後、クラウドに保存し端末からは泣く泣く消去した。母親の遺体は父親の遺体を埋めた山中に埋めた。母親が戸籍上はまだ生きていることになっているのは、母親の周囲に誰も母親を気にかける存在がいなかったからだ。それを見越して最初の殺人を行なった。身内に殺されると思っていなかった母親は勿論抵抗される間もなく殺害することができた。そこでもう欲望との折り合いがつけることができると思ったが、内に秘めた獣はそうはいかなかった。保険営業は天職だった。自分が言葉巧みに相手を操ることに長けていると気付き、保険営業を続ける内にこの手を使ってまた人を殺せないかと考えるようになった。まず被害者を選ぶべくSNSを駆使し、選び出し、慎重に行動した。第一の被害者である杉本花菜はインスタグラムに掲載されていた写真を見て気に入った。母親と同じ黒髪の美しい少女だった。申し分ないと思った。杉本花菜のツイッターを探し出すことは簡単だった。そこから日常生活を調べ上げ、住所を特定することに成功した。日中の自由な時間。共働きの両親がいない時間帯を狙って杉本家の自宅へと訪問する。予想通り自宅には杉本花菜一人しかいなかった。母親との保険契約の約束があると嘘を吐き、杉本花菜の自宅に入ることに成功し、背後から携帯していたナイフで突き刺す。仰向けに倒れた杉本花菜を引きずりリビンで仰向けにすると、裸にし、持ってきた結束バンドで手足を固定した。その後杉本花菜の腹を引き裂きネイルガンで釘打ちした。杉本花菜は釘打ちの途中で死亡していた。この事を残念に思いながらも興奮のあまりその場で自慰を二回し遺体写真を撮影して、その場から凶器を持って立ち去った。この快感に取り憑かれてからは仕事が手につかず、退職し次のターゲットを探し始めた。勤めていた保険会社からバッチとネームプレート返却の催促はされていたが無視し続けていた。そのバッチとネームプレートを手に次なるターゲットである小林茜を見つけた。彼女の生活リズムを調べ上げた上で何度もイメージトレーニングをしその度に自慰をした。決行日はよく晴れていた。スーツを着てバッチとネームプレートをつけ、小林茜の自宅を訪れると予想外の人物が現われた。それが小林悠だった。この段階で白河希という人間を殺すことを最終目的に置いていたので、背丈や体格の似ている小林悠を殺すことに決めた。けれどそれほど最初に殺した杉本花菜ほどの快楽は得られなかった。そこでやはり黒髪でないと駄目なのだと再確認した。それからは黒髪の美しい人間を狙い、また探偵事務所に入所したことで『遺族』という新しい『記念品』を得ることに酔い痴れた。第三の被害者である清水ゆかり、第四の被害者である加原亮一郎、第五の被害者である榊原麻衣子。回数を重ねるにつれ、どんな体格の人間であっても自分ならば殺せると確信に至った。あとは最終目標である白河希の殺害だった。ここで思いつきで水橋祐子を殺して『作品』を見せてみたいと思った。白河希が動転し恐怖に青ざめる姿を期待していた。しかし白河希は思うような反応をしなかった。当然激しい怒りに見舞われたが、一層白河希という人間を殺す瞬間が気持ちよくなるだろうと考えた。なにせ白河希は【初恋の人】だ。一目惚れ、運命、宝物。どのような言葉でも白河希を例えることができた。計画は杜撰ではあったが、もうこれ以上の戦利品は得られないと思い今夜決行することにした。今夜のためにわざと二人になるよう仕事を溜めておき、事務所で二人きりになる瞬間を狙った。だがここで予想外のことが起きた」

パチリ、とそこで瞬きが入る。絡み合って脳の細胞一つ一つを蹂躙していた痛みが更に強くなる。けれど愛は声も出せなければ指一つ動かせない。黄金色に輝く白河希の瞳は、身動きの取れない愛を楽しげに見ていた。

「そう、それが今この瞬間だ。北村愛。キミの心を切り開いて、のぞかせてもらったよ。過剰な性欲、サディスティックな妄想、幼い頃受けたショックから芽生えた歪んだ性癖、そして他人の中で柔軟に、無害そうに生きる狡猾さ。キミは常に他者だけでなく、自分とも乖離しているかのように感じている。だが、人を殺す時だけその乖離がなくなり、完璧になるように思える。だが言っていたように、この世に完璧なものなどない。事実、キミは今、ぼくに為されるがまま心を曝け出している。切り開かれて一方的に中身を見られる感覚はどうだい? ああ、どうやら恐怖を初めて体感しているようだ。これは僥倖。ああ、震えているね、さっきからずうっと。そう、それが恐怖だ。キミに殺されてきた被害者たちが感じた恐怖というものだ。キミは今まで随分と鈍感だったみたいだから、特別に敏感にしてあげよう。キミの恐怖のスイッチをぼくが入れてやる」

 ぞわりと全身の毛が総毛立ち、愛は真っ青に青ざめて唇を震わせた。

「や、やめ……て……」

 どうにか声が出たが自分でも聞いたことのない声だった。怖い。恐怖している。恐怖とは、こんなにも「痛い」ものなのか。「冷たい」ものなのか。黄金色の視線を伝って、視神経から脳へ、そして全身へと剃刀を流されているかのような激痛が走っていく。がくがくと身体が震え失禁する。白河は汚いなぁと笑いながらじいっと愛を見詰めた。

「でも止めないよ」

 白河の瞳が更に輝く。愛は、旋律した。

 これは悪魔だ。

 悪魔の瞳だ!

 ああ! 自分はモンスターなどではなかった。

 本物のモンスターは此処にいた!

 聴覚に、視覚に、凍えたノイズが走る。カチリ、と何かが頭の中で鳴った。

 途端に、記憶の中の死者が鮮明に蘇る。ナイフを持っている。脳内にいる自分は裸のまま、蝶の標本のように磔になっている。現実と幻がぴったりと癒着して、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなる。被害者たちが、殺した奴らが近づいてくる。ナイフを持っている。やめて、やめて、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ――――


「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 白河の手が離れ、愛は絶叫しながらその場に崩れ落ちた。

 痛い。涎が垂れる。痛い。痛い。痛い。痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 

 脳味噌を包む膜が弾けて中で血潮を拭き零しているような錯覚に襲われる。眼前が激痛にチカチカと明滅する。肉体にはどこにも傷がないのに、頭の中で、殺してきた人間たちに切り開かれている。頭蓋が切り取られ、べろりと皮膜を剥ぎ取られ、ぱっくりと割れた脳をちくちくとナイフで悪戯に刺されるような恐怖。怖い。怖い。怖い。逃げたい。けれど、どうしたらいい。どうしたらいい。責めるように頭の中の自分を拷問する亡霊たちが言う。罪を告白しろと言う。愛は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で何度も頷き、やめて、だからやめて、とめて、と繰り返した。

 けれど恐怖は消えなかった。

 恐怖は肥大化し、それは愛をすっぽりと胃の中に収めてしまっていた。

 意識を失いそうになる度に脳内の寄生虫のような被害者たちが愛をたたき起こした。外から聞こえてきたパトカーの音が、今の愛には救いのベルのようにも聞こえた。



* * *



 一一○番通報を受けて岩垣が警察官たちと共に駆けつけてみれば、白河探偵事務所に所属する従業員、北村愛が叫ぶように自供を始めた。現場は混乱の渦に落とされたが、酷く怯えながら罪を告白する北村愛は事情聴取のため、一旦署に連行されることになった。

 またその場にいた林原、カオル、白河も含め事情聴取されることになった。白河に至ってはもう慣れっこなので、聴取した刑事も「またお前か」と呆れていた。だが、白河含める三人がシロだと分かると解放された。

 岩垣が署を出るともうすっかり夜は明けて、雨も上がっていた。

「やあ善男。お疲れ」

 不意に声をかけられ岩垣が視線を向ければ、警察署の出入り口のところに白河が立っていた。長い外套を着込んでおなじみのステッキを手にしている。緩い癖のある黒髪と、長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳は、実に愉快そうに見えた。その美貌は朝の白い光に縁取られ、尚一層、美しさを際立たせている。岩垣は短く舌打ち、溜め息を吐き出す。いるとは思ったが、本当にいやがった。

「なんだい? ぼくがいると困ることでもあるのか?」

「お前の顔を見ているだけで疲れるんだよ」

「失礼なやつだなキミは。それを言うならキミの姿なんて酷いもんじゃないか。髭の手入れはなってないし、目の下には隈がくっきりと浮かんでいるぞ。どうせまたカフェインばかり摂って食べ物は菓子パンかカップ麺だったんだろう? ああ、今ならぼくのお気に入りの店のモーニングが食べられる」

 白河はまくしたてるように言うと「行こうか」と勝手に歩き出す。どうやらこっちの意見はまるで無視するつもりらしい。警察署からタクシーで移動して、白河探偵事務所の近くで下ろしてもらうと、喫茶「シャーロック」が見えてくる。緑色の看板は出ており、開店中を示す「open」の文字があった。

 扉を開くとカランカランとカウベルが鳴り、この店のオーナーである老紳士が笑顔で「いらっしゃいませ」と出迎える。店内は半分ほどが埋まっていて、白河は朝日が差し込む窓辺へと腰掛けた。窓はステンドグラスのように様々な色で彩られていて、太陽の光に透かせると万華鏡のようだった。

「良い天気だ。実にいい天気だ」

 そう繰り返すと白河は早速モーニングを二人分注文した。確かに、実に良い天気だった。 ほどなくして珈琲とホットサンド、ミニサラダにベーコンエッグがついたプレートが運ばれてきた。あたたかな湯気がたつ珈琲を飲むと、鼻腔に良い香りが通り抜けていく。白河は珈琲ではなく紅茶のようだった。もう随分と通っていて何も言わずとも分かるのだろう。良い店だ、と岩垣は思いながらホットサンドにかぶりついた。

 穏やかな朝だった。嘘みたいな平穏が、ゆったりと珈琲の香ばしい香りに混じって流れていた。店内に流れるクラシックの音楽は聞いたことがあるような、ないような。兎に角岩垣にはよく分からなかった。ただ、きれいなピアノの曲だと思った。

「ドビュッシーの『夢』だよ」

 紅茶のカップを置いた白河が、心を見透かしたかのように言った。いつの間にか白神のプレートは綺麗に空になっていた。少し憂いを含んだような、けれど優しい旋律だった。

「音楽はいいね。心を慰めてくれる。ぼくは芸術には疎い人間だけれど、こうやって美しい音楽に耳を傾けたり、名画を見たりすることは大好きだ。演劇なんかも好きだね。読書も好きだ。どれも、この世界から別の世界に連れ出してくれるものだから」

 そう言う白河の表情は、あんなことがあったというのに、いつもとまるで変わっていなかった。その端正な顔に、後悔や恐怖、不安、そういった負の感情は一切ない。ただ日曜のゆったりと朝を過ごすような、そんな穏やかさがあるだけだった。不気味なほどの穏やかさだったが、これが白河希なのだ。それを知っている岩垣もまた朝食を平らげると、食後の珈琲に手をつけながら早速、口を開いた。

「北村愛の件だが」

「どうせいつもと同じだろう?」

 全てを了承しているような口ぶりだった。そして情けないことにその通りだった。岩垣は苦々しく頷く。

「ああ、お前の言う通り北村愛は全てを自供したよ。どうやって被害者をおびき出し殺したのかも、すべて。凶器となったナイフも自宅で見つかったし、殺した母親と父親の遺体を隠した場所も教えた。警察も既に遺体は発見している。ただ」

「責任能力の有無だろう? なに、それは仕方ない。彼女は今やサイコパスでも健常者でもない。精神疾患を持っている……と弁護士は主張するだろう。実際似たようなものだしね。このぼくがそうしたのだから」

 琥珀色の瞳が笑みの形に歪む。きれいな硝子玉のような瞳なのに、岩垣はそれを恐ろしく感じる。そして恐ろしく感じて良いのだと思うし、白河自身もそう思うべきだと言うだろう。岩垣は珈琲で口を潤してから、問いを投げかけた。

「北村愛が発狂し、自殺する可能性はないのか?」

「それもいつも通りさ。ちゃんと彼女の精神には、ストッパーをかけてきた。彼女は自分自身の意思で自殺することができない。できないように、自己防衛本能を設けてきた。つまり北村愛はこの先ずうっと、自分が殺してきた亡霊に腹を切裂かれ続ける訳さ」

 此処の中でね、と白河はこめかみをとんとんと人差し指で叩く。

「だから仮に彼女が無罪になっても、彼女の地獄は終わらない。どんな感じなのだろうね。心が死に至りそうなのに生殺しにされ、身体は死んでくれない。ぼくはね、善男。人間は心が死んでしまえば、肉体が死ぬのは簡単だと思っている。心が折れてしまった時、人はどんなものにも勝てなくなるからね」

 ゆるりと形の良い唇に微笑を浮かべる白河に、岩垣は「そうかもしれねぇな」と返した。確かに人間はそうなのかもしれない。例え何か病に侵されようとも、肉体が損傷しようとも、心が先に折れてしまったら――後に待つのは絶望的な「死」だ。その死には希望の光も一切なく、ただただ、深い悲しみと慟哭と共に心中する。

 今回の被害者たちはきっと、生きたかった。きっと最後の最後の瞬間まで、生きたかったのだと岩垣は思う。そう思うと遣りきれない気持ちになる。同時に北村愛という女性について思いを馳せる。果たして彼女は生まれながらにしてサイコパスだったのか。母親の腹の中にいる頃から殺人鬼であったのか。

 こういう職業についていると、いつだって生と死が岩垣の前に在る。まざまざと見せつけられる。それでも、仕事について犯人を追っていけば、感情を排することができる。

 けれど白河はどうなのだろう。

 北村愛は供述の中で白河がサイコパスであり、非情な人間であり、悪魔であると何度も繰り返していたらしい。勿論それは北村愛の精神状況に問題があると見られた為、ほとんど相手にされていなかったらしいが――白河は今、一体何を思うのだろうか。

 それを聞こうと口を開きかける。だが、白河の声がそれを阻んだ。

「さて、この仕事をちゃんと片付けてこよう。善男。キミも『仲介人』として、最後まで見届けるだろう? 今回も、ね」

 紅茶を飲みきった白河は立ち上がってコートを纏うとステッキを手に取った。岩垣もくたびれたコートを纏って、喫茶「シャーロック」を後にした。

 外は朝の光が眩く、疲労のたまった目だけでなく全身に染み渡るようだった。もうすぐ冬が来る。時計を見るとまだ朝の9時前だった。岩垣は白河と共に、白河探偵事務所へと歩いた。こつん、こつん、とステッキでアスファルトの道路を叩きながら歩く白河の背筋はぴんと伸びていて、黒く柔らかな髪が朝の風に吹かれて揺れていた。琥珀色の瞳は陽の光を受けて不思議な色合いになっていた。昔、ネットの記事で見たことがある。グリーンフラッシュ、だったか。太陽が落ちたり、昇る直後に、緑色の光が一瞬輝くようにみえる現象というものだった気がした。岩垣は勿論、それがどういった色の輝きか想像もつかないが、朝日を受けた白河の瞳は薄い緑を帯びているように見えた。

 そういえば、緑の瞳は悪魔の瞳だとも、聞いたことがある。これについては本当に朧気な記憶なのだが、一体誰から聞いたものだったのだろう。

 白河探偵事務所に着くと、いつもの顔ぶれはいなかった。ただ一人、林原圭佑を除いて。

「ああ、他の従業員には、今日は定時より二時間遅く来て欲しいと言ってね」

 ちらりと白河の視線が時計へと向けられた。時計はもうすぐ9時丁度を指すところだった。岩垣は林原圭佑と改めて向き合った。

「希が世話になったようだな」

「いえ、それはオレの方ですよ。遺族を雇うなんて凄いですね、あの人は」

 コートを脱いだり身支度を調えている白河をちらりと見て林原は言う。

「白河所長は、魅力的な人だけど、怖い人ですね」

「あいつが魅力的かは分からんが、怖い、というのは当たっているかもな。だが」

 岩垣はそこで一拍おいてから、幼馴染みである岩垣善男として言った。

「あいつは、ちゃんと心がある人間だ。ただそれが表面上に出ないのと、妙な力を持っちまっている所為で、他人と距離を置こうとするところがある。ここの従業員は皆それを分かってくれているし、お前さんにも分かってほしいと思っている」

 そう告げると林原は目をまん丸くしてから、声を出して笑った。

「白河所長はいいご友人をお持ちですね。……でも、大丈夫です。オレ、初めて所長に会った時から、この人なら信じられると直感したんです」

「それは信じて良い直感なんだか知らんが」

岩垣は白河に聞こえないよう、声を潜めて言った。

「あいつの幼馴染みとしちゃあ、そう思ってくれていると安心だ」

 それに対して林原は笑顔で応じた。こうして笑うと、年相応といった感じだ。そこで岩垣は不意に、目の前の林原に言わなくてはならないと思い、哀悼を口にした。

「杉本花菜さんのことだが……気の毒だったな」

 すると林原は笑顔を消した。けれど現われたのは哀しみではなく郷愁だった。

「花菜は……とても可愛い女の子でした。殺されなければきっと、何かを夢見たり、恋をしたり、結婚して子どもを設けたり……可能性の塊でした。オレと違って、彼女は幸福そのものみたいにいつも笑って、日々を送っていて……」

 林原はぽつりぽつりと、懐かしくも愛おしい思い出を零していく。

「花菜はオレにとって妹みたいな存在でした。いや、妹だったんです。これからもずっと、花菜はオレの妹で、だから……オレは知りたいと思いました。花菜がどうやって、だけじゃなく、どう思われながら殺されてしまったのか。白河所長にも言われましたが、奪った人間のすべてを知ることが救済の道になる訳じゃない。ただオレは救いを求めていたというよりも、真実を求めていたんです。何も知らないまま奪われることの虚しさの穴を、少しは埋めてくれると信じて」

「……少しは埋まったか?」

 問えば、林原は困ったように笑った。初めて見た、年相応の笑顔だった。

「ええ、半分くらいは埋まりました。哀しみと怒りと一緒に。でもずっとオレは、これを抱えて生きていくんです。これは花菜の痛みで、花菜のいた証拠だから、だからこそオレは生きなくちゃならない」

生きなくてはならない、と林原は力強く繰り返した。岩垣はそんな林原に対し、自分がかける言葉は必要ないと察した。この青年は深く傷ついている。けれどその傷を負っても尚、生きるという光の方向を見ていたから、だから大丈夫だと思った。

「おい、キミたち。そこで談笑するのは結構だがね。そろそろぼくの依頼人が来るから、応接間のところにたむろしないでくれたまえ」

 白河が言うと、林原は少し逡巡した後、口を開いた。

「あの、オレも同席していいですか?」

 その申し出に白河はすっと目を細めた。

「何故?」

「したい、と思ったからです」

「それは理由にはならないな」

 だが、と白河は応接スペースの椅子に腰掛けると、

「断る理由もない。許可しよう。隣に座りたまえ」

 そう許可された林原は「ありがとうございます」と頭を下げると椅子に腰掛けた。殆ど同時に白河事務所の階段を、誰かがのぼってくる音が聞こえてきた。白河が「時間通りだ」と言うと、扉が開く。そこには第二の被害者である小林悠の姉、小林茜が立っていた。どうやら髪を切ったらしい。さっぱりとしたショートボブの黒髪は、小林茜の小さな顔を更に小顔に見せていた。愛らしくぱっちりと開いた瞳は白河の姿を見つけると、恭しく頭を下げて「ご無沙汰しています」と言った。

 白河はそんな小林茜を、岩垣にエスコートさせて応接間へと導かせると、四人全員が腰を下ろした。小林茜の対面に白河、斜め前に林原、そして隣に窮屈そうに岩垣が座っていた。小柄な小林茜の隣に大柄な岩垣が来るとか弱さが目立つかと思われたが、全くそんなことはなかった。小林茜は、瑞々しく伸びる若葉のようにすっと背筋が伸びていた。視線はまっすぐ白河を見据え、全てを受け入れる覚悟という広大な海を持っていた。

「元気そうで何より。さて、依頼の件だが、心の準備はもうできているね?」

 白河が確認するように問う。小林茜は静かに、頷いた。

 そうか、と白河は視線を伏せると持っていたファイルをテーブルに置いた。資料は黒いファイルに綴じられていた。表紙にも背表紙にも何も書いていなかった。

「其処にすべてが書かれているが、ぼくの口からも聞いておきたいかい?」

 重複になるかもしれないけれど、と白河は付け足す。

 小林茜の答えは早かった。

「あなたの口から聞かせてください。あなたが見たことも、すべて」

 揺るぎない覚悟が、小林茜の声音にはあった。強いひとだと岩垣は思った。それか、弟のために強く在ろうとするひとだとも思った。

 白河は静かに「分かりました」と言うと、小林茜を見た。唇が開いた。

「北村愛が小林悠を見た時、あなたでないことに酷く落胆しました。北村愛の狙いは小林茜という女性でしたから。けれど小林悠とぼくの背丈や体格が似ていることに気づき、北村愛は実験しようと思いました。北村愛は、姉である小林茜と保険契約について話があるからと言って家の中に侵入しました。リビングへと案内した小林悠の背中を三度、ナイフで突き刺すと、小林悠は倒れました。まだ弱々しくではありますが、生きていました。北村愛は服を剥ぎ全裸にすると、結束バンドで手首と足首を拘束し、腹をまず縦に裂きました。この時点でもう小林悠は殆ど息がありませんでした。けれど北村愛にとってそんなことはどうでもいいことでした。淡々と腹を横に割き、そこから四方に皮膚をめくり上げると、ネイルガンで釘打ちしました。赤い蝶々を完成させた北村愛はその後、小林悠とぼくとを重ね合わせて、ぼくを殺した後のことを夢想しながら自慰をしました。けれど金髪というのがやはり北村愛にとって興奮を生む要素では無く、荷物をまとめると家から立ち去りました。北村愛にとって、あなたの弟である小林悠の殺害は、ぼくを殺す時の為の練習に過ぎませんでした。そこに感情はありません。ラットがいたから研究のために殺した。その程度です。北村愛が小林悠を殺すときの感情はこの程度のものでした」

 残酷な言葉だった。そして白河は暗に、自分のせいで小林悠は死んだのだ、と言っていた。けれど白河は嘘偽りなく真実を、遺族である小林茜に向けて告げた。

 小林茜はきゅっと一文字に唇を引き結んで聞き届けたあと、口を開いた。

「それは、あなたの所為で弟が死んだということですか?」

 問いかけに白河は、

「そうともいえるでしょうね」

 否定することなくそう答えた。決して、小林茜から目を逸らさずに。

 沈黙が流れた。長くもあり、短くもある沈黙だった。

「けれど、弟が死んだのは私の所為、ということでもありますね」

 だって狙いは私だったんですから、と小林茜は言った。一筋、涙が落ちた。

 白河はそんな小林茜をじっと見詰めたまま、

「それは違います」

 ときっぱりと否定した。

「どうして」

「そんなの、殺すヤツが悪いからに決まっているからです。あなたを狙った北村愛が全て悪かった。弟さんは、そんな悪人に殺された。どう考えてもあなたの所為じゃない」

 当たり前のことだった。

 けれどそんな当たり前のことを忘れてしまうほど、誰かを失うということは悲しいことだった。小林茜はくしゃりと、泣き笑いみたいな表情をつくった。

「それなら、あなただって悪くないということになるじゃないですか」

 そう言って、泣いて、笑っていた。小林茜の瞳は濡れていた。きらきらと輝いていた。

 白河はそう小林茜に返されて、むむ、と唸ったあと顎をさすった。

「確かにそれは一理あるかもしれない」

 本気で言っているのか冗談で言っているのか。分からないが、小林茜は気分を害した様子は無かった。涙をぽろぽろと流しながら、変な人、と笑っていた。白河はそんな小林茜を見て目を細め、強ばって握りしめられたままの手にそっと手を重ねた。はっとした表情で小林茜が顔を上げると、白河が柔らかく微笑んで言った。

「あなたは誰よりも勇気のある人だ。だからどうかその光を忘れずにいてほしい。弟さんは暗い過去に置き去りになったんじゃない。あなたが生きて生きて、生き抜いて、やがて息を忘れた先にある未来で、待っているのだから」

 その瞬間、小林茜の目から涙が一滴だけ落ちて、止まった。まるでそれは朝露のように澄み切っていて、きれいだった。涙が止まった小林茜を見て、白河は触れていた手をそっと離す。小林茜はその手をさすって、それから、

「ありがとうございました」

 と言って深々と頭を下げた。白河は立ち上がると、ぽんぽん、と小林茜の頭を撫でて言った。

「ぼくはただ、依頼を守っただけだ。ぼくができるのは、それだけなのさ。さぁ、もうこんな辛気くさい事務所から出て行くといい。外は晴れ渡っていて、世界は明るい」

 そう言うと白河は小林茜をエスコートするように立たせた。まだ涙でその頬は少し濡れていたが、もうその瞳から涙は零れなかった。小林茜は調査結果ともいえる黒いファイルを胸に抱き、白河の手を取って立ち上がった。

 事務所の玄関まで見送ろうとしたところで不意に白河が、去ろうとする小林茜に声をかけた。

「また何か困ったことがあったら来るといい。勿論、何事もないことが一番いいんだけれどね」

 その言葉を受けて小林茜は目をぱちくりさせたあと、少し頬を紅潮させて頭を下げた。ありがとうございます。とその唇が動いて、それから今度は振り返らず立ち去っていった。 小林茜が去ったあと、白河はんん、と背伸びして天を仰いだ。

「それじゃあ最後の仕事、終えますか」

「っていうとあれか」

「あれ?」

 一人理解できなていない林原が不思議そうに首を傾げる。それを見た白河が今気付いたというように、にっと笑って口を開いた。

「林原くんも来るかい? 決して楽しい旅とは言えないけれど」

「旅、ですか?」

「そう。なに、大した距離じゃない。ただ寄る所が……そうだな、六カ所はある」

 林原はその数でピンと来たのだろう。

「わかりました。オレも行きます」

その答えが気に入ったのだろう。白河は鼻歌でも歌いそうな口調で言う。

「聡明なのはいいことだ。善男、キミも林原くんを見習うといい」

「うるせぇ。さっさと行くぞ」

 頭を叩こうとしたが、すっと避けられる。いつもこんな調子だ。





 何度訪れても慣れるものじゃない。墓参りというものは。

 白河は物言わぬ墓石の前で神妙な顔つきで目を閉じ、手を合わせている。持ってきた花を生けて、灯した線香の煙が空へとのぼっていく。林原もまた、手を合わせていた。大切な人を失った同じ遺族として、深い哀悼を捧げているのが分かった。

 白河の瞼がゆっくりと持ち上がる。合わせていた手を離して、琥珀色の瞳で墓石を見詰めた。そこに刻まれていたのは、五番目の被害者の加原亮一郎の姓だった。

「これで五人目、か」

 次に行こうと言い、白河はすぐにその場を後にしようとする。岩垣と林原もそれに続いたが、不意に白河の足が止まった。どうしたのかと思いその視線の先を見遣れば、花束を抱えた加原夫婦がいた。白河はばつが悪そうな顔を一瞬浮かべたが、すぐにその色を消して歩き出した。加原夫婦とすれ違う瞬間、

「待ってください」

 声をかけてきたのは加原亮一郎の母親だった。白河は無言のまま足を止め、振り返った。ほっとしたような表情を加原夫人は浮かべると、夫と共に恭しく頭を下げた。

「亮一郎の為に来て下さったんですね」

「いえ」

 白河が否定したのが予想外だったのだろう。顔を上げてた加原夫婦に白河は言う。

「ぼくが来たのはぼくの自己満足のためです。亮一郎さんのために来る権利があるのは、貴方たちのような亮一郎さんを愛した人達だけだ」

白河らしい答えといえた。

 そんな白河の答えに加原夫人は表情を柔らかに綻ばせた。

「それでも添えて下さったお花も線香も、私たちには慰めになります」

 この言葉は、白河にとって意外だったらしい。目をまん丸くしていた。美丈夫がそんな表情を作ったのが意外だったのだろう。加原夫妻は少し可笑しそうに笑っていた。白河はそれが癪だったようだ。少し子供じみた口調で「そうかい」と言い捨てて歩き出した。もう加原夫妻が引き留めることはなかったが、霊園を出るまえで二人が見送ってくれているのは見なくても分かった。岩垣は白河へと言う。

「お前、本当に面倒くせぇやつだな」

「キミには関係ないことだろう」

 ぴしゃりと白河は言う。多分機嫌は悪くない。おそらく気恥ずかしいのだ。

 それから林原と岩垣、白河の三人は最後の被害者である水橋祐子の眠る霊園へと向かった。空気が澄んだ、よく晴れた日の正午前。外気は凜と冷たくて身が引き締まる思いにさせてくれた。途中で花屋に寄って花を買った。できる限り、きれいな花を。

 水橋祐子の墓は真新しく、霊園自体も最近できたものだということが分かった。昔の怪談話で出てくるようなおどろおどろしい雰囲気はなく、草花で彩られた霊園内は庭園のようにさえ見えた。水橋祐子の墓はそんな霊園の右端にあった。

 先客はおらず、枯れ始めていた花と新しく買った生花を入れ替えて、できる限り墓を綺麗にする。それから白河はいつも持っているジッポで線香に火をつけた。ぽう、と赤く燃えた先から白い煙と線香の香りが立ち上っていく。それを供えて、白河は静かに手を合わせて目を伏せた。祈りを捧げるその姿は神聖ささえ漂っていて、神が特別に造った人間のように美しい。男で、しかも幼馴染みの岩垣でさえこの男の美しさは何度見ても慣れないし、この頭の中で何を考えているかもさっぱり分からない。

 殺人鬼、北村愛は繰り返し白河を悪魔だと言っていた。サイコパスだと言っていた。けれど岩垣はこうして祈りを捧げる白河を見ていると、それは違うと思う。サイコパスはきっと、こんな何の利にもならないことをしない。白河が死者の安寧を祈ろうが、白河に財が入ってくることもないし、死者が生き返ることもない。

 それでもこうして事件の度に白河は墓参りをする。犠牲になった人々に祈りを捧げる。その祈りはもしかしたら、懺悔なのかもしれない。口では「依頼と依頼人以外はどうなったっていい」と公言しているが、そうだとしたらこうして水橋祐子の墓にも訪れなかった。

 ぱちり、と白河の瞳が開く。岩垣は慌てて目を逸らして、短く黙祷した。

「これで最後、ですか」

 林原が言う。その視線は青空へと向けられている。天に昇る煙を追って。

 白河が「そうだね」と言って歩き出す。右手で煙草を咥えて、右手で火をつける。霊園の出口で立ち止まると、煙をくゆらせた。煙草の煙が、先程あげてきた線香の煙と同じように青空へと向かってのぼっていく。白河はその煙を琥珀色の瞳に映していた。

「人は死んだらどこにいくんだろうねぇ」

 くだらないと普段なら白河自身が言いそうな問いを、白河が誰にとも無く問う。

 林原がそれに対して「どこでしょうねぇ」と答えにならない答えを返した。岩垣は頭の後ろをがしがしと掻くと、そんな二人に向かって言った。

「いいやつは天国、悪いやつは地獄だろ。そう相場は決まってるモンだ」

「善男。相変わらずキミは子どもじみた脳味噌だな」

 だが、と白河は続ける。

「それならぼくは間違いなく地獄行きだな」

 その声は妙に明るかった。そうあるべきだと望んでいるかのようだった。

 けれど林原がそれを否定した。

「白河所長は天国に行きますよ」

思わず岩垣と白河、二人が林原を見遣った。けれど林原はそんな二人の視線をものともせず、淡々と答えた。

「所長はオレにとっては正義のヒーローですから」

 現代のシャーロック・ホームズと言ってもいいですけど、と林原が少しだけ茶化すように言うと、白河は目をぱちくりとさせた後、声を上げて笑った。

「馬鹿を言うんじゃあないよ」

 白河が笑う。幼馴染みの岩垣なら分かる。次に白河が言う台詞を。

「天国か地獄かは置いといて、ぼくは正義のヒーローでもシャーロック・ホームズのような名探偵でも何でも無い。ただの、探偵事務所の所長なんだ」

 ただの凡庸な人間さ、と。

 白河は言う。そう在りたいと願うように言うのだ。その美しい、琥珀色の瞳をきらりと輝かせて、青い空を見上げるのだ。

 白河が吸って吐いた煙が、晩秋の冷たさに溶けて消えていく。青空に浮かんだ白い雲、太陽の光で縁取られたそれの上にはまるで、天国が広がっているようだった。

 煙草の煙と線香の煙は、その光の世界へと向かって、高く高くのぼっていった。





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