第5話


「祐子と連絡が取れないんです」

 愛が白河にそう告げたのは、十一月に入ってのことだった。

 奥の座席で相変わらずお行儀悪く机に脚を乗せた白河は、少しは興味を示したのか。片眉を微かに持ち上げた。

「祐子というのはキミが以前連れてきたストーカー被害に悩む友人のことかい?」

 どうやら覚えてはいてくれたらしい。愛は頷く。

「そうです。心配で毎日連絡取ってたんですけど、おとといの土曜日から返信がなくって……」

「一昨日ね」

 白河がふむと顎に手をやる。

「キミの友人ならそれはおかしいかもしれないな。キミの友人はおそらくスマートフォン依存症気味といっていいくらいには連絡がまめな方なようだし、ストーカーに恐れているというのなら尚更こまめに連絡を取るだろう。単に病気で連絡が取れないだけかもしれないが、一番近しいキミに連絡していないというのは違和感が残る」

 そう言うと白河は立ち上がるとコートを羽織って、ステッキを持った。

 まさかと思っていたので愛がぽかんとしていると、白河が訝しげな表情で言う。

「何をボサッとしているんだ、キミは。友人の安否を確かめなくてどうする。それともキミは心配してないのか?」

「い、いえ! そんな訳ないです! 私も行きます」

 慌てて愛もコートを羽織り、鞄を持った。白河が他の職員へと呼びかける。

「これからちょっと外に出る。カオルと七緒は引き続き浮気調査を、山崎さんは来客と電話対応を、新人二号は前回捕まえた、増川洋子さんの家のブチくん雑種雄猫七才がまた脱走したらしいので捜索の手伝いをしてきて欲しい。なに、捜索とは建前で増川さんのところのブチくんは賢いのですぐ戻るはずだ。つまりキミにはブチくんの飼い主である増川さんの話し相手になってほしい。以上」

 そう言うと、コートを翻し白河は愛と共に白河探偵事務所を後にした。

 外は今日も曇天で重苦しい空気を漂わせていた。十一月に入って空気がより一層冷たく、硬質なものになったような気がした。愛は隣を歩く白河をちらりと見上げた。

 横顔も少しの隙も無く整っており、すっと通った鼻筋は高く、睫毛は繊細だが長い。琥珀色の瞳は、この鈍色の世界でも綺麗に澄んでおり、艶やかな黒髪は少しだけ癖があるが柔らかそうだ。伸びた襟足は白い首筋にかかっており、男とは思えない艶めかしい雰囲気を醸し出している。中性的なのだ。声と背で辛うじて男だということは分かるが、それでも一緒にいると心臓が早鐘を打ち、いつだって見惚れてしまいそうになる。

「キミ」

 急に声をかけられ、愛はどきりとする。

「は、はい。何でしょう」

「ストーカーで悩んでいると言っていた友人は、あれからどうしていたんだ? 警察に再度相談しに行かなかったのか?」

 ああそのことか、と愛は少しだけほっとする。

「行ったんですけれど、やっぱり実害がないと警察も動きようがないみたいで……」

「つまり脅迫や犯罪を匂わせる発言はなかった、ということだね」

「はい。一方的に好きだとか会いたいとか言われるだけだったんです。最近は祐子の方も変にその、慣れてきてしまったというか……不安だったと思うんですけど、あんまり気にしないようにしていたみたいで」

 でも、と愛は続けた。

「心配だから連絡だけは欠かさないでって約束したんです。まめな性格の子だし約束破るような子じゃないから、だから今回連絡が途切れたのが心配で」

「ならどうしてキミは一人で訪ねていかなかったんだい?」

 ぴたりと足を止めた白河を見上げれば、冷ややかな視線が降ってくる。愛はその問いに、心臓が震えた。確かにそれはそうだ。愛は一呼吸置いたあと、答えた。

「……正直言って、一人で行って事実を確認するのが怖くて。それに、一日くらいだったら連絡なくても……気にしすぎかなって思っていたんです。でも、やっぱり今日も連絡がないから誰かについてきてほしくて」

 愛は白河の視線に耐えながら言葉を継ぐ。

「すみません。お忙しいのに迷惑をかけてしまって」

「いや」

 意外なことに白河はすぐに否定した。

「迷惑ではない。ただ、どういう意図があるのか気になっただけだ」

「意図……ですか?」

「ああ、別にキミが気にすることじゃない。さあ、さっさと案内してくれたまえ。今日の午後の降水確率は三十パーセントと言うが、ここ最近の天気予報はサッパリ当たらない。占い師にでも頼ったほうがいいんじゃないかと思うほどだ」

 皮肉っぽい口調で言う白河に急かされる形で、愛は探偵事務所の最寄り駅から中央線で一本のところにある、祐子の自宅アパートへと向かった。

 電車内ではいやというほど視線を浴びていたが、その張本人である白河は視線なんて全く気にせずぼんやり窓の外に流れる景色を見ていた。その景色を眺める姿すら様になるのだから美人とは恐ろしいものだ。

 電車を降りて二十分ほどの距離に祐子の自宅はある。時刻は午後三時。元気なら会社に行っている時間だが、もしそうだとしたら愛のスマートフォンに連絡はあっただろう。閑静な住宅街を歩き、見えてきたアパートを指差して「あれです」と言う。アパートの外壁は綺麗なブルーとホワイトで塗装されており、広くはないが1LDKに仕切られたこのアパートは築年数も浅く住むには快適だと祐子は言っていた。白河は興味なさそうに「そうかい」と言うと、ステッキをつきながらアパートの前に立った。

「あ、祐子の部屋は一階の奥、一○四号室です」

 先導する形で愛が言って、白河を案内する。それから二人ドアの前に立つ。昼間だというのに薄暗く、あたりは静かだった。白河が口を開く。

「ほら、さっさと安否確認したまえよ」

「あっ、はい。すみません」

 愛は促される形で祐子の家のインターホンを押す。

 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、と。三度押してみるが、返ってくるのは静寂ばかりだった。愛は扉を叩く。どんどん、どんどん、と。その度に虚しい音が鳴った。祐子、と試しに外から呼びかけてみるが応答は矢張りなかった。

「不在か……それとも」

 そう言った白河が愛を押しのけてドアノブに手をかけた。ドアノブをひねれば、それはガチャリと音を立て扉が開かれた。白河の表情が険しいものへと変わる。

「新人。救急車か警察を呼ぶ準備をしておけ」

 そう言うと土足で白河は室内へ足を踏み入れた。慌てて愛もスマートフォンを持ったまま、白河に着いていく。短い廊下を抜け、リビングのドアを開く。

 瞬間、濃い血臭が冷たい空気と一緒に流れ出してきた。

 薄暗いリビングに仰向けに倒れていたのは――祐子だった。

 その身体は一糸纏わぬ姿となり、黒髪を床に広げていた。

 手足は結束バンドで拘束され、腹は無残にも切裂かれていた。いや、切裂かれ、べろりとめくられた赤い肉付の皮は釘打ちされており、蝶の形になっている。赤い蝶だった。

 その赤さと剥き出しになった内蔵は血に汚れて、白い祐子の肌を汚していた。

 奇妙なほどに祐子の顔は穏やかで、眠っているように瞼は閉じられていた。

 祐子、と愛は名前を呼ぶ。

 勿論、返ってくるのは沈黙だけだった。

 白河は目の前の惨状を前に、少しも動じなかった。

「そうか」

 それだけ言うと、遺体の傍に座り検分を始めた。

「死斑が濃い。死後十二時間以上は経っているだろう。加えて死後硬直をしているが、この部屋は真冬のように冷たいから、検視マニュアル上では、死後4日から5日が目安となっている。……だが」

 そう言ってポケットから手袋を出してはめると、白河は閉じていた祐子の瞼を開いた。そしてあの琥珀色の瞳でじっと見詰める。

「角膜混濁は……中程度、といったところか。ということは死後四日も五日も経っていないな。死後二十四時間以内なのは間違いないな。まあぼくはその道のプロじゃないから間違っている可能性もあるが……さて死因は、と」

 言いながら白河は背中側を少しだけ持ち上げて観察する。

「刺した痕がやっぱりあるな。背中を3カ所。倒れた所を結束バンドで結束して、身動きが取れなくなったところを腹を切裂いた……手口は同じ。例の連続殺人犯の仕業だな」

 そう言って白河は手袋を外して立ち上がると、ふむ、と顎に手をやった。まるで祐子のことを物のように扱うその冷徹さに、愛はぞくりとする。同時に怒りも沸いた。

「白河さんは、どうして、何で……っ、私の友だちなんですよ!」

 拳を握りしめて叫ぶ。けれど白河の表情はうつくしいまま変わらなかった。

「そうかい。だがもうお友達は死んだ。キミが警察を呼ばないならぼくが呼ぶ」

 そう言うと白河はスマートフォンを取り出して、淡々と電話をかけはじめた。愛はその背を見て、ぎりと奥歯を噛み締めた。震えが止まらない。どうしてこれを見て、そんな反応ができるのか。信じられない気持ちでいっぱいだった。裏切られたような気分だった。

「さて、新人。ぼくらは第一発見者だ。これから警察から事情聴取されるだろうが」

 楽しむがいい、と白河は唇に弧を描いて言った。

 その顔(かんばせ)はやっぱり、穢れなく、美しかった。





 警察からの取り調べは警察署内で行なわれた。ドラマで見たような取調室は広さが三畳ほどの狭い空間だった。白河とは別室で、愛は親切そうな刑事に「いつ・どこで・どうやって・どうして」と水橋祐子の自宅を訪れ、遺体を発見するに至ったかを尋ねられた。

 愛は正直にそのまま告げた。祐子がネットストーカー被害に遭っていたことや、祐子との連絡が途絶えたことが心配になったことも含め、おおよそ全てを語った。

 取り調べは案外早く終わり、待合室の廊下で愛が暫く待っていると、ようやく白河が姿を現した。隣には大柄の刑事――岩垣がついてきており、何か小言のようなことを言っているが、何を話しているかよく聞こえなかった。白河は面倒くさそうにそれを聞き流しながら、愛を見つけると軽く手を上げた。

「やあ、キミの方が随分早かったみたいだね」

「むしろ白河さんはどうしてこんなに時間がかかったんですか?」

 愛が疑問に思ったことをそのまま言うと、白河に代わって岩垣が答えた。

「こいつは警察にお世話になることが多い問題児なんだよ。今のところ逮捕はされちゃいないがな」

 フンと鼻を鳴らして強面に更に険をのせて言うが、白河はどこ吹く風といった感じで「喉が渇いてしまったよ。ああ善男。悪いが自動販売機の場所を教えてくれないかい?」なとど言っている。岩垣は呆れて物も言えないらしく、俺が行くからお前はここで待っていろと告げて、その巨躯を揺らし廊下の先へと消えていった。

「はーやれやれ、疲れたな」

 どかっと愛の隣に座った白河は、懐に手を差し入れ何かもぞもぞしたあと、短く舌打ちした。もしかしたら煙草でも探していたのか、若しくは禁煙だと気付いたのか。口寂しさ追うにその長い指で唇をさすったあと、思い出したように声を上げた。

「さて、キミに聞きたいんだが」

「はい?」

「亡くなった時の水橋祐子の髪は黒色だったね? 以前は茶髪だった。染めたのか?」

 問われて愛は正直に頷く。

「はい。ストーカー対策するのに、少しでも外見を変えた方がいいって……」

「それはキミが言ったのか?」

 琥珀色の瞳が、愛を真っ直ぐに射貫いた。その眼にはなぜか、嘘がつけなかった。愛は少しの沈黙を挟んだあと、重々しく頷いた。

「……はい。私が言いました。その方が良いんじゃないかって……あのアドバイスが、良くなかったのかな。犯人はストーカーだったんでしょうか……?」

 愛は祐子の遺体を思い出す。あの白い肌と赤い血と、それから黒髪を。

 白河はというとそんな愛に慰めの一つもかけず、

「さぁね」

とだけ言った。その声には何の感情も含まれていなかった。

 そのあまりの素っ気なさに怒りが爆発しそうになったが、タイミング良くと言うべきか。岩垣が自動販売機から戻ってきた。その手の中にはホットココアと、真冬だというのにコーラのペットボトルが握られていた。

 ホットココアを愛に、ペットボトルのコーラを放るように白河へと渡される。うまくキャッチした白河は「どうも」と言って嬉々としてコーラを飲んだ。あんな死体を見たのに良い飲みっぷりだった。信じられない男だ。

「ったく、これで二人とも水橋祐子殺害の容疑者候補に挙がっちまったじゃねぇかよ」

 ばつが悪そうに言う岩垣に愛は「え!」と声を上げる。

「私もですか?」

 すると岩垣は申し訳なさそうに頷いた。

「あくまで視野には入れるという方向だがな。なにせ二人とも水橋祐子が亡くなった時点でのアリバイがないからな。勿論例のストーカーが一番怪しいと睨んでいるが……」

「まぁそのストーカーが十中八九、加害者だろうけどね」

「希……お前また適当なこと言ってるんじゃねぇぞ。毎度毎度こうしてお前が殺人現場に現われちゃ、幼馴染みの俺まで変な疑いをかけられるんだぜ」

「お二人とも幼馴染みだったんですね」

 愛はなるほどと思った。だからこんなにも仲が良いというか、気の置けない関係なのか。

 岩垣は苦々しく頷いた。白河は「そうなんだよねぇ」と溜め息混じりだった。愛はその二人の、気の乗らないような返事に困惑を示す。

「何でそんな嫌そうな顔をするんですか。いいじゃないですか、幼馴染み。素敵で」

「素敵?」

 はっと笑ったのは白河だった。

「そうだね、確かに素敵なのかもしれないな。善男。実際今じゃぼくが見つける、キミが逮捕するという美しい様式美が整い始めているのだから」

「それってすごいことじゃないですか」

 愛が素直にそう言うと、岩垣は「バカッ!」と声をひそめながら叫んだ。

「署内でそんなことを言うんじゃねぇ。あることないこと噂されちまうだろ」

「ああ、そんなことは気にする必要もないだろう。キミが噂されていることといえば、ぼくのこと……ああ、言い方が間違ったな。婦警の方々がキミの幼馴染みであるぼくにご執心だということだ。言い忘れそうになったが善男。今度女性警官の方に隠し撮りはやめてくれないかと言っておいてくれたまえ。バレていないと思ったら大間違いだ」

「なっ隠し撮りだと? ウチの奴らがそんなことするはずがねぇだろ」

「そうだといいんだけどねぇ」

 白河は視線を横にスライドさせる。そこには二人組の女性警官がいて、スマートフォンが握られていた。女性たちは白河と眼が合うなり、脱兎の如く逃げていった。白河は視線を岩垣に戻し、「ね?」と言う。岩垣は後ろ頭をわしわしと掻いて「分かった分かった」と非情に面倒くさそうにだが了承した。

「それよりお前ら、気をつけろよ。水橋祐子が亡くなったということは、殺人鬼は案外身近にいるのかもしれねぇ」

「そうだろうね。ただ気をつけたところで殺人は未然に防げるものじゃないけれど」

 皮肉たっぷりに白河はそう言うとコーラを飲み干した。その後、岩垣に「さっさと返れ」と追い出されるような形で警察署を出た。おそらく岩垣なりに心配してのことだろう。なにせもう時刻は夜の9時を過ぎていた。

 白河は別れ際、

「ご友人のことは残念だったね」

 とだけ言うと夜の街へと消えていった。

 その姿が見えなくなるまで見詰めてから、愛もまた帰路へついた。

 長い一日だった。



 * * *



 日に日に夜が訪れるのが早くなっていた。時刻は夜の十時半を過ぎたころだった。

 まだ明りが灯った白河探偵事務所に岩垣が赴くと、その日は珍しくカオルもいた。

「あっガッキーじゃん。おつかれー」

 カオルは軽い調子で挨拶してくる。しかも、床に寝っ転がったまま。岩垣は猫のように床に寝っ転がるカオルを見て、眉を潜めた。

「カオル。お前、床に寝っ転がって何してんだ?」

 岩垣が訪ねてみるとカオルはぱっちりとした瞳で白河を見てから、

「あいつの悪趣味に付き合っていただけ」

 と答えた。全く意味が分からない。遂にカオルはソファを座る権利さえ奪われたのだろうか。毎度毎度ソファに寝っ転がっては、白河に蹴落とされていたカオルの姿を思い出し、よくもまあ懲りないなと岩垣は感心さえしてしまっていた。

「なぁー希ぃ、もう帰っていいかー?」

 うんざりしたような声でカオルが問えば、読書していたらしい白河は顔を上げる。

「なんだ、まだいたのか駄犬。すっかり存在を忘れていた」

「てめーなァ、ほんっとに嫌ァな男だな……」

 舌打ちすると共に身体を起こしたカオルが、不機嫌を露わにモッズコートを羽織った。きらきらと長い金髪がさらりと揺れる。一房、黒い毛が混じっているのを見て思わず岩垣はむんずと髪を掴んでしまった。いたっ、と言われて慌てて離すと唇を尖らせたカオルが頭をさすりながら文句を言う。

「なにすんだよガッキー。髪はオンナの命なんだぜー」

「い、いや悪かった。ただ何で黒髪が混じってんだ? 最近のおしゃれってやつか?」

「ああ、これかー」

 カオルは一房黒髪を摘まんでからまた白河をじろりと見て、

「これもあいつの悪趣味に付き合った名残りみたいなもんだよ」

 と答えた。本当に、さっぱり岩垣には理解できなかった。どちらかに説明を求めようとしたが、カオルは「それじゃお先に~」と言ってさっさと帰ろうとする。だがそれを白河が引き留めた。

「おい駄犬。待て」

「あ? なんだよ」

 ふくれっ面で振り返ったカオルに、白河は読書したまま告げた。

「電話してぼくの家の迎えを下で待ってろ。一人で帰るな。いいな」

「……はいはい。分かりました分かりましたー。私の飼い主は心配性なことで」

そう言うと今度こそカオルは事務所の扉を開き、去っていった。バタン、と閉じた扉の音の後に静寂だけが残った。下から微かにカオルが電話している音が聞こえてきていた。

 岩垣はソファに腰を下ろすと白河に尋ねた。

「おい、お前。カオルにまた何か妙なことをしてるんじゃねぇか?」

 読書の姿勢のまま白河がこちらを一瞥し、深い深い溜め息を吐き出した。

「その言い方はやめてくれないか。あの駄犬は駄犬だが、ここの従業員でもある。それなりに手伝ってもらうことはあるが、危険からは遠ざけているつもりだよ」

 確かに先程も迎えを寄こすようなことを言っていた。だがさっきの、床に転がるような真似をさせていたのは一体なんだったのか。髪のことだってそうだ。岩垣は疑問をぶつけるべく口を開きかけるが、それを白河の言葉が制した。

「善男。キミはこの犯人がサイコパスだと思うかい?」

 サイコパスという単語に岩垣は開きかけた口を閉じる。岩垣が想像するサイコパスといえば、それこそ冷酷な殺人鬼だ。残虐なふるまいができる、人間の皮を被った悪魔――というのをどこかで見たことがあった。あれは何かの映画だっただろうか。

「そりゃあ、サイコパスなんじゃねぇか?」

「ほう。それはどうしてそう思うんだい?」

 問いを問いで返され、岩垣は黙する。どうと言われても、と思いながら再度口を開く。

「サイコパスっていったらあれだろ。残酷なことも平気でしちまうヤツで、そこに良心の呵責とかがないとかで……兎に角! 今回の連続殺人犯に当てはまるだろ? あんなことが出来ちまうんだからよ」

 岩垣が言えば、白河は成る程と鷹揚に頷いた。

「それじゃあ善男。キミは殺人鬼は皆、サイコパスだと思うかい?」

「そうなんじゃねぇか? おい、お前は一体何が言いてぇんだよ」

苛立ちを含ませてみれば、すまない、と少しも悪びれた様子もなく白河が笑う。

「ぼくもキミと、半分は同意見だ。今回の連続殺人の犯人はサイコパスだろう。己の利益や快楽のためなら他人を陥れることも殺すことも厭わない人間だ。平気で嘘を吐き、騙すということに後ろめたさも何も感じない。サイコパスの特徴はいくつかあるが、中心にあるのは良心、共感性の欠如だ。ハーバード大学の心理学者もそう言っているようだね。例えばそう……ぼくらは美しい音楽を聞くことができるね?」

 言いながら白河は事務所に置いてあるオーデョオデッキを操作し音楽を流す。それなりに立派なスピーカーから流れてきたのは岩垣でも知っているベートーヴェンのピアノソナタ「月光」だった。静かで、暗い夜を思わせる曲調だと岩垣は感じる。

 白河はその音楽に耳を傾けながら、言葉を継いだ。

「そう、こんな曲を聞いていると、ぼくたちは色々なことを思うだろう? きれいな音色だとか、このピアニストには癖があるだとか。けれど聾者の方はこの曲を聴くことができないし感じることもできない。それと同じようにサイコパスも、良心や共感を感じる機構が欠如しているんだ。だから彼等は人をチーズでも切るように平気で傷つける。だが、殺人を犯す者すべてがサイコパスであるというのは間違いだ。サイコパスの中には犯罪のはの字にも掠らないくらい、ぼくたちと同じように生活している者もいる」

「俺たちと同じように……?」

 想像もできなかった。だがその想像を補填するように白河が続ける。

「そう。本当かどうかは分からないけれど、企業のトップに立つような人間もサイコパスが多いと言われているよ。彼等は人を操るのが得意で、一見魅力的な人間に映る場合があるからね。以前にも言ったけれどジョン・ウェイン・ゲイシーがいい例だね。彼は殺人という一点を除けば、完璧なサイコパスの模型と言えただろう。子どもに好かれやすく、夫婦仲も良好。チャーミングな人間だ。善男。キミの周りにもいるんじゃないか? そういう人間が。ぼくの周りにもいるかもしれないし、実際に存在する。だが、サイコパスであると分かったとしても、殺人本能があるかどうか。見抜くことは極めて難しい。残念なことにぼくらは心に関しては盲目だからね。……いや、ぼく以外は盲目なんだな」

そう言った白河の瞳が伏せられ、長い睫毛の影ができる。その愁いを含んだ表情が、月光のメロディーと重なる。けれどすぐに白河は視線を上げると微笑をつくった。

「すまない、話を戻そう。さっきも言った通りサイコパスの殺人鬼は勿論いる。けれどサイコパスでない殺人鬼もいる。冷酷な殺人鬼をすべてサイコパスだとイコールで繋げるのはよろしくない考え方だ。ただ反社会的気質を持った人間による殺人というのもある。後者の場合は不安や恐怖に対するスイッチが、ぼくたちと同じく機能していると言える。けれどサイコパスはそのスイッチが無い、もしくは機能しないと言って良い」

「不安や恐怖が機能しねぇって、そんな人間にいるのかよ」

 信じられないとばかりに岩垣が言えば、白河が苦笑する。

「ああ、少し大げさに言いすぎたね。すまない。厳密に言えば、サイコパスは恐怖感情が減弱しているんだ。脅威刺激に対する反応が弱い。恐怖や不安は人間のストッパーだ。けれどそれが他人よりも酷く脆弱であるサイコパスは、己の脅威にも関心がないんだ。だからこそ、彼等は恐れることなく淡々と人を殺すことができる」 

 ぷつり、と白河の指先がオーディオのスイッチを止めた。静寂が広がっていく。その静寂の湖にぽつりと、雫を落としたのは白河の問いだった。

「どうして人間は人間を殺すのだろうね」

その根源的な問いに思わず白河を見遣れば、白河は困ったように笑って言った。

「いや不毛な問いだというのは重々承知しているさ。ただ、ぼくらは皆、幸せになる権利があるというのに、誰かの幸福は誰かの不幸になる。誰かの不幸は誰かの幸福になる。その幸福が歪な形であったとしても、ぼくは、いや、人間社会に生かされているぼくたちは否定しなければならない。言い方は悪いが、異分子は処分しなければならない。それこそ身体に異物が入ったら排除しようとする生理的機構のように。社会というのはひとつの巨大な人間なんだとぼくは思う。でもその中で、人を殺す人は絶えない。絶えないのは、人がどうしようもなく人だからなんだ。そういった人を全面的に否定していいのだろうか? それは人という存在否定にならないだろうか?」

 そこまで言うとふうと白河は吐き出した。

「勿論ぼくは悪人が嫌いだ。だがその悪はぼくの中にもある。この悪自体は否定できない。いつもぼくは思うんだ。善男。彼のことを覚えているだろう?」

「……ああ」

 善男は重々しく頷く。彼、というのはもうこの世にいない青年のことだ。この白河探偵事務所にいた青年だ。利発で、愛想が良くて、誰からも好かれて本当に素晴らしい人間だった。ただ一点――殺人鬼だったということを除いて。

 青年が逮捕されたのは誰のせいでもない。自業自得だ。

 ただ青年を死に近しい状態に追いやったのは白河だった。

「彼は典型的なサイコパスだったのか、それとも善人でありながら殺人鬼だったのか……彼の心を視たぼくにも、今でもよく分からないんだ。笑ってしまうだろう? 後悔しているんだよ、ぼくは。ぼくが彼を殺したようなものだからね。だからそういう意味ではぼくも彼と近しく、人殺しといっていいだろう。それならいつ、ぼくにその断罪は来る? ぼくはこの人間社会の中の壊疽に違いないのに」

そう告げた白河は、過去の亡霊に取り憑かれていた。青年の名前を出さないのが、その何よりの証拠だった。まだあれから二年しか経っていないのだから、仕方ないのかもしれない。けれど、と岩垣は溜め息と共に白河へと言葉を放った。

「お前がまた面倒くさいことを考えているのは分かった。だがてめぇの理屈で、てめぇが殺人犯だというのなら、俺は殺人幇助罪で問われるだろうな。だから俺の立場で言わせてもらえば、そんな女々しいことを言う事自体が許されねぇ。断罪だのなんだの言っているが、俺は遺族の為の正義を貫いていると思ってやっていることだ。後ろめたさなんて感じていた方が卑怯だと俺は思うね」

 岩垣には小難しいことはよく分からない。ただ己の信念を貫くことが一番だと考えている。だから正しさだとか、そういう尺度ではなく、自分の尺度でこれまで行動してきた。どんな冷酷な殺人鬼に人権はある、と。そう叫ぶ人間たちもいる。その存在や主張を壊すことはできない。ただ、岩垣はそれとは反対の立ち位置にいる。それだけだ。

 白河は、岩垣のそんな言葉にやれやれと溜め息を吐き出した。

「善男。確かにキミの言う通りだ。悔しいが、今のぼくの話は自己保身に過ぎなかったね。我ながら情けない。よりによってキミにそんなことを指摘されてしまうとは」

組んだ手の上に顎をのせ、にやりと白河は笑う。その琥珀色の瞳をきらきら輝かせてこちらを視るものだから、つい視線を逸らして岩垣は頭を掻いた。

「あー、希。それより俺を今日呼び出した理由は何だよ? さっきのくだらねぇ話を聞かせる為だったらぶっ飛ばすからな」

凄みをきかせて言ったつもりだったが、白河には矢張り全く通用しなかったらしい。白河は立ち上がると、まさか、と笑って答えた。

「善男。悪いがキミには今日、ここで泊まっていってもらう」

「はあ? 何でだよ」

「警備してもらいたい」

 その予想外の申し出に、岩垣は訝しげに顔を歪めた。訳が分からない。いつものことだが、どうしてこの男はこんなにも突拍子がないのだろう。

「あ? 警備? 何からだよ」

 問えば白河は淀みなく答えた。

「勿論今、巷を騒がせている殺人鬼からだよ」

 思わず岩垣は白河を見た。

 白河希という男が、うっそりと微笑んだ。

 誰もが魅了されるような、うつくしい顔で。

「次のターゲットはおそらくだが、そろそろぼくだろうから」

 そう言うと白河は三階の居住スペースへと向かって、微笑を残して消えていった。

 岩垣はその時、ほんの一瞬だけ、背筋から這い寄るような恐怖を覚えた。

 だって、白河は笑ってみせたのだ。殺されるかもしれない、というのに。

 少しの恐怖心もなく、平然と恐ろしいことを常に言ってのける。長年付き合ったこの幼馴染みこそが、サイコパスなんじゃないか――などと思ってしまうくらいに困惑した。

 もしも、と岩垣が考える。

 もしもこれまで見てきた「白河希」が、全てが嘘だったら?

 殺人も厭わぬ、善悪に盲目な、うつくしい化け物だったら?

 もし、万が一。

 白河希という人間が殺人鬼だとしたら――それは間違いなく、殺人界のカリスマになり得る存在となるだろう。



* * *



 人が生きるに於いて一番重要なことはなんだろう。

 人はそれについて思いを馳せ、時に悩み、時に答えを出し、進むだろう。

 自分の場合はそれが、殺人だった。

 人を殺すこと。

 それに対してこんなにも「生きている」と感じ幸福を覚える自分を、どうして人は「悪」だというのだろうか。守るべきルールを遵守することが、確かに人間社会で生きる掟なのかもしれない。けれど人間は、「世界」に生かされているじゃなないか。

 家畜の肉を食べ、獣は駆除し、自分たちの幸福を守ろうとする。それを善しとする。

 だからこそ、分からない。

 牛や豚を屠殺することと、人を殺すことの何が違うのか?

 前者は食べるため。後者は愉しむため。という違いはあるかもしれない。けれどそのどちらも「幸福」に繋がるものだ。

 行き着く場所は同じなのに、社会は自分の「幸福」を否定する。

 何故だろう。何故だろう。何故だろう。

 ……考えても仕方ない。男と女の違いがあるように、自分と他者は違うのだ。

 それに今、自分の心は幸福に弾んでいる。これが一番重要なことなのだ。

 そしてこの生の意味をもたせるほどのものを、自分は見つけることができた。

 鮮やかな出会い。世界の色を変えるほどのこの出会いを、きっと運命と呼ぶのだろう。

 あともう少し。

 あともう少し。

 あともう少しだ。

 うつくしいひとよ。




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