第12話 「煙草はもう、いらないね」
国立科学博物館。
そこは東京都上野に位置する、子供たちにとっても大人にとっても、新しい別の世界に触れ、知識を得ることのできる学びの場。
「お母さん、これなーに?」
一人の幼い少年が、自分の前に展示されている標本を指差した。息子に呼ばれ歩み寄った母親は、展示の下に貼り付けられた説明文を読み、小さい子供でも理解できるような言葉で伝える。
また別の場所では、若いカップルが展示を見て回っている。更に別の場所では、学生らしき青年が一人でじっくりと展示を観察しながら歩いていた。学生服を着た若い男女の団体客も訪れている。
最近はそこまで賑わいを見せることのない国立科学博物館だが、その日は別だった。
小学生から老人まで、沢山の人が新しく展示されることになった展示物を見に、足を運んだ。
日本館、二階北翼。
そこに、日本のみならず、世界のどこへ行っても、もう姿を見ることはできない『喫煙者』の標本が展示されていた。
『人類最後の喫煙者』と大々的に書かれたパネルの下には、ホルマリン漬けにされた人間が入った大きなガラス製の容器が三つ置かれていた。
一番左の一番小さい容器に入っていたものは、辛うじて人間だと分かる形をしている肉塊で、それが未熟児であることは一目瞭然だった。名前は記されておらず、ただ『喫煙者の子供』とだけ記されている。
その未熟児の右横には、成人した女性が一糸纏わずにホルマリン漬けにされていた。パネルには『美村香』とある。
さらにその右横には、成人男性の『小峰ヨシヲ』がホルマリン漬けされている。
彼らのすぐ近くに浮くガラス板には、喫煙者とは何か、また小峰と美村の半生を描いた十分ほどの映像が流れていた。
また、世界中の残された喫煙者たちがどのような死を遂げたのか、という内容まで触れていた。
インドのとある喫煙者は、動物園から渡される煙草のニコチンを過剰に摂取したことにより死去。
また中国・上海の動物園にいた喫煙者は、夜中に動物園を抜け出し、そのまま道路で車に轢かれて亡くなった。
アメリカのサンディエゴ動物園にいた喫煙者は、人間に毎日ように見られることに耐えられず、自決。
妊娠していた美村は、結局禁煙することができず、隠れて煙草を吸い続けていたが、喫煙していた影響により流産してしまい、良心の呵責にかられ、首を吊った。
また肺の病気によって亡くなった者も数人いた。
そして最後に残った喫煙者が、小峰だったのだ。だが手術を前にする小峰に、余計なストレスを与えてはいけないと思い、誰もその事実を伝えようとはしなかった。
その小峰も、手術後の病室で、遠くの物を取ろうとしてベットからずり落ち、首の骨を折り、そのまま死んでしまった。こうして、小峰は『人類最後の喫煙者』として世界中に知れ渡り、ホルマリン漬けにされて博物館に展示されるまでに至ったのである。
薬品漬けにされ、大きなガラス容器の中を佇む小峰の姿を、彼の教え子たちは見つめていた。皮肉にも、小峰が博物館で初公開される日は、彼がちょうど母の胎から生まれ落ちた日なのだった。
「遠くの手紙を取ろうとして、首を折って死ぬとか、ダサすぎね?」
軽く十人以上はいる教え子の一人が、誰に言うでもなく、呟いた。全員、肯定するように頭を上下に振った。
「でも先生らしい死に方だね」
別の教え子がそう言うと、また全員、同じように頷く。
「先生のおじいちゃんも似たような死に方してた気がする」
「まじか、死に方まで遺伝するのか!」
「んな訳あるか、アホが」
彼ら彼女らは、軽口を叩きながら、ワイワイと騒ぎ立て、近くにいた職員に注意される。一同は萎縮するが、職員が去った瞬間に、また騒ぎ立て始めたのだった。
そんな平和で賑わいのある風景を、小峰が職を辞する原因となった少女───と言っても、既に成人しているわけだが───は小さく微笑んで見つめ、心を撫で下ろした。そして囁く。
「私がそうであって欲しいと願っているせいかもしれないけど、先生、少しだけ笑った気がする」
そこは、場所こそ違えど、小峰が昔教えていた賑やかで楽しげな授業風景と変わらなかった。
「バイバイ、先生。また会いに来るよ───」
彼の肺が、紫煙で満たされることは、もうない。
人類最後の喫煙者 井澤文明 @neko_ramen
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