第11話 舞う手紙
「美村のこと、非常に申し訳ないと思っている。すまなかった」
いつもの警察官が、病室で治療を待つ小峰に頭を下げた。だが小峰は美村のことは大して気にしておらず、むしろ心の底では少しばかり喜んでいた。
教師時代、小峰は上司の美村からよく叱られていた。だから、彼は美村を嫌っていたし、美村も美村で、真面目に授業をしない小峰に苛立っていた。
だが、人の死を喜んでいる姿を見せる訳にもいかず、小峰はさも悲しそうに顔を歪め、目の前で深く頭を下げ続ける警官を宥めた。
それでも結局、警官は小峰が手術室へと連れて行かれる時まで、ずっと頭を下げていた。
*
治療のため、手術室と掲げられた部屋に案内された小峰は、そこでコクーンに似た形をした機械を目にした。その機械が今回、小峰の肺癌を治すために使用する最新医療器具だと医師は語る。
なんでも、喫煙者の治療のために特化した機械らしい。まだ発明されたばかりのため、世界でもまだ三台しか存在しない。そんな珍しい機械を世界で初めて使うのが、小峰だという。
その世界最新鋭の医療器具の仕組みだとか、どういう風に治療するのかの説明を受けていなかった小峰は、緊張のせいで高鳴る自分の心臓を落ち着かせようと諌めた。
「では、小峰さん。どうぞ」
機械の隣に立ち、コクーンのハッチをあげた医師は、小峰に手を伸ばした。医師の指示通りにコクーンの中に入れられた小峰は、ただただ手術が無事に終わることを願った。
コクーン内は白い煙で満たされていく。その煙は睡眠作用を持つようで、煙を吸った小峰はものの数分で眠りについてしまった。
そして小峰が次に目を覚ました時には、すでに手術は終わり、病室のベットの上で横たわっていた。
「ご気分いかがですか、小峰さん」
目覚めた小峰に、医師は笑みを浮かべながら問いかける。
小峰はコクリと小さく頷くと、重い上半身だけをなんとか起こし、医師の言葉を待った。だが医師の表情を見るに、手術が上手くいったことは小峰も気づいていた。
「いつも以上に元気ですよ。チョー元気」
小峰の返事に医師は満足したのか、彼の口角は耳まで裂けるのではないかと思えるほどあげ、目を糸のように細めた。
喫煙者を治したということで、きっと彼は輝かしい業績を飾ることになるのだろう。小峰はぼんやりと考える。
医師が病室から出ると、入れ替わるようにして看護師が現れた。看護師は台車に夕食を乗せていて、運んできた夕食をベットの簡易テーブルに載せると、すぐに出て行ってしまった。
小峰が渡された夕食に手を付けようとした時、今度は別の看護師が病室に入ってきた。両手に大量の手紙を抱えていた。
「今時、手紙だなんて珍しいですよね」
小さくクツクツと笑いながら、看護師は抱えていた手紙をベットの横にあるタンスの上に置いた。
「全部、小峰さん宛てのお手紙ですよ。愛されてますね〜」
小峰は手渡された手紙の送り主を確認すると、全員元教え子たちや仲の良かった同僚たちからの便りだった。中には小峰が職を失う原因となった女学生・蛇間紅子の手紙も含まれていた。
小峰を助けてあげれなかったことを悔いるもの、彼に感謝するもの、また彼が禁煙しなかったことをせめるものなど、様々な生徒がいた。だが生徒たちが全員、小峰の身を案じていたことだけは共通している。
久しぶりに触れた温かい人の心に、小峰はほろりと涙を零した。気を利かせたのか、手紙を届けた看護師はすでに退室していた。
小峰はしばらくの間、静かに手紙を読み続けた。今まで交流を持っていた人たちの筆跡や書く内容から、彼らが昔と多く変わらぬまま元気に過ごしていることを知り、安堵の涙を流した。心には、じんわりと温かいものが広がった。
彼はこの時初めて、「上野動物園で『喫煙者』として展示されて良かった」と心から思ったのだった。
「小峰さん、お加減いかがですか?」
物音を立てずに病室へ入ったのは、彼の治療を担当した医師だった。顔には相変わらず、微笑みを浮かべている。
医師は小峰のベットまで近付くと、静かに語り始めた。
「今回使用した機械は、いかせん世界で初めて使うものですから、結果がどうなるのか分からなかったんです。あの機械は特別なガスで肺を満たし、癌細胞を殺すものなのです。ですが、こんな治療方法は世界のどこでもまだ行われておらず、またそれを元々体調が不安定な喫煙者にやるというのですから、小峰さんに
「でも、あなたはこうして無事に手術を終えた。これほど喜ばしいことはありませんよ。あなたのことは、すごいニュースになってますよ」
そして医師は、ベラベラと小峰がいかに素晴らしい奇跡的な目に遭っているのか、という話を語り続けた。手紙を読み、思い出に浸っていたかった小峰は、初めこそは真面目に医師の話を聞いていたが、だんだんと面倒臭くなり、適当に相槌を打ちながら、話が早く終わる方向へと進めた。
「では、また明日来ますね。夕食、楽しんでください」
話し終え、満足した様子の医師は、変わらぬ笑みを浮かべながら病室を出て行った。医師が完全に去ったことを確認すると、小峰はまた手紙を読み始めた。小峰がやっと手紙から目を離したのは、日が暮れ始め、彼が空腹を覚え始めた時だった。小さく腹の虫が狭い病室の中で木霊する。
小峰は目の前の簡易テーブルに置かれた夕食を見る。
冷えた白米、アジの塩焼き、サラダ、漬物、そしてお味噌汁というラインナップだった。いかにもな日本食だったが、病院で出される食事なのだから、塩分控えめなのは目に見えていた。
小峰は一つ、大きく溜息を吐く。
空腹だったが、食欲はなかった。だが何か口にせねば、いらぬ心配をされる。小峰は無理やり、夕食を口に流し込む。
病室の電灯が空よりも明るくなった頃には、小峰も空の食器を見つめながら両手を合わせていた。
───さて、続きを読むか。
歳のせいで扱いにくくなった体を動かし、小峰は手紙が山のように積まれたタンスに手を伸ばした。だが小峰の伸ばされた右手はタンスを掠め、肥えた体は磨かれたフローリングへと落ちて行った。そして体は、力強く打ち付けられる。
小峰が最後に見たのは、自分の上を桜の花びらのように舞う、何通もの手紙だった。
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