第10話 喫煙者の性
小峰が医師に癌の治療法を説明されたのは、結局サインを書いてから三日後のことだった。
何やらトラブルがあったようで、その対応をするのに人々は忙しく、小峰の治療のことをすっかり忘れていたらしい。
「小峰さん。以上でよろしいでしょうか」
小峰の前に座る、初老の男性医師が問いかける。癌の治療を放射線を用いたものでも良いか、という問いだった。
小峰は当然、頷くしかなかった。医学の知識を持っていない自分が、治療法についてとやかく文句を垂れる資格はないのだ。
「では早速、来月の四日から治療を始めますね」
三箇日が終わってすぐに、ということか。小峰は脳内のカレンダーに予定を書き込む。
「そーいえば、昨日は何やら騒がしかったですけど、何かあったんですか?」
さりげなく、小峰は医師に問いかける。だが医師は書類に何かを書き込むだけで、彼の問いには答える素振りを見せなかった。つまり、触れてはいけない話題で、小峰が知るべき内容ではない、ということだ。
小峰はそのまま、黙りこくった。そして医師の次の言葉をただ待ち続ける。
診察室に入室した時は十五時を指していた時計の針は、すでに十七時だと小峰に知らせた。
医師のペンを動かす音と時計の音だけが、部屋の中で小さく反響する。
暇になった小峰は、思考の海に飛び込んだ。
───昨日は一体、何が起きたのだろう?
小峰の癌の再検査と医師から治療について話し合う予定だったのが、全員それを忘れ、慌てふためいていた。
小峰は推理する。
もしかしたら、園内の動物の身に何かがあったのかもしれない。何年か前に、水族館でマグロが大量死したように、動物が沢山死んでしまい、その処理に追われているのかもしれない。
もしかしたら、パンダが妊娠したのかもしれない。いや、今はまだ十二月末だから、パンダは子を成せない。では一体──────
小峰はズブズブと深く深く、思考の海の底に沈んでいった。
「小峰さん」
だが、書類への書き込みを終えた医師に声を掛けられ、すぐに現実に戻る。
小峰はパッと顔をあげると、すぐに「はい」とだけ、返事をした。そして目の前に座る初老の医師の嫌に神妙な顔を見て、違和感を覚えた。
「お伝えしなければならないことが一つあります」
束ねられた書類を机で揃え、医師は小峰へと体を向けた。
医師の皺だらけの顔は更に皺が濃くなり、灰色の長い眉毛は八の字に曲がっていた。老眼鏡の向こう側にある衰えた両目は、キョロキョロと小刻みに揺れ、小峰と目を合わせることを故意に避けていた。
そして老医師は、固く結ばれた唇から、ゆっくりと慎重に重々しく言葉を吐く。囁く。
「もう一人の喫煙者───美村香さん。彼女が昨日、亡くなられました。自殺です」
医師の言葉を理解するのに、小峰はしばらくの時間を要した。そして意味を理解すると、床が崩れ落ちるような感覚に襲われた。しばらく、そっとしておいて欲しいとさえ思った。
だが、医師は尚も言葉を続ける。
「誰かが、禁煙中の彼女に煙草を渡し、喫煙させていたようで、その影響で彼女は流産してしまいました。そして自分の行いを悔いた美村さんは、自殺したそうです」
───そう、遺書に記されていました。
老医師はそれだけ言うと、ゆっくりと椅子から立ち上がり、小峰だけを残して部屋を出た。
残された小峰は、ただ呆然と座り尽くしていた。
───ああ、やっぱり、死ぬまで勝手で自己中心的な女だ。
小峰はぼんやりと、頭の中で美村に対して苦言を言う。当然、彼女が怒りながら言葉を返すことはない。
「うーん、どーでもいいや」
小峰はポツリと呟き、煙草を吸いたい衝動に駆られた。
小峰も美村も、結局死ぬまで喫煙をやめることなど、できないのだろう。
悲しい喫煙者の性が、彼らを掴んで、離さない。
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