名もなき騎士の詩
葉城野新八
名もなき騎士の詩
今朝も通勤電車は混んでいる。
最近は相互乗り入れというのが進み、都内へ入る電車はひどく混むようになった。
地獄――
まさにこの形容がピッタリだ。
近年は環境配慮、省エネの大義名分でエアコンも弱い。
単なる経費削減だろうと薄々誰もが気付いているのに、騒ぐ人は少ない。
我慢と思いやりを美徳とする日本人は健在だ。
のんびりとした学生生活を卒業した途端、朝のラッシュアワーは誰もが浴びる洗礼である。
四月の初めは、明らかに慣れていないグループがいるものだが、次第に皆が染まって行く。受け入れて行く。
俺は社会人八年目だが、いまだに慣れない。
ここ数年はスマホを見るためのスペースを確保しようとして、あえて詰めない奴が目立つ。
俺はその姿を見ると殺意さえ覚える。
周りを見ろ。ドア側の人が乗れなくて困っているじゃないか。
見知らぬ者同士で身体を密着することは、確かにとても苦痛だ。
誰かの背汗。
つけすぎた香水の臭い。
加齢臭。
はたまたうっかり出てしまったオナラ――
電車に乗ると、不思議となぜかお腹が痛くなるものだ。
しかし、遅刻をするわけにもいかないから途中下車もままならず、震えながら耐える。
これは誰もが経験している筈だ。
懸命に門を閉じてみたり、大臀筋に力を入れたりしてトライ&エラーを重ねる。
駅についてトイレに入ると大行列――という所までが鉄板だ。
そのためだろう。
朝の電車は互いのオナラに寛容だ。
「臭くない?」とか「誰だ? 屁をこいたのは!?」なんて犯人探しをしない。
でも臭いはしばらく漂っている。
我慢と思いやりを美徳とする日本人、お互いさまの精神はここでも健在だ。
片道三十五分――我慢、ひたすら我慢である。
ところで、朝の電車とはたくさんの人が循環しているようで、名を知らない顔見知りが多くいたりする。
いわゆるご常連さんだ。
これはきっと、おおよその人が同じ時刻、同じ車両、同じドアから乗るために起こることなのだろう。
四両目、一番ドア。
俺はいつもここから乗り、あまり奥には行かないのが常だ。
通勤電車という場はとても興味深い。
まるで動物番組の定点カメラで観察をしているような気分にもなれる。
毎朝、シルバーシートで爆睡をしている女性。
今どき新聞を四つ折りにして読む、髪が薄い年配の人。
背中を少し押されただけで、舌打ちをして睨む人。
朝からエロゲーをしている会社員。
必死でお水の女の子に絵文字をつかってメールを送っているオッサン。
ここはストレスが充満した地獄だ。
ゆえにプライベート空間のように過ごしたい願望や、現実逃避をしたくなる気持ちは共感できるが、残念ながら自分の家ではない。
公共の場だ。
人とは、見ていないようで互いをよく見ているものだ。
そして今日も、途中の急行停車駅から彼女が乗ってきた。
彼女はいつも目線を上げずに車両へ入って来る。
今朝はしっかりと化粧をしていた。
どうやら気分もよさそうだ。
先週まではよっぽど疲れた様子だった。立ったままウトウトとして、ドアのガラスにゴツンと頭をぶつけたりなんかしていた。
おそらくやっと仕事の山場を越えたのだろう。
心のなかで「おつかれさま」と俺はつぶやく。
彼女はセンスのよいビジネスカジュアルに身を包み、いかにも仕事をしてますという雰囲気を漂わせる。
職場では頼りにされていることだろう。
年の頃は二十五歳前後、社会人三~四年目といったところか。
身長は百五十五センチぐらいで小柄。
高いヒールは好まない。
少しポッチャリしていて丸顔。リスとか小動物を連想させる。
明るい色の髪の毛は肩にかかるくらいだが、いつも束ねている。きっと周りへの心配りができる子なのだろう。
だいたい服は、二週間で一ローテの計算になっている。やりくり上手だ。
少し詳細すぎて気持ち悪いと思われるかも知れないが、俺の朝の楽しみはコレだ。
電車という逃げ場の無い空間で彼女をプチストーキング? ラッキースケベ狙いだと……?
いやいや、人聞きの悪いことを言わないでくれ。
違う違う。
ドア側最前列に乗る彼女が、人圧で押しつぶされないように守ること――
それが俺の楽しみ、というよりも朝の役割なのだ。
満員電車が傾いた時の重圧はすさまじいもので、時として肋骨にヒビが入る人だっている。
いつからか彼女と同じ場所で毎朝乗り合わせるようになった。
そして気が付くと俺は、小動物のように可愛らしい彼女を、地獄から守る使命感を覚えるようになっていた。
彼女はいつも小さな手を窓に置いて、外の景色を眺めている。
このうんざりする景色を見つめて、彼女は何を思うのだろう?
キメの細かい健康的な髪の毛が、明るい日の光を浴びていた。
電車が加速し、高架橋の下に入った瞬間だった。
彼女の顔が窓に映った。
しかも、目が合った。
つぶらな瞳が真っ直ぐこちらを見つめているではないか。
俺はすごくドキッとした。
こんなことは初めて。たぶんたまたまだろうと思った。
電車が高架橋二本目をくぐる。
また彼女と目が合った。
俺ははっきりと悟った。
これは偶然なんかではない。
彼女は俺の存在に気がついてくれている。見てくれているんだ――と。
途端に胸がドキドキとしてきた。
息も上がりそうになったが必死でこらえる。
やがて、電車が左右に揺れるゾーンへ差し掛かってきた。
おお、今日は手強い。
きっと周りによりかかり、自分で立たない無責任な奴が多い日なのだろう。
俺はドアの上へ両手を掛け、突っ張り棒のような体勢をつくる。
慣れたものである。
体勢を斜めにすることで負荷を分散しているのだ。
ぜひ明日にでも試してみてほしい。
電車がゆっくりと傾き、揺れる。
人の体が拷問のように押しつぶされ、つり革の軋む音が聞こえた。
どこかでオッサンが「ウーン……」と唸り声を漏らす。
俺は両腕をプルプルとさせながら、背中にかかった重圧に耐えた。
そこでハッと気付いた。
さっき彼女がガラス越しに見せた目は、「今日も私を守ってね」と言っていたのだと。
そして、「いつもありがとう。本当は気付いているんだからね」という意味だったのだということを。
彼女はガラスの上に小さな手を広げて、ドアにもたれかかり、特に苦しそうな様子もなく外の景色を見ていた。
彼女と俺の間にはちゃんと十センチほどのスペースを確保している。
俺は紳士、いや彼女を守る騎士だから自分の掟に反するようなことはしない。
しかし――
今朝にかぎっては今年五本の指に入るであろう厳しい日だった。
俺はとうとう群集の力押しに耐え切れなくなり、腕が曲がってしまった。
彼女のぽよんとした感触。
鼻を覆う髪の毛の甘い匂い。
白目を剥いて気絶しそうだった。
それでも――それでも、と俺は気を取り直す。
歯をギリギリと食いしばる。
ドアに両肘を立てて、彼女を守るために押し返した。
依然として、彼女とは密着をしたままだ。
だめだ、いけない。
戦場において騎士は余計なことを考えてはならない。
だけど――いい。
彼女の様子が気になったので、目だけを下げて確かめた。
顔が真っ赤だった。耳たぶもピンク色になっている。
ちゃんと守っているから、押しつぶされて苦しいというわけではないだろう。
ということは――?
もしかすると、俺と体を密着をしているから恥ずかしがっているのかも知れない。
確かにさっき、俺の股間が彼女の腰あたりに触れてしまった。
それは否定しない。
だがアクシデントだ。
それに安心してくれ。
槍はきちんと格納されていた。
彼女はうつむいたまま、ずっと顔を真っ赤にさせている。
いつになく不思議な時間を漂っていたが、二分遅れで目的の駅へ着いた。
彼女と俺の降車駅は同じだ。
風船から空気が抜けるような音がして、ドアが開いた。
人がどんどん降りていく。
彼女はいつもの方向に一旦歩いていったが、ピタリと足を止め、回れ右をしてまっすぐもどって来た。
え?
どういうこと?
まさか、まさか……くる、くるのか?
「あの――」
予想通りだった。
彼女は恥ずかしげに横へ目をそらして、俺に話しかけてきた。
「今日、あいてるんです……」
「え!?」
何と大胆な子なのだろうと思った。
いや、違う。
ずっと秘めた思いをためこんでいて、やっと口に出てきた言葉がそれだったんだろう。
可愛らしい。とても可愛らしかった。
少なからず俺は、年上の男としての余裕を見せて受け止めなくてはいけないと思いつつ、騎士道に則って紳士に言葉を返した。
「いえ、大丈夫です。僕はいつでも空いてますから。もしよろしければ、ご連絡先を――」
彼女がブンブンと首を横に振った。
「違うんです!」
「はい……?」
「股間! 今日は開いてるんですッ……」
「え……?」
言われて見下ろすと、確かに開いていた。
全開だった。
思い起こせば、今朝は家を出てからずっとこの状態だったのだろう。
さらに今日は、パッションピンクのボクサーパンツをはいてきたから、余計に目だって見えていたに違いない。
俺はあわててカバンで隠し、前を見た。
彼女はもうそこにいなくなっていて、向こう側のエスカレーターに流れて行くのが小さく見えた。
ゆっくりと手を入れて、チー……とファスナーを持ち上げた。
人が忙しなく行き交う雑踏のなか、聞こえるはずもないのに、ファスナーのひと山ひと山がとても高く思え、音が虚しく響いた。
その日はずっと地獄だった。
仕事中にも身が入らず、いくつかケアレスミスをしてしまう始末。
恋が終わった――いや、恋をしたわけではないから、失恋というわけでもないのだが、名もなき騎士としての活躍の場を失ってしまったことが、俺としてはとてもショックだった。
人はこれを喪失感と呼ぶのだろう……。
その日はめずらしく、居酒屋で昭和歌謡を聞きながら一人酒をして帰宅した。
※
翌日から、俺は一本早い電車へ乗るようにした。
もちろん俺が守るべき、小動物のようなお姫様はもういない。
きっと彼女ならば、騎士として仕える志願者がまたどこからともなく現れることだろう。
彼女がいるはずの定位置には、オッサンが乗ってきた。
密着したくないがゆえ、俺は必死で耐えたが、結果的にオッサンを守ってやったことになる。
オッサンがチラチラと俺の顔を見ていた。
もしかすると惚れられてしまったかも知れない。
こんな達成感はいらない。
それから二週間が過ぎた。
彼女がいない満員電車は、やっぱりただの地獄だった。
あの可愛らしい後ろ姿を見る楽しみも、使命を達成する喜びもない。
俺はボンヤリと、車窓に流れる街の景色を眺めていた。
急行の停車駅に来た。
ホームでは人が溢れている。
どうやら今朝は上手い運転手に当たったようだ。
電車が滑らかに止まる。
こちら側のドアが開くので、俺は乗せていた手を引いた。
すると――
ガラスの向こう、ホームに彼女がいた。
夢でなければ、幻でもない。
正面からまっすぐ俺の顔を見て、微笑み、立っていた。
【名もなき騎士の詩――了】
名もなき騎士の詩 葉城野新八 @sangaimatsuyoshinao
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