第7話

「うぎー! ほんとになんなんだ、あいつはー!」


 ミジョアの叫びが夜の池にこだました。 

 花屋敷の庭は広い。丘全体が庭みたいなもので池もあれば林もある。ミジョアは足元の小石を拾い上げると力一杯放り投げた。


 いったい何個の石を池に沈めたことだろう。夜気はまだまだ冷たいが池の畔を離れる気にはなれなかった。あの屋敷にいると息ができない。どの部屋にいても石鹸の香りが漂ってくる気がして、居ても立ってもいられなくなる。


「くそう、何で俺が追い出されなきゃいけないんだ。出て行くべきはあの女の方なのに」


 エルキッサのことを思うと無限に怒りが湧いてくる。

 次の石を求めて腰を折った。しかし、暗くて見つからない。ミジョアは花屋敷から持ち出した目の光る猫人形を傍に寄せてようやく一つ手頃な石を掴み上げると、


「エルキッサのあほー!」


 渾身の力を込めて投げ放した。

 高々と夜空を上る小石はしかし、水面に波紋を描くことはなかった。水面の方から盛り上がって小石を飲み込んだからだ。


「は? え? なんだ、これは………」


 突如として立ち上った水柱はうねって捻じれて飛沫を飛ばし、咆哮と共に竜の形を作り上げた。大木よりも太い胴、長剣ほどもある鋭い牙、氷のような冷たい眼。


「シーサーペントだと! 何でこんなところに!」


 あり得ない。シーサーペントが生息できるのは、己の体の数十倍の容積を持つ巨大な湖に限られるはずだ。こんなちっぽけな池に現れるはずがない。

 しかし、何と言ってみたところで水の竜は目の前にいる。今まさに獲物を飲み込まんとして大きく口を開けている。


「ま、待て。食うな」


 そして、ミジョアは杖を携えていなかった。


「…………塩を売らんぞ」 


 もしかして、この言葉が遺言になるのだろうか。ミジョアがそう覚悟した瞬間、


「その声は……もしかして」


 木立から聞き覚えのある声が聞こえて来た。茂みをざわつかせながら姿を現すのは、これまた見覚えのある寝間着姿の黒髪の少女。


「エルキッサ!? なぜここに!」

「よかった………君だったのか」

「いいわけあるか!」


 あの竜が見えていないのか。ミジョアは咄嗟に足元の枝を拾い上げた。杖の代わりにもならない枯れ枝だが、ないよりはましだろう。めちゃくちゃに振り回してとにかく魔物の注意を引く。


「今だ、エルキッサ!」

「ああ、怖かった。てっきり賊でも入ってきたのかと………よかったぁ」


 しかし、意図が伝わらなかったようでエルキッサは棒立ちのまま動かない。


「あほか! 何をしてるんだ、早く逃げろ! あの竜が見えないのか!」

「ああ………これは大丈夫……ゴーレムだから」


 そう言うと、エルキッサは憎々しいほど穏やかな動作で宙に浮かぶピンキーリングを捕まえて左の小指に収めた。途端に水の竜が動きを止める。音もなく宙で回転するリング。その独特の魔法様式にミジョアは見覚えがあった。『刈り合い』、一か月前のあの時だ。 


「ゴーレムって、水の? まさか、お前が作ったのか……?」

「たまたま窓から外を見ていたら……池の方に光が見えたから……泥棒でも入り込んだのかと思って……それで………」


 即興で作り上げたというのか、このゴーレムを。ありえない、こんなもの教師だって入念に魔法陣を描いてから四人がかりで作り上げる代物だぞ。

 やはり、この女は化け物だ。ズドドドと水に帰って行く水竜を見つめながらミジョアは改めてそう思った。


「あの………怪我は、ない?」

「怪我? あ、あるわけないだろ、バカにするな」


 握った枯れ枝が無性に恥ずかしくて、ミジョアは乱暴に地面に叩きつけた。顔を見られたくない一心で、そのままエルキッサを置いて歩き出す。


「あ、待って、ミジョア……」

「うるさい!」


 もううんざりだ。この女に関わるとろくなことがない。どうせ振り返ったところでエルキッサは何も喋らない。また無言で俯いて「なんでもない」だ。

 何度同じことを繰り返す気なんだ。胸中で毒づきながらザクザクと歩を進めるミジョア。しかし、


「ごめんなさい……」


 背中からかけられた言葉は、それまでとは違っていた。

 振り返ると、長い黒髪が氷柱のように真っ直ぐに地面を指している。エルキッサが深々と頭を下げていた。


「……なんの真似だ、それは」

「ずっと謝りたくて……ごめん……なさい」

「今さら何を言ってるんだ!」


 恥ずかしさにすり替わっていた怒りが、瞬時にして再燃した。

 もう限界だった。


 本当にもうたくさんだ。この女の考えていることがさっぱりわからない。


 謝るくらいなら荷物を纏めて出て行ってくれ。図々しく二階に居座ったまま謝りたいじゃないだろう。風呂上がりの色香を振りまきながら謝りたいじゃないだろう。こんな状況ですら視線が吸い込まれずにはいられない谷間を顕にして謝りたいじゃないだろう。


 ミジョアは許せなかった。この女の存在が。そしてそれ以上にこの女に容易く惑わされる自分自身が。


「怒ってる……の? 当然だな。わたしもずっと謝らなきゃと思っていたんだが……」

「うるさい、黙れ!」

「勇気が出なくて。こんなに遅くなってしまって……」

「黙れ黙れ黙れ!」

「一か月も経ってしまったけれど………ごめんなさい」 

「黙れと言っているのが………ん? 一か月?」


 ちょっと怒りが弱まった。今何か、変な言葉を聞いた気がした。


「正確には四週間とちょっと………ずっと謝りたくて謝りたくて……でもチャンスがなくて……」

「ちょ、待て待て。お前いったいなんの話をしてるんだ?」 

「いや、だから、その………刈り合いの時、握手できなくてごめんなさい」

「そっちかい!」 


 本当になんの話をしてるんだ、こいつは。やっぱり、だめだ。この女の考えていることがさっぱりわからない。


「だって、だって、あれはとっても失礼なことなんだってルームメイトに叱られたから」

「いや、そうかもしれんが。とっくに忘れていたわ。なんだお前、そんなことを一か月も気にしてたのか」

「あ、ああ。わたし、その……怖いんだ、人に触るのが。だから男の人と握手とか……無理で。やらなきゃって思ってたんだけど、いっぱい練習もしたんだけど………どうしても無理で。ほんというとこうして人と話をするだけでも、精一杯で……」


 夜の森でもそうとわかるほど、エルキッサの顔が赤く染まっていく。俯いて噛みしめた唇がぶるぶると震えていた。


 この顔は知っている。今日一日で何度も見た顔だ。何度も心を揺さぶられた顔だ。何のことはない、ただの人見知りだったなんて。やっぱりヤマダの言うことはあてにならない。


「ああ、やだ。手汗が凄い……恥ずかしい……」

「手より見える部分を気にしろ。顔も首も汗だくじゃないか」

「見ないで……ううう、恥ずかしい、死にたい……」

「お前、そんな調子でよく寄宿舎でやっていけたな」

「寄宿舎……寄宿舎…………ああああああ」

「おい、どうした?」


 いったいなんのトラウマに触れてしまったのだろうか。髪の毛をロープのように握り締め、己の首を絞め上げるエルキッサ。


「……あそこは地獄だった。どこを見ても人がいる。食堂も、お風呂場も、廊下も階段もサロンも、一人の場所がどこにもないんだ」

「部屋に戻れよ」

「部屋が一番ダメだ! あそこにはルームメイトがいるんだ! ルームメイトに虐められるんだ。ジロジロと眺め回されて、個人的なことを根掘り葉掘り尋ねられて、答えられないと怒られる……」


 それは単に、お喋りがしたかっただけじゃないのだろうか。


「何度も学校を辞めようと思った………何度も何度も………何度も何度も何度も何度も何度も何度も………」

「それだけ思ってて、よく辞めなかったな」

「……マンガラ家は武の一族だ。逃げ帰った者に居場所などない。だから、魔法を頑張った。期末試験で学年首席を取れば二年生からは一人部屋に住めるって聞いたから。ものすごく頑張ったんだ。でも、君に逆転されて……絶望していたら、なぜか許可書が届いて……夢中で飛び出して来てしまった……よく考えればおかしいってわかったはずなのに」

「そうだ! そうだぞ! どう考えたっておかしいんだ。なんだ、お前わかってたのか」

「だから……出て行きます」

「え?」

「今までごめんなさい」


 エルキッサはもう一度深く頭を下げると未練を断ち切るように踵を返した。


「待て、エルキッサ!」


 今度はミジョアがエルキッサを呼び止める番だった。


「帰るって寄宿舎にか? 大丈夫なのか、お前」

「……大丈夫。クローゼットに入っていれば少しは平気だから」

「クローゼット?」


 なんだか聞き捨てならないことを聞いた気がする。とてもじゃないが大丈夫な人間の発言とは思えない。


「わたし、寄宿舎にいる時はずっとクローゼットに籠ってたんだ」

「それのどこが大丈夫なんだ!」

「いや、ほんとに大丈夫……住んでみると意外に快適だから、あそこ……木の匂いが落ち着くし、真っ暗だから狭さも気にならないし………じっと座ってると隣の部屋の会話とか聞こえてきて……心の中で相槌打ってたら自分もお喋りに混じってる気がして………楽しい」

「やめろやめろ! もう怖いわ、お前」


 信じられない。本当になんなんだ、この女。一年間ずっとクローゼットに籠って他人の会話を盗み聞きしていたのか。もうそういう種類のモンスターじゃないか。


「……もういい、屋敷にいろ」


 気が付けばミジョアはそう言っていた。


「え?」

「クローゼットなんかに籠られたらルームメイトの方が不憫だ。そんなことするくらいなら花屋敷の二階に住め」

「……いいの?」

「ただし! 主人はあくまで学年首席である、この俺だ。お前はそうだな……ご主人様のご好意で住まわせてもらっている居候だ。それでよければこのままここで暮らすがいい」

「……本当に?」

「くどい。いいと言ってるだろう」

「あ……あ………ありがとう……」


 ぶわっと、エルキッサの瞳から涙が噴き出した。


「うわ、なんだ、お前! 泣いてるのか?」


 気持ち悪っ。ミジョアはすぐに自分の発言を後悔した。しかし、今さらやっぱりやめたとは言えそうにない。


「ありがとう、ありがとうございまず………ご、ご主人様は命の恩人でずぅぅ」


 だって、土下座してるから。

 よっぽど寄宿舎が辛かったのだろうか、膝から崩れ落ちて号泣するエルキッサ。こんな状態の紅蓮の魔女にやっぱり嘘ですなんて言おうものなら、今度はどんな大きさの水竜が出て来るかわかったもんじゃない。


「本当にもうなんと言うか、お前は本当に変な女だな」

「あでぃがどうございまずぅ……あでぃがどうございまずぅぅ……」


 話を聞けよ。嗚咽を漏らして泣き続けるエルキッサを眺めながら、ミジョアはこんな女にクローゼットに住み着かれたルームメイトへの同情を禁じ得なかった。


「もういい。帰るぞ、いい加減冷えてきたわ」

「あ、待って、ご主人様………あ、やだ。お花踏んでた」


 慌てて立ち上がるエルキッサの尻の下から白い花がぴょこんと立ちあがった。


「花? ああ、盗賊ダリアじゃないか。珍しいな」

「盗賊……ダリア?」

「なんだ、女のくせに花も知らんのか。こいつはちょっと面白い性質があるんだぞ」


 そう言うと、ミジョアは人差し指をぺろりと舐めて盗賊ダリアの葉に触れた。その瞬間、雪のように細やかで白かった花弁が大ぶりの黄色へと変化する。


「なに、これ。色が変わった」

「寄生植物の一種だな。こうやって他の生き物の体液を吸い取ると色と形が変わるんだ。本当に知らないのか?」

「知らない、初めて見た」


 目を丸くして寄生植物を眺めるエルキッサ、さっそく自分でも指を舐めて触ってみる。


「黒くなった! 魔法みたいだ」

「魔法じゃない、生きる知恵だ。こうやって自分を食べようとする動物に近い形態をとることで身を守る。よその国では小鹿そっくりの色形に変化した例もあるそうだ」

「そうなのか。さすが一般教養の首席は知識の幅が違うな」

「ふん、魔法学の首席に言われても嫌味にしか聞こえんわ」


 鼻を鳴らして目を細めるミジョア。


「嫌味? なぜそうなる?」


 反対にエルキッサの目は真ん丸だ。


「魔法学も一般教養も同じ学校の科目じゃないか。一般教養の首席としてわたしはミジョアを尊敬しているよ」

「なっ…………」


 一瞬にしてミジョアの顔色が赤く変化した。まるで、唾液を塗られた盗賊ダリアのように。


「も、もういい、帰るぞ!」

「え、どうしたんだ、ミジョア? 待ってくれ」

「うるさい!」

「何で怒ってるんだ。わたし、また何か変なことを言ってしまったのか?」

「うるさいと言ってるだろう!」


 もちろん、ミジョアは怒ってなどいない。ただ戸惑っているだけだ。

 いけ好かない執事に魔法学の天才児、気に入らない人物だけが自分の頑張りを認めてくれるのはいったいどうしたことだろう。


「待って! ごめんなさい。怒らないで、ご主人様!」

「ご主人様はやめろ!」

「君が呼べと言ったのに! お願いだから気を悪くしないでくれ」


 やっぱり、この女の考えていることは訳が分からない。同居を許したのは我ながら早まった決断だったのだろうか。

 明日からの二人暮らしを考えると、とてもじゃないが今夜は眠れそうにない。






 などという心配は全くの杞憂に終わった。

 色々ありすぎて疲労困憊のミジョアは布団に入って数秒で深い眠りに落ちたし、


「おとーしゃん、おちて。おちて」


 懸案の二人暮らしについても、翌日の朝に早くも終了することになるのだから。



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この続きは7月30日(火)発売の『魔法学校首席になったら嫁と娘と一軒家がついてきたんだが』でお楽しみください!

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魔法学校首席になったら嫁と娘と一軒家がついてきたんだが ファミ通文庫 @famitsu

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