第6話

「いや、そんなわけあるか」


 腹が満ちたら夢想は消えた。


 同日夜、寄宿舎の食堂からの帰り道である。すっかり暗くなった丘の小道を一人登りながら、ミジョアは己の夢想の責任を押し付けるように一番星に向かって呟いた。


 ヤマダのやつめ、また適当なことを吹き込みおって。何が夜這いだ。何が待っているだ。だいたい待っていたとしてどうなんだ、なぜ俺があんな陰気な女の元に忍ばねばならんのだ。


「くそう!」


 苛立ち紛れに、道端の小石を蹴り上げた。


 あいつは侵略者だ。恥を知らないコソ泥だ。どうせこんな二人暮らし、長くは続かない。校長達が帰ってくれば間違いが発覚してあの女は出て行くことになるのだ。それまで一言も口など利いてやるものか。覚悟していろよ、エルキッサめ。この花屋敷は俺のものなんだ。


「ラ・マリエ!」


 決意も新たにミジョアが屋敷の扉を開くと、


「あ…………」


 リビングルームに突っ立っていた侵略者が驚いたように振り返った。


 その瞬間、ミジョアの心臓がドクリと脈打つ。


 エルキッサが寝間着姿だったから。風呂にでも入っていたのだろうか、いつもは青白い頬をピンク色に上気させ、しっとりと濡れた長い髪をタオルで拭っている。


「ふ、風呂に入っていたのか?」


 つい先ほどの決意をあっさりと覆してミジョアは尋ねた。

 エルキッサはこくりと頷きながらなぜか恥ずかしそうに使っていたタオルを背中に隠した。その反動で胸が突き出される形になる。薄い寝間着姿だと制服よりも遥かにそのフォルムが際立って見えた。


「そ、そうか。じゃあ」


 酷く卑怯なことをした気がして、ミジョアはそそくさと寝室に逃げ込もうとした。が、


「ま、待って!」


 その足が思いつめた声に止められる。


「……なんだ?」

「あの……その……あの」


 昼間と一緒だ。振り向くと、エルキッサはピンク色の頬をさらに赤くして俯いてしまう。何か言いたげなところも一緒なら、酷く緊張しているのも一緒。そして、


「なんでもない………」


 そう言って二階に走り去ってしまうところまできっちりと同じだった。違うのは残された仄かな石鹸の香りだけ………。


「な、なんなんだよ、もう!」


 堪らずにミジョアは叫んだ。

 失礼なやつだ。全くもって無礼なやつだ。激しくかき乱される胸の内をミジョアは怒りという形でなんとか表現した。果たしてこの感情で正解なのかわからないが、どのような状態であれとにかく外に出さないと頭がどうにかなりそうだった。


 男所帯で育ったミジョアは、この時初めて触れたのだ。風呂上がりの女性が放つ、魔性的な色香というやつに。とにかく一刻も早く寝室に戻りたかった。しかし、


「待って!」


 上から降ってきた声に再び足を止められる。

 声を追いかけるようにしてズダダダッとエルキッサが階段を下って来た。花屋敷の階段だ。呪文を唱えれば勝手に動く。それでもエルキッサは己の足で駆け下りてきた。そして、決意の籠った眼差しでミジョアを見つめる。


 真っ黒で底の見えない不思議な瞳。ミジョアの琥珀色の瞳も珍しいと言われるが、こっちはこっちで引き込まれるような魅力がある。

『美人であることは認めよう』、己の発言を再度確認し、思わずミジョアは息を飲んだ。エルキッサはそんなミジョアをしっかりと見据えたまま、大きく息を吸い込むと、


「…………ラ・マリエ」


 か細い声で階段を動かし、ウィンウィンウィンと二階へ運ばれていった。

 ややあって、バタンと扉の閉まる音が階上から聞こえて来るまで、ミジョアは一歩も動けずにそこにいた。

 仄かな石鹸の香りが、あざ笑うように漂っていた。

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