第5話

「ありえない……」


 寝室に入るなり、ミジョアはベッドに倒れ込んだ。

 さすが花屋敷のシーツは滑らかで仄かにラベンダーの香りが漂って、寄宿舎の紙やすりのようなそれとは比べようもない高級品だったけれど、今はその寝心地に浸る精神の余裕がなかった。 


「……エルキッサめ」


 呪いを込めてその名前を独り言ちる。


「あの泥棒女め! 根暗女め! 陰気女め! 化け物女め!」


 一度口にしたら止まらなかった。一人の気安さも手伝って罵詈雑言が泉のように溢れ出る。


「心中お察しします、ミジョア様」

「うおー!」


 と思ったら独り言じゃなかったので死ぬほど驚いた。

 さすが花屋敷のベッドはマットレスもよく弾む。ミジョアは布団の上で七転八倒した挙句、窓の横に佇む長身の男を睨み付けた。


「ヤマダ、いつからそこにいた!」  

「今しがた。お荷物を運び込めとのご命令でしたので」

「……どこから入ってきたんだ?」

「普通に窓からですけれど。制服はここに吊っておいてよろしいですか?」

「ああ、うん」


 窓の開く音なんてしただろうか? その前に呪文の詠唱も聞こえなかったし、それ以前にヤマダは開閉の呪文を知らないはずだし、そもそも窓から入って来るのは普通じゃない。言いたいことは次々と浮かんできたけれど、この男にそれを言っても詮無い話だとミジョアは経験上知っていた。


 ヤマダは出自が少々複雑な男だ。本人曰く、こことはかなり違った文化圏の生まれらしく、そこで『トラック』とかいう魔獣に襲われて一度死に、気が付けばこの国まで飛ばされて来たのだという。摩訶不思議な身の上を不憫に思ったミジョアの父が家に招き入れたのは数年前の話だがヤマダはいまだに故郷の癖が抜けないらしく、時々理解できない言動を取ることがある。 


 父上はなぜそんなわけのわからない男を自分の執事にしたのだろう、ミジョアにはつくづく理解できない。


「しかし、とんでもないことになりましたね、ミジョア様。まさか花屋敷の許可書が二枚も出ていたとは」

「そう! そうなんだ! 全くもってけしからん! すぐに実家に連絡して正式に抗議を入れさせてくれ。あの女の許可書を取り上げるんだ!」


 興奮して怒鳴り散らすミジョア。今しがた窓から入ってきた男がなぜ許可書の顛末を知っているかという疑問も消し飛ぶほどの激昂ぶりだ。


「かしこまりました。ただ抗議したところで状況が覆るかどうか」

「どういうことだ。どう考えても正しいのはこっちだろう!」

「それがそうでもありませんで……」


 反対に憎らしいほど冷静なヤマダは、ベストの胸ポケットから小さな手帳を摘まみ出すと、片手だけで器用にペラペラとページを捲った。


「生徒手帳によりますと、『個室の使用権は学期末試験の最も成績優秀な者に与えられる』とあります」

「つまり学年首席のことだな。この俺じゃないか」

「いえ、この学則が作られたのは<マリアの御手>魔法学校の設立当初でして、その時代には一般教養は科目として存在しませんでした。つまり、この学則でいうところの『最も成績優秀な者』という定義に一般教養は含まれていないということになります」

「そんなバカな話があるか! 詭弁だ! 詐欺だ! 言い掛かりだ!」

「ええ、詭弁ですし、詐欺的ですし、言い掛かりです。しかし、ご実家を通して抗議なされればマンガラ家は確実にこの理屈で抗弁することでしょう。そうなると後はお家同士の争いということになりますので、果たしてどのように結審することか………」

「待て待て待て待て待て待て待て待て!」


 ミジョアは今日何度目かの眩暈を堪えながら割り込んだ。しかし、言葉が『待て』しか出てこない辺り、ヤマダの言い分に一定の説得力を認めてしまっているのだろう。


 貴族の繋がりは魔境である。

 同盟関係、利害関係、敵対関係、どの糸がどのように繋がっているのか外からでは全く判別でない上、その絡まり方いかんによっては、道理は水車の板の如くクルックルと何回転でもひっくり返る。


 そして、花屋敷の使用権には道理を平気で水責めにできるほどの価値があった。家の子女が花屋敷に住んでいる、その事実だけで家名の格は何倍にも跳ね上がるのだから。


「ヤマダ、教えてくれ。俺はいったいどうすればいい。この屋敷を譲りたくない。父上に失望されたくないんだ。妙案はないか?」

「もちろんございますとも」


 待っていましたとばかりにヤマダの眼がきらりと光った。この眼になった執事からろくなアイディアが出たためしがないが、今のミジョアは藁にだってすがりたい。


「言ってみろ」


 と前のめりで先を促すと、


「エルキッサ様にお手をつけあそばせ」


 ヤマダは胸を張ってそう答えた。


「……は? 手?」

「はい、既成事実を作り、内縁関係を結ばれるのです」

「いや、ちょっと待て、ヤマダ」

「そうすればヴィッテルスバッハ家とマンガラ家、両家の子女が花屋敷に住まうことになり文句の出ようはずもありません。だけでなく、塩のヴ家と武のマ家が一つになれば国のパワーバランスを崩すほどの力が誕生することに――」

「待てと言ってるだろ! 全然わからんぞ。何を言ってるんだ、お前は!」

「夜這いしろっつってんですよ」

「そんなことできるわけないだろう!」


 耳まで真っ赤に染めながら、ミジョアは掌に掴んだのが藁ではなく鉄塊だと悟った。


「できますよ。ぶっちゃけタイプでしょ、あーゆー子。ヤンデレとクーデレの間くらいの黒髪ロングの巨乳ちゃん。フェチぶっ刺さりでしょうが」

「母国語はやめろ、意味がわからん」

「いやいや、マジな話ですよ。こんなチャンス滅多にありませんよ? 実際のところどう思ってらっしゃいます、エルキッサ様のこと?」

「どうもこうもあるか、あんな陰気で根暗な女だぞ」

「仰る通り、おしとやかで控え目な淑女ですね」

「傭兵上がりの貴族の家で、悪魔のような魔法で俺を辱めたんだ!」

「はい。家柄も良く、成績も優秀です」

「幽霊みたいな不気味な髪で、死人みたいに顔が青白くて、不安にさせられる目つきで……」

「美しい黒髪、絹のような白い肌、吸い込まれるような瞳……それから?」

「うぐぐ………ま、まあ、美人であることは認めよう」

「はい、いただきました。美人で、可愛くて、超タイプで、今すぐにでも結婚したい。いただきました!」

「そこまでは言っとらんわ!」

「まあまあまあ。とにかくそういうのもの全てひっくるめた上での夜這いですよ。夜這いこそが最良の解決法なのです。まさか十六歳の健全な男子が女性に興味がないわけでもないでしょうに」

「そ、それは……いや、しかし、相手はあのエルキッサだぞ。そんなものに夜這いなんてかけようもんならあの炎で骨まで燃やされるわ」

「燃やされません。向こうだって待ってるんですから」

「え、待ってるって、夜這いを……か?」

「はい。当たり前でしょう、でなけりゃ年頃の娘が男と一つ屋根の下で暮らすなんてこと受け入れるはずがありません。二人暮らしを了承したということは、そういうことまでまるっと含めて了承したということです」

「そうなのか?」

「そうなんです」

「そうなのか……」


 そんなわけない。ヤマダの口から出まかせに決まっている。しかし、面と向かってここまではっきり言い切られるとミジョアは意識しないわけにはいかなくなる。大人ぶってはいるがミジョアはまだまだ子供なのだ。そしてヤマダはミジョアのそういった無防備な少年の部分をくすぐって遊ぶのが病的に好きな男だった。


「据え膳喰わぬは男の恥と申します。努々レディに恥をかかせることの無いように。それでは失礼いたします、また明日」


 嫌味なほど恭しく頭を下げると、ヤマダは当たり前のように開きっぱなしの窓から出て行った。


「据え膳? なんだ、それ? どこの国の諺だ」 


 後に残されたミジョアは一人で首をかしげている。やはりミジョアにはヤマダの故郷のなまり言葉が理解できない。やれクーデレだのヤンデレだの、唯一意味が分かるとしたら………。


「巨………乳? 胸が、大きいということなのだろうか。エルキッサって……そうだったのか?」


 ――コンコンコン。


 不意打ちのノックを受けて、小さな悲鳴が零れ出た。


「ど、どうぞ」


 無意識に居住まいを正してそう答えると、囁くような呪文の詠唱が聞こえ、戸口に黒髪の少女が現れる。


「お、おお。なんだ、エルキッサだったのか」


 もちろんエルキッサである。この状況でノックをする人間は一人しかいない。


「ど、どうした? わざわざやって来て」


 最初にエルキッサが二階のクローゼットに収まっていたこともあり、なんとなく二階はエルキッサ、一階はミジョアという具合に棲み分けは決まっていた。話があればリビングルームで待っていればいい。いったい何の用だろう。一階の、男の寝室に。


「あの………」


 エルキッサは戸口に留まったまま赤い顔を俯けた。モゴモゴと蠢く唇を見るにつけ、何か言いたいことがあるようだ。しかし、緊張で言葉が出ない様子。

 なぜだ。なぜ、緊張しているのだ。

 何を緊張することがある。なぜ、顔が赤いんだ。なぜ、震えているんだ。


 なぜ――。


 ドクンとミジョアの心臓が跳ねた。エルキッサの頬を涙の筋が伝ったから。


「なんでもない……」


 そう言い残してエルキッサは逃げるように去って行った。解決されないままの疑問を宙に放り出したまま。


 なんだ、あの涙は。


 再び一人部屋に残されたミジョアはしばし呆然と佇んだまま、戸口に残ったエルキッサの残像を眺めていた。思いつめた表情。流れ落ちた涙。噛みしめた唇。細い首。そして……盛り上がった胸部。


 上から順に残像をなぞると、どうしてもそこで立ち止まる。なるほど。今まで気づかなかったけれど、確かに大きい。ヤマダの言った通りである。


 であるのなら、


『向こうだって待ってるんですから』


 ……あの言葉も本当なのだろうか。

 などと真剣に悩むミジョアは、ヤマダに指摘されるまでもなく全く健全な十六歳の男子だった。

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