深海心中。

紅面狐

深海心中。





深海なら、誰も来ないから。


僕は取り残された小高い木のベンチで、ヒグラシの鳴き声を聞いていた。

日は沈みかけで、眼下には橙の光と人々の黄色い声が湧いている。

すっと目線を上にずらすと、藍と紫が混じった空。

淡く暗い色彩が僕の目に入り込んで、美しく煌めく。ぼんやりしている僕の耳に、からころと飴を転がすような下駄の音が届いた。


「かき氷買ってきたよー!はいイチゴ!私はブルーハワイ!」

脳天気な声と共に、僕の隣の空いたスペースに体を滑り込ませるのは友人の少女。もうすぐ女性と言える歳だが、少女だということにしておく。

ありがとう、と受け取る。

器越しに感じる冷気はじっとりした夏の空気に似つかわしい。

紙の器のでかでかと赤い氷の字。突き刺されたストライプのストロースプーンを抜き、上のシロップがたっぷりかかった所を頂く。

しゃくしゃくと氷を食べる音だけが静寂に響いた。ふと見た隣の少女は水仙柄の浴衣を着て、いつも下ろしている髪を纏めあげて青い天然石の着いた銀の簪をつけている。


学校の時よりずっと大人らしく、美しく見えた。

かき氷を掬って食む桃色の唇が少し青みがかる。暗闇でも艶やかで。それがとても、綺麗なのだ。

僕は暫くかき氷を食べる手を止めて、少女の一挙一動をじぃっと見つめていた。

小さな耳たぶは血の気がないくらい白く、同じく首も日焼けしていなかった。項にちらちらと光る青い天然石-確か、深海ブルーの天然石と言ったか。この付近の店でネックレスと迷いつつ、簪を買ったと言っていた。


簪なんて普段使いが出来ないのにね、と少女は言うが。浴衣に映える簪は特別なのだ。特別な時に特別なものをつけたいという気持ち。今僕と一緒にいる時を特別だと感じてるのかそれともこの祭りを特別なものと感じてるのか。


...そんなこと、どうでもいいのに。どうしてこんなにも胸が苦しいのか?

「ねえ、どう?舌青い?」

ちろりと舌を出す少女に、僕の時間はとめられた。

桃色の舌に青色が乗っかって、青いと喉奥から絞り出して言うとだよねぇ、と分かってたように笑って。僕は、ふっと揺れる青い珠が輝いてるのを見つめるしかできなくて。


君のイチゴも食べたいなぁ、一口交換しようよと言われてやっと時間は動き出した。無造作に容器を渡す。突き立てられた少女のスプーンの青が混じる。

この生々しい人工的な赤色よりかは、少女の頬は自然な美しい赤だなと思いつつ。少女から渡されたブルーハワイを食む。


かき氷のシロップは色が違うだけで味はみんな一緒と言うが、それは本当なのだろうか。全く味が違うし。やっぱり嘘なんじゃなかろうか。

そもそも、僕と少女の食べてるかき氷は同じものなのだろうか。


「ねぇねぇ、もうすぐ花火上がるって。下の方凄いガヤガヤしてたよ。今回はゆっくり長時間上がるんだってさー!楽しみだねえ」

そんな僕の心情露知らず。

少女は花火について語り、いきなりベンチから立ち上がる。


「という訳で、鬼ごっこしようか!君が鬼で私が逃げる人ね!花火上がったらスタート!」


え?と困惑する僕を置いて少女は下駄をからころと素早く鳴らしながら走っていってしまった。花火をじっくり見ようと言う気は少女にはないのか?今から花火が始まると言ったのは少女だよな?あの下駄で鬼ごっことか正気か?だめだ、少女の考えていることがわからない!

いつも笑っていて掴みどころがないとは思っていたが、まさかいきなりこんな遊びを始めるなんて!思い悩む僕を叱るように始まりの合図は空高く赤色に光った。


少女は既に暗闇に音諸共消えていた。

夜の光は、間隔的に上がる六色の光だけ。

暗闇にいくら目が慣れようとも、祭りの橙の光から外れれば民家は真っ暗だ。少女はどこまで逃げたのか検討がつかない。それに僕は足が遅いのだ。少女の足には適わない。まさか、それを見越して僕を鬼役にしたのか?だとしたら、舐められた真似をされたものだ。唇の端が自然に吊り上がる。勘しか当てにしないで、馬鹿みたいに走ってやろう。


そんなに遠くまではいけないはずだ。あの僅かな時間で。色々なところを鈍足ながら駆けた。花火の音がやけに胸に響いてきた。


緑の花火が上がった。

緑の森には、青色は見つからない。薄明かりの蛍がここにはいないと教えてくれた。


黄色の花火が上がった。

黄色い喧騒にはいないと直感していた。橙色の光と黄色い喧騒に青色はあまりに目立ちすぎるから。


銀色の花火が上がった。

星みたいにちかちかした火の雫が一粒落ちてきて黒の住宅街を照らした。君がいないと教えてくれた。

どこに、どこにいるんだろう。何十分も走り続けて足も痛い、でも君を追いかけないといけない。


ぱん、と青色の花火が上がった。

今まで照明がわりにしか見てなかった花火が真上にあって、僕の瞳に青色が映る。

花火の青、浴衣の青、かき氷の青、唇に色付いた青-震える簪の、青。


僕は、どうも足も勘も鈍い。少女は鬼ごっこをしたい訳じゃなかったんだ。

目指す場所は、示されていたのだ。

滑り落ちるように階段を下り、息を切らして浜にたどり着く。暗闇を見渡すと予想通り、砂浜にひとり。青色は佇んでいた。僕に背を向けて、潮風に少し乱れた髪を靡かせていた。簪はずり落ちそうだった。


「見つかっちゃった。意外と遅かったね」

少女は僕に背中を向けたまま話しかけてきた。花火の音とともに、少女はくるりと振り返った。


「見つかっただけじゃ、鬼ごっこにはならないよ。捕まえてご覧よ」


ぱしゃ、と下駄のまま少女は躊躇い無く海に走った。待って、と手を伸ばす前に。少女の体は海に面白いように落ちた。

すぐに海に君を追いかけた。捕まえないと、鬼ごっこは終わらない。

鬼ごっこに固執しているのは少女の嘘なのに。

僕はいつまで少女の嘘に固執するのか。

まだ花火の光が見える場所で、僕は少女の腕を捕まえた。冷たくて、細くて、骨の感触までハッキリわかった。


「あーあ、捕まっちゃった」

そう言って少女は、笑顔を見せた。

その笑顔は少女史上最高に、苦しげなものだった。

捕まえろと言ったのは彼女なのに。

捕まっても拗ねるなんて、面倒だなぁ。

ゆっくり沈んで、花火の光も消えて。僕は少女にいつの間にか海底へと誘われていた。


音と感触しか残らない海底。その感触さえ鈍くなる。本当にそこにあるかどうかが分からなくなる。ふと頬に何かが弾ける感触を感じたと思えば少女の笑った瞳から青い泡が零れていた。

少女を捕まえたのはいいものの、僕にはまだ疑問がある。


どうして、鬼ごっこしようなんて嘘を言ったのか。最初から君は、僕とここに来たかったんじゃないか。


少女は僕の言葉に、意地悪そうに目を細めたあとゆっくり唇を動かした。

微笑んだ唇は二度と開かなかった。

仄かに冷たくて優しい声も、もう聞こえなかった。

目から零れた青い泡はもう僕の頬に当たらなかった。


底の無い、深海の果て。

まだまだ落ちていく。ゆっくり、時間が止まってるように。1秒が1分にも、1時間にも感じる。浦島太郎が海底で過ごして地上に帰って老人になった理由がわかる気がする。


そっか。

だから少女は僕をここまで連れてきたんだな。

死んだように目を閉じる少女の解けた髪から、深海ブルーの簪を探り当てる。

頬に当たった青い泡の色にそっくりだった。

少女は僕よりずっと早く沈んでいく。僕からまだ、鬼ごっこを続けている。


捕まえた腕が滑り、手首、手の甲、指先、もう離れてしまう。

このままだと少女はひとりになってしまう。そんなのは僕が嫌だ。

簪を右手でしっかり握りしめ左腕を引きちぎれんばかりに伸ばす。...届かない。

少女は離れてしまう。沈んでしまう。落ちてしまう。


少女と離れたくない僕も共に身を沈める。歯を食いしばり腕を体を裂けるほど伸ばす。水は僕を邪魔して、少女をさらっていく。指先を捕まえることがやっと出来た。暗い海の中でまだ視認できる白い手の甲を掴めた。


小さくて、今離せばもう二度とつかめない手だと直感した。

僕は右手に握りしめた簪を重ねた僕の左の手の甲と、力の抜けた少女の手の甲に目掛け、突き刺した。

突き刺したゆらぎは深海ブルーの珠に。

そして珠は僅かな少女の光を映した。


「こんな大きな枷をつけるなんて、馬鹿だなぁ」

少女がそう言って笑っているような気がした。

実際には、少女は何も言わなかったのだけれど。目を閉じた少女がもう何も言わないなんて、知ってたことだけれど。


僕と少女のこの関係は少し、おかしいのだろうか?

でももう、僕らの世界に誰かが来ることは無い。

少女のように目を閉じる。あぁ、引き離せない左手の感触しか残らない。瞳を開ける気力もなくなってしまった。少女がずうっと瞳をとじてるのは、なるほどそういうことか。

捕まえた右手を、感触を確かめるように握り直して。少女とともにどこまでも海底に沈んでいく。


貴方なら、ここを気に入ってくれると思ったの。

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深海心中。 紅面狐 @scarletdevil

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