第2話・これが、新生活

 「そっち、狭くはないですか?」


 「え!?」


 どうやら食卓を挟んで向かい合った巡莉の顔を見ているうちに数年前の出来事へ思いを馳せていたらしい啓次は、夢想から一息に戻ってくると同時に素っ頓狂な声を上げた。


 「せせせ、せま、狭!?いえ、全然、セミダブルなので!!」


 「セミダブル?ふふふ、テーブルにもそんな大きさの規格があるんでしょうか?」


 ……テーブル?と、啓次は巡莉の言っている意味が一瞬わからなかった。


 しかし、すぐにここは実家にある自分の部屋でもなければ、ましてベッドに二人で入っているわけでもなく、自分が下宿させてもらっている義姉と兄が暮らす都内のマンションのダイニングテーブルにて夕食を摂っている最中なのだという現実を理解した。


 「でももしもキングサイズのテーブル、なんていったら、王様が宮廷で使っていたような長~いものを想像してしまいますね?」


 啓次のおかしな挙動などなかったかのように、巡莉はニコニコと笑って話を膨らませた。


 「あ、ああ……そうですね。はい」


 いつでもそうだ。


 「端と端とでお互い大きな声を出さなくちゃ会話ができないような感じ……ですかね」


 「そうそう、そんな感じです。さすが読書家の啓次さん、想像力が豊かです」


 いつもこの邪気のない笑顔を真っすぐに向けられると、啓次の心は夕凪のように安らぐ。


 どれだけ緊張しても、どんなにオドオドとしようとも、巡莉と言葉を交わせば啓次は自然と肩の力を抜くことができた。


 もちろん、無自覚なのか計算なのかはわからない無防備な姿に毎日ドキドキはしているし、若く、それも飛び切り美人な部類に入る女性と会話するというのは、男ならば大抵、大なり小なり緊張してしまうものだろう。


 ただし、啓次にとっては少なくとも、血を分けた肉親やいわゆるイマドキの若者である同級生たちに比べ、何倍も気安く会話ができるのは事実だ。


 あの時、兄や両親からこき下ろされた、しかも反論の余地なく自分でも認めてしまっている矮小な、本当に大嫌いな自分。


 そしてそんな自分を変える努力もしないで相も変わらず流されて生きている情けない自分。


 そんなすべてを、巡莉の笑顔と鈴が鳴るよりもキレイに澄んだ声は、優しく暖かく包み込んで許してくれるような気がするのだ。


 「あ、すいません。それで何が狭いんでしたっけ?」


 「これです、こ・れ」


 そう言って、巡莉は『デーン』と効果音を口で言いながら、テーブル一杯に広がるおかず達を差した。


 大皿に小鉢に丼にと、和洋折衷どころか料理名も啓次には定かではない、多国籍を通り越して万国博覧会とでも言っても過言ではない料理の数々が、食卓の上を埋め尽くしていた。


 それこそ、キングサイズのテーブルでも必要なのではないかというくらいに。


 「冷蔵庫の整理をしようと思ったら、いつの間にやらこんなに作ってしまいまして……」


 「ま、まぁ確かに……多い……かな」


 「ですよねぇ……」


 「義姉さん、普段はしっかりしてるくせに、たまーにやらかしますよね?」


 「ごめんなさい……」


 「せめて兄さんがいれば……い、いや、いても無理か」


 「そうですね……」


 「いっそ出張先にでも送り付けてやりますか。ははは」


 「ふふ、いいですね、それ。……それでも、食べてはくれないんでしょうけど……」


 巡莉は変わらず微笑んでいた。


 しかし、兄の話題になるとその太陽のような微笑みに、わずかにでも雲がかったのを、彼女の笑みの信奉者であった啓次が見逃すはずもなかった。


 ―― ああ、失敗したなぁ…… ――


 と啓次は己の浅慮を悔いた。




 今では務める商社でそれなりの地位に就いている兄・賢一。


 立場が上がるにつれて彼の仕事の密度も濃度も比例して上がっているようだった。


 愚図な弟と違って幼い時より優秀の名をほしいままにしてきた長男は、社会の、それも世界トップクラスの資本をほこる大企業の中においても辣腕は変わらずのようだ。


 ―― 『時は金なり』という言葉は俺の座右の銘だ。しかし『時間=金』という式が成り立つなら金でどうにかして時間を買えないものだろうか ――


 と、啓次がこちらに引っ越してくる際にうそぶいていたが、それが兄の心からの本音なのだろう。


 甘い新婚生活など殆ど皆無。


 日を追って遅くなる帰宅と度重なる出張とで賢一が家を空ける時間は、この数年で格段に多くなっていった。


 だから大学入学にともなって都内での住居を探していた啓次と今度はアメリカへの長期出張を控えた賢一。


 このタイミングが重なったのは誰にとっても渡りに船だった。


 啓次の生活能力の無さと家賃諸々の金銭的事情に頭を悩ませていた両親のところに、賢一は、自分たち夫婦のマンションに下宿してはどうかという提案をした。


 期間限定の話でいずれは出なくてはならないが、その時はその時。


 とりあえず最低限の食費や雑費だけで出費が抑えられる両親はこの提案に一も二もなく飛びついたことは言うまでもないだろう。


 さすがに一年近くも若妻を一人残していくことに多少不安のあった賢一にとっても啓次が番犬がわりをしてくれるのならば願ったり叶ったりというわけだ。


 ただ、唯一の懸念事項として皆があげたのは、若妻・巡莉の意思だった。


 兄の嫁に手を出すような甲斐性がないのは家族ならば誰もがわかっていたので、その点においてこの塚原家の次男坊は絶大な信頼(?)を寄せられている。


 けれど、幾ら義理の弟でも他人は他人。


 服が人畜無害にまとあわりついてノッソリと歩いているような人物であるとはいえ、大して面識のない若い男と暫く二人きりで同居することに巡莉が抵抗を感じても何らおかしな話ではないのだ。


 しかし、あまり良い返事はもらえないだろうという彼らの予想に反して、巡莉は二つ返事で義弟との同居を快諾した。


 ―― ええ、もちろん、いいですよ。私、啓次さんのこと大好きですから ――


 もしもその場に啓次がいたとしたら(当然のように当事者である啓次をはずした席で話し合いは行われていた)、巡莉が浮かべたその満面の笑みと『大好き』という言葉にどう反応しただろうか。


 一見して打算も表裏も屈託すらもない笑みに、他の者たちは見蕩れるばかりでそれ以上の何かをそこから見出すことはしなかった。


 夫である賢一ですら、そこまで輝くような妻の笑みを見たことがなく、ただ目を奪われ続けるだけだった。


 彼女の美しさをそこまで引き出した話題が、そしてその話題の中心が一体誰だったのか、深く考えようともせずに、だ。


 ―― 啓次さんと一緒かぁ……きっと楽しくなりますね……ふふふ…… ――


 そんなこんなで始まった啓次と巡莉の奇妙な同居生活。


 今のところ問題らしい問題もなければ、波乱らしい波乱も起きることはなく、今日も二人きりで食卓を囲むのだった。


  

 「あーえっと……その……」


 「気を使わないで下さい、啓次さん。あの人、そもそも小食ですもの。家にいてくれたとしても、きっと食べてはくれなかったと思います」


 「義姉さん……」


 努めて明るく話す巡莉ではあったが、啓次はそんな風にして何かを押し殺したかのような彼女の微笑みを見たくはなかった。


 どれだけ自他共に認めるヘタレでも……いや、ヘタレで気弱で、人よりも警戒心や周囲を見通す観察眼に優れた彼だからこそよりハッキリと、わかるものもあった。


 この人の笑顔には、いつだって何の混じり気もあってはならない。


 こんな寂しさから翳りの射し込んだ笑みなど似合わない。


 ……だからこそ。


 「ぼ、僕が!!」


 「え?」


 ガタリと大きな音を立てて椅子を引き、急に立ち上がった啓次に巡莉は驚いた声を出した。


 「僕が、ぜんぶ、食べます!」


 そういうが早いか、啓次は目の前にあったシーフードドリアの大皿を掴むと、とりわけ用の大ぶりなスプーンを使ってガツガツと口に運んだ。


 「うん、うまい!」


 「け、啓次さん?」


 「うまい、うまい!これも、それも、全部うまい!」


 三人分はあろうかというドリアを文字通り胃に流し込み、皿を置いたと同時に今度は生春巻きと山菜の天ぷらを両手に持って次から次へとむしゃぶりついた。


 「本当にうまい!巡莉さんの作ってくれるご飯はいつでもうまい!」


 「啓次さん……」


 「こん……なにうまい……ご飯、食べられないなんて……兄さん……は馬鹿だ!」


 「……あ」


 「僕が……僕が巡莉さんのご飯を全部食べてやる!僕が独り占めだ!」


 「……本当に、貴方は優しい人……」


 うまいうまいと絶叫したところで、どう見ても味などわかっていないような行儀の悪い暴食を繰り広げている啓次を、巡莉は眉をひそめるでも呆れるでもなく、ジッと見守り続けた。


 その瞳にどんな感情が浮かんでいたのか……。


 大食の悪魔にでもとりつかれたように目の前の食事と格闘している啓次が知る由もなかったのは幸いだったのかもしれない。


 その時、彼女のいくらか潤んだ黒い瞳の奥に光る、確かな女の情念と対峙してしまったら、きっとこのヘタレ男は、その女郎蜘蛛のように長く美しい脚すべてで、あらゆるものを為すすべもなく搦めとられてしまったに違いないのだから。

 

 「う、うま~い!!」


 「……ほらほら、お茶も飲んでください。のどに詰まってしまいますよ……」


 「ありがと……げふっ!げふっ!!」


 「あらあら……うふふふふ♡♡」



 そう、まるで啓次にとって、文字通り夢のような、あの一夜と同じように……。


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