第11話・しゅくしゅくと、語られる
「試合をした相手は男子剣道部の先輩だった」
沙希はケガを負った経緯を静かに語り始めた。
「実力は世代でもかなり上位。地区が離れていたけれど、雑誌とかでよく特集を組まれてたし、小さい頃から全国大会に行けば必ず姿は見かけてた。何度か直接話したこともあった。お互いの剣道への思い入れを熱く語り合ったこともあったわね」
とつとつと、とうとうと。
一言一句、一挙手一動を確かめるみたいに、ゆっくりと。
「うん、ストイックな姿勢は素直に尊敬できた。実績や実力を笠に着ることもないし、人当たりもいいし、まぁ、前から好感は持っていたわよ。……あくまで人としてね?」
他の男のことを語っていく沙希に心は嫉妬にズキリ……などと今更できないの塚原啓次。
一応は『異性としての興味はない』とさりげなくフォローを入れてみても、ただ熱心に耳を傾けるばかりで気にした様子もない啓次に、沙希は呆れを感じると同時、自分の語りにここまで真剣になってくれているのだということがとても嬉しかった。
「私が進学した大学に彼がいたのは……まぁ、偶然ではないわね。なにせ学生剣道の最高峰だもの。真面目に剣道に取り組んで、それなりの腕があったのなら、どうしたってそこに辿り着く。必然というか当然って具合に。彼がそこに在籍していることはもちろん知っていた。ただそれだけ。色々と近くで学べることは楽しみだったけれど、取り立てて私の方では思うところはなかった。……でも、彼の方ではちょっと違ったみたい」
「それって……」
「入学してすぐに告白された。『大会で最初に君の試合を観戦した時から好きだった』って。『ずっと君の目に写れるように必死に頑張ってきたんだ』って。『これは運命だ」って。……ねぇ、信じられる?彼が自分の青春も何もかもを投げ打って剣道に打ち込み、名実ともに同世代で一番の剣客にまでなったのは、単に一人の女の子の気を引きたかっただけなんだって」
「なんというか……すごいね」
「うん、すごい。すごいし、すっごく光栄だった。尊敬してた先輩の人生に自分が多大な影響を与えたんだって思えば畏れ多かった。あのひたすら速くて真っすぐな剣筋がただ私のためだけに鍛えられたものだと思えば恐縮した。……その時の先輩ね?竹刀を握っている時とは違ってオドオドして落ち着きがなくて、普段の凛々しさもどこへやらって感じでさ……ああ、この人も年頃の男の子だったんだなってちょっとだけ可愛く見えちゃった」
「それで……返事は?」
「いやいや、断るでしょ」
沙希はムッとした声を出した。
「私、さっきアンタになんて言った?ずっと啓次が好きだった、小さい頃から大好きだったって告白しなかった?なに?私のずっとは大学生になってから?私の小さい頃ってこの春くらいまでの話?え?なに?なめてんの、アンタ?」
「ご、ごめん……」
「断るでしょ。『気持ちはとても嬉しいけど好きな人がいるのでごめんなさい』ってなるでしょ。私はどっかの優柔不断なヘタレ男と違って一途なんだから、二股なんてありえないでしょ」
「それは本当にごめんなさい!!」
「ふんだ……」
不貞腐れた沙希に啓次は平謝りするしかなかった。
「……その時はそれだけで話は済んだ。『そうか、それなら仕方がないな』って言って諦めてくれて。そういう潔さもまた彼の美徳よね。……そんなこんなで、一か月前。アンタから義理のお姉さんのことを相談されて、ショックのあまりに逃げ出して、しばらく実家にも帰らずに黙々と剣道に打ち込んでって頃」
とりあえず機嫌を持ち直した沙希は語っていく。
一か月。
啓次が悩みに悩み。
沙希もまた、あるいはそれ以上の苦悩の中にいた一か月。
ついにその核心部分に沙希が触れる。
「それまで週末や講義や練習の隙間を見つけてはこっちに帰っていた私が、急にどこへも行かなくなったのを周りは勘繰った。『地元の彼氏と別れた』、『彼女と離れているのをいいことに彼氏が浮気した』、『二股野郎のナニを握りつぶした』、『浮気者を真剣で細切れにして海に捨てた』。……噂ってすごいわよね?当たっても遠からずでもないのに、妙なところで事実が紛れ込むんだから」
「うぐっ……二股野郎……」
「いえ、浮気彼氏を細切にするところ」
「そっち!?」
「……で、そんな噂を真に受けた例の先輩から呼び出しがあったの。二人きりで話したいからって朝練の集合時間よりも随分前に道場の方に」
「……彼氏と別れたんなら俺と……的な?」
「ベタでしょ?『やっぱり君のことは変わらず好きだ。愛している。俺は絶対に浮気もしないし、傍にいる。だから改めて交際を申し込ませてくれ』。……そう言われた」
「……迷わなかった?」
「迷わなかった」
キッパリと、研ぎ澄まされた真剣の一振りのごとく沙希は言い切った。
「だって、やっぱり啓次のことが好きだった。ずっとずっと愛していた。他の女のことが好きなんだって言われて、泣いて、逃げて、剣に雑念が混じりまくってしまうくらい……そんな風に心が掻き乱されるくらいに、やっぱり啓次のことが大好きなんだって改めて再確認してしまった後だもの。傷心の女なんて口説くタイミングとしてはベタを通り越してベストかもだけれど、私に限って言えば、より頑なにアンタへの想いを強くしてしまった頃合いだった」
「……そ……っか」
「引いた?」
「いや、ぜんぜん」
「相手は引いてた。普通に断っても埒が明かなかったから、噂の真相やらアンタへの気持ちやらを洗いざらいぶちまけた。恋人ではないけれど、私は一生モノの恋をしている。男らしくないし、顔だって普通だし、ヘタレだしスケベだし、私のことを女としてなんて見てないし。……だけど、たとえアイツが他の女を好きになっても、自分からこの恋心を否定することは決してしない。申し訳なくは思う。異常だとも思う。けれど、私にとって今のところ、男といえば地元に置いてきたあのヘタレ二股男以外にあり得ないんだって言ってやったら、それはそれは顔をピクピクさせて引いてた」
「…………」
引きはしなかったが、それでも確かに相手の男への申し訳なさや、沙希の自分への想いに対して異常ではあるなと思った。
そして、こんな男のことをそこまで想える沙希のことがすごいと思ったし、
光栄で、畏れ多いとも恐縮だとも思ったし、
心から誇らしくも思った。
「それからはもう、グダグダね……」
なんで俺じゃダメなんだ?
――アイツじゃないからダメなんだ。
なんでこんなに愛しているのにわかってくれないんだ?
――そっちこそ私の愛を何故わかってくれないんだ。
そんな男の何がいいんだ?
――アイツの何もかもが好きなんだ。
そいつを呼び出して勝負させてくれ。絶対に俺が勝つ。
――そうね、アイツは負けるでしょう。
俺の方がそんなヤツよりずっといい男だ。
――そうね、貴方の方がずっとずっといい男ね。
君という素晴らしい女性が傍にいながら……
――ぽっと出の年上女なんかに目がくらむなんてバカじゃないの。
「いや、ちょっと。後半、何を意気投合してるのさ」
「仕方ないじゃない。ほとんど彼の意見に賛成なんだから。そりゃ、シンクロぐらいしちゃうでしょ?」
「ぐぬぬ……」
二の句を継げない啓次。
客観的どころか主観的に眺めてみても、相手の男の言っていることのほうがド正論だった。
「ほらほら、凹まない。ほとんど、って言ったでしょ。そのほとんど以外の部分が決して相容れなかったからこそ、私の体はこんなになって、こんな風にアンタにヒン剥かれているんだから」
クスクスと笑う沙希のツンと張った乳房が揺れた。
これほどまでに体を許し、心をさらけ出せるような男は、お前以外にはいないのだと、その白く豊かな乳房は語っているようだった。
「水掛け論というかなんというか、いつまでも平行線な話し合いは、やがて剣で決着をつけようってことになったの。恋だの愛だの幸せだのと言っていても、結局は私も先輩も単なる剣道バカ。シンプルに剣で白黒つけるのが一番後腐れないだろうってね」
「……防具もつけず、審判もいない野試合で?」
「それはとっても反省。二人とも頭に血が上ってたから……少なくとも私は『やったらぁ!!』ってなってたから。……そのことでお父さんからは随分怒られちゃった。お前には今後一切、竹刀を握る資格はないって、破門寸前にまでなったのよ、実は」
「師範なら、そう言うかもね」
「剣道に対する冒涜だったと今は思える。恋愛絡み……とまではさすがに言えなかったけれど、それでも私情を試合に持ち込んで、型もなにもあったもんじゃない不細工な打ち合いをした挙句に大ケガまでしちゃって……手術の後で不安な娘にあれだけ厳しいことを言えるお父さんは、やっぱり恐いし、やっぱりカッコイイわ」
「……事故……なんだよね?」
「うん、あれは事故。精神が未熟な者同士が未熟な腕で打ち合った結果としては当然だとはいえ、彼の突きが私の右目を潰しちゃったのは間違いなく事故。故意じゃない」
……互いが互いに真剣だった。
沙希は啓次への想いを否定されてムキになっていた。
先輩は沙希への真っすぐな想いが届かなくて意地になっていた。
自分で言うのはともかく、誰かが啓次を悪く言うのが気に障った。
自分の好きな人が、他の男を庇うような態度が気に入らなかった。
理解されないことが悔しかった。
理解できないことがもどかしかった。
――先輩ほどの素晴らしい人なら、他に幾らでも相手はいるでしょう?
――君ほどの素晴らしい女性なら、もっといい相手がいるはずだろ?
――貴方にはもっと相応しい女の子がいるはずよ。
――君にはもっと相応しい男がいるはずだ。
――どうしてわかってくれないの?
――どうしてわかってくれないんだ?
――私はアイツが大好きなの。
――俺は君を愛している。
――お願いだから、私のことは諦めて。
――頼むから、その男のことを諦めてくれ。
力では先輩の方が勝っていた。
技術では沙希の方が上回っていた。
総合的に見れば、互いの実力は拮抗していた。
同じくらいの才能、同じくらいの鍛錬時間。
同じくらいの真摯さ、同じくらいの想いの強さ。
……同じくらい、恋に恋する若輩者。
「……正直、あんまり詳しい経緯は覚えてないのよね」
沙希はどこかボンヤリとした調子でそう言った。
「すっごく集中してたし、夢中だったし、防具もないから竹刀が体を掠めただけでとんでもなく痛かったし、痛みを消すために脳内麻薬がドバドバだったし。……ただ、その切っ先が……白い先皮がびっくりするくらい大きく見えたのは覚えてる。そして時間が……その白が右目にどんどん近づいてくるがとてもゆっくりに感じたのも覚えてる。そして感触。何かがじわりじわりと、ブツリブツリと眼球を潰していく感触。……痛みはないの。ううん、嘘じゃない。たぶん、覚えていないだけなんだろうけど、こうして幾ら振り返ってみても、痛かったっていう記憶はまるでないのよ……」
しかし、沙希の体は僅かにブルリと震えた。
記憶は覚えていなくとも、その瞬間の恐怖や痛みを体や、他でもない右目自身がハッキリと覚えているのだろう。
「気づいた時には私は病院のベッドの上だった。状況もまるでわからなくて、でもとりあえず体を起こそうと思ったけれど、あちこちにできた打撲や擦り傷が痛くてできなくて。……仕方なしにベッドの上で天井を見つめながらボケェーってしてた。とりとめもないことを考えながら、ただボケェーってね」
「師範やおばさん、病院の人達は?そばにいなかったの?」
「ちょうどみんなして私の目の具合について話し合っていた時だったみたい。まるで人が誰もいなくなるところを見計らって私の意識は目覚めたようじゃない?だって、起きぬけにお父さんの難しそうな顔や、お母さんの泣きはらした顔をみてしまったら、きっと私は取り乱してた。二人ともなんでそんな顔してるの?二人を心配させたり悲しませたりしたのは誰?……あ……私かって……」
「……優しいね、サキ姉」
「優しくなんてない。ぜんぜん、そんなじゃないよ、啓次……」
沙希は小さく首を振って否定した。
「だって、私、忘れてたんだもの。両親のことも先輩のことも剣道のことも何もかも。……その時、私が何を考えてたかわかる?」
「……なんだろう。想像もできないや」
「アンタのこと」
「僕?」
「そう、アンタ。今頃、啓次はまたお兄さんの嫁だか、年上のおばさんだか、無防備な童貞の寝込みを襲いに来る痴女だかのことを考えてるんだろうなぁ……ゴソゴソと一人遊びに耽っているんだろうなぁ、なんてことを考えながらムカついてた」
「痴女て……め、巡莉さんはそんな人じゃ……」
「そうやって巡莉さん?だっけ?その女の名前を叫びながらシコシコしてるんだろうなぁってブチギレてた」
「っそ、そんなことっ!!……して……ない……です、よ??」
「……ムカつく」
またしても啓次の腹をつねるべく伸ばされた沙希の指。
しかし、今度は触れる直前になってゆるやかに力が抜かれてしまう。
「心配をかけた両親、ケガを負わせてきっと私以上にショックを受けているであろう先輩。そんな色んなことを忘れて、好きな男のことを考えて勝手にヤキモチやいてる私が優しいはずないのよ、啓次……」
「……でも、すぐに思い出したんでしょ?」
「うん。天井を見上げてるその視界になんか違和感があってね。なんだろう?なんか窮屈というか狭いというか、変な感じだなって思って。何気なく右目に手を当ててみたらなんかガーゼみたいなのが覆ってて、邪魔だからって剥いでみても何も変わらないし。……その個室の病室に鏡がなかったのは誰の配慮だったのかしらね。探し回っても手鏡一つなくて、そんなこんなしてるうちにお医者様がやってきて慌ててベッドに戻されちゃったって感じ」
ふぅ……と一つ、沙希は息を吐く。
「大丈夫?」
ただでさえ自分語りというのは体力や気力を消耗する。
自分が語り下手であることを加味しても、あの日、公園のベンチで沙希に巡莉への想いを吐き出した時も、何とも言えない疲労感にとらわれたことを経験している啓次だ。
おまけに彼女が語るのは、曖昧であっても辛い記憶。
啓次は、そんな沙希が心配でしょうがない。
「無理しなくてもいいんだよ、サキ姉」
「ありがと。でも、大丈夫」
フルフルと首を振る沙希。
「今、一気に喋ってしまわないと、きっともう言える機会は相当先になりそうだし……」
「え?……それって……」
「ふふ、意味深でしょ?これが小説なら続きが気になって気になってページをめくっちゃうでしょ?」
「サキ姉……真面目な話なんだよ」
「そう、これは真面目な話。小説でも映画でもない、現実の話」
沙希の語りはいよいよ最終盤に差し掛かる。
「繰り返しになるけれど、私の右目、もうほとんど見えないの」
そして、その物語の結末はやはり。
誰かの心を震わすように敢えてこしらえられたような捻りもなにもなく。
彼女に、そして彼にとっては悲劇的な終わりを迎えるだけだった。
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