第18話・これが、ヘタレ男の決断(後)
「……ともかく……」
平常運転というか、もはやお約束の様式美となっている乳繰り合いに一区切りがついた頃合い。
沙希は啓次に背負われたまま改まった口調になる。
「ありがとう、啓次。すごく……すごく、嬉しいよ」
「けほっ……なら、照れ隠しのバイオレンスは控えて最初からそう言ってよ。けほっ……」
「ご、ごめんってば。つい、癖で……」
「僕はもう慣れたからいいけど、今後は本当に気を付けてね?子供が生まれたら教育にも良くないと思うし」
「こどっ!!ううう……あ、アンタ、そんなこと臆面もなく……」
「なんでそんなにウブいの?この二年で退行してない?可愛いけど」
「うう……友達が餞別によこした昔の少女漫画を読み漁った影響ね……ベッタベタであっま甘なやつ……」
「理由が可愛い過ぎる」
「う、うっさい!!そ、そーゆーアンタは……なんだか変わったわね。……啓次のクセに生意気……」
「……それだけの時間だったんだよ、二年は」
「……そうかもね……」
ギュ、とまた沙希の腕の力が増す。
「……で、アッチの方は?」
しかし、その締め付けは、これまでの恥ずかしや嬉しさを示したものとは少しだけ趣が違う。
それは意を決した緊張感のために、強張ったという感じだった。
「恋人としては、進路よりも告白よりも、ソッチのが俄然気になるんだけど?」
「うん……」
そう、啓次としても実のところ、ここからが自分語りの本題であった。
沙希に負けじと、こちらも全身を少し硬くする。
「お義姉さん……巡莉さんだっけ?その人のこと……まだ好きなの?」
「好きだよ」
啓次はキッパリと言い切った。
「あの頃と変わらない。サキ姉に初めて相談した時から、何も変わらない……」
「……二股野郎」
「……義姉さんへの、巡莉さんへの恋心はやっぱり変わらない。……変わって……くれないんだよ、サキ姉……」
「……続けて(キュ)」
背負われたままでは、その時啓次がどんな顔をしていたのかは見えない。
それでも沙希は彼がとても愛しい人への恋心を吐露しているとは思えない苦し気な表情をしていることが手に取るようにわかり、言葉と腕でもって励ます。
「サキ姉を愛している。サキ姉とこの先の人生を添い遂げると決めた。嘘じゃない。この気持ちに後ろめたいところなんて何もない。僕はサキ姉だけを見てるんだ。……なのに……なのに……」
「大丈夫……大丈夫だから続けて、啓次?」
「忘れられないんだ、あの夜の彼女が……家族に笑いものにされて握り込んだ拳を、晒しものにされて噛みしめた唇を、悔しくて恥ずかしくて怒りに震えた体を、すっぽりと包み込んで解きほぐしてくれた、あの人の優しさが……」
「うん……」
「サキ姉が与えてくれていたのとはまた違う……たぶんあの頃の、一番、不甲斐なくて甘ったれだった頃の僕が何よりも求めていた、ストレートで温かな愛情が、どうしても忘れられない。……僕を認めてくれた、僕を救ってくれた、あのたった一夜の出来事が……」
「うん……うんうん……」
「諦めようと思った。だってあの人は兄さんのお嫁さんだ。所詮は届かない恋。届いちゃいけない恋だ。憧れとして、いい思い出として、叶わなかった初恋として、僕の中で昇華していかなくちゃいけないんだ」
「……だけど?」
「だけど、ダメなんだ。一緒に暮らすようになって、知らなかった顔をいっぱい見て、無防備に触れてきて、美人で可愛くて、そしてやっぱり蕩けるみたいに優しくて……その魅力に、正直グラグラ揺れてばかりいる」
「……だけど?」
「……だけどね、サキ姉?違うんだ。そんな魅力にあてられただけならまだよかった。我慢できた、吹っ切れた。辛くても苦しくても、どうにか割り切ることはきっと出来た。……『どうにか』とか『きっと』とか言ってる時点でもうアウトなのかもしれないし、今さっきプロポーズ紛いのことまで言った相手に言っていいセリフじゃないけれど……」
「ま、私以外の女なら『さいってぇ!!』ってビンタされてもおかしくないゲス発言よね」
感情が昂っているだろうに、それでも沙希への気遣いを忘れない啓次。
それは機嫌をうかがうようにビクビクしたものではなく、さきほど恋人になったばかりの彼女を傷つけてはいまいかと、ただ沙希を心配しているだけのようだった。
だから沙希は何も気にするなという意味、そして先を聞かせて欲しいという促しを込めて、いつも通りの強気な口調で言う。
「……私はアンタっていう人間の誠実さを知ってるし、その恋がイビツで間違ったことなんだって啓次自身がずっと自覚し、だからこそ盛大に悩みまくっていたことも知ってる。……何より私はアンタにとっても恋しちゃってる。啓次の私への愛が本気だとも信じちゃってる。……だからこそ、堂々と二股宣言されても、こんなに落ち着いて聞いていられるの」
「ありがとう、サキ姉。……ごめんね」
「いいよ、今更。そのお義姉さんへの初恋が、まわりまわって私たちを結び付けたって前向きに解釈できないこともないでもないなんてこともなくはない」
「……実はぜんぜん納得してないよね、それ?」
「ほら、とりあえず私のことはいいから。……それで?彼女の何がアンタをとらえて放さないの?」
「……すごく、寂しそうなんだよ、あの人」
そう呟き、遊歩道の上で立ち止まった啓次は、一時の回想に耽る。
啓次が巡莉のことを思い出す時、彼女は大体において笑っている。
大学に出かけるのを見送ってくれる時。
アルバイトから帰ってくるのを迎えてくれる時。
向かい合って食事を摂る時。
他愛のない世間話をする時。
鼻歌混じりに掃除機をかけている時。
風呂上りにリビングでくつろぐ時。
楽しい時、嬉しい時。
困った時、悩んだ時。
塚原巡莉は、わずかな笑顔の出し入れだけで様々な感情を表現する。
それは、たとえ哀しい時、辛い時も例外ではない。
たぶん、遠くに暮らす兄のことを思い出す時。
たぶん、啓次がいないマンションの一室で一人きりの時。
彼女の口元には、それでも笑みが浮かんでいる。
……しかし、あの日、あの夜、あの暗い部屋の中で見せた笑みだけは違う。
―― いい……んです…… ――
あんな身を切るように切なげな笑顔は……。
―― ……啓次……さん…… ――
どんな時でも誰であっても、決して浮かんではいけないものだ。
「……巡莉さんは優しい」
啓次は深くひそめられた眉もそのままに続ける。
「とても優しい。そしてその優しさで誰かを包めるくらいにとても強い人だ。僕は言うに及ばず、精神的な強さだけでいえば、きっとサキ姉よりも、ずっと」
「そうね。話に聞くだけだけど、割と一筋縄じゃいかない掴みどころのなさそうな人みたいだし。……なんとなく『したたかさ』と読む種類の『強さ』な気もするけれど」
「その巡莉さんがさ、たった一度だけ見せたんだ。微笑みながら、僕に優しい言葉をかけながら、とっても哀しそうな……今にも巡莉さん自身が泡になって消えてしまいそうな弱々しい表情をしてたんだ」
「笑いながら泣いてた?」
「うん、安直な表現だけどそんな感じ。すぐに引っ込んだし、一緒に暮らしてからは一度も見てない。あの時は僕も冷静じゃなかったから、気のせいだとか考え過ぎなだけかもしれないけど……」
あの時の、『いいんです』の響きが忘れられない。
まるで月を隠すように立ち込めた宵の雨雲のように顔を覆った細い笑みが忘れられない。
放って置けない、無視できない。
愛だの恋だのという前に、あの優しい人のことをこのままにしてはいけないと、焦燥感が沸き上がる。
啓次の心の繊細な部分を、何かがずっと急かして駆り立てる。
そろり、這い寄り。
ぬらり、近づき。
しゅるり、絡みついては放さない。
―― お姉ちゃん、もう二度と貴方を離したりしないからね ――
「…………」
聞いた覚えはまるでなくとも、何故だか啓次の胸に深く刻み込まれた甘くて柔らかくて妖し気な言葉。
どこか塚原巡莉という女性のすべてが込められているような気がする、危うくて寂しくて悲し気な響き。
それが、いつまでも啓次をとらえて放さない。
……決して、放してはくれないのだ。
「…………」
「…………」
束の間に流れた沈黙。
そうして立ち止まり、互いに無言になると、静謐だと思っていた夜が途端に騒がしくなる。
仄暗いベンチで肩を寄せ合う恋人たちの囁き声。
通りを挟んだ繁華街の混濁した喧騒。
穏やかな凪をすべる船の汽笛。
遠くでくぐもる救急車のサイレン。
世界は色とりどりの音で溢れている。
世界は立ち止まる者たちを置き去りにしたまま回り続ける。
世界には、色々な形の恋がある。
世界には、停滞したまま行き場を失う恋がある。
「……ねぇ、啓次?」
最初に口を開いたのは沙希。
弟分が迷い、悩み、苦しんでいる時には、手を伸ばさずにはいられない、厳しくて優しい姉貴分。
彼を導き、助けるためならば、自分が傷ついたり悪役になることも厭わない、塚原啓次の恋しくて愛しい幼馴染。
彼の『お姉ちゃん』であることに誇りすら抱いている彼女が、ここで黙っていられるわけもない。
「もしかしたら、アンタは怒っちゃうかもだけど……私のこと、嫉妬深い嫌な女だと思っちゃうかもだけど……でもね、それでも……」
「……うん、これはもう、恋じゃないんだろうね」
「え?」
そして、塚原啓次。
あの優柔不断で情弱惰弱なヘタレ男が、二年の歳月を余さず費やして導き出した答えは、無暗に恋人を傷つけさせることを許したりはしない。
……たとえそれが。
……自分を自分でズタズタに引き裂くことになったとしても。
「とっくにこの恋心は昇華されていた。もう僕の中で巡莉さんは恋をしている相手じゃなく、掛け替えのない大事な家族になっていた。体が触れ合えばドキドキする。無防備な姿を見ちゃえばクラクラだってする。何かの拍子に心が疼いて、その甘さに間違いを犯しそうにもなる。……浮気性な彼氏でホント、サキ姉には申し訳ないんだけれどさ、ははは……」
「……啓次……アンタ……」
「だけどさ、うん。巡莉さんは家族なんだ」
「……うん」
「美人で優しくて、悪戯っぽくてお茶目で可愛くて……ぶっちゃけ滅茶苦茶エッチな体つきをしてて……それでもね、サキ姉。あの人はもう僕の家族なんだ」
「うん、うんうん……」
「初めて好きになった女の人で、僕の存在を認めてくれて……年上で大人で、兄さんのお嫁さんで、義理のお姉さんで、僕じゃない人を愛していて……絶対に……絶対に叶わない……恋、で……」
ポツリ……
「……啓次……」
「ダメなんだ……諦めなくちゃダメなんだ……初めから届いちゃ、叶っちゃ、いけない恋だったんだ。……恋なんか……しちゃいけなかったんだ……」
ポツリ、ポツリ……
まるで、いつかの夏の日の冷たい雨のように。
海浜公園の舗装された地面の上に、雫がおちる。
「わかってたよ……ずっとわかってたよ……恋をしてしまった瞬間も、恋をし続けたこの数年も、ずっとずっとわかってたよ……こんなのは間違いだって、いけないことなんだってわからないわけがないだろ……そんな風に……言い続けて来ただろ……」
ポツリ、ポツリ、ポツリ……
しかし、その雫は雨粒などではない。
熱さも、清さも、
その小さな一滴一滴に込められた想いも、
無機質に降り注ぐばかりの雨とはまるで違う。
「何度も思ってきた。何度も何度も言い聞かせてきた。ダメだ、やめろ、忘れるんだってさ。……だって僕にはサキ姉がいる。大好きで大好きで仕方なくて、こんな僕のことを好きだと言ってくれた大切な幼馴染の女の子がいる。……彼女だけを見て行かなくちゃならない、これじゃサキ姉にも僕のサキ姉への恋心にも失礼だって……何度も何度も何度も何度もさ……なのに……なの、に……なのにっ!!」
「…………」
沙希は声を掛けない。
「好きなんだよっ!!大好きなんだよっ!!美人?可愛い?優しい?……いや、違う。家族?姉?放って置けない?……違う、違う、そうじゃない。そんなものは全部後付けだ。そんなのこの歪んだ恋をどうにか正当化しようと、どうにかしようと自分の中で勝手にこしらえたそれらしい言い訳でしかないんだ……」
「……(ギュッ)……」
沙希は……声を掛けない。
ただ静かに、ただ愛し気に。
誰にも言わず、自分自身にすら取り繕っていたものをかなぐり捨て、ここで初めて、その初恋へと真正面から向き合っている恋人の震える体を。
沙希は力強く抱きしめる。
「理屈じゃないんだ!!理由なんてどうでもいいんだ!!好きなんだ!!一目あった時から、一言言葉を交わしたその瞬間から、僕はあの人のことが好きになったんだ!!あの人の何もかもが大好きなんだ!!」
「……(ギュッ)……」
「……でも……ダメなんだ……」
「……(ギュッ)……」
「忘れなくちゃ……ダメなんだ……」
「……(ギュッ)……」
「僕が前に進むためには……サキ姉と……一生を共にすると誓った大好きな恋人と幸せになるには……同じくらい大好きなあの人のこと、忘れなくちゃダメなんだ……家族にならなくちゃ……なんでもない、どこにでもいる『義理の姉』と『義理の弟』にならなくちゃ……」
「……っつ!!(ギュゥゥゥッ)」
「そうじゃ、ない、と……ダメ……っつ!!ダメなんだよぉぉぉぉ!!!!」
黒い
満天とは言えない星の煌めきと、満月にはいささか足りない欠けた月。
写真や思い出に残すほどに特別なものはない有り触れた空なのだろう。
……しかし、それでも。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「……ぐす……(ギュゥゥゥッ)」
一人の男の一つの決断と、一人の女の一途な想い。
そして。
一つの始まることさえ許されなかった初恋の終わりを告げる痛々しい慟哭を受け入れるには十分すぎるほど……。
空は広く美しく
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