第8話


ああ、もうすぐだ。もうすぐで、父は、


「夏南…うわ、うわあああ!」

鉄砲水のような激流が、突如父の体に襲いかかり、その体をさらっていく。父の体はものすごいスピードで流され、枯れ葉のような軽やかさで岩にぶつかり、動かなくなった。

激流から外れた岩に、体が半ば乗り上げている父の首も手足も、おかしな方向に曲がっている。鼻と唇からどろりとした血液が垂れ流しになっていた。

私はそこまで泳いでいき、父の首筋にそっと手を当てた。捻られた首は、まるでチュロスのような妙な感触がした。両指をその捻れた首にあてがい、軽くきゅうっと絞める。

くく、とほの暗い笑い声が喉の奥からもれた。


ああ、お父さん。お父さんお父さんお父さん。やっと、私だけのものになった。私だけを愛したままで、私だけを見つめたままで。





この一件は悲惨な事故で片づけられたが、この日以来母は私が水辺に近づくのを過剰に嫌がりだした。父を失い、娘の私まで失うのが怖いのだろう。父を亡くした後、暫くは私が外に出る事さえ嫌がり、見かねた母の兄…叔父が母を強制的に心療内科へと入院させ、私は叔父の家でやっかいになることになった。

母は未だに私を見ると、半狂乱になり暴れる時がある。水辺には悪魔が住んでいるから、お前を連れていってしまう。そう言って、さめざめと泣くのだ。


馬鹿なお母さん。水辺に住んでいるのは悪魔なんかじゃない。私の、味方なのに。





ごぼり、と大きな気泡を生んで、目の前の竜貴が目を見開いたまま全身から力を抜いた。大きく見開かれた目は私を映したままだ。

ああ、これで彼も私のものだ。私をその目に映したまま、私に意識を向けたまま、私だけの最愛の人となった。


彼を抱いて水面を目指す。肺いっぱいに息を吸い込み、温度のない竜貴の唇に目を閉じてキスをした。瞼の裏で、夢の中の人魚が、私と同じほの暗い笑みを浮かべた気がした。




終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水棲華 @3476

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る