その男は迷っていた

jin-inu

第1話


その男は迷っていた。



その男は迷っていた。

何処に行くべきか、行かないべきか。

何を食うべきか、食わないべきか。

髪を切るべきか、切らないべきか。

服を買うべきか、買わないべきか。

映画を観るべきか、観らないべきか。

迷い続けながら、どうでもよかった。

全ては、どうでもよかった。

どうでもいいことだった。

何故なら男にはもう、行くべきところも、食うべきものも、切るべき髪もなかった。

男にあるのは、ただ胸の中にある苦い後悔だけだった。

自分が何かをしようとしなかった、苦い後悔が、男の胸を占めていた。

ただ迷っているうちに、もう男の人生は終わろうとしていた。

何かを、確固とした何かを、男は手に入れたかった。

これぞという何か。

次の世代に手渡すべき何か。

自分を看取るものに手渡すべき何か。

たった一つ、自分の人生の全てが詰まった何か。

死力を尽くして戦った巨大ザメの歯で作ったペンダントか。

前人未到の山の頂で拾った石か。

新種の蝶の標本か。

勇気ある行為を称える勲章か。

優勝を記念するトロフィーか。

命を救われた者からの感謝の手紙か。

年老いた自分を看護する若い未熟な看護師に見せる何か。

それ一つで自分の一生を象徴して見せることのできる何か。

男の両手には何も握られておらず、男の部屋の壁にはなにも飾られていなかった。

男は自分の心の中を覗き込む。

そこにあるのは、焼けるような苦い後悔だけだった。

男はテーブルの上の仮面を顔に被り、部屋を出て行った。

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