第三話 心というものが煌めく珠なれば

 縫の朝は、早い。

 夜が白々と明ける頃に寝床から出で、井戸端で冷たい水を頭から浴びる。

 風呂の中で丁寧に温められた両の乳房と膨らみの先も、夜伽の余韻にうずく秘部も思い返さぬよう、己が体を戒める。

 髪をよく拭き、着物に身を包む。淡黄から萌黄色のグラデーションの着物に、抹茶色の袴を合わせた。

 最低限の化粧を手早く済ませ、昨日着た衣類を洗濯。家の中を一通り掃き掃除。野菜を穫って炊事。朝食も弁当もつくる。

 握り飯は、梅干、鮭、菜飯の三種類。おかずは、だし巻き玉子とふきの煮物。おおめにつくり、朝食にまわす。味噌汁は、大根と大根葉。

 朝の仕事を一通り終えると、縫は縁側に腰を下ろした。手元に持ってきたのは、欧米の弦楽器、ギター。

 祖母が生前使っていた筝の譜面立てにギターの譜面を広げ、脚を組んでギターを構える。脚を組んだ方が、腕の角度が自然になり力を入れずに弾ける気がする。

 縫がギターに出会ったのは、大学生のとき。学業の傍ら働いていたミルクホールの常連客に教えてもらい、中古品を譲ってもらった。弦も譜面も数が少なく、安価ではない。それでも長年縫の趣味になっているのは、ギターに触れている間は気が晴れるからだ。縫の“心珠しんじゅ”も綺麗になってくれれば良いのだが、こればかりはどうにもならない。

 淡く寝ぼけたような春の空に、“心珠”を出してみる。縫の“心珠”に変化はなかった。



 大学病院に出勤する安利あんりを見送った縫は、食器を片づけ、寝間着と敷布を洗濯し、布団を干した。寝間着と敷布はなるべく毎日洗濯するようにしている。

 安利が南蛇井の家に下宿を始めたとき、縫は安利と接触したことがなかった。両親祖父母から禁じられていたからだ。

 遠目から安利の姿を見たことがある。縁側で読書をする彼の仕草に、縫は心を奪われた。

 安利が下宿を始めて一年も経たないうちに、縫の両親祖父母が他界した。

 帝の崩御が国民に知らされ、後を追うように縫の両親祖父母が自害したからだ。縫もその場にいたが、あまりの恐怖心から自らの咽喉を短刀で突くことができなかった。

 失神した縫を見つけ介抱してくれたのが、安利だった。

 その夜のうちに、縫は安利と一緒に風呂に入り、寝床で抱かれた。縫から望んでそうしてもらった。

 独りになるのが怖かった。どんな手を使っても、安利の傍にいたかった。安利につなぎ止めてほしかった。

 あれから十一年。安利は縫を深く愛し、つなぎ止めてくれている。



 白衣ドクターコートに身を包んだ縫は、檜田ひだ老人の傍らに膝をつき、体温、血圧、脈拍数を測定する。聴診器で胸の音を訊き、全身の状態を観察した。

 縫の友人、礼奈れなが嫁いだ檜田家は、齢八十五になる檜田老人が髪結床を始め、礼奈の夫で三代目になる。

 檜田老人は現役を退いた今も、美容室と名を変えたこの店に毎日のように顔を出し、来る人来る人と話を弾ませていた。しかし、近年は徐々に身体機能が衰えてゆき、日によっては臥床することもあった。

 縫が気になったのは、檜田老人の下肢の浮腫ふしゅだ。いわゆる、むくみ。歩くと痛い、と本人からの訴えも聞かれていた。心臓も弱くなってきている。

「バイタルに問題はありませんが、足のむくみが増えましたね。今回は、利尿剤を処方します。それで様子を見ましょう」

 不安げに見守っていた檜田家の面々は、静かに安堵の息をこぼした。この日のために美容室を臨時休業し、子どもも学校を休んだほどだ。檜田老人がどれだけ慕われているのか、縫にも察することができた。檜田老人を慕っているのは、家族だけではない。刀を携えた武士が世を治めていた頃から生きている檜田老人は、町中の人に慕われている。縫も小さい頃から面倒を見てもらった。縫にとっても大切な人だ。

 だからこそ、この後にしなければならない話を切り出しづらくなる。しかし、話さないわけにはゆかない。

「それと、今後のことですが」

 縫が話し始めた途端、皆の表情が険しくなった。

 特に近しい大人を呼び、少し離れたところで説明をする。

「お家で最後まで過ごして頂くか、入院してできるだけの治療をするか、ご家族様で話し合って頂きたいのです」

「何ですか。まるで、おじいちゃんのみたいな言い方」

 きんと高い声で口を挟んだのは、檜田老人の娘か姪くらいの歳の人だ。

「仰る通りです」

 非難されるのは承知の上で、縫は言葉を濁さず肯定した。

「おじい様は、心臓が弱くなっています。そのため、心臓が血液を上手く循環させられず、浮腫となって足に症状が出ているのです。検査をしてみないと何とも言えませんが、肺に水が溜まっていることも考えられます。すぐに入院して延命のための治療を行うか、利尿剤で排尿を多くして体内の水分を出すか、どちらかの方法です。入院をご希望でしたら紹介状をお書きしますが、在宅で様子見の場合は」

「うるさいわね。女のくせに医者だからって偉そうに」

 話を逸らされないように区切らずに話していたが、無理矢理遮られてしまった。

 縫は静かに話を再開する。

「なるべく今までと変わらない暮らしをして頂きたいのです。足を台に乗せて挙上して頂き、お客様とお会いし、笑って喋って、水分も食事も摂って頂いて」

「なぜ? 今はこんなに元気なのに」

 これは礼奈の呟きだ。

 そう思うのは当然だろう。急に話をされても、はいそうですか、と受け入れられるはずがない。

 結論は出ず、後で教えてくれる、とのことになった。

「死にぞこないのくせに」

 あの女の人が、縫を睨んで吐き捨てた。檜田老人ではなく、明らかに縫に向けられていた。



「筝の先生のお孫さん、立派になったな。先生と呼ぶべきか」

「いえ、まだまだ学ぶことの多い身ですから」

「ははっ、そうかい」

 檜田老人は明るく笑い、上体を起こした。周りの人が慌てる。

「俺ぁ、そろそろあの世に行くんだろ?」

 あまりにも明るく、無邪気に訊ねるものだから、家族の方がうろたえてしまう。

 檜田老人は手を開き、“心珠”を出現させた。

 少量の墨を水に溶かしたような薄闇の珠の中で、炎が揺らめいている。昔から縫に見せてくれた、檜田老人の“心珠”だ。

「この火が消えるまで、俺ぁ、馬鹿笑いして生きてやるんだ。『楽しかったぜ、またな』って言って、大手を振ってに行ってやる。そうできるように、頼むぜ、縫先生」

 にかっ、と爽やかに笑う檜田老人に、縫は大きく頷いた。

 本当に心というものが煌めく珠なれば、身体が衰えようと最期まで煌めく珠で在り続けるのかもしれない。

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