第四話 甘い甘え

 縫が幼き頃は、家に女中がいた。

 ひとりっ子の縫は、その女中を姉のように慕い。家中をついてまわって色々なことを教えてもらった。

 炊事、洗濯、裁縫、家庭菜園、文学、流行りの着物、製菓、四季を楽しむこと、優しいという心。

 彼女は、本当は医者になりたかったと言っていた。しかし、貧乏な親に反対され、言われるがまま女中の仕事をするしかなかった。

 親の決めた許嫁がいる、と言っていた。軍人で、堅実な性格の人。彼女は、その人の後添えとなった。

 その後のことは聞いていない。

 彼女の“心珠”は、深い海の底のようにどこまでも青く、時折わずかな光を見せた。

 縫は、彼女がうらやましかった。縫もそのような“心珠”を持ちたかったと思った。

 しかし、今は。

 今は、縫の汚い“心珠”を美しいと言ってくれる人がいる。



 ただいま、と玄関から声がする。

 縫は高鳴る胸を抑え、お帰りなさい、と出迎えた。ただし、笑みを見せず、感情も表さず。

 疲労の色を浮かべた安利あんりは、夕飯のはまぐりのお吸い物に口をつけ、安堵の息をこぼした。さわらの西京焼きは「焦げた味噌がうまいんだよな」と米飯と一緒に頬張る。独活うどの胡麻和えを、おいしそうに咀嚼する。

 安利は酒を飲まない。煙草も吸わない。仕事の後は、まっすぐこの家に帰ってくる。上司の医者と飲むこともない。“ほうとう”は醤油味が良い、と言う。

 夕飯をぺろりと平らげた安利は、お茶を飲みながら「そうだ!」と身を乗り出した。

「この前来たばかりの藤堂とうどう柊郎しゅうろう先生が、縫の論文を読んでいたよ」

「藤堂……先生?」

 週二回大学病院に勤務している縫には、聞いたことのない名だった。まだ会っていないもかもしれない。

「それで、この論文を書いた人はどんな人かと訊かれた」

「何と答えたの?」

「真面目で優しくて気立ての良い若くて可愛い女の子だと答えておいた」

「やだ、やめてよ! 全部嘘じゃん!」

「本当のことを言っただけだよ」

 安利は澄ましてお茶をすする。

「縫は俺よりも実力のある医者だと思う。そんな縫が冷遇され、罵られ、女だからと卑下されるなんて、俺には耐えられない」

「されてないよ、そんなこと」

 安利に無言で見つめられ、縫は目をそらした。

 新任の医者が、縫の論文を読んでくれた。研修医時代に欲をかいて書かなくても良かったのに必死で書いて発表した、つたない論文。“心珠”を医学的な面から解釈し事例を用いて持論を結論にし、難色を示されたが渋々発表を許可された。すぐにお蔵入りになったとばかり思っていたが、読んでくれた人がいた。

 縫は世間の女性像から大きく逸脱している。しかし、自分の進んできた道が、これでも良いのかもしれない、と思うようになったのも事実だ。



 ぬるくなった風呂で一日の疲れを落とし、縫は寝室に向かった。

 畳にふたつ並べて敷いた布団で、安利が腹ばいになって本を読んでいた。ランプは点けているが、昼間のように明るいわけではない。

 安利は縫に気づくと、本を閉じて布団の外に置いた。掛布団をはねのけ、胡坐あぐらをかく。

 縫は拍子抜けしてしまった。いつもの安利なら、寝転がったまま「おいで」と甘い声で促すのに。

 縫は布団の上に正座し、安利に向き合う。

檜田ひだ老人のこと、聞いたよ。姪だという人が近所でわめいていた」

 安利は、職場である大学病院までバスで通勤している。停留所から家までの間で、美容院の前を通る。

 そのとき、檜田老人の姪が、迷惑がる近所の奥様を相手に、縫への不満をぶちまけていたのだそうだ。

 おじいちゃんは怠けているだけ。死ぬはずがない。あの女は金儲けがしたくて嘘をついている。

 安利は礼奈れなと夫に呼ばれ、昼間の話を聞かされた。

「縫の診断に口を出すようなことはしない。縫は毅然としていればいい。寝る前に、それが言いたかった」

 おいで、と甘い声で誘われ、縫は膝がぶつかるまでにじり寄った。すると、安利は腕を伸ばし、力ずくで縫を胡坐の上に乗せる。縫は膝を崩すように安利にしがみついた。

 安利は縫を受け止め、ふわりと抱きしめる。

「縫」

 とろけるように甘えた声が、縫の鼓膜に触れる。

「縫」

 甘く震える声が、縫の胸も震わせる。

「縫」

 熱をもった甘い吐息が、縫の耳朶を撫でる。

「俺は縫に甘えてばかりだ。縫が毎日帰りを待ってくれているから、俺は安心して縫のところに帰ってこられる。縫がいなくなったら、俺はきっと壊れてしまう」

 初めて聞いた安利の本心は、縫の心に触れ、琴線をかき鳴らす。

 本当は、夫婦になりたい。胸を張って幸せに暮らしたい。

 結婚の許しを得るために、安利の実家に行ったことがある。

 安利の親からは、縫が大学に進学したこと、縫の“心珠”が汚いこと、安利には医者を諦めて田舎の女と結婚してほしい、と理由をつけられ、結婚を反対された。

 縫の身の上を聞いた安利の親は縫を「死にぞこない」と罵り、安利が激怒。安利は実家と縁を切った。

 駆け落ちを考えたこともある。

 しかし、縫は安利の、安利は縫の医者としての道を閉ざしてしまうことを危惧し、実行に移せなかった。

 何だってやる、と言いながら駆け落ちができなかったことを、安利は悔いているかもしれない。

 安利は甘えていない、と縫は思う。甘えているのは、縫の方だ。いつも安利に助けてもらってばかりで、何も返せていない。

 だから、縫も宣言する。

「いつまでも一緒にいよう。そのためなら、私も何だってやるよ」

 ランプの灯が頼りない暗い中で、縫は安利に口づけた。彼がぴくりと震えた隙に無理矢理体を寄せ、誘うように再度口を吸う。ぬるい風呂で冷めた体が、芯から温かくなる。彼の寝間着の帯に手をかけると、寸でのところで手を重ねられて阻止された。うなじをかき抱かれ舌を絡める執拗な口づけをお見舞いされ、同じやり方で反撃した。

 寝間着の袷に手を入れ、手を入れられ、はだけた肌で触れ合う。

 女は寝間着の裾が大きく割れるのも厭わずに、男の両の腰骨に、己の両の大腿をすり寄せた。

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