第二話 夜の帳にはだける心

 少女を玄関で見送った後、ぬい診療録カルテに記録し、鍵つきの棚に診療録をしまった。

 窓を閉め、手早く掃除し、白衣ドクターコートを衣紋掛にかけた。欧米から持ち込まれ和装に合うよう改良された白衣は、白い羽織のような形だ。

 白衣の下は、乳白色の地に薄紅色の桜が舞う着物と、濃紺の袴。髪は結えないように肩につかない長さで切られている。

 齢二十八にして、独身。女だてらに医者。女は二十歳になれば嫁ぎ家庭に入るものだといわれる世間において、縫は色々と逸脱しすぎている。それをとがめる両親祖父母も、今はいないのだ。

 縫は診療所を施錠し、自転車にまたがって夕方の町へこぎ出した。

 古い塀にくくりつけられた一枚の看板が、風で揺れた。



 南蛇井診療所

 内科

 九時から十七時迄

 休診日 水曜日、土曜日、日曜日

 心珠に関する相談もお気軽にどうぞ



 “南蛇井なんじゃい ぬい”は、本名だ。

 氏名ともに珍しいため、すぐに呼んでもらえたためしがない。珍しいからといって、すぐに覚えてもらったためしもない。

 古くから南蛇井の家を知る人は、「筝の先生のお宅」と言う。縫の祖母が生前、自宅で筝の教室を開いていたからだ。

 若草色の“心珠”を誇らしげに縫に見せてくれた祖母。

 何事においても絶対的に正しかった祖母は、常に多くの人に尊敬されていた。

「縫!」

 美容室に嫁いだ旧友、檜田ひだ礼奈れなが、縫を見つけて遠くから手を振る。

「礼奈! 明日、おじい様の往診にお邪魔させてもらうからね!」

「かしこまり! ありがとう!」

 美容室の前で礼奈とすれ違い、縫は商店街で自転車を降りた。向かうのは、馴染みの魚屋だ。

「おお、筝の先生のお孫さん。また綺麗になったんじゃないのか? 来ると思ったから、鮭の切り身、残して置いたぜ。それと、豆腐屋から油揚げの差し入れ」

「いつも、すみません。ありがとうございます」

 一切れおまけしておくから、と魚屋の旦那さんが鮭を三切れ包んでくれる。いつも一言余計だが、それが気にならない明るさと太っ腹な精神に、縫は救われる。

 暗くならないうちに家へ戻り、敷地の隅の菜園で新摘菜を取り、人参と玉葱を抜く。

 家の灯りをつけ、前掛エプロンをつけて夕飯の支度に取りかかった。

 米飯は二人前炊く。釜の火を見ながら、人参と玉葱と油揚げの味噌汁をつくる。

 新摘菜は茹でて、お浸しに。

 鮭は三切れとも焼き、一切れは明日のために取って置く。

 ぬか床からかぶを出し、薄く切る。

 米飯が炊きあがった頃、玄関から「ただいま」と声があった。

 声に呼応し、縫の胸も高鳴る。

「お帰りなさい、安利あんり

 妻のように出迎えると、相手は整った顔を綻ばせた。“塩顔”と称される顔立ちの彼は、名をいぬい安利あんりという。

 齢は三十。帝国大学付属病院に勤務する内科医であり、学生の頃から南蛇井の家に下宿する者である。

「安利、花びらがついてる」

 安利の肩についた桜の花びらを取ろうと縫が手を伸ばすと、大きな手で制された。

 大きな手相応に長い指は、縫の顎を、つと持ち上げる。

 縫が息をつく間もなく、唇を重ねられた。

 すぐに苦しくなり、口腔に隙間をつくろうと舌を動かすと、舌で制され、深い口づけを施される。

 鼻から抜けたような声が漏れ、一瞬意識が遠のきかけたとき、ちゆ、となまめかしい音をたてて唇が離れた。

「のっけから可愛いことをするな」

 罪つくりな唇は、縫の耳朶を掠めて、あそぶ。

「可愛くて仕方がない」

 鼓膜を震わせる声がくすぐったくて、吐息もくすぐったくて、縫は身をよじる。逃がすまいと腰を抱かれ、動きを封じられた。

「あの、安利、お夕飯」

「うん、食べようか」

「でなくて、先に食べてて。お風呂、沸かしてくるから」

「一緒に食べて、一緒に沸かして入ろうよ」

 あのときのように、とささやくくようにつけ加えられ、縫は顔から火を噴きそうなほど恥ずかしくなった。

「そんな昔の話、もう忘れてよ」

「俺は、昨日のことのように覚えている」

 安利は、片手で縫の腰を抱いたまま、片手で縫の頭を撫でる。

「いつまでも一緒にいよう。そのためなら、俺は何だってやる」

 優しい口づけが、縫の額に落ちる。

 安利が帝国大学医学部に入学し、この家に下宿し始めたのが十一年前。ほどなくして、縫はある事件で両親祖父母を一度に失った。

 安利は妻帯せずに独り身を貫いて、許嫁いいなずけでも妻でもない縫を、妻のように扱ってくれる。

 縫もまた、安利を夫のように慕い、安利が望むように振る舞う。

 ふたりきりになったこの家で、ふたりはこれからも夫婦めおとの真似事をする。

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