佐竹笙先生★スペシャルショートストーリー

佐竹笙/角川ルビー文庫

夜はむっつりと更けていく


 数年ぶりに仁老樹じんろうじゅの実を食べた志遠は、すぐに眠ってしまった。

 今日は天狼山脈の近くにまで足を伸ばし、仁老樹の実を採れるだけ採って、さらに「紅蓮」にも遭遇したのだ。肉体的にも精神的にも疲れきったのだろう。

 志遠しえんの小屋で共に伏せる青流せいりゅうは、そのふんわりとした尻尾を優しく撫でた。

「早く大人になれ」と抱きしめたまま横になり、今の気持ちをどう言おうかと考えているうち、気がつけば志遠はもう寝ていた。

 一体いつ伝えるべきだろうか。この先もずっと、共にいたいと思っていることを。志遠の体が完全に大人になったら、身も心もすべて通いあわせたいと願っていることを。

 目の前でかすかな寝息を立てている口元を見つめ、青流は深く息を吐いた。

 ――かわいい……。

 青流はしっかと目を開き、星屑の灯で仄かに浮かび上がる細面を舐めるように見ていた。蓮の花弁のような薄い瞼は大きな瞳をまろやかに包み、わずかに開いた唇はひな菊の花びらを思わせる。こんな小さい顎で何かを「食べる」ことができるなど、不思議でしょうがない。

 青流はおもてを高く上げて、「はぁっ」と荒く息を吐いた。

 ――食べてしまいたい。

 体のあんなところやこんなところを食み、舐めて、すべて味わい尽くしたい。こんなにも何かを「食べたい」と夢想するのは、初めてのことだった。

 志遠が天狼でなければと何度思っただろう。天馬なら許嫁として常に傍らに置き、春が来たその瞬間、すぐに番っただろうに。

 とはいえ天狼でなければ、このふっさりとした尻尾を堪能することはできなかった。天馬のものとは違い、量感があって触り心地がよいのだ。

 青流は白い毛に指を埋め、もっしもっしと撫でさすっていたが、不意に弟から浴びせられた不快な言動を思い出して、フンと鼻を鳴らした。

 この素晴らしさを青蓮せいれんに力説したら、蔑むような目で「嫌だと思っていても言えないでしょうし、自重したらどうですか」と言われたのだ。

「……いやらしい」

 天馬の尻尾の付け根は性感帯だから、尻尾を触ること自体も礼を欠く行為とされている。もちろん志遠の尻尾の付け根を触ったことはないし、天狼の体が同じかどうかはわからないのに、青蓮に「無礼者か変質者のすること」と断罪されて、こちらもムッとした。昔は目に入れても痛くないと思っていた弟だが、最近は腹の立つ時もある。

 だって志遠は、決して嫌がってはいないはずだ。

 例えば、朝。

 志遠の袴には、尻尾を出すための切れ込みがある。青流は着替えを手伝う名目でその中に手を入れ、毎日尻尾を触っていた。

 「ん? 尻尾はどこだ?」と嘯きながらふわふわの毛を上下にしごき、癒しの手触りを堪能しているのだ。

 当の志遠も初めは頬を赤らめていたが、最近では恥ずかしがりつつも笑っている。嫌ならそんな顔はしないと思うし、やめてほしいと言われたらすぐやめるつもりだ。

 つらつらと考えていた青流は、その時ハッと気がついた。

 やはりこれは力関係の上にあぐらをかいた都合のいい解釈で、、実は無体を働いてしまっているのではないか。志遠に「気持ち悪い」とでも思われていたら、絶望と自己嫌悪の淵へと身を投じる羽目になるだろう。

 青流は、自重せねばと己を戒め、志遠の頬を手の甲でそっと撫でた。

 だがやはりかわいい。かわいいものは、かわいい。

 この寝顔に口づけてしまえという、魔の囁きが聞こえる。とはいえ志遠の気持ちを聞く前に、そんな卑怯な真似はできない。

 それに、と青流は志遠を凝視しながら、ごくりと唾を呑んだ。

 一度口づけたら、それだけで済むわけはない。きっと深く口を吸い、舌を絡め、なし崩しにその身を開かせてしまうだろう。そうなった時は、志遠の白い肌も血色が上がり、艶めくのだろうか。

 その想像をした途端、血が沸きたって下半身が熱くなり始めた。青流は固く目をつむり、体を落ち着けようと集中した。手が早いと友人から罵られるが、子どもに手を出すなどありえない。

 ――だが。いい加減、大人になってもいい頃だ。

 天狼だって、十六歳ともなれば普通は大人だと聞く。最近の志遠には妙に色気を感じる時があるし、向こうもこちらをそういう対象として意識していなければ、そんな表情は生まれないはずだと思う。これでは生殺しに近い。

 しかし毎夜悶々としている己の心情を万が一知られてしまっては、距離を置かれてしまう恐れもある。内面で不埒なことを考えていると気取られないよう、普段の青流は己の表情を厳しく律していた。

 「風雲すら散らす俊傑」と称されているらしいこの碧青流が、相好を崩して、いや崩しすぎてだらしなく緩む姿など、誰も見たくはないだろう。志遠が大人になったら思い切り甘やかして睦言を囁き、恥ずかしがる全身を舐め回したいが、今はぐっとこらえているのだ。志遠と会う前の節操のなかった自分に、この姿を見せてやりたい。

 ……志遠はそんなことを知るよしもないだろうが。

 青流は、屋敷に連れてきたばかりの頃の志遠を思い出した。身は細く、まるで浮浪児のような外見だったのに、髪を整えて服を着替えただけで見違えるほどになった。改めて見るとその顔立ちの愛らしさに驚いたが、何よりも目には聡明そうな光があり、常に控えめで出来る限り礼を尽くそうという態度に好感をもった。天狼と聞いて思い浮かべる獰猛さなどは微塵もなく、それに少し戸惑いを覚えたのも事実だ。

 そして今でもはっきりと記憶している。志遠がはにかみながら微笑むのを初めて見た時、今まで経験したことのないほどの強い感情が押し寄せてきたことを。

 それは、腹の底から突き上げる熱い何かだった。「うおぉぉ」と唸りたくなるような、雄叫びをあげたくなるような、名状しがたい衝動。それを堪えねばと、その時は思わず手で口を押さえた。

 こちらは大したことを言ったつもりもないのに、嬉しさゆえの涙をほろりとこぼすこの生き物は何なんだ。かわいいじゃないか。天狼のくせに。

 以来、志遠を気にかけなかったことなど一日たりとてない。そして気がつけば、天狼だということも含めて志遠をまるごと愛するようになっていた。

 青流はため息をついた。

 今日は生まれて初めて屈辱感というものを味わった。だが「紅蓮」の前から逃げ出すような形になったとしても、すぐに志遠を連れて帰った方がいいと判断した。

 天狼山脈がどういう状況なのか、青流のいる民部省には通り一遍の話しか入ってこない。天狼の評議会が認めたがらない紅蓮の存在について、省内に知見はないに等しかった。

 刑部省にいる友人の黄羽こうう、あるいは騎兵隊にいる英凱えいがいなら、より詳しいことを知っているかもしれないが、二人とも職務に関することは一切話さない。だから訊いたところで何かが得られるとも思えないが、少なくとも今日の出来事を伝えてはおこうと青流は考えた。

 紅蓮はいつ、何を企んでいるのか。

 青流は志遠を包むように腕を回し、目を閉じた。

 この愛しい存在を失いたくない。二人の幸せが限りなく続けばいい。だが行く手には、様々な障壁が立ちはだかっている。

 主人と使用人という関係を続けていてよいのか。この想いを貫き通せるのか。しかしこれは自分一人の問題ではない。いずれ碧家を継がなければならないのに、己の欲望のみで突き進んだ時、家が失うものはどれほどあるだろう。考えれば考えるほど不安になり、毎度怯みそうになる。

 だが志遠と共にいること、これがただ一つの望みだ。ようやく見つけた、自分の生きる意味。

 腕の中に志遠の温もりを感じつつ、青流は眠りの世界へと入っていく。二人のいる小屋はすでに夜の帳に包まれ、大きな月だけが静かに世界を照らしていた。


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