第4話 やっと人間らしく


 私、二度ほど、食中毒にかかったことがあります。


 一度目は、子供の頃、広島から送られて来たと言うカキを、生で食べて、父と二人、三日三晩苦しみました。


 そして、二度目は、大人になってからの札幌旅行中のことでした。

 夜中に小腹がすいて、ホテルの近くのラーメン屋さんでほたてラーメンなるものを食べて、翌日の小樽でのすしざんまいをキャンセルしたことです。


 共に、辛かったことを覚えています。


 ですから、今でも、私は、カキを生で食べることはしません。

 それにホタテは大嫌いになってしまったのです。


 この季節になると、私は、煮炊きしたものでも、必ず、匂いを嗅ぎます。

 いや、匂いを嗅いだからといって、そこに毒になるものがあるかどうかを判別する力はないのですが、そうすることで、何か安心を得ているのです。


 先日、一日、雨降りの日がありました。

 しとしとと雨が降り続け、そうかと思うと、時折、激しく雨が降りました。


 その度に、窓を開けて、雨の音を聞いたり、それを写真に撮ったりしていました。すると、意外なことに気がついたのです。


 雨の匂いです。

 雨にも匂いがあるんだって、そんなことに気がついたのです。


 煙のように空気中に漂っている雨に、私、どこかオゾンのような爽やかな香りを感じたのです。


 我が宅には、空気清浄機がありませんから、そこから吐き出されるオゾンの香りはありません。

 だから、これは、明らかに、煙霧のような雨の香りに違いないと、そう思ったのです。


 もしかしたら、我が宅のそばにある森の、樹肌にその煙霧のような雨が触れて、それで、樹肌から、木が持つエキスが漏れ出て来たのかもしれません。


 雨脚が早くなり、音を立てて、降って来ました。

 私は、また、窓を開けて、鼻先を幾分突き出して、外の匂いを嗅いでみました。


 先ほどのオゾンの香りは見事に消え失せていました。


 やはり、気のせいであったかと、入り込んでくる雨つぶに顔を引っ込めたその時でした。

 私の鼻が、感知したのです。


 うん、これは土の匂いだ。

 しかも、私がこね回し、畑に撒いた肥料の香りも混じっている。

 きっと、あまりに強い雨が、土を打ち、その土がえぐられ、そこから匂いを発散しているに違いないと、そう思ったのです。


 何も科学的根拠などはありません。

 しかし、私の鼻は、確かに、オゾンを感じ、土の香りを感じたのです。


 昔、王冠現象なる映像を見たことがあります。

 水滴か、あるいは、そこそこの重さのある球体が、ミルクの中に落ちます。すると、それがミルクに落ちた瞬間、王冠のようになって、ミルクの表面が立ち上がるのです。

 日本の学校に通っていれば、きっと、誰しも見た映像です。


 今では、そこここで使われるハイスピードカメラでの映像です。

 当時は、新しく発明されたカメラで、人間の目には見えない自然の現象を解き明かし続けたカメラです。


 きっと、ハイスピードカメラで見れば、煙霧のような雨の時には、小さな雨つぶが、樹肌に触れて、しかし、それは樹肌をえぐるような力で、実際は当たり、それによって、樹が蓄えてきたエキスを放散しているのではないかと空想したのです。


 土であれば、勢いのある、粒も大きい雨が、硬くなっている表面をその圧倒的な水量の力でえぐり、土の中に閉じ込められた土そのものの、そして、私が練りこんだ肥料をあちらこちらにばらまきながら、雨は降っているに違いないと、だから、その土の匂いが我が宅の周りには充満したに違いないって、そんなことを思ったのです。


 そうなると、都会の雨は、さもしいと、そんなことも思ったのです。


 だって、東京に暮らしている時、私は雨がもたらす自然の香りをこれっぽっちも感知することはなかったのですから。


 つくばの街で、降りしきる雨音を聴きながら、いや、東京のような大都会だって、雨の匂いはあるはずだ、それに気がつかなっただけなんじゃないかって、私、咄嗟に、思ったのです。


 自然は、そこが田舎だろうが、大都市だろうが、区別はしないはずだと、だとするなら、つくばの街で暮らすようになり、やっと、二十数年経って、私の気持ちが、自然の香りを嗅ぐ、そんな心を持てる人間になったに違いないと、そう思ったのです。


 やっと、人間らしく……と。

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やっと人間らしく 中川 弘 @nkgwhiro

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