(un)divided landscape

二月 ロク

1


 響き渡る線形の揺らぎ。雨だれのようにぽつりぽつりと打ち鳴らされるハンマーと鋼の音。かと思えば駿馬の駈歩ギャロップのように跳ねまわり、真っ白な世界へ広がっていく。

 僕の手元にある譜面には、ピアノという楽器によるソロのトラックであることが示されている。トラックという概念はすでに忘れられて久しく、ニムロデに問い合わせて検索をかけてもらい、大体のところを理解することができた。一個の人間が操る、一個の楽器のライン。一人一人が別々の楽器を持ち(の楽器であることもままある)、一人ないしは幾人かで集まってそれは始められる。

 それは音楽、という。

 僕がこのスヴァールバル世界書誌保存庫せかいしょしほぞんこに転勤が決定してから最初に与えられた配属指令は、〈楽譜〉という見たことも聞いたこともない創作物の部署だった。がっかりしたのは言うまでもない。例えば、現在に至るまで広く受け継がれているデータベース、ここで言うところの〈辞書〉部署は一番の人気があり、僕もそこに行けたらいいなと漠然と思っていたのだ。それが、蓋を開けてみればよりにもよって楽譜部門であるなんて。

 そもそも、書誌というのは人が未だ〈統合〉段階になかった文明幼年期の頃に開発された、情報を効率よく封じ込めるための装置だ。例えば、低次元的ではあるが情報そのものを封じた辞典なんかはわかりやすい。けれど、一方でどうしてこんなものを封じているのか理解に困るものもある。例えば、〈小説〉と言われる書誌なのだが、これは『物語』という定義も様態も不定な文字情報を専門に扱ったものである。この文字情報というのが厄介で、なにしろ多種多様な形態を持つのだ。最初にインターンシップに訪れたことがあるので、僕には多少の経験があった。書誌の中に文字と思わしきものが保存されていたので物語かと思えば、それは〈詩〉である、と怒られ、詩であると思えば馬鹿野郎それは〈論文〉だ、と叱られ、しまいには〈書道〉という絵画作品の一種を引き当ててしまい、それ以後関わらせてはもらえなかったのは今でも覚えている。

 そんなわけで僕の配属された〈楽譜〉部署はといえば、ほかのどの書誌部門とも異なっていて、はるかに機能的システマチックでありながら、はるかに難解だった。楽譜が保存するのは、〈音楽〉というこれまた難解な概念である。音楽は三次元方向と時間次元方向の四次元的構造物であり、解読には技術を要する。物語が文字を通じた光学媒体であるのに対し、音楽は空気の振動を介して伝達される。振動であるため、原理的に時間とは切っても切り離せないものである。なぜかといえば、振動とは波のことであり、波とは、波打つ動きそのもののことだからだ。時間を切り刻んで仕舞えばそこに波は現れない。曲線を小さく切り刻んだらまっすぐな線分が現れるように。



 むずかしい話はよそう。気を取り直して本題に入る。

 ここ、書誌保存庫で行われているのは一言で言えば、採掘作業だ。前述したように、書誌とは情報という宝石を封じ込めた原石のようなものであり、保存庫は鉱山のイメージである。僕たちの役割は、鉱山から原石を採掘し、精錬して中身を取り出し、皆に広く伝えることにある。

 視界の端に表示が現れる。拡張視界の表示領域に桃色の明かりがちらつく、〈同期〉のサイン。脳に直接情報が送信されてくる。ローカルネットワークに接続された脳のチャンネルが共有されたデータをリアルタイムで受信している。送られてきたのはこういうものだった。

 

 〈物語〉

 〈舞台は南米:架空の村〉

 〈この村に入植してきた一族の歴史を題材にした小説〉

 〈物語は無数の挿話で成り立っており、体系的な要約は不可能〉

 〈挿話の一つ:いまだ未開状態の村にジプシーが訪れ、ひとりの男にレンズを売った。男は初めて見た文明の利器に心酔し、レンズの研究に没頭した。太陽光線を集めて殺傷兵器とする案を当局に送りつけるなど、その熱中ぶりは村の人間からも気味悪がられ、ついには天体観測の果てに地球は丸いということを発見するに至るが、だれもそのような奇怪な戯言に耳を貸す者はいなかった〉

 〈以下発掘作業を続ける〉


 物語は純粋情報となってネットワークを駆け巡る。スヴァールバル世界書誌保存庫内に設置された巨大サーバ〈ニムロデ〉が展開するローカルネットワークへと共有され、精査されたのちに全世界へと共有される。本を読む、などという文化的営みを続けているのは世界どこを探してもここくらいなものだ。言うまでもなく文化的とは『非生産的』の言い換えである。

 

 〈先の情報に追加するところあり〉

 〈小説の題名は『Cien Años de Soledad』〉


 小説部署には僕と同じく新人が配属されている。肝心のタイトルを忘れていたようで、すぐに情報を送り直してきた。タイトルの言語は不明だが、ニムロデの検索機能・自動翻訳を通じて即座に明らかとなる。ここに記している言語、つまりは二一世紀日本語をもちいるならば、『百年の孤独』というようだった。

 さて、同僚がきちんと仕事をしているのを見届けた僕もしっかりと役目を果たさなければいけない。

 宮殿さながらの巨大倉庫にずらりと並んだ書架の森。生い茂る一葉一葉はすべて楽譜である。僕が手に取ったのは、中でも相当に古いものだった。

 楽譜というのは一つの暗号だ。決められたルールに則って記されているが、単純な言語とは異なり、読みにくいことこの上ない。一応、楽典というコード表を参照しつつの解読となるが、ほとんどはニムロデの力を借りている状況だった。サーバでもありAIでもあるニムロデは即座に楽譜を読み解く。しかし、それだけでは音楽を理解したことにはならない。これは音楽というものの最も不便たる要因なのであるが、必ず聴かれなくてはならない、ということだった。

 

「演奏を開始します」

「いいよ、はじめて」


 ニムロデが告げ、僕が答える。

 拡張視界上にログが流れる。『ピアノ演奏システム:Ver.XX GLENN GOULD 起動』


 その瞬間、世界は波に包まれる。

 世界の時間は急速に速度を落とし、一つの流れを形作る。水道の配管をものすごい速度で流れていた水が、大きな河へと流入したように。ピアノの音が鼓膜を揺さぶり、僕のバイナリデータを白黒鍵盤で置き換えていく。同一の主題テーマを持つ旋律が形を変え、姿を変え、何度も繰り返される変奏。手ほどきのように。幼児に言って聴かせるかのように。眼の見えない少女に、何度も理解させようとその言葉を繰り返すように。どこかでそんな物語があっただろう。

 けれど、僕には、まだ音楽というものの意味を理解することはできない。

 


 〈Clavier Ubung bestehend in einer ARIA mit verschiedenen Veraenderungen vors Clavicimbal mit 2 Manualen『ゴルトベルク変奏曲』〉

 〈とある有名作曲家の手による。彼の弟子であるゴルトベルクが不眠症に悩む伯爵のために演奏したという逸話がある〉


 ニムロデが丁寧にこの曲の背景を教えてくれる。気を利かせてくれたのだろうか。それとも、音楽を理解できない僕への哀れみ、だろうか。

 不眠症、ね。どんな気持ちだったんだろう、その伯爵とやらは。眠りたいのに眠れず、この曲を聴かされた伯爵。彼は結局眠れたのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、いつしか僕の方が瞼の重みをこらえきれなくなっていきた。不眠症の伯爵に聴かせた音楽なのだから、聴いている僕が寝ても文句は言われないだろう。

 僕が眠っているうちにも世界は回り続け、採掘は進む。膨大な量の書誌が紐解かれているが、しかし、楽譜の解読は遅々として進まない。僕の仕事は山のように積み重なり、聴かれる日を今か今かと待っている。

 そんな夢を見たのだった。

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