愛の勝利
翌日の昼下がり。僕はタクマイン家を訪ねた。
頑丈な扉をノックすると、以前にも増して不機嫌な顔つきのホレス・タクマインが姿を現した。髪がぼさぼさに乱れ、目が充血している。ひどく憔悴した感じだ。
「ミレイユなら、いないぞ。……もう二度とここへは戻らないかもしれん」
「どういうことですか」
僕はびっくりして訊き返した。タクマインは高まる感情を持て余すように、苛立たしげな仕草をした。
「昨日の夜ここを出て行った。それっきり戻ってこない。結婚してから一度も俺に逆らったことなんぞない女なのに。昨日、初めて、俺に口答えした。それで口論になって……泣きながら家を飛び出していったんだ。あんたのせいだぞ。あんたが神様なんて変な考えを吹き込むから、ミレイユがおかしくなって……いや、違うな。すまない。八つ当たりだ」
「……!」
タクマインの弱りきった態度は僕を幸福な気分にした。あまりの幸福感に、顔がほころぶのを止められなかった。
この人はミレイユを愛しているんだ。彼女が姿を消したことで、こんなにも動揺しているのがその証拠だ。先日は「愛情なんぞ必要ない」などと冷たい言葉を口にしていたが、本気でそう思っているのなら、こんなにつらそうな顔をするはずがない。
――僕はきっとアホみたいにニヤニヤしていたのに違いない。タクマインの眉間に見る見るうちに怒気が集まってきた。
「……何がおかしいんだ、お坊さん。笑い事じゃないぞ」
「あ、いや、すみません。つい」
僕はゆるんだ頬を両手で押さえて、真顔に戻ろうと努力した。
「ごめんなさい。僕はあなたを誤解していたようです。もっと……その……自分のことしか考えていない人なのかと。あなたは奥さんをとても大事にしているんですね。ヴォルダさんの工房で〈生命の欠片〉を飲んでまで働き続けたのは、奥さんに少しでもいい暮らしをさせてあげたかったからでしょう? 夜も昼もなく一生懸命働けば、たくさんお金がもらえて、家を飾ったり奥さんに綺麗な服を買ってあげられる。そう考えたからでしょう?」
タクマインはふんと鼻を鳴らし、困ったように視線をそらした。
「女房に楽をさせてやるのが、男の当然の務めだろう? ……なのにミレイユのバカは、人の気持ちなんざまるでわかっちゃいない。『健康を犠牲にして稼いだ金なんかいらない』などと、寝ぼけた事を言いやがる。冗談じゃない。うまい飯、快適な部屋、村のどの女より立派なドレス……今の幸せな暮らしは、すべて俺が稼いだ金で買ったものじゃないか。幸福は金を出して買うものだ。体をいたわって、のんびり仕事をしていたんじゃ、人並み以上の幸せなんざ手に入りっこない」
「ミレイユさんはきっと……『人並み以上の幸せ』なんて欲しくないんですよ」
あれほどまでに夫を愛しているあの人がいなくなるはずがない、と僕はタクマインに保証した。
いろいろ話をしているうちに、タクマインが、「禁断症状」による発作を起こしている間ミレイユの背中をかき裂いていたことを、自分では覚えていないらしいことがわかった。
僕は背中を傷だらけにして耐えていたミレイユのことを彼に話してやった。タクマインは打ちのめされた様子だった。
「俺が、あいつに、そんな事を……? 知らなかった……そう言えば、朝起きるといつも爪が血だらけになってるので、おかしいとは思ってたんだが……まさか……」
体の両側に力なく垂らした拳が小刻みに震えていた。僕は元気づけようと、彼の肩に手を置いた。
「一緒に来てください。奥さんの居場所なら、僕に心当たりがあります」
僕は彼を教会に案内した。修理が進み、大勢の村人が掃除に来てくれるおかげで、日に日に美しく整いつつある教会だ。
最前列の椅子に腰かけているミレイユの後ろ姿が見えた。近づくと彼女がうたた寝していることがわかった。長い睫毛がなめらかな頬に伏せられている。
タクマインが何か言おうとして口を開け、唇を震わせ、そのまま思いとどまるのを、僕は黙って眺めていた。
ミレイユの頭が、がくんと大きく前へ倒れた。眠りが浅くなった拍子に、彼女の口から寝言のような声が漏れた。
「……神様……夫を……ホレスをお助けください……」
タクマインは彼女の傍らに膝をつき、両手で彼女の手を取った。初めて耳にした単語を復唱するみたいに、あるいは、大切な呪文をけっして忘れまいと確認するみたいに、妻の名を呼んだ。何度も。
ミレイユが目を覚ました。夫に気づいて大きく微笑んだ。その緑色の瞳に、見る見るうちに涙の粒が湧き上がってきた。
手をとり合い、互いの顔の中に楽園を見るかのようにみつめ合う夫婦を残して、僕は満ち足りた思いで礼拝場を後にした。
勇気と無謀の違いは神様も教えてくれなかった 九条 寓碩 @guseki_kujo
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