第1話 君はピアノが弾けない

初めてピアノの音を熱心に聞いたのは9歳の頃だった。春の匂いのする音は、暖かくて、優しくて、聞き入ってしまい何も手につかないぐらい美しかった。

淡く淡く、広がっていく、あの音。

キーンコーンカーンコーン

昼休みを知らせるチャイムの音で、閉じていた瞳をゆっくり開ける。

今日は月曜日。四月十五日だ。

今日は何だか友達と昼食を食べる気になれなくて、早めに終わった授業後すぐに中庭に移動して、桜の木に寄りかかって眠っていた。

いつからだろう。

ほんの少し、君の音を思い出したとき、涙が頬をつたうようになったのは。

ゆっくり体を起こしてふわあと1つあくびをする。猫みたいだなと他人事のように感じながら大きく体を反らして伸びをする。

その時だった。

ポロン

動きも呼吸も、感情さえも一瞬止まった。

ポロン ポロン

零れるようにぽつりぽつりと、鈴がなるようにきらりと澄んだ音が降ってきた。

懐かしい。

知らずのうちに口から零れた言葉に動かされるようにぎこちなく足を動かして立ち上がるも、錆びついてるみたいに、ギコギコと音がしそうな不自然な歩き方で、時々足がもつれて転びそうにもなった。

同じ、音だった。

彩蔵さくら

君の音色と、笑い声と、記憶と、同じ。

さくらくん、なんだ。一緒だね。

そう、ふんわりと笑った彩蔵と同じ。

ポロンポロン ポロンポロン

1つだった音が、どんどん増えていく。

やがて1つの旋律メロディになって。

白い光のように、暖かい音。

いつだって、光はすぐ消えてしまうから。

だから、急がなきゃいけない。

もう、失いたくないのなら。

彩蔵。

もう一度でも、君に会えるなら。

どうか、どうかー

「佐倉くん」

ーもう一度、そう呼んで笑ってほしい

気がつくと、僕は旧校舎の音楽室の扉の前にいた。木製の、古びて錆びた重苦しい扉。

夢中で走っていたようで、息は荒れて、肩は疲れたように上下している。

まだ、音は止まない。

ガチャ

ギシリと軋むドアを開けて、息を呑む。

開いた窓から、優しい風が吹き込んできて、花びらが宙を舞うのも構わず、少女はピアノを弾いていた。優しく、優しく。

何処かで、聞いたことのあるメロディだと思った。遠い、遠い記憶の中。

少女の黒髪が風で舞う。

かつての彩蔵の黒髪に似ている。

透き通るように白い肌も、優しく緩やかに閉じられた瞳も、その優しげな雰囲気も。

似ている。けれど、一緒じゃない。

そのことに、落胆すると同時に、ほっとしたのもまた、事実だけれど。自分には、君しかいないと自覚することが苦しいことを知っていたから。僕は、卑怯なやつだから。

桜の音がする。

青空の音がする。

ー恋の、音がする。

佐倉くん。

そう呼びかけられたような気がして、顔を上げる。けど、そんなことはなくて。

あの日からこれまでも、これからも。

生暖かい涙が頬を流れる。

僕の足元に、花びらがふわりと舞い落ちた。

花びらに、僕の涙が落ちて重なる。

キーンコーンカーンコーン

止まっていた僕の時を動かすように、チャイムが鳴った。その音に、黒髪の少女がゆっくりと顔を上げる。音を鳴らしたまま、少女は辺りをぼんやりと見回す。

僕と、少女の目が合った。その瞬間。

ガシャン

ガラスを落としたときのように、割れたような音が鳴った。壊れてしまったみたいに。

音が止まった。

目を見開いて固まる少女に、何だか悪いことをしてしまった気がして、今更のように気まずい気持ちが胸いっぱいに広がる。

まだ乾かない瞳を焦って瞬かせながら、走ったからか、それとも他の理由からか乾いた口を動かして、少女に声をかける。

「あ、あの…」

ガタッ

椅子を蹴飛ばして、少女が立ち上がり、音楽室から走って逃げ出した。呆然と少女の背中を見守り、音楽室に一人残された僕は、呆気にとられて、中途半端に伸ばした手を下げる。出ていく瞬間、少女の瞳は、恐怖と怯えを映して強張っていた。硬い光。

僕と同じ、傷つくことを恐れるような。

音楽室には、記憶の残滓のような、音の響きが残っていた。


「それって、音楽室の精霊じゃね?」

「…はい?」

放課後、僕の通う市立春川中学校から家への道中にて、僕は、親友の渡辺祐汰わたなべゆうたの言葉に間抜けな声を返す。

ちなみに裕汰は小学校からの親友だ。

「いや、そのピアノ弾いてた謎の女子のことだよ。結構有名な話だぞ?」

「え、そう、なの?」

僕は全く聞いたことがないが。

そういえば、裕汰は人の噂話とかも好きで、よく他の男子とそういうことを喋っている。裕汰は男子の中の人気者だし。何でかな、うるさいからかな?とか失礼なことを考える。

「だってお前、人の噂話とか基本興味ないしいつもぼんやりしてるし」

「最後のは関係ない」

というかぼんやりしてないし。いたって普通だ。僕は普通の男子中学一年生だぞ。

昼休みの終わりを告げるチャイムをばっちり全て聞いてからやっと体が動いたため、勿論5時間目には間に合わず、後ろのドアからそうっと入ったものの、僕は数学の先生にこっぴどく叱られてしまった。5時間目が数学だったのが運のツキか。数学の先生怖いんだよな。あの人絶対ドSだよ…。そして僕は一応優等生枠に入っているため、周りの皆から大丈夫かと色々聞かれた。まあ、珍しいといえば珍しいけれど。当然、同じクラスの裕汰もその一人で、帰り道にこうして事情を説明しているのである。泣いたことは内緒だが。

「音楽室の精霊って…。何その厨二病みたいなネーミングセンス…。てか何で精霊?」

僕がもっともなことを言うと、裕汰は少し自慢げに胸を張った。

「名付け親俺!格好良くね?」

「格好良いんじゃないの」

「投げやりだなーはるかは。俺も一回しか見たことないんだけどさ、その女子、顔めっちゃ可愛いじゃん。それに神出鬼没だし、ピアノくそ上手いし。しかも人前ではピアノ弾かない。まさに精霊みたいだろ。だから、音楽室に現れる精霊で、音楽室の精霊にした」

「ふーん」

「反応薄!」

裕汰の抗議は置いといて、まあ、確かにそう言われればそう…かもしれない。

あの少女の音は、彩蔵の音と似ていた。

もう一度…会えないかな。

ぼんやりと浮かんできた願いに自分で驚く。

彩蔵じゃないのに、何でこんなに気になるんだろうか。ああ、そうか。

僕は、あの音に恋をしたのか。

だから、もう一度、あの音を聞きたいと思ったのか。

なら、まずは情報収集からだ。ください

「…ねえ、その精霊とか言う女子、春中の生徒なんだよね?」

ちなみに、春中というのは市立春川中学校の略だ。この辺りの地域では大体そう呼ぶ。

「う、うん、そうだけど」

僕の圧に少し身を引いて答える裕汰。

今はそんなことは気にしていられない。

「同じ学年?」

「お、おう。確か…1ー3だったような…。名前は…天深夕月あまみゆづきだっけ。多分、そうだったと思う、けど」

裕汰、ナイスな情報だ。ありがたい。

「え、遥、どうした?」

怪訝そうに見てくる裕汰になんでもないと答えて、頭の中でもう一度、あの音を思い出していた。明日は、会えるのだろうか。

何だか、心が浮き立っていた。


という訳で翌日の十一日、1−3の教室を訪ねてみると。

「え、天深ちゃん?今さっき出て行ったよ」

「ええ…」

まじですか。タイミング悪いな…。

「いつもは学校来てるんだよね?」

「うん、でもたまに授業抜け出すね」

「…まじか」

そこまで自由奔放なのか…。

小学校の頃から遊んだりして仲の良い1ー3の女子、羽川玲はがわれいは頷く。

ノリが良くて、スポーツが得意なショートカットの女子で、友達の多い人だ。

「まじまじ。そうだ、天深ちゃんに何か用あったんでしょ?伝えておこっか?」

「あ、いいや。直接伝えたいから」

玲のさりげない好意を遠慮する。こういうところが色んな人から好かれる要因だろう。

例えば女子とか裕汰とか裕汰とか。

「そう?なら良いんだけど。え、何かあったの?同じ委員会だったっけ?」

首を傾げる玲に曖昧に笑って誤魔化す。

「ま、まあ、ちょっとね」

「ふーん…?」

しばらく不思議そうに僕の顔を眺めたあと、玲がぽんと手を打った。

「あ、もしかして、音楽室の精霊の話?」

即効バレた。玲はこういう人の心の変化を汲み取るのが得意なのだ。厄介な。

「ま、まあ…そんな感じ、かな…?」

「へえー」

ニヤニヤと笑う玲を見て冷や汗が流れる。ま、まずい。これは話題を変えなければ。

「そ、それより玲は天深さんと仲良いの?」

「うん、他校の女子で初めて友達になったのが天深ちゃんだからね!」

ふふーんと胸を張って自慢げに言う玲。裕汰と仕草が似ているのは気のせいではない。

似た者同士だ。何故自慢げなのかは僕にはよく判らないが。

「ま、よく分からないけど、天深ちゃんなら多分あそこにいくと思うよ」

「…あそこって?」

僕が首をひねると、玲は悪戯っ子のようにニヤリと笑い、人差し指をピンと立てた。

「ヒント、天深ちゃんは、授業なんか全く気にしませんが、人の出入りは気にします」

…あ。閃いた。

きっと天深さんはピアノを弾きに行くからー

僕の顔を見て、玲は明るく笑った。

子供みたいに純粋な笑みで。

「早く行った方がいいよ?天深ちゃん満足したらすぐ戻ってくるから、ずっとそこにいるか分かんないよ」

キーンコーンカーンコーン

2時間目の始まりを示すチャイムが鳴り始めた。僕に背を向けて席へと戻ろうとした玲は、思い出したように振り返って言った。

「天深ちゃんに会いたいんなら、授業なんて気にせず、優等生の顔取っ払いなよ。遥はもっと自由に生きたほうが良い」

柔らかく笑って、玲は今度こそ席へと向かった。僕の足は、ようやく動いた。

行こう。目的地は旧校舎の音楽室だ。

廊下を全力で駆け抜ける。

何でだろう。楽しくてしょうがなかった。


この学校には、音楽室が二つある。

もう使われていない旧校舎の音楽室と、僕らの教室やらがある新校舎の音楽室の二つだ。

新校舎は、僕らの一つ上の学年が入学した年に完成した、つまり去年建てられて、ぴっかぴっか、いやそこまで言わないけれど、まあ清潔と言っていい校舎である。

けれど、旧校舎は百年ほど前に作られたオンボロ木造校舎の為、もう使われなくなっていて、避難所用のような緊急時にしか使われない方針になってしまっている。人の出入りもなく、鍵も開けっ放しのフリーダムな場所である旧校舎の音楽室を天深さんが利用しないはずがないのだ。ーさて。

音楽室の扉の前に立ち、今更のようにごくりと喉を鳴らした。意外と緊張する。

……。

まだ、今日は音は聞こえない。

本当にいるのだろうか。うー…。

…ええい、ままよ!成るように成る!!

緊張で熱い手で扉を勢いよく開ける。

ガチャ

扉の開く音に、ピアノの前にぽつんと佇んでいた少女ー天深夕月が振り返った。

ばちりと目が合った。

少女は脱兎の如く駆け出そうと動きー

「ちょ、ちょっと待って天深さん!」

僕の声に、ぴたっと動きを止めた天深さんは恐る恐るというようにそろそろと振り返る。

天深さんの姿に思わず息を呑んだ。

緊張したような感情を映す綺麗に澄んだ瞳。

ほんのり紅い艶やかな唇。

雪か何かのように白く発光して見える肌。

さらさらとした絹のような肩までの黒髪。

人形のように容姿端麗な少女がそこにいた。

少し怪訝そうな天深さんの様子に我を取り戻した。恐ろしい程美しい容姿って危険だ…。

「あ、あの…誰ですか?1ー3、ではない…よね?」

僕の赤色の上履きを見て天深さんが問う。この学校は、上履きの色が学年によって違い、僕の赤色の上履きは一年生ということを示していた。ちなみに、前の赤色の上履きを履いていた学年、通称赤学年は、去年卒業した三年生だ。今は、黄色が三年生、青色が二年生だ。どうでもいいことだけれど。

「あ、えと、1−1の、佐倉遥です。同じフロアのクラスなんですけど…」

「あ、そういえば見覚えがあるような…」

しげしげと僕を見る天深さん。

視線が痛い…。気まずくなって目を逸らしていると、天深さんがそれより、と言った。

「何か、用でもあったんですか?佐倉さん、学級委員ですよね、授業を抜け出してまでの用があったんですか?」

「あ…えーっと…」

歯切れの悪い言葉に天深さんが首を傾げる。

いや、負けてはならん!

この正念場を乗り越えてみろ、僕!

「その…。あ、天深さんのピアノ、もう一度聞きたいなって…思って…」

段々声がしぼんでいく。情けない…。

僕の言葉に、天深さんは何を思ったのか複雑な顔をした。困っているような、悲しんでいるような、苛立っているような、感情が沢山混じった歪んだ顔。

「…そっか、何処かで見たなと思ったら、昨日の子か。」

昨日…あ、昼休みのことか。

ふいに、天深さんがぽつりと呟いた。

「ーごめんね」

「え」

呟いた言葉は意味が分からなくて、疑問の声をあげてしまう。

ふわりと風が優しく吹いた。

黒い髪が柔らかくなびいた。

それはそれは、美しかった。

寂しさと、悲しさと、悔しさと、苛立ちと、ほんの少しの恐怖と怯えの滲んだ、もう少し風に吹かれたら、崩れてしまいそうなほど、儚くも美しい微笑み。

「私…もうピアノは弾けないんだ」

ーえ?

「そ、それって、どういう…」

「そのまんまだよ。…私は、人前でピアノが弾けない。だから…ごめん、ね」

微笑んでいるのに、拳は爪が食い込むほどに強く握りしめられている。矛盾したその姿に、何故か胸がぎしりと軋んで鋭い痛みが走った。

ごめん。

声にならない言葉が、天深さんの唇から紡がれた。痛々しいほどの微笑みで。

この時、僕は何だか泣きたくなった。

彩蔵のことを、一瞬忘れるほどに。

「ーわざわざ来てくれたのに、ごめんね。…そう言ってくれてありがとう。ーじゃあ」

「待って」

思わず猫のように軽やかに駆け出そうとした天深さんの黒いカーディガンの袖を掴んだ。

訳のわからない衝動に身を駆られて、それでも、口は想ったことそのままを言葉にして紡いだ。

ただただ、伝えたくて。

この、儚く美しい、ピアニストの少女へ。

「君は、ピアノが弾けないって言ったよね。

けど、僕は君の音が好きだよ。

ー君は、紛れもなくピアニストだよ」

僕の言葉に、君はー天深さんは、不意をつかれたように目をまんまると見開き、しばらくの間、僕の瞳をじっと見つめていた。

僕の言葉がゆっくりと溶けていくみたいに。

やがて、天深さんは、ぐしゃりと顔を歪め、泣くのを我慢するように泣き笑いのような顔をして、ぺこりと僕に浅く一礼して、今度こそ音楽室を駆け出していった。

ぱたぱたと軽い足音だけしか聞こえないほどの静寂。天深さんの背中を見送ることしかできなかった僕はその静寂に溜息を落とした。

「はぁぁー…」

何がもう一度聞きたい、だ。

結局、上手く伝えられなかったじゃないか。

「…このヘタレめ」

肝心なときに勇気がでない。そんな自分に呆れて、もう一度溜息をつく。

ひとしきり溜息をついて、天深さんの言葉を思い出す。

ピアノが弾けないーか。

あの音は人前では出せないのだろうか。

そんなの…、勿体なさ過ぎる。

「ーよし」

座り込んでいた怠い体を起こして深呼吸をする。深く深く、空気を入れ替えるみたいに。

天深さんのあの何度も傷ついたような瞳が、頭から離れなかった。

自己満足かもしれない。ただ自分の為にやっているのかもしれない。

けれど。

いつか、君の為になると信じているから。

だから。

「ピアノの弾けないピアニストーか」

僕は、君がピアニストだと証明する。

君の、あの音で。





































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ピアノの弾けないピアニストの君へ 日常言葉 @80291024

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