希望の箱(2)
※
朝凪夏輝は最悪の自己嫌悪の中で目を覚ました。
いつもの薄闇。いつもの澱んだ空気。
もう、ずっと変わり映えのない自室の光景。
否、そうでもなかったか──。
この数日はともかく、それ以前の数日間だけは、随分と輝かしいものに満たされていた気もする。
あれから──。
あの池の畔で伊佐良木逢理と対峙してから、三日が過ぎていた。
逢理は現在、弓彦と同様に天鈴学院の隔離棟に幽閉されている。
刑事責任に問われることはないようだが、それでも、犯した罪に対する罰は必要であるとし、逢理もまたそれを受け入れたそうだ。
世間的には、一連の告発状事件は有耶無耶のまま。あの左近勇馬の起こした一件以外は全て事故として、真相は闇の中に葬られてしまった。
夏輝は事実の隠蔽に憤る一方で、それはそれで仕方ないのかもしれないとも思っていた。
ただでさえ、警察庁長官の実子が起こした殺人事件に世論が揺れている時期。異能が関わる事案など、表沙汰になったところで混乱が増すだけではないか──と、そう思う部分も少なからずあるのだ。
それとも、夏輝は単に己の親友を庇いたいだけなのだろうか──?
わからない。
だが、ことの善し悪しは別にして、今度こそ告発状事件は解決した。
そして、夏輝自身はというと──。
こうして自室のベッドに座り、この三日間、ずっと考え込んでいるのだった。
これから、どうするべきなのか──?
ずっと考えているのだが、答えはまだ出ていない。
それとも、とっくの昔に出ているのに、目をそらしているだけなのだろうか?
「……いったい、どちらなのでしょうね……」
自問は、無粋に鳴り響いた玄関のチャイムにかき乱された。
夏輝は座り込んだまま、やはり、応じようとはしない。
立て続けに三度鳴り響いたところで、業を煮やした来訪者はドアノブを回した。別に施錠はしていなかったので、あっさり開け放ち、そのまま上がり込んでくる。
「こんにちは御嬢さん。わたくしの来訪を無視するとは、あまりにずいぶんな態度ではないかしら?」
怒りを抑えているためか、微妙におかしな言い回しで咎めてきたのは、黒いドレススーツに身を包んだ老婦人。
九条菜那静。
「こんにちは九条先生。別に無視しているわけではありません。ただ、考えごとをしていたんです」
「考えごと……ね。また引きこもりに戻ろうとしているのかと思ったわ」
冷ややかな指摘に、夏輝は頭を振り返す。
引きこもっていてもどうにもならない。それはもう百も承知している。
承知しているけれど、ならばどうすれば良いのかが、夏輝にはわからないのだ。
わからない。
これから朝凪夏輝はどうすればよいのだろう?
どのように未来に向かえばよいのだろう?
「わからないんです先生。だって、異能を肯定しても、否定しても、結局、何も変わりはしなかった……」
そう力なく呟く夏輝。
すると、それを聞いた菜那静は、厳格な怒りを込めて声を荒げた。
「身のほどを知りなさい! たかだか十六の小娘が、何を賢しげなことを宣うのです!」
いつも超然と、悠然と、冷徹な態度を崩さぬ菜那静が吐いた怒声。
そんな初めて見る恩師の剣幕に、夏輝は茫然と──。
対する菜那静は、なおも怒りをあらわに叫ぶ。
「何も変わらなかったですって? 良くもそんな賢しげな言葉を吐けるものです! いいですか夏輝、貴方は自分にできることを、真剣にやってのけたのでしょうに! 本当に、それは何も変えられなかったのかしら?」
菜那静の言葉は、夏輝の胸裡に深く刺さる。
本当に、何も変わらなかったのか?
夏輝だって内心に感じていたではないか、輝かしくまぶしいものに、確かに満たされていたのだと。
「わたくしはね御嬢さん。ここしばらくの間、貴方の親友を……あの未来共鳴者をいかにして殺すのか、それだけを画策していたわ」
恩師の告白に、夏輝は驚いて目を見開いた。
だが、本来それは驚くことでもないのだろう。未来共鳴という凄まじい異能。それが介在している犯罪を止めるに当たり、それは順当にして現実的な対応である。
「少なくとも、わたくしたちには未来共鳴者を生かして捕らえる術などあり得なかった。なのに、あの未来共鳴者は今も生きている。生き延びて、その上で罪を背負おうとしているわ。……それはいったいどうしてなのかしら?」
菜那静の指摘は、指摘そのものがすでにして解答である。
本当は、夏輝も理解している。
何も変わらなかったわけはない。
ただ、変わった結果が、望んだ最上に届いていないのが悔しく、悲しいだけだ。
「……やっぱり、わたしたちは才能の使い方を間違えたのでしょうか?」
「そんな高尚な哲学は、あと五十年は生きてから考えなさい」
夏輝の呻きを、菜那静は鼻で笑って叱責する。
そも、その程度の苦悩と後悔ならば、誰もが山ほど背負って生きているのだと、それが社会なのだと菜那静は高らかに断言する。
「まだ、腑抜けたままなのかしら? なら、これを受け取りなさい」
菜那静が差し出したのは、指輪でも収めるような小さなケース。
「例の〝魔法使い〟の小僧から、あなたたちに贈り物よ。拘束された身でどうやって制作したのか……。そもそもあの隔離室の中で材料が手に入るわけがないのだから、どうせ松雪あたりが絡んでいるんでしょうね」
ブツブツとイラ立たしげな菜那静をよそに、夏輝がケースを開けてみれば、そこに収められていたのは、小さな純白の花を象った飾り細工。
「ちなみに、あの未来共鳴者の方は真紅の花飾りだったわ。どういう意味があるのか、わたくしは知らないけれど…………ええ、ずいぶんと大切な意味があるようね」
掛け替えのない宝物を得たかのように花飾りを胸に抱く夏輝の姿に、菜那静はやれやれと肩をすくめて笑いながら、
「さあ、いい加減、立ち直りなさいな御嬢さん」
声音も鋭く叱咤する。
「学院からまた解体魔が逃げ出したわ。早急に見つけ出しなさい。これはあなたにしかできない、あなたの役目よ。なぜなら、わたくしは忙しいのです!」
尊大に言いきる菜那静。
それは本当にいつも通りで相変わらずで、何より至極当然でもあった。
「……仕方ないですね。確かにわたしは暇を持て余していますから」
顔を上げた夏輝は、菜那静の向こう、たたずむレインコートの少女を見すえて首肯する。
開け放たれた玄関口、射し込む陽光を背にした幼い姿。
フードを脱ぎ去ったその笑顔は、光の中、あまりに誇らしげでまぶしくて、結局、眩んだ視界ではそのコートの色が何色なのかはわからなかったけれど──。
それはどちらであっても同じことなのだと、改めてそう思った。
だってそうだろう。夏輝と逢理、ふたりがあの時に抱いた想いは、どちらも同じ、輝かしくまぶしい希望だったのだから。
かつて、朝凪夏輝は〝魔法使い〟に出会った。
その正しさに憧れ、自分もそうなりたいと願った。
結果、夏輝は失敗を犯し、いくつかのものを失った。
それは取り返しのつかないものであり、掛け替えのないものであった。
けれども、だからこそ、それらとともにあった日々を無駄にしていいわけがない。
夏輝は〝魔法使い〟にはなれなかった。
そして、これからもなれないのかもしれない。
けれど、そうありたいと信じて進むことは、きっと正しく、輝かしいことだ。
だから、今、彼女は再び願う。
朝凪夏輝は、みんなを守る〝魔法使い〟になりたいのだ。
静かに光の中に消えていく過去を見送りながら、夏輝は同じく静かに、微笑んだ。
※
菜那静を乗せた黒ぬり車輌が走り去っていく。
それを植え込みに身を伏せてやり過ごしながら、有栖川黎斗はしみじみと深い溜め息を吐いた。
「……オレは何やってるんだ?」
自問は、限りなく自嘲に近い響きで力なく濁る。
天鈴学院で大人しくしているのは性に合わないし、いけ好かない松雪の研究につき合うのも御免である。
だから、再び学院を脱け出した。
それは別にいい。
問題なのは、なぜ真っ直ぐ朝凪夏輝のところにやってきているのかだ。
(……これじゃあ、オレがアイツに会いたがってるみたいじゃないか)
冗談ではない。
そんなつもりは毛頭ない――はずだ。
(オレは……あれだ。単に隠れ家のあてがないから仕方なくここにきただけだ!)
そう、仕方なくなのだ。
でなければあんな足クセの悪い露出狂のお嬢様モドキ、黎斗は二度と関わりたくなどない…………はずなのだ。
思い返せば、あの告発状事件を追う最中、いったい何度あの女に蹴り倒されたことだろう。
きっと、ああいう輩は身長差が生物的位階の優劣だと勘違いしているに違いない。でなければ、あんなに傍若無人に振る舞えるものか。
そもそも、ここにはあの小ウルサイ怪力ツインテールもいるのである。そんな死地に飛び込むような真似、誰が好き好んでやるものかと──。
「さっきから何を百面相しているのですか?」
不意の問いかけは、後頭部を不意打つ強烈な衝撃とともに。
「痛ッ! 誰だッ!?」
黎斗が素早く振り仰げば、二階の外塀に肘をついて見下ろしてくる夏輝の姿。
「おたく……!」
怒りの呻きは、投げつけられたローファーを拾い上げながら。
よくも正確無比に靴底をぶつけてくれたものだ。そこまでして人を足蹴にしたいのか!?
睨み返す黎斗に対して、しかし、夏輝はふにゃりと気の抜けた様子で外塀に身を預ける。
「アリスちゃん。わたし、お腹が空きました」
何だか以前にも見たゆるみっぷりで微笑む。
黎斗は思わず口ごもりつつ──。
そのまま、込み上げていた抗議反論の数々をグッと呑み込む。
本当に、黎斗自身、どうかと思うのだが──。
抱いた感情を胸裡に押し込みつつ、意識してことさら深く溜め息を吐いた。
「食材……あるんだろうな」
ぼやくようにそう問えば、夏輝はニッコリと頷き返す。
やれやれと階段口へ回る黎斗に、夏輝は穏やかな笑声で呼びかける。
「ねえ、アリスちゃん……何だか、色々と辛かったり苦しかったりもしますけど……でも、総合的に見てみると、わたしの人生は意外に上々なのかもしれません」
そう、日向ぼっこする猫のような心地で呟いた。
いつもの冷然とした面持ちとは相反した、能天気な笑顔。
本当に、黎斗自身、どうかと思うのだが…………朝凪夏輝が安らいでいるのを見て、自分は確かに安堵しているようなのだ。
黎斗は、あきれが半分、残り半分には確かな祝福を込めて、
「……そいつは、よかったな」
同じく穏やかに、笑声を返したのだった。
ウィザードリィ・コンプレックス アズサヨシタカ @AzusaYoshitaka
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