(空の歌)

カラヴィンカの祈り

 硝子の箱の中が見える場所には椅子はなかった。

 まあ、それはそうだろう。展示される死者にも尊厳はある。どこの誰とも知らない奴に暇潰しに延々眺められたくもないだろう。

 だからおれは、隣の展示室の長椅子に座っている。大きな壁画の復元が展示されていて、半分以上が欠けたその大きな絵の中には翼を持った人の姿が見える。


 翼ある姫が王を決める。

 鳥の巫女は天意を伝えて王を選ぶ天の遣い。


 そんな神話のある文明だったそうだ。確かに、壁画にも物語にも、出てくるのは翼のついた女神が多い。

 おれは立ち上がり、もう一度隣の小さな展示室に入った。

 硝子の箱の中には、近年発見された墓陵から運び出された王族のむくろが安置されている。史上最も良い状態で発掘された、鳥の巫女の亡骸なきがらだ。そこには骨と衣装、副葬品の幾つかが並べられている。

 もちろん、翼の骨なんか残ってはいない。あるはずがない。鳥の巫女、翼ある姫と呼ばれ、どのように神格化されようとも、それは人間なのだから。

 翼が見たくてここに来たわけではない。ただ、待ち合わせの指定がここだったから。あいつの好きなもの、専門に学んでいる分野にはまあ、一応の興味はある。それだけだ。

 で、場内待ち合わせにした結果、あいつはまだ来ない。分かっていた。あいつは時間というものに対しての態度があまりにもフワフワしている。だから何千年も前に滅びた国を見に旅行に行きたいねなんて言い出すことはしょっちゅうだし、おれも随分慣れてきた。そのくらい慣れようと思った。そんなことで失うには惜し過ぎる。

 大昔の人の死体をまじまじと見ながらこんなこと思うのもなんだが、おれはかなりあいつのことが好きだと思う。割と困っているくらいだ。

 こんなに好きで大丈夫か? いつか永遠に別れる時が来るのに。

 会うたびに、時が停まればいいのにと思っているようなことでおれは本当に大丈夫なのか?

 あいつの方はといえば、会うたびに何だかとんでもない山の上の古代都市に行きたいとか、そこで始祖に会って話を聞きたいとか、まるで時間軸を無視した話ばかりしていた。それが今日のこの展示と関係あるんだった気がする。この鳥の巫女と。

 おれはにわかに視界を取り戻し、壁に展示されている説明文を見回す。


 カラヴィンカは天に住む神族の一。

 虹をまとう大きな翼を持った姿で、妙なる声でさえずり、天の祝福を与え歌う。

 その姿と声のあまりの美しさに惚れ込んだ人間が、あるカラヴィンカの翼の一部を切った。二度と飛べなくなった彼女はその人間の伴侶となり、やがて子を産んだ。

 それがアリヤ文明のおこりとされている。


 なるほど、よくあるやつだ。天人から何かを奪って地上に捕らえ伴侶にする。割と酷い話だと思う。地の者が天の力を手に入れることにより、威光が生まれ人が従う。国などの成り立ちと絡んだ神話にはありがちな形だ。

 おれはあいつには全然そんな気が起こらないな。例えばあいつの自由を奪うことで自分が社会的な何かを得るなんて、想像するのもおぞましい。所有したりされたりするのは嫌だ。馬鹿みたいな言い草だが、独立した一人と一人の関係として奇跡的にお互い好きでいたいし、あいつにもそうであってほしい。


 あんたはどうだった?


 硝子の棺の中に横たわる亡骸に、おれは問いかける。


 あんたは鳥の巫女だったんだろう。天の声だといって伴侶を選び国を維持したんだろう。

 それはあんたの意志だったのかい?

 あんたに自由はあったのか?


 もちろん、時代が大きく違えば思想も倫理も、その価値観の全てが違う。今のおれと数千年前の国守りの巫女の意志や自由を同列に考えるわけにはいかない。それでも急に、気になってきた。

 この鳥の巫女は、現実にはどんな女性だったのか?

 どんな空を見てどんな夢を見て、国以外の何を愛したのか?

 名前も役目も、伴侶も装いも、何もかも決められた通りに生きて死んだのか?

 その時、さっきまでは見えていなかった装飾品がおれの視界に入ってきた。おれの立ち位置からは硝子の箱のエッジにかかっていたのが、壁のキャプションを見ようと踏み込んだせいでよく見えるようになったのだ。

 それは、数千年を土の下に眠っていたとは思えないくらい精緻に編み目の残された、腕輪だ。


――腕輪ねえ。


 側に説明パネルが置かれている。それを読もうとした時、ごく軽く肩を叩かれた。


「ごめんね、待たせた」


 展示室の中だから、ほとんど声を出さない。空気の通る音だけを使ってひそやかに言葉が発される。でもこいつは常にそうだ。ささやくような静かな喋り方しかしない。

 知り合った頃おれは、このかすかな声をもっとうまく拾おうと近付きたくて、でもそんな親しい関係じゃないし怪しまれたらどうしようと一歩近付けなくて、結局うまく聞き取れない、といったようなことを繰り返していた。

 今は一番近くでこいつの言葉を聞くことができる。そうだと思う。そう信じたい。


「鳥の巫女、すごいでしょ。この腕輪も」


「ああ、今見つけて読もうと思ったとこ」


「髪の毛なんだよ。読んで」


 こういう場所だからあまり長く喋るつもりがないのだろうし、そうでなくてもこいつは持ってる知識を全部披露しないと気が済まないタイプでは全然なくて、良かったらどうぞ、みたいな態度をすることが多い。どうするかおれに任されている。今そういう気分じゃないんだとおれが言えば、そう、とすんなり受け取り、ありもしない悪意を読み取ってねたり怒ったりはしない、そんな奴だ。

 今は特に拒否する理由がない。そもそも自分で見ようとしていたところだ。おれはそれで、腕輪の説明文を読んだ。



 髪を編んだ腕輪は過去にも出土例がある。指輪や冠のないこの文明において、首飾りや腕輪は重要な装飾品だった。

 今回出土した腕輪は鳥巫女の髪を用いる時だけの特別な編み方がなされており、かつ、材料がこの鳥巫女本人の髪ではない。この時代、鳥巫女は一代に一人で同時に複数存在することはないため、先代かそれ以前の巫女の髪を用いた腕輪かと思われた。

 しかし、この墓群に埋葬された他の王族も含め鑑定を行うと、この腕輪の髪の主は、亡骸の鳥巫女のきょうだいと推定される結果が出た。また、そのきょうだいの墓は見つかっていない。

 単純に考えるならばこの鳥巫女が生まれる前に死んだ先代の(恐らく新王指名の役を果たせなかった)鳥巫女が腕輪を遺した、という仮説は立てられそうだが、そこで我々研究チームの頭を悩ませる要素が残る。すなわち、腕輪の髪の持ち主は男性、という鑑定結果である。

 神話にも記録にも、カラヴィンカは女性の姿と役割で描かれる。しかし、もしも男性の鳥巫子カラヴィンカがいたとすれば、彼はどのように国を次代に導いたのだろうか。今回発見された墓群の王族たちと、後世の別の墓群の王族たちとは血縁関係にあることがすでに明らかである。何らかの形で血は繋がれている。

 ここにおいて我々の研究は、アリヤ・カラヴィンカ儀礼システムの弾力性に関し、新たな地平を垣間見たといってもよい。その意味でこの腕輪は極めて重要な発見物である。

 また興味深い点として、腕輪に使われた髪が、この地域の人々には稀であるため魔の色として忌まれていたはずの赤毛であることが挙げられる。




 博物館の売店では今回の特別展示に合わせた物販コーナーができていた。図録だの翼模様のしおりだのといったものを選んでいたあいつがやがて硝子ケースの中をじっと覗き込んだのに気が付いた時、おれはその視線の先を見る前から何がそこにあるのか予感していたし、実際にその通りだった。

 あの腕輪のレプリカ。光沢のあるゴム紐でそれっぽく簡単に編んだ安くてちゃちい方じゃなく、本物そっくりに手作業で編んだという、限定数の少しお高いやつ。

 人髪ではなく合成繊維で編まれているものの、見た目には違和感がないし、精緻に詰まった編み目もまあ、綺麗なものだ。本物の腕輪と違うのは肌に触れる側に補強のバングル土台がつけてあることと、そこに生産番号が刻印されていることくらい。


「欲しいのか」


「うん、買うことはもう決めた。色をどうしようと思って」


 見ると、三色あるようだ。暗い赤と、薄い金と、焦茶と。それはこれまで実際に出土したことのある腕輪の色に従っているらしい。


「赤いのじゃないのか?」


 さっき見たばかりの鳥巫女が身に着けていた本物が赤い髪だというからそう言っただけだったのだが、あいつは、まったくふわふわして油断のならないおれの恋人は、そこで初めておれを振り返ってじっと見た後でこう言ったのだ。


「そうだね。僕が赤いのを着ければ、本当にきみの髪を貰ったみたいでいいかも」


「は?」


 おれは鳥巫女様じゃないんだが。

 髪を伸ばしたこともないんだが? そりゃ確かにおれの髪は、一度も染めてないと言っても簡単には信じてもらえないくらい赤いけど。


「こっちの金色は僕の髪に似てるよね。きみが金色、僕が赤を着けるってことでどうでしょう」


 ああそうだなこの金色はプラチナブロンドの方だからお前の髪の色に似てる、いやそういうことじゃねぇんだよな、おまえは何をたくらんでいるの。おれの髪に似た赤いのをおまえが身に着け、おまえの頭みたいな白っぽい方をおれが身に着けるのか?

 まるでお互いの髪を交換したみたいに?

 そんなのまるで、


「呪術では?」


 声に出てしまった。おまえがおれを見ている。笑っている。こういう時だけ身長差がむかつく。上から見てんじゃねえよ。可能性から言うならおれだってまだ少しは伸びるかもしれないんだからな。

 頭を撫でるな。髪を引っ張るな。腕輪のサンプルくっつけて比べてんじゃねえ。わあすごい、じゃねえんだよ、くっつき過ぎなんだよなおまえはすぐ人前でもそういうことをする。文句を言うと、先に寄ってきたのはきみの方でしょと言って笑う。そりゃそうだ。仕方なかった。そうしなきゃおまえの言葉が聞こえない。

 聞きたかったんだ。

 おまえがおれを見ている。

 笑っている。


「呪術じゃなくて、こういうときは『祈り』って言うほうが合ってるよ」


 カラヴィンカの腕輪は、相手をまもるために贈るものだからね、と。


 ああ、そうやって。

 おまえはどんどんおれの世界を裏返していく。

 優れて見えたものの愚かな裏側も、平凡に見えたものの美しい中身も、おまえは裏返して見せてくれた。そのふわふわした微笑みで、微かな声で、勇気を出して近付かなければ聞こえなかっただろうその言葉で。

 おれの世界は裏返って、そして祈りに満ちる。


 どこまで行けるんだろうな。たまに、そんなことを思う。いつか永遠に別れる時が来るのに。

 何も分からない。未来のことは見えない。それでも辿り着きたい場所がある時に、人はそれを言葉にするのだろう。

 祈るように。無謀にも予言するように。何の根拠もなく、ただ希望だけを動力にして、どうかそうであるように、と。




「きみとずっと遠くまで行きたい」


 帰り道、急にそう言われて、何だかずっと前にも同じことがあったような気がする。

 行き先は決まっていない。でも、二人でいる。


「どこに行きたい?」


 試しに尋ねてみると、どこでもいい、と言っておまえは、おれの手を握る。


「きみと一緒なら、どこへでも行ってみたい。二人でどこか行きたい」


 確かにその言葉は呪術じゃなくて、祈りのようだとおれは思った。

 おれはもう、信じてもいいんだろう?

 おれとおまえの祈りが、願いが、重なり始めていると思っていいんだろう?

 もしもそうなら。

 ずっと遠くまで一緒に行こう。

 なるべく最後まで一緒にいよう。

 遠くまで。遠くまで。最後の眠りに朽ちていくまで。

 本当にそうなるかどうかなんて分からなくても、

 きっと、だから言葉にしなくちゃならない。

 言ったということが、あるいは言われたということが、それ自体効果を持つ。願いを放ち、観測できる形にして、それがいつか叶ったときにはこう思うのだろう。言葉の通りにと。あの言葉は確かだったと。

 祈りが通じたのだと。


「あの鳥巫女はどんなことを祈ってたんだろうな」


 ふとそう口に出すと、旅の無事とかじゃないの、と意外な答えが帰ってくる。


「旅」


「だって赤毛のカラヴィンカの墓は見つかってないんだよ。キャプションには先に死んだ先代の鳥巫子じゃないかってあったけど、女だろうと男だろうと、それなら墓がないとおかしい。特に今回の墓群は状態がよくて親もきょうだいもみんな揃ってるんだ。なのに赤毛だけがいない。記録さえない。

 僕は、赤毛は故郷を離れたんだと思う。きっと髪の色のせいで。アリヤ文明では、赤い髪の子供は魔物として忌まれる風習だったから。今調べてるところなんだ。次はその方向で論文書く。

 あの鳥巫女カラヴィンカはきっと、赤毛の兄弟を大事に思っていたから腕輪を墓まで持っていったんだと思う」


 急にたくさん喋る。こういう時何が起きるかおれはもう分かってる。おまえは多分こう言う。

 サイラの都に行けば色々知ってる人がいるはずなんだ、始祖に会って古い神話の話が聞きたい。アリヤの鳥巫女のもっと古い形を、同じくらい古くから同じ鳥巫女カラヴィンカの伝承を持つサイラは記憶してる可能性がある。

 果たしてその通りの台詞を今日も言ったあと、おまえは新しい情報を付け足す。


「……大体サイラがあった所って僕んちの故郷なんだ。今もひいおばあちゃんが住んでる」


「はあ? 何だ、時間旅行でも調査旅行でもなくて帰省かよ。じゃあ好きな時に行けばいい」


「きみと帰りたいから」


 きみが一緒に行ってくれそうなくらい親しくなれるまで、待ってた。


 そんなことを。

 まるで時間のかかる猟をしていたみたいに。

 サイラに行きたい、天空の国に行きたいと繰り返し繰り返しおれに聞かせて、おまえこれは祈りとかじゃなくてもはや洗脳だぞ。一緒ならどこでもいいみたいなこと言って実際は完全に行き先決まってたんだろうが。意外と狡猾なところあるよな。なんかもう手錠まで掛けられてしまってるようなものだし、これはつまり。

 捕まったのは、おれの方。

 ああ、分かってたよ、そんなこと。




 一ヶ月後、酸素の薄い高山の古都で『実家の曾祖母』という人に初めて会った。

 それがまた烈火のような赤い髪の老婦人で、魔物扱いされる同士の挨拶を会うなり教えてくれた。


――お帰りなさい、悪夢イール。おまえの赤が悪しき血ではなく、地にる実、天の炎の色であるように。


――さあ、これで大丈夫、悪いものではないと祝福したからね。家にお入り。すぐお茶をあげようね。

――いつ会えるかと思っていたんだよ。遠いところをよく来たね。


 そのしわがれてゆっくりした声に、高山の凛とした大気の匂いに、少し泣きたくなったのは何故だろう。

 繋いだままでいた手が柔らかく引かれる。その温かい感触が、こんなにも優しく嬉しいのは何故だろう。



 未来に還ってきた。

 そしてまた、進む。



 これはおれの旅、おれが選んだ道だ。


 旅は続く。

 きっと、おまえと一緒に。



 どこまでも続くんだ。








〈了〉


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カラヴィンカの祝福:解題あるいは覚え書き、あと外伝 鍋島小骨 @alphecca_

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