お題「SNS、ドーナツ」

「ほい、ピーナッツバターオールドファッションドーナツだ。まいどあり」

 気の良い店主のおじさんからドーナツを受け取る。ああ、これだこれ。お店を出るなりすぐに、私はガブリとかぶりつき、有頂天に達する。達した先で、私とドーナツの奇妙な因縁を思い出す。

 

 最初はちょっとした憂さ晴らしに過ぎなかった。

 大学時代のある昼下がり、私は講義の合間にすこし小腹がすいたので、好物のピーナッツバターオールドファッションドーナツを買いに行った。駅前にある行きつけのドーナツ屋さんだ。個人経営の小さなお店だが、味の良さは私が保障する。だが、その日は臨時休業だった。個人経営である以上は、たとえば店主のおじさんが体調を崩せばお店は休みになる。今までにも何度かこういう経験はあったから、取り立てて驚くようなことでもない。しかし、なぜかその日だけは、私は我慢ならなかった。どうしてもピーナッツバターオールドファッションドーナツが食べたかった。臨時休業だと知る前はそれほど強くもなかったはずの食欲が、知った途端に急激に湧いてきた。納得がいかない。これは天罰か? だが私の日ごろの行いは良好だ。いわれなき天罰に苦しめられる筋合いはない。それで、ちょっと、カッとなった。

 もちろん、カッとなったと言っても、何かおぞましい凶行に及んだわけではない。日ごろの行いが良好な私に限って、そんな野性的な衝動に駆られるはずがない。私は極めて理性的にこの抑えがたい怒りに対処した。本当ならもっと派手に全世界のサーバーを乗っ取るくらいのことをやりたかったが、あいにく私にはそこまでの能力がない。学内のサーバーを手中に収めるのが精いっぱいだ。とりあえず、公式サイトをドーナツまみれにしてやる。公式SNSもヘッダーからアイコンから投稿内容までドーナツで埋め尽くしてやる。あとはシラバスやら蔵書検索システムやら目に見える範囲をぜんぶドーナツにしてやる。で、気が済んだら元に戻そう。

 ドーナツで埋めるのは楽しかったが、馬鹿馬鹿しくもあった。すぐに飽きたので、すぐに元通りに戻した。たぶん、ものの三十分もドーナツは持たなかったと思う。けれど、たとえ一瞬でも誰かの目に留まったなら、その痕跡は永続する。それがネットだ。それがSNSだ。私はすこし、ドーナツの影響力を舐めていた。

 当時私は、埋め尽くされたドーナツの画像に短いメッセージを隠していた。"HOLEY shit, I can't stand it"――「ちくしょう、もう我慢ならぬ」――と。ピーナッツバターオールドファッションドーナツを食べられないことに対する欲求不満を意味するメッセージだ。だが、他人はどう見る? 私が通っていたのはそこそこ名の知れた大学だ。そこに突如としてドーナツの大群が押し寄せたのだ、反抗的な声明文とともに。これは怒れる若者による抗議デモなのでは?

 学生数の多い名の知れた大学なら、叩けばホコリは出る。不祥事だって時々起きる。私はそんなものに興味はなく、何の他意もなかったはずだが、ドーナツは歪な正義感を振りかざした。瞬く間にドーナツは拡散した。どこから現れたともしれないドーナツ信者が湧いた。もちろん、ドーナツ派の勢いを鎮圧しようとする反ドーナツ勢力も現れた。壮絶な争いが始まった。ただの悪戯が、急速にSNSを通じて波及した。なんてこった。あーあ、しーらねえ、ほっとけほっとけ。というわけで私はだんまりを決め込んだ。混乱が大きすぎたのか、当初の乗っ取りの犯人捜しもろくに進まなかったから、私は戦火を免れた。

 カッとなった程度で新時代のスタンダードを築いてしまうのは想定外だったが、まあ、私としては平穏にピーナッツバターオールドファッションドーナツが食べられればそれでいい。今や学生運動といえばドーナツのプラカードだ。ドーナツはもはやみんな大好きな甘くておいしいおやつではなく、反骨精神の象徴だ。若者がドーナツを食べていると、なんだかそれだけで世を憂いているかのような印象を与える。さらに言えば、ドーナツ屋を営む者はみな反政府的な思想の持ち主だとみなされる――なんて、もちろん今のは嘘だ。


 ピーナッツバターオールドファッションドーナツの最後のひとかけらを食べ終えると、私は口寂しさを覚えた。しゃあない、おかわりするか。私は出たばかりのお店にもう一度入り、苦笑いする店主のおじさんに威勢よく注文する。

「ピーナッツバターオールドファッションドーナツを一つ」




※ Dさんより2021年7月4日にお題をいただきました。ありがとうございます。

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