お題「チャラ男、転落、タイムマシン」
初めて心を決めたとき、悔いはないはずだった。
その後の出来事が、一生悔いても悔い切れないくらいの悪夢の連続になるとも知らずに。
おれはとにかく人間が嫌いだった。自分自身も含めて、全人類に平等な憎悪を抱いていた。特別何かをされたわけではない、かもしれない。あるいは、されたのかもしれない。思い出したくもなければ、思い出すつもりもない。ただ、人間嫌いを自覚したときには、もはや更生の余地がないほど手遅れだった。だから、必然的な運命の流れとして、プラットホームから飛び降りた。一度ならず二度三度、気付けば何回も、何十回も。
そして、そのことごとくが未遂に終わった。
最初の飛び降りの時点ですでに気付いていた。だが、あのときはただ自分の決意が足りなかったのだと、気持ちだけが先走って妙な幻覚に悩まされているのだと思った。二度目も三度目も、そう言い聞かせ続けた。明らかにおかしいと確信したのは、四度目のときのことだ。それまでの三回でも不審に思っていたが、おれが飛び降りるとき、プラットホームの隅にいつも同じ男が立っている。それは駅員などではない、軽薄そうな笑みを浮かべた、大学生くらいの若い青年だった。時間帯を問わず、駅の所在を問わず、おれが飛び降りるときにだけ現れる青年。きっとおれにしか見えない幻かなにかだと思っていた。特に見覚えもないし、意味も見出せないけれど、幻だと思えば大して気にならなかった。認知は歪んでいても、理性は現実主義を貫いていたから、幻程度にかかずらうおれではなかった。良い予感はしなかったが、でも四度目の飛び降りもいつもと同じように何気なく、迫りくる轟音に向かって身を預けた。はずだった。
――ちっ、またか。
一瞬前に宙を舞ったはずの踵は、何事もなかったかのように黄色い点字ブロックの手前に引きずり戻されていた。また同じ結果だ。一瞬遅れて、さっき聴こえてきたのと同じ轟音が、目の前を過ぎていく。行ってしまった。おれは、いつもいつも、飛び降りるたびに、数秒前の過去に、飛び降りる直前に戻される。世界そのものの時間が巻き戻る、とでもいうべきか。だが、そんなことは現実的に起こり得ないと知っているから、おれは己の歪んだ認知を責めた。吐き出すように大きな溜め息をついて、その場を離れようとしたとき、視界の隅に例の青年が見えた。満足そうな微笑み。恍惚そうに、手元の懐中時計を眺めている。見ているだけで腹が立つが、あれもおれの歪んだ創造に過ぎない。視線を意識的に逸らし、さっさとこんな場所からおさらばして家に帰ろうと思った矢先、鈍い音が響いた。
振り返ると、小さな子どもが派手に転んだ様子が見えた。あの子はおれの認知の産物じゃない、さっきからうるさくはしゃぎまわっていた子だ。が、驚くべきことに、あろうことか、おれの認知のなかの青年が、手を差し伸べた。そして、おれの認知の外の子どもが、その手を掴んで、立ち上がった。
おかしい。
考えられる可能性は二つ。一つは、あの子もおれの幻覚であること。もう一つは、あの青年がおれの幻覚ではないこと。おれは前者を信じたかった。そして、前者を信じた。人間嫌いでとっくのとうに頭が狂っているのだから、今さら気にすることではない。
四度目を終え、その後たとえどれほどその青年が現実に存在し得るような証拠を見せても、おれは見向きもしなかった。すべてが幻だ。おれは頑なに青年の実在を信じなかった。が、十回を超え、二十回を超え、やがておれも疲れてきた。慣れてきたとはいえ、あの時間を巻き戻されるような感覚は、決して心地良いものではない。それに、飛び降りるという行為自体も、そんなに精神的に楽ではない。まただめかもしれないという妄執に囚われながら、それでも無為な試みを敢行し続けて、案の定失敗して。人間嫌いで、この世に希望を見出せなくて、飛び降りる決意も行動力もあるはずなのに、なにか超常的な力に遮られている。認めたくはなかったが、もし本当にそのような陰謀論が成り立つなら、おれを邪魔しているのはあいつだ。幻に真相を問いただすなんて滑稽の極みだけど、どうしても避けられないのなら、やるしかない。
あの青年は、おれが飛び降りるときにしか出てこないから、基本的には飛び降りるつもりでいく。飛び降りて、またあの最悪な巻き戻しを経験して、吐き気を抑えながら青年に近付き、話を聞く。善は急げだ。決行日がやってくると、手筈通り、万事順調に事は進んだ。飛び降りてもダイヤが乱れることもなく、ただおれ一人が堪え難い頭痛に襲われるだけで済んだ。そして、視界の隅には、もちろんいる。懐中時計を弄ぶ、何年経っても大学生みたいな見た目を保ち続ける青年が。おれは慎重に青年に忍び寄った。気付かれて霧消されては元も子もない。もっとも、霧消すれば幻であることが確定するが。どちらにしても、ここはできれば青年に話を聞けたほうがいい。なので、慎重にいく。が、思わず視線が合ってしまった。まずい、と思ったが、青年は口角が麻痺したかのように薄ら笑いを浮かべ続けていた。おれが近付くことを認識しながら、拒もうとはしなかった。そして、彼の目の前に辿り着くと、おれが声をかけるより先に、律義に挨拶をしてくれた。
「やっと向き合う気になりましたか、父さん」
抑揚のない平板な声だった。おれは、青年の口角が麻痺しているのにつられて、思考が麻痺した。父さん――?
「過去三年間、概ね二週間に一度のペースで飛び降り続けて、今回で七十七回目です。おや、ちょうど縁起の良さそうな数字ですね。七十七回も父親の自殺を間近で目にする息子の身にもなってくださいよ」
凍り付いた微笑で淡々と語る青年は、わざとらしく「父親」と「息子」ということばを強調して語った。だが、そんなはずはない。おれは独身で子どもはいない。いたとしてもこんな大きいはずはない。それに、「いたとしても」というのは完全なる非現実だ。おれは人間嫌いだから、人を好きになることも、結婚することも、ましてや子どもを設けることも、あり得ない。麻痺した思考を整理して、反駁しようとしたとき、青年はそれを遮った。
「あり得ないなんてことはあり得ませんよ。僕には父さんの考えが手に取るように分かります、なのでわざわざことばに出して反論しなくても結構です。僕は血の繋がった実子です、養子ではありませんよ。父さんが死ぬほど人間が嫌いなのは重々承知しています。なにを隠そう、僕もですから」
そうやって、自称おれの息子は懐中時計を見やった。一見、何の変哲もない年代物の時計に見えるが、青年はおれに、蓋の内側を見せた。そこには文字が――紛れもなくおれの筆跡による文字が、刻まれていた。
「『おれはお前を死なせはしない』これは父さんが父さんに宛てて書いたものですよ。厳密には、未来の父さんが、ここにいる今の父さんに、ということです」
ということです――? 意味が分からない。青年は遠回しに、自分が未来人であると主張している。むろん、おれの息子という肩書が本物だとすれば、未来人しか考えられないが。
「お察しの通り、僕は未来から来ました。放っておいたらすぐに自殺してしまう父さんを、強引に一瞬前に巻き戻して、生き永らえさせる役目を負っているのです。残念ながら、未来世界の父さんは、死んでしまいました。我ながら迂闊でしたよ、あとすこしで人類を滅亡させる装置が完成するところだったというのに、父さんは人類よりも一足先に抜け駆けしてしまいました。放っておいたらいつもそうなんです。それまではなんとか延命することができたのに、まさか完成間際で一杯食わされるとは思いませんでしたよ。あの装置は、父さんにしか理解できないメカニズムで創られているので、父さんが滅した未来世界では、もはや人類を滅亡させる手立てが失われてしまったのです。ああ、悲しきかな」
まったく悲しくなさそうな冷たい声で、青年は雄弁にまくしたてた。未来世界、人類を滅亡させる装置、延命、メカニズム――。途方のない話だ。やはりこの青年はただの幻だろう。おれは自らの歪んだ認知に呆れ返り、背を向けて歩き出すと、あの感覚が襲ってきた。そして、気付いたらおれは、体の向きが百八十度回転していた。つまり、背を向ける前の時間に巻き戻されたのだ。
「愚かな抵抗ですよ。この懐中時計――携帯型タイムマシンは、世界を五秒前に巻き戻すのです。僕が使えば、誰も逃れられない。他の不特定多数の人々は、記憶も含めて完全に五秒前に戻りますが、僕や父さんは例外です。舵手の僕はもちろん、発明者である父さんは、記憶を保持したまま五秒前に戻ります。父さんは、その人類に対する飽くなき憎悪を糧に、このような、人々を欺く天才的な発明を開発するに至ったのです」
彼の言う通り、すべてが愚かな抵抗のようだ。幻だと思って逃げれば巻き戻されるし、幻ではないと思って真面目に話を聞けば混乱するだけだし、おれには打つ手がない。
「困るんですよ、父さんに死なれては。死ぬならちゃんと人類を滅亡させる装置を完成させてからにしてください。僕が本来属するはずの未来の時間軸は、もはや役立たずです。だから、今度こそ完成にこぎつけさせるために、すくなくともこの時間軸では、父さんをあらゆる死の危険、死の誘惑、死の瞬間から救い出してみせます。僕は父さんと同じで、人間が大嫌いですから、あの装置で全人類を根絶やしにすることのみを目的としています。そのためには、自殺したいと切に願う父さんを徹底的に否定し、徹底的に傷つけ、なんとか生き延びてもらうほかないのです」
奇妙な話だ。幻か、幻でないかはこの際捨て置き、この自称おれの息子は、非常に奇妙な論理でおれに生きるよう激励している。
タイムマシン――たしかに、その効力は本物らしい。刻まれた文字も、壊滅的にへたくそな、およそ誰にも真似できぬような、一周まわって芸術性さえ感じられるおれの筆跡だ。だから、こいつの言う通り、おれが発明者であったとしても、そこまで不思議ではない。
人類を滅亡させる装置――その真偽は定かではないが、もし未来のおれにタイムマシンを本当に創れるほどの素養があるのなら、それも実現可能やもしれない。徐々にこの荒唐無稽な話を信じる方向に傾きつつある自分を、おれは不快に思った。だが、こればかりはどうしようもない。この青年は、おれを死なせないことについて、明らかに本気だ。七十七回も続けてきたなら、百回でも二百回でも、千回を超えても、おれを現世に束縛するつもりだろう。
完全に納得したわけではないが、納得しないわけにもいかず、おれは半ば折れるような形で、ようやく一言だけ、青年に邪魔されずに発言できた。
「……分かったよ、こうなってしまったからには人類を滅亡させてやるさ」
青年は満足そうな笑みを浮かべた。だが、最初からずっと浮かべていたので、別に表情に変化はなかった。
*
あのとき青年が嘘をついていたことに気付いたのは、それからだいぶ経ってからのことだった。
おれには子どもはいない。タイムマシンは問題なく創れた。ついでに、タイムマシンを操るアンドロイド型の舵手も。あの青年は、実際のところ、未来のおれが過去に送り出した自作のアンドロイドであって、創造主と被造物という観点からすれば親子と言えるかもしれないが、すくなくとも血縁関係にはない。だからあんな張り付いたような機械的な表情をしていたのだ。で、肝心の人類を滅亡させる装置だが、あれもブラフだ。タイムマシンを発明できた時点で、おれは、別の未来のおれが仕掛けた罠の全容を理解した。
つまり、こういうことである。
おれは今でもあわよくば死にたい。というより、これから心置きなく飛び降りるつもりである。今回は誰にも邪魔されない。おれの創ったアンドロイドは、今の時間軸のおれを救うつもりは毛頭ない。そんな馬鹿げた命令は与えていない。アンドロイドは過去に遡行して、別の時間軸のおれを救いに行く。かつて、あの青年がおれにそうしたように。おれは人間が嫌いだから、当然自分自身も嫌いだ。おれはここでさっさとおさらばして、残りの責任を過去のおれに押し付ける。今のおれと、過去のおれは別人だ。過去のおれが生から逃れられずに無限の苦しみに晒されようと、おれの知ったことではない。「人類を滅亡させる装置の完成が間近」だとでもほらを吹いておけば、かつてのおれがそんな安っぽい甘言に騙されて、選択を見誤ったように、きっと次に標的となる過去のおれも騙される。ざまあみろだ。
おれはお前を死なせはしない。おれはおれ自身に復讐し続ける。人間が嫌いなら、別にわざわざ手間暇かけて全人類を平等に滅ぼす必要なんてない。人間が嫌いなら、おれ一人を永劫の時間のループのなかで滅ぼし続ければ、たぶんそれでいい。全人類も、そしておれも、平等に無価値だ。
初めて心を決めたとき、悔いはなかった。
その後、悔いだらけになった。
そして今、またしても悔いはなくなった。
おれはようやく、夢にまで見た轟音の軋みのなかに、後顧の憂いもなく飛翔することができる。時の重み、五秒前の悪夢に巻き戻されることなく、おれは本望を遂げて四散した。
※Yさんのお題を、2020年9月18日にお借りしました。ありがとうございます。
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