第14話『午後はあなたとコーヒーを』
……また、いるよ。
道路の脇で、ギターを弾いている女。
和樹は、何だか不思議な感覚に打たれた。
なぜなら、彼が幸せの絶頂にいた三年前にも、その女は同じような時刻に同じ場所で、ギターを弾いていたからである。
彼が今から向かおうとしているのは、ある喫茶店。
そこで会おうとしているのは、彼自身の妻。
目的は別れ話。つまり、離婚である。
妻の律子とは、大学時代に知り合った。
気乗りしなかった合コン先で、一目惚れだった。そしてそれは和樹のほうだけではなく、律子のほうでも何か特別なものを感じたようである。
それから二人の仲は急接近し、身も心も深く結ばれる仲になるのに、そう時間はかからなかった。
和樹は、商才に長けていた。
大学を出た後、彼は親友であるフランスに学んだパティシエと組んで、小さいながらも、東京の青山にスィーツの店を出した。
店舗にはちょっとした客席部も設け、店のスィーツをコーヒーや紅茶と共に楽しめるようにもし、和樹が店長として経営や事務の一切を仕切り、律子が接客を担当。
それ以外には、学生のアルバイトを数人雇うだけで、店を回した。
ちょうどその時期に、二人は結婚。
二人にとって、最も幸せな時期だった。
和樹の店は、大当たりした。
フラワーショップと提携した、『花とスィーツのプレゼント』企画。
そして既成概念に囚われない、斬新なレシピや包装手段の数々。
若い女性間でたちどころに話題になった彼の店はついに雑誌やテレビで取り上げられ、もはや現状では押し寄せる客をさばききれないところにまで来た。
強力なスポンサーを得た彼は、ついに都内に5店舗のチェーン店を展開するに至った。もはや個人の店を切り盛りするのとは訳が違い、経営方針や人事、仕入れや原価計算・利益計上・予算と支出・広報……和樹はスィーツに直接関わる現場からは離れ、完全な管理職と化した。
若くして成功し、ルックスも良かった和樹を、メディアは放っておかなかった。
スィーツ関係の雑誌だけでなく、あらゆるメディアが彼を取り上げ、料理番組やグルメ番組だけでなくバラエティー番組にも、彼は引っ張りだこであった。
政治家や歌手・俳優などの有名人と、当たり前のように肩を並べて仕事をするのが常になった彼は、いつの間にか自信の塊と化していた。
律子は、相変わらず一番最初の原点である青山の店を任されていたが——
夫である和樹はあちこちを飛び回っていたので、すれ違いの生活が続いた。
律子は、言いようのない寂しさを感じた。二人でいつまでも一緒に頑張ろうね、と誓い合って始めたこの店で、今は自分一人。
華やかな世界に身を浸すことで、和樹も変わってしまった。
日々、華やかでなかなかお目にかかれないような特別なオーラを放つ美人女優と当たり前のように接しているうちに、彼は律子に悪いとは思いつつも、そうした女と枕を共にすることがあった。
そうして次第に深みにはまっていき、ついには呵責を感じなくなるところにまで、美人女優の魔性の体に溺れていった。
その頃から、和樹が律子の待つ家に帰宅するのは週に一度にまで激減していた。
和樹はTV局に通う時によく通る道で、ギターを持って路上演奏をしている女性をよく見かけた。
見ると、10人ほどが立ち止まって歌に聴き入っている。
分刻みのスケジュールに追われていた彼は、その女性の歌をゆっくり聴くどころではなかったし、また聴く気もなかった。
世で成功している歌手ばかり身近に見ている彼には、路上演奏などしている者はどんなに歌がうまかろうが敗者であり、負け犬と見えたからだ。
……本物だからこそ、世間に認められるんだ。
価値がないからこそ、金が稼げないんだ。皆がその価値を認めないからだ。
だから彼は、そのギターの女性を哀れんだ。
しかし、和樹がいつ見ても、その女性は心から楽しそうな顔をして演奏していた。
その度に、和樹は頭を振ってその女性のために嘆くのであった。
……そのうち、あの人も自分のしていることの空しさに気付くだろう——。
しかし。和樹の行く道も、いつまでも平坦とは行かなかった。
女優とのスキャンダルが、写真週刊誌にスクープされた。それまで爽やかでクリーンなイメージで売ってきた和樹のキャラは、完全に崩壊した。
しかも、彼は妻帯者であったから、それはそのまま彼の店のイメージダウンに直結することとなった。テレビの出演依頼も激減の一途をたどり、スィーツの店の売り上げも大打撃を受けた。
あわてた和樹は新たな販売戦略を考え実行に移したが、テレビ出演で持論を得意気にしゃべることや売り上げの数字のことばかりを見ていた和樹からは、昔の勘の冴えは失われてしまっていた。
本社を含むほとんどの店舗を閉鎖。その処理にお金がかかり、今や彼はほぼ無一文に等しかった。
残ったのは、すべての始まりであった青山のあおの店だけ。
そこだけはかつてのパティシエの友人と律子が守り通しており、二人のことをよく知る客たちは今回の報道に惑わされて離れていったりはしなかった。
有名になったために二人に不義理をしてほとんど寄り付かず、さらに外で恥まで作った和樹は、どう考えても律子の店に戻るなんてできない。ましてや、こちらから仲直りしようなどとは、言えない。
うちひしがれた和樹は、今から律子と最後の会見に臨もうとしていたのだ。
三年前は、自信に満ちて通ったこの道。
まさか、こんなみじめな気持ちでここを通ることになろうとは、夢にも思わなかった。今まで和樹が見下げてきた路上演奏の女性は、三年前とまったく変わらず笑顔で歌っている。
変わったのは和樹であり、変わらないのはあの女性。
オレとあの女性とは、一体何が違うんだろうか——。
今は、その女性の周囲に人はなく、ひとりで歌っているようだ。
和樹が、ギターの女性の横を通り過ぎようとしたその時ー
「あの……」
まさか声をかけられるなどとは思っていなかった和樹は、驚いて振り向く。
「初めまして、じゃありませんね。私、何度もあなたのこと見ましたから」
ギターの女性は、由貴と名乗った。
二人は、道端の植え込みを囲うレンガの縁に腰掛けた。
「そうですね。僕も、あなたのことはだいぶ前から知っていましたから」
顔を見合わせた二人は、クスッと笑った。
しゃべるのは初めてなのに、どうも他人な気がしない。
さげすみの対象であったとはいえ、三年間意識し続けてきたからだろうか。
そして今完全に自分の積み上げてきたものが否定されてしまった今、自分が間違っていたのかどうかを、生き様がまったく違うこの女性と話すことで確かめてみたいと考えたのだった。
「あなたが今まで頑張ってきたのは、何のためですか?」
和樹が何か言い出す前に、由貴はそう声をかけてきた。
まだ何の説明もしないのに、和樹の悩みの核心に迫る内容を尋ねてきた由貴に、和樹は驚きを隠せなかった。
答えられなかった。
正直分からなくなっていたというのも、ひとつにはある。そして、突き詰めれば何か分かりたくないことを分かってしまいそうだったから……。
「私は、幸せなんです」
由貴は、笑顔でそう言い切った。
そうだろうな——。和樹はその自信に満ちた微笑を見て漠然と思った。
「なぜだか分かりますか?」
黒いギターケースから中身を取り出すと、由貴は静かに構えた。
「……私は、歌が好きです。なぜ歌うのか? それは、聴いてくれる人のことを私は愛しているから。だから、いつも聴いてくれる人の幸せを祈って歌っています」
考え込む和樹。
由貴は、街路樹の枝の隙間から差し込む日の光を見上げ、目を細めた。
「そうじゃなければ、私は世界一の愚か者です」
物悲しい調べを奏でながら、由貴は静かに眼を閉じた。
「例え私がどんなに美しい声で歌っても、人気が出てお金を稼げても、たくさんのファンを得ても……動機に愛がないとしたら、私の歌はやかましい騒音と同じです。例え私がどんなにこの世界で成功して、有名になろうがお金持ちになろうが、そこに愛がなければ一切は無益です」
I feel so unsure
As I take your hand and lead you to the dance floor
As the music dies something in your eyes
Calls to mind a silver screen and all its sad goodbyes
I'm never gonna dance again
Guilty have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know you are not a fool
ジョージ・マイケル(ワム)の『ケアレス・ウィスパー』という歌だった。
和樹は、考えた。
オレは、どこで間違ってしまったのだろう——。
初めは、オレにとって店は律子と二人で生きていくための手段に過ぎなかった。
しかし、店がヒットしてしまった。
いつのまにか、手段の方が目的に勝ってしまっていた。
律子のため、と言いながら実は自分の有能なこと、実力のあることを世に認めさせたかったのだ。
必要以上にお金を稼ぎ、必要以上に世の表舞台に露出した。
そうして、だんだんと悪魔に当初の動機をずらされていった。
しまいには、律子との愛から外れて、他の女に溺れるところにまで落ちた。
I should have known better than to cheat a friend
And I waste a chance that I'd been given
So I've neve gonna dance again
The way I danced with you
Time can never mend
The careless whispers of a good friend
To the heart and mind ignorance is kind
There's no comfort in the truth, pain is that all you'll find
楽しかったなぁ。
律子と、店のことを一緒にあれこれと考えた日々。
開店準備も大変で、夜中に服のまま疲れてベッドに倒れこんで、二人抱き合ったまま朝を迎えた日もあった。
やっぱり、オレ失敗してよかったよ。
もしこのまま成功していたら、オレは大事なことを分からないままだっただろう。
良い種をまけば、良い実を結ぶ。
悪い種をまけば、悪い実を結ぶ。
オレは、悪い種をまいて結局悪い実を刈り取った。
愛の種を欠いたオレの作物は、結局オレ自身を滅ぼした——。
I'm never gonna dance again
Guilty have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know you are not a fool
I'm never gonna dance again
Guilty have got no rhythm
Though it's easy to pretend
I know you are not a fool
With or without your love
それは、物悲しい歌だった。
愛の過ち、そしてつまづき。ほろ苦いすれ違い——。
嫌いじゃないのに、本当は好きなのに。
愚かにも、一番大切なものを見失った悲劇。
決して取り返しのつかない、悲劇。
歌い終わった由貴は、厳かに言った。
「これから、行くところがあるんでしょ?」
和樹はビックリした。もしかしたらこの不思議な女性は、すべてお見通しなのか?
「あっ、ああ」
時計を見ると、待ち合わせの時間に近い。
「それじゃあ、僕は行きます。ありがとう」
なぜだか、自然にありがとうという言葉が出た。
由貴はニッコリと笑った。
「もう、一番大事なもの手放しちゃダメですよ」
待ち合わせの喫茶店に着いた。
スキャンダル騒動があってからは、電話で話しただけで実際会うのは初めてだ。
そう考えると、かれこれ1年は律子に会ってない計算になる。
皮肉にも、ここは和樹が律子にプロポーズをした想い出の喫茶店。
結婚前の交際期には、デートでよく午後にここに来ては名物のコーヒーとスィーツを注文して、「いつかはここに負けないくらいのものを出せる店をやろうな!」と二人で決意を新たにしたものだ。
まさか、律子と結ばれたその同じ場所で今度は別れ話をしなければならないのか、と思うと無性に空しくなり、胸にこみ上げてくるものがあった。
入り口のドアの前でしばし立ちすくんだが、和樹は覚悟を決めた。
ドアは、カランカランという涼やかな鐘の音を鳴らして開いた。
「いらっしゃいませ」
近寄ってきた黒服のボーイに座席に案内されかけたが、和樹の目はすぐに、店の奥に律子の姿を捉えた。
「あ、もう連れが来てるみたいなんで——」
向こうのほうでも、店内に入ってきた和樹に気付いていたようだ。
律子が、大きく手を振ってこちらを見ている。
向かい合った二人は、しばらく無言だった。
和樹は、何と声をかけたらいいのか、正直分からなかった。
事件が起きるまでは自分が一角の人物であり、有名人に、経営者にふさわしい知識と実力を持った人間だという自信があった。
でも今、こんな状況にさえどうしたらいいのか分からないでいる自分・ひとりの女性さえ幸せにしてやれなかった自分に気付き、愕然とした。
……オレは今まで何をやってきたんだか。
由貴を哀れんできたが、哀れむべきは実は自分のほうだったんだと気付いた。
お冷のグラスに口をつけ、喉を潤してから和樹は切りだした。
「ゆるしてくれ、とは言えない。そんなこと、ムシが良すぎるからな。そう思うけど、やっぱり謝ることしかどうしても思いつかないんだ。だからとにかく謝らせてくれ。スマン、この通りだ」
頭を下げる和樹を、律子は腕組みをして見下ろした。
「それで、あなたは私にどうしてほしいの?」
バッグをゴソゴソといじる和樹がとりだしたものは……離婚届であった。
そこには、すでに和樹の分の署名と捺印がなされてあった。
「律子が望むなら、これに書き込んでくれればいい。お金のことや法律上のことは、これからおいおい話し合っていけばいい。でもな——」
冷ややかに和樹を見つめる律子の眉間に、しわが寄る。
「でも……何?」
和樹は、恥を忍んですべての見栄やプライドをかなぐり捨てようと、己と戦った。
そして今、今まで築き上げてきた自分に打ち勝とうとしていた。
先ほどの由貴の言葉が、音楽が——
彼の背中を後押ししてくれた。
「本当は、もう一度お前と暮らしたい」
固まる律子に、和樹は本心をぶちまけた。
もう、和樹は立派な経営者でも有名人でもなかった。
自らの愚かさを悔い、愛のためにすべてを投げ出す一人の男でしかなかった。
「お前がいなければ、何があったって、ダメなんだよう……」
和樹は、男泣きに泣いた。
周囲の視線なんて、気にしていられなかった。
ただただ、律子に申し訳なかった。
やり直せるのならば、どんなことでもする。
しかし、律子がそれを望まなければ、潔く身を引くしかない。
そして、自分はその仕打ちにあっても当然のことをしてしまったのだから、仕方がない——。
遅すぎた和樹の悟りは、この状況で彼を極限にまで苦しめた。
「顔を上げて」
ハッとして、和樹は涙に濡れた顔を上げた。
涙目に、和樹はハッキリと見た。まるで、タイムスリップしたかのようだ。
なぜなら、そこには出合った頃のような律子の目が、愛おし気に和樹を見つめていたからだ。律子は、テーブルの上にあった離婚届を手に取ると——
ビリッ!
和樹の見ている前で、律子は離婚届の紙をビリビリに破いた。
「あ~すっきりしたぁ!」
目を細めて笑う律子は、天使に見えた。
この女性のためなら、何も惜しくない。
この女性(ヒト)と一緒にいれるなら、他にもう何もいらない——。
この後、びっくりするような律子の告白が待っていた。
彼女は、たびたびあの由貴の路上演奏に立ち止まっては聴いていた。
そして、すっかり友達の間柄になっていた。
つまり、和樹が上から目線で由貴を見ながら道を歩いていたその裏で、由貴は律子にアプローチしていたのだ。
「実はね、ここに来る前も由貴さんとしゃべったの」
!!!
……ってことは、オレより早い時間にか。オレと入れ替わりになったのか?
『あなたの旦那さんは今、やっと一番大事なものが何かに気付いたんです。慰め、立ち直らせてあげれるのはあなたしかいません。腹も立つでしょうけど、彼を信じてもう一度だけチャンスを上げてくれませんか』
由貴は、律子にそう進言したらしい。
「私ね、あの人の言うことなら信じられる、と思って。で、今あなたを見て確信したわ。あなたが心から反省してるって」
二人を遠く隔てていた三年間の壁は、今崩れ落ちようとしていた。
涙声でしぼり出すように、律子はうめく。
「もう一度、私のところに帰ってきて……」
喫茶店を出て、数歩歩いた時。
「ちょっと、こっち向いて」
律子の声に和樹が反応すると——
パチィィン!
和樹の目に、無数の星が散った。
「うん、これでぜんぶチャラ。これからもよろしくねぇ!」
突然の平手打ちに、律子の声がワンワンと頭に反響した。
「あっ、ああ? ビックリした……」
でも、これで気が済んでもらえるのなら、かえって安いほうだ。
「……あなた」
律子は和樹にしなだれかかってきて、ピッタリと体を密着させた。
「律子——」
三年間すれ違ってきた二人の心は、今激しくお互いを求め合っていた。
自然の成り行きで、二人は互いの唇を重ねた。
律子の瞳から、溜めておけなくなった涙が一筋、ツーッと頬を伝う。
「ああああああああ~~~~ん」
突然火がついたように、律子は顔を空に向け、手で覆いもしないで泣き出した。
まるで子どものように、顔を真っ赤にして、しわくちゃにしてむせぶ。
万感の想いを込めて、和樹は律子をギュッと抱きしめた。
「ごめんな。 これからは、オレが守るから」
長い旅路の果てに、ようやく和樹は自分の居場所を見つけた。
どうしてもお礼が言いたくて、二人は由貴を探した。
さっきの場所にも、よく路上演奏でいる場所にも、いなかった。
次の日も、そのまた次の日も——。
由貴は、二度と二人の前に姿を現すことはなかった。
愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、
誇らない、
いらだたない、
恨みを抱かない、
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして
すべてを忍び、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを耐える。
新約聖書 コリント人への第一の手紙 13章4~7節
青山の和樹と律子の店の壁には、今でもこう刻まれている。
『Special Thanks to Yuki.』
(由貴さんに感謝を込めて——)
知らない街の片隅で 賢者テラ @eyeofgod
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