第13話『雨のMelody』

 見るともなしに、公園の前の道路を眺める。

 傘をさして、行き交う人々。

 いいね。あんたたちの日常には、今のところ問題はないみたいね。

 幸せなのは、どっちかな。

 もしかしたら、まだ問題が表面化していないだけで、いつかは私みたいになる日がこないとも限らない。

 そう考えると、今苦しんでいる私は先に苦しんでいる分、ちょっぴりだけ時間を得しているのか? 

 そんな自分勝手な理論を、頭の中でとりとめもなく構築していると——



 道路の人の流れから一人の人影が飛び出て、こちらへ向かってきた。

 スラッと背の高い、ボーイッシュな格好をした女性だ。

 右手で傘をさし、音楽でもやっているのか左肩に大きなギターケースを抱えていた。髪は腰まであるロングヘアで、芸能界にいても不思議ではない魅力的なオーラをプンプンと発散させていた。

 私は考えた。きっと——

「お一人ですか? そんなところで雨に打たれていると風邪を引きますよ。何か事情がおありのようですが、とりあえず体を壊してはいけませんから、お帰りなってはいかがですか?」

 ……な~んて言ってくるんだろうなぁ。面倒くさいなぁ。



 それって、私のことを純粋に 『果汁100% 』で心配してくれるんじゃない。

 きっと、私を見てしまったから。

 そして、見過ごしたら後で良心の呵責を感じるかもしれない、という潜在意識の働きがあったから。

 だから私に何とか帰ってもらわないと、無事でいてもらわないと困るのだ。

 突き詰めれば、『自分のため』なのだ。

 まぁ、それだって電車で本に集中したフリや眠っているフリをして、お年寄りや体の不自由そうな人に席を譲らない連中よりは、行動するだけマシだとは言える。

 そんなことをつらつら考える自分を客観的に見て、私も相当末期的な精神状態だなぁ、なんて苦笑していると、その女性は私の目の前に立った。



 それから、私は不思議な時間を過ごすハメになった。

 とにかく、その女性の行動ときたら、私のひねくれた予想を気持ちよいくらいに裏切り続けてくれたからだ。

 まず、私に傘をさしかけるどころか、傘をたたんでしまった。

「……さすがにギターは濡れちゃまずいから、向こうに置いてきますね」

 エッ? と思ったよ。初対面の人間に、しかもズブ濡れでどう見てもわけありの人間にかける第一声が、それ?

 砂場の向こうに、コンクリートを固めた円錐状の山がある。その中に大きな土管が仕込んであって、子どもが中をくぐって遊べるようになっている。幸い、穴の位置は地面よりちょっと高いので、そこなら雨水も浸入しない。

 名も知れぬ女性は、そこにギターを避難させたようだ。そして手ぶらになって戻って来たその女性は、私の横のブランコを指差す。

「隣、空いてますか?」

 私はたまげた。

 そ、そりゃ空いてるに決まってるけど……

 その女性は、喜々として隣のブランコに乗って、揺れだした。

 それは、晴れの日に子どもが乗って喜ぶ様子と、大差なかった。

 言うまでもなく、その女性も間もなく私と同じようにズブ濡れになった。



「雨って、いいですよねぇ」

 ……はぁ。そう来るか。

「どういうところが、ですか?」

 私は、素直に思ったことを聞いてみた。

「だって、泣いてても……ごまかせるでしょ? しかも、涙だけじゃなく色んなものを洗い流してくれるような気がするし」

 思わず、クスッと笑ってしまった。

「なるほど。そういう考え方もアリですね」




 広い広い世界の中で

 小さな小さな人間の

 小さな小さな心の中に

 大きな大きな世界がある



 考えてみれば 不思議なことだけど

 考えてみれば うなずけること

 


 景色の見えない坂道を

 ひたすらひたすら登りゆけば

 登りつめた時振り返ると

 すべてがきれいに見渡せる



 私が変われば世界は変わる

 あなたが変われば世界は変わる




 女性は、名を『由貴』と名乗った。

 そして、今までに聴いたこともないような歌を歌った。

 不思議と、引き込まれる歌だった。

 メロディーもテンポも学校で習う歌のようについていきやすいものだったので、由貴さんが3回ほど繰り返して歌っただけで、私にも覚えることができた。

 彼女と声を合わせて、ブランコをこぎながら歌った。歌いながら、そもそも何でここに来て雨に打たれていたのか、自分でも分からなくなってきた。

 てか、それまでウジウジと考えていたことが、みなバカらしく思えてきた。



 歌い終わった後、由貴さんはまた摩訶不思議なことを尋ねてきた。

「魚が陸に上げられたら、すぐ死んでしまいますよね。どうしてでしょう?」

 何でそんな当たり前なことを聞くんだろう。

「そりゃあ、水の外で呼吸ができるようにはなってないからじゃないですか」

 由貴さんは、さらに聞いてくる。

「人間も、水中では生きられませんね。これはどうして?」

 ……この質問に一体、どういう意図があるんだろう。

「水中で呼吸する能力がないからじゃないですか」 



 そう。

 呼吸できないと、生き物は死んでしまう。

 人が苦しみもがく時。人を信じられない時。

 愛、という言葉がむなしいものとしてしか感じられなくなった時——

『愛を呼吸する』能力がない状態なのね。

 本当は、愛はそこら中にあふれているのに、それを認識することができない。

 心の目が盲目になってしまっている。

 ちょっとしたくだらない障害物に遮られて、真実というものの全体像を捉えられなくさせられる。



 人は、自分が変わるためには途方もない大きな力と苦労とエネルギーがいる、と思っている。

 それは、ある意味間違いじゃないけど、でも人はほんのちょっとしたきっかけや発想の転換で、大きく変われるものでもあるの。

 そして、あなたはその入り口に、今立っている——。



 由貴さんの語った内容は、要約するとそういうことだった。

 いきなりこの話をされたら、私は反発したかもしれない。

 しかし、傘を脇へ捨て私と同じようにずぶ濡れになり、ブランコに乗って私と同じ目線に立ち——

 しかも心にしみる歌を一緒に歌った後でこの話を聞くと、すんなり私の頭の中に入ってきた。

 恐らく、話を聞くまでに私の『聞く心の姿勢』が整えられたんじゃないだろうか。

 もし、これが計算の上だとするならば、由貴さんは恐るべき策士だ。

 逆にもしこれが無意識ならば、『天の使い』だ。



 気がつけば、雨がやんでいた。

 目の前の水溜りにも、すでに雨粒の跳ね返りはない。

「あ、お迎えが来たようですよ」

 由貴さんが笑顔で指差す、その先には——

 雨が急にやんでしまって不要になった傘を抱え、決まり悪そうにポリポリと頭をかいている夫の姿があった。

 夫を見た瞬間、私の心の鎧は砕け散った。

 そして、今まで遮断されていた空気が流れ込んできた。

 私はむさぼるように愛を呼吸した。

 今までそれを吸うことができずに死んでしまっていた分を取り戻すかのように。

 私はブランコから飛び降り、グショグショの格好のまま走った。

「お幸せに」

 背後で、由貴さんがそう言うのが聞こえた。

 夫は、水浸しの私の体を嫌がりもせずに受け止めてくれた。

 もう、そもそものトラブルの原因など忘れてしまった。

 気がつかないだけで、愛はすぐそこにある。

 悔しいけれど、それは真実。



『私が変われば世界は変わる』 、か——。



 夫と私は腕を組んで、雨上がりの街を歩いた。

 とりあえずは、服を着替えなきゃね。

 ……由貴さん。お礼も言えずに公園飛び出しちゃったけど、ありがとね。

 彼女のギターの演奏がどんなものか一度聴いてみたかったけど、いいや。

 あなたは、最高の『演奏』を私にしてくれたよ。



 ふと立ち止まって、夫と私は空を見上げた。

 雲の切れ目から、青空がのぞいていた。

「……虹だ」

 夫が指差すその先には、なるほど立派で大きな虹。

 その鮮やかな七色の光は、私の目を射た。 



 私は、その後二度と由貴さんに会う機会はなかった。

 でも、雨上がりの虹を見るたびに、私は由貴さんのことを思い出す。



 ……今頃、どうしているかしら。



 そんなことを思いながら、雨の日に覚えたあの歌を口ずさんでみるのだった。

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