第12話『愛が呼ぶほうへ』

 人が歩いているはずのない、深夜の田舎の山道。

 ラジオから流れている歌謡曲に耳を傾けながら、圭一は蛇行する山道に沿って慎重にトラックのハンドルを切った。

 はやりの歌謡曲のことなど圭一は知らないが、要は、何でもいいのである。

 長距離トラックの運転手を生業とする彼にとっては、運転中に気を紛らわせてくれるならば、知らない歌だろうがリズムに乗れるような音楽なら、それだけでも十分ありがたいのである。

 あと1時間半ほど走ってから、どこかで仮眠するか——。

 そんなことを考えている時のことだった。



 カーブを曲がったトラックのヘッドライトが照らしたものを見て、圭一は目をこすった。見間違えでなければ、それは若い女性だった。

 ジーンズにコート姿。背中には大きなギターケース。

 背はスラッと高く、豊かな長い髪を腰の辺りまで垂らしている。後姿を見る分には、なかなかの美人だ。



 ……冗談だろ? 今、夜中の2時だぜ?

 車でさえ、この先街がある場所に着くまで小一時間はかかるってのによ。

 しかも、ここらは急な勾配の続く山道だ。女の足じゃどこまで持つか心配だ。

 ホントに、無茶なやつだなぁ!



 圭一は、その女性を少し追い抜いたあたりでトラックを停め、運転席から降りた。

「おーい、そこの姉ちゃん! 悪いことは言わねぇ、街まで乗って行きな!」



 改めて近くで見ると、やはり美人であった。

 ますます、こんな女性が深夜に山道を登っている事情が、見当もつかなくなった。

「ありがとうございます。助かりました」

 吸い込まれるような笑顔で、女性は圭一に礼を告げた。

「疲れたろう? あんな道を、山のふもとから歩いてたんじゃあな」

 彼女はエヘッ、と笑って舌を出す。まるで、いたずらがバレた子どものようだ。

「私って結構無謀なほうなんで……反省しますね」



「へぇっ、神奈川から! それはまた、長距離の運転ですねぇ」

 その不思議な雰囲気をまとった女性は、由貴と名乗った。

 聞くと、特に決まった仕事も家もなく、ギターを抱えて全国を好きに旅して回っているのだそうだ。

 彼女いわく、音楽ができるなら、他は何にもいらないんだそうだ。

「へぇぇ。そこまで徹底できたら気持ちいいだろうなぁ……おっ。なかなかノリのいい音楽じゃないか」

 続いてラジオでかかった曲は、五年前のヒットナンバー、One Way Accel の『The Longest Birthday』。

 圭一でも、このロックグループは知っていた。

 あの頃はまだ、圭一にも流行の音楽をチェックするくらいの心のゆとりはあった。



 ……そういえばこのグループ、今はどうしちまったんだろう?



「恥ずかしい」

 不思議なことに、由貴がうつむいて何だかモジモジしている。

「何で、お前さんが恥ずかしがる?」

 すると、驚くべきことが起こった。

 由貴は、ラジオから流れてくる歌声に合わせて歌いだした。

 しかも、その二つの声が……どう聴いても、ぴったり同じなのだ。

「懐かしいな、あの頃は歌のこと何にも分かってなかったなぁ——」



 ……マジかい!



 圭一が問い詰めると、由貴はラジオの声は自分だ、と顔を赤くして告白した。



 それから一時間近く、ドライブは歌で盛り上がった。

 ラジオは消して、由貴が助手席でギターを抱えて伴奏をし、二人で歌った。

 圭一が何をリクエストしても、由貴は全部知っており、見事な伴奏をつけた。

 途中、圭一はお気に入りのある曲をリクエストした。お気に入りであると同時に、聴くとなぜだか胸が締め付けられる曲。

 由貴は、リクエストに応えて中島みゆきの『旅人のうた』を歌う。

 この歌を聴くと、圭一は自分のことを歌われているような気がして、昔のほろ苦い思い出が鮮明に蘇ってくるのだ。

 


 ……遥香(はるか)。

 お前は今、どうしている。

 幸せになっただろうか。

 オレのこと、まだ恨んでいるだろうか——。



「この歌には、何か特別な思い入れでもあるんですか?」

 唐突に由貴は、圭一にそう問いかけた。

「アーティストの勘、ってやつは馬鹿にできませんねぇ。参りました、まったくその通りでさぁ」

 目を細めて久しぶりに昔を思い出した圭一は、全てを由貴に語り聞かせた。

 かつて遥香という女性を愛したこと。

 将来のことで折り合いが合わず、喧嘩別れしたこと。

 相手のことが嫌いでもないのに、面子などというくだらないものにこだわって13年音信不通であること——。



「アイツはね、故郷を愛してたんですよ。ここでずっと一緒に暮らそう、って言ってきた。オレも同郷なんですけどね、逆にオレのほうは東京かせめて大阪とか、都会に出たかったんですわ。

 それで、もめちゃいましてねぇ。どちらも気が強かったもんだから、根比べみたいになりまして。『相手のほうから謝ってきたらゆるそう』なんてことを思っているうちに、気がついたら13年近くも過ぎてしまいました」

 由貴は窓の下に広がる、所々にしか明かりのない田舎の夜景を眺めながら、何か考えている様子だった。

「ねぇ、遥香さんがいる故郷ってどこなんですか?」

「和歌山県の最南端の串本、ってところだよ」

 目を輝かせた由貴は、身を乗り出して圭一に提案するのだった。

「ねぇねぇ、仕事終わったらそこに行ってみましょうよ!」



 何とも、妙な展開になった。

 由貴を拾う前までは、圭一はまさか自分がそんなことになるなどとは、露ほども思ってもみなかった。

 偶然にしてはできすぎているが、今運んでいる荷物は、和歌山県の海南市まで届けるものだ。

 早朝の5時には目的地に着ける。そこから阪和自動車道に上がり、尽きた先からは国道42号線をひたすら走れば、二時間もしないで串本に着けるだろう。

 圭一は、もし自分一人だったなら決してこのようなことは実行しなかったし、また心に思いもしなかっただろう。

 彼は今更ながら、この不思議な歌姫に出会えた偶然に感謝した。



 やがて、道路の左側は切り立った崖、右側には海を臨む風景が続くようになった。

「わぁ、きれい!」

 壮大な自然を瞳に捉えた由貴は、興奮した。

 地平線の彼方からオレンジ色の朝日が輝き昇り、コバルトブルーの空を次第に明るく染め上げてゆく。

 圭一は感慨深げに、遥香と肩を並べて、岸から海を眺めた日のことを思い出した。

「私ね、一生この風景を見ていたいの。だって、この海が、風が、空が……私を育ててくれたんだから」

 遥香は、ことあるごとにそう言っていた。

 そして圭一は、その遥香の願いに付き合いきれずに、彼女の元を去った。



「ここだ」

 大きく古めかしい一軒の家の前で、トラックは停まった。

 庭もかなりの広さがあり、門から母屋までは40メートルほどもあった。

 至る所に、暖かい土地特有の見慣れな い亜熱帯植物が生えている。

「ごめんください——」

 玄関のスライドドアを引いて、圭一が中に向かって叫ぶ。

 ここらでは、家に鍵などかかっていない。極端なところでは、呼び鈴すらない。

 物騒な都会では、まったく考えられないことである。

「……留守かな?」

 続いて中を覗き込んだ由貴がそう心配すると、しばらくして廊下の奥の部屋でバタバタと人の歩く音がした。

「はぁい、ちょっとお待ちください。祖父母はもう出かけてしまって……」

 襖がガラッと開いて、セーラー服姿の少女が現れた。



「えっ?」

 圭一はその場に凍りついた。

「あの、どちら様でしょうか」

 彼が驚くのにはわけがあった。なぜなら、その子の顔は——

 少女時代の遥香に瓜二つだったからだ。

「いや、人違いなら申し訳ない。昔ここに村崎遥香さん、という方が住んでいたと思ったんですが、引っ越しされましたか?」

 緊張のあまり確認していなかったが、圭一が家の表札を見ると、遥香の名前はないが苗字は確かに「村崎」である。

「……もしかして、おじさんは『曽根圭一』っていう名前じゃないですか?」

 少女も驚いた様子だが、質問された圭一も、彼女に劣らず驚いた。まさか、自分の名前を言い当てられようとは!

「確かに、オレの名前は曽根圭一で間違いないが——」 

 そう彼の胸に、少女はいきなり飛び込む。

「お父さん!」



 少女の名は、春奈。

 由貴と圭一、春奈の三人は港の突端に立ち、海を眺めた。

 心地よい潮風が、三人の体を撫でる。

 少女は語った。

 母、遥香は亡くなったと。

 圭一と別れてしばらくしてから妊娠が発覚したが、遥香は去ってしまった圭一に告知して責任を問うことを、頑として拒んだのだという。

「あの人が自分から戻ってきてくれるのでなければ、喜べません」

 それが遥香の言い分だった。この件に関する遥香の頑なさは異常なほどで、妊娠について圭一に電話一本かけることすら許さなかった。

 幼心に、探せばどこかにいるという父に会いたかった春奈だったが、それを言うと母が人が変わったかのように半狂乱になるので、泣く泣くあきらめたのだという。

 春奈が小学校4年生の時、遥香ががんであることが発覚。

 すでにがん細胞が転移しており、手の施しようがなかった。

 死を目前にした病床で、遥香は娘の春奈の手を握り、こう言い残した。

「いつか絶対に、あなたの父さんは帰ってくる。きっと帰ってくる。その時は仲良く暮らすんだよ——」

 彼女は、窓から大好きな海が見えるベッドで、死を迎えるその日まで景色を瞳に焼き付けていたという。遥香は最後まで、圭一に会おうとしなかった。自らの死を伝えることもしなかった。 


 

 春奈の目から、涙がこぼれた。

「父さん。一緒に暮らそ」

 圭一は、知らなかったことであるとはいえ、頭を鉄の棒で殴られたかのようなショックを受けていた。

 自分には娘が生まれていたというのに、誕生を祝ってやることも幼少期を見守ってやることもできなかった——。

 いきなり、目の前の中学生の女の子が、自分の血を分けた娘だと分かった圭一の心は、引き裂かれた。



 ……この子を守ってやるのは今からでも遅くはないだろうか。なぁ、遥香よ?



 父は、顔を海に向けたままで娘の手を握った。

「母さん。父さんが……帰ってきたよぅ。母さんが、最後まで離れようとしなかったこの場所に——」

 春奈は慟哭しながら、果てしなく広がる海に向かって叫ぶのだった。



 しばらく二人を見つめていた由貴は、やがてギターを取り出して弾き始めた。

 夜明け前にトラックで歌った、『旅人のうた』を。

 かつて、圭一と遥香が大好きで、一緒に歌ったあの歌を。



 泣き止まない春奈を、父・圭一はそっと抱きかかえる。

 自分の正しさだけしか知らずすれ違ってきた、圭一と遥香。

 かつて愛した者はもうこの世にはいなかったが、さまよえる旅人はようやく住むべき地を見つけた。

 長い、長い圭一の旅は、この地に終わりを告げようとしていた。



 父と娘は涙に濡れた顔を上げて、海の彼方の地平線に目を注いだ。

 まるで、遥香に捧げる鎮魂歌(レクイエム)のような由貴の澄んだ歌声を聴きながら、圭一は亡き遥香の魂に祈りを捧げるのだった。



 ……悪かった。謝るよ。

 娘の誕生も、自らの死も告げたくないほどに、お前を傷付けていたんだな、オレは。分からなかったよ。

 せめて今からでも、この子を今まで育ててやれなかった分、支えてやりたい。

 そのくらいはさせてくれ。いいだろ? 遥香——



 それにしても、この由貴ってひとは一体?

 この人を乗せてから、すべてが始まった。

 遥香のことを思い出し、自分では絶対に来なかった遥香の家に来ることになって、そして今まで知らなかった娘と出会って——

 


 思い返しても、まだすべてが夢のように思えてならない圭一は、歌い続ける由貴の背中を、ただただ見つめるのだった。

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