鬼の棲む島

吾妻栄子

鬼の棲む島

「いよいよだ」

 晴れた夏空の下、舟を漕いでいた角前髪に桃印の鉢巻を締めた少年は、白桃じみた端正な紅顔の汗を拭いつつ、切れ長い目に緊張を走らせて行く手を見やった。

「お前たちも覚悟は良いか」

 まだ十四歳の少年は変わりかけの割れた声で語りかける。

 船の舳先には雉が止まり、少年の傍らには小猿と犬が侍っていた。

「皆で、鬼ヶ島から生きて帰るのだ」

 行く手には青々とした緑の繁る島山が待ち構えている。


 *****

「こちらの浜の方には誰も住んでないのか?」

 雉を肩に乗せて砂浜に降り立った少年は訝しげに呟いた。

 小猿と犬も主君に従って辺りを見回す。

「じゃ、今日はこっちの浜で貝を採るから」

 出し抜けに若い娘の声が飛んでくる。

 少年は思わず腰の太刀の柄に手を掛けて振り向いた。

 朱染めの服を着た十五、六歳の娘と小さな子供たちが連れ立って砂浜を歩いてくるところである。

 少年と目が合うと、娘は固まった風に足を止めた。

「あ、おさむらいさんだ!」

 小さな子供たちの一人が少年を指差す。

「犬とお猿さんもいるよ」

「あの鳥、何て言うの?」

 幼い声が次々続く。

 少年は困惑した面持ちになりつつ、しかし、太刀の柄に掛けた手を何とはなしに離した。

 朱染めの服を纏う娘は息を詰めてその様を見定める。

「皆、下がって」

 幼い弟妹たちを護るように進み出た。

「あなた、鬼退治に来た人かしら」

 半ば答えを見透かした風に澄んだ薄茶の瞳で少年を見据える。

 この娘の陽に焼けた褐色の肌は今までの旅の途中で出会った漁村の人々とさして変わらない。

 だが、腰高く脚の長い体つき、女にしては高めの背丈に反して小さな頭、何より赤茶けた縮れ毛と彫り深い顔立ちの薄い色の目が人の種としての異質さを物語っていた。

「これが鬼の娘か」

 角前髪の少年が幾分、気圧けおされた風に呟く。

「グーッ」

 犬が主君より少し前に進み出て目を剥いて唸り声を挙げた。

「キキッ」

 小猿も浜辺に落ちていた巻き貝の殻を拾い上げて投げる構えの態勢を取る。

「あなたたちはそう呼ぶわね」

 同じように薄い色の瞳や赤みの勝った髪をした子供たちの前に立つ娘の声は静かだが酷く苦いものを含んで響く。

「案ずるな」

 真新しい太刀を帯びた少年は貝殻を手にした小猿の頭を優しく撫でながらまだ変わりかけの割れた声で誇らかに述べた。

「そなたたちが抗せぬ限り、儂は丸腰の女子供は斬らぬ」

 その言葉を耳にしても、角前髪の少年とさして年の変わらぬ娘は恐怖や敵意よりもむしろ悲哀を潜めた眼差しを向けている。

「そなたたちのかしらに会わせてもらえぬか」

 磯の香りを含む風につややかな漆黒の前髪を微かに靡かせながら、少年は誇らかな笑顔のまま、むしろ無邪気なまでに迷いなく切り出した。

「会って首を取るとでも言うの」

 不安げに身を寄せ合い始めた背後の子供たちとは裏腹に、前に立つ娘の顔は厳しい。

「随分と立派な太刀だわね」

 質の良い着物に豪奢な造りの刀を帯び、眉目も清秀な少年の姿を眺める薄茶の瞳には、しかし、悪臭を放つ醜悪な物乞いにでも寄られたかのような冷蔑が走った。

 少年の顔からも笑いが消える。

「使うかどうかは、そちらの出方次第だ」

「クェーエン!」

 それまで主君の肩に黙して止まっていた雉が初めて鳴いた。

 小さな体から発せられたその声は警笛さながら晴れ空の浜辺に高く鋭く響く。

 聞き慣れぬ鳥の鳴き声に赤い髪の幼い子供たちは互いに泣きそうになった顔を見合わせた。

「案内しましょう」

 娘は冷ややかな面持ちを変えずに言い放つと、背後に固まっている幼い弟妹たちに振り向いた。

「お姉ちゃんがお客さんを案内するから、皆はここで貝を取りなさい」

 打って変わって温かな声音だ。

 太刀を帯びた少年の面に一瞬、除け者にされた影が差した。

「こちらです」

 縮れた赤茶色の髪を翻して娘は砂浜を歩き出す。

「皆、行くぞ」

 雉を肩に乗せた少年が声を掛けると、小猿と犬は付き従って進み出した。

「俺たち、向こうの浜で採ろう」

 残された幼い子供たちの中で幾分年かさらしい男児が呼び掛けると、皆は待ち兼ねた風にわっと駆け出す。

 大人の口調をなぞりつつまだ幼い声を張り上げる。

「おい、そっちは危ないから行くな!」


 *****

「頭はこんな山のいただきに住んでいるのか」

 そろそろ険しくなり出した山道に少年は額の汗を拭う。

「ええ。薬草が取れるのは上の方なので」

 娘は慣れた道らしくまだ息が上がる気配すらない。

「二日に一度は頭も山を降りて麓に怪我や病気の者がいないか診て回るけれど」

 木々の緑の間から射し込む陽光に照らし出され、褐色の肌に僅かに浮き出た雀斑そばかすまで明らかになった小さな顔が誇らしげに微笑んだ。

「鬼が?」

 前を行く娘の姿を見詰める少年は首を傾げる。

「鬼が医者をするのか? そもそもそなたたちのような鬼でも怪我ややまいに苦しむのか?」

 山道で立ち止まった二人の間に一瞬、凍ったような沈黙が流れた。

――ミーンミンミンミンミンミー。

 唐突に蝉の鳴き出す声が一行の許に響いてきた。

 近いのか、遠いのか。辺りを取り巻く鬱蒼とした木立の一角で鳴き始めた声ということしか分からない。

「私たちもあなたたちと同じように怪我をすれば赤い血を流して痛がり、病にかかれば苦しみます」

 娘は再び固い面持ちに戻って密やかだが苦い声で続けた。

「そういう私たちをあなたたちは鬼と呼んで忌み嫌う」

 ザーッと波に似た音と共に生い茂った深い緑の匂いを含んだ風が一行の間を吹き抜ける。

 角前髪の少年はまるで恐ろしい宣告でも受けた人のように切れ長い漆黒の瞳を見開いて棒立ちになった。

「キキッ、ウキキ」

 少年の傍らにいた小猿が不意に木々の間に駆け込む。

 桃太郎はビクリと身を震わせてそちらに目を移した。

 人の赤子に似た獣は瞬く間に一本の野生の木に登って取った実を齧り出す。

「こら、得体の知れない実を口にするな」

 少年は口にしてから改めて端正な面に恐れを滲ませる。

「毒かも知れんぞ」

 小猿は駆け降りて来て齧り掛けの果実を差し出した。

 小ぶりでまだ薄赤に色付き始めたばかりだが、産毛の生えた幼子のはだじみた皮に包まれた果物だ。

 小猿の噛んだ箇所からは蒼白い果肉が覗いていた。

「桃か」

 気抜けした風に呟くと、少年は手に取った実にサクリと白い歯を立てる。

 辺りに青さを含んだ果実の匂いがさっと走った。

 と、切れ長い目をギュッと閉じて酸っぱい顔つきになる。

 そんな風に表情に色が着くと、角前髪の紅顔は酷くあどけなかった。

 鬼の娘はふっと固い面持ちを再び綻ばせる。

「これはまだ早い」

 少年は苦笑いして小猿に齧り掛けの桃を返すと、思い出した風に腰の巾着袋を探った。

「お前たちも腹が減ったろう」

 傍らの犬と肩の雉に団子を一つずつ与えると、自らも一つ口に放り込んだ。

 少年と獣たちが同じ食物を口にする光景に娘は薄い色合いの目を見張る。

 そうすると、今度はその雀斑の浮いた小さな顔の方がいとけなく見えた。

 咀嚼した団子を飲み込んだ少年はどこか挑む風な笑顔で告げる。

「確かに、今のところ目にしたそなたたち女子供にはつのきばもない。虎の皮なども着ていないな」

 娘は無意識な所作で自らの朱染めの衣の胸に手を当てた。

「今のところはそなたがよこしまな心根の者にも思えぬ」

 言葉とは裏腹に少年も娘も互いを推し量るように表情を消した面持ちで向き合う。

「だが、儂はここに来るまでの道のりで多くの人から恐ろしい鬼の話を聞いた」

 鬼、という言葉に見交わす二人の瞳が凍った。

俵藤太たわらとうたのような名高い武者ですらこの島に鬼退治に出たきり戻らないと」

 少年の言葉を聞く娘の日焼けた手が胸の上で固く握り締められる。

「だから、そなたたちの頭がいかなる者か直にこの目で見極めなければここを辞すことは出来ぬ」

 色鮮やかな雉を肩に止まらせ、犬と猿を従わせた少年は冷厳なほど迷いなく言い切った。

「そう」

 ザワザワと再び風が夏山の木々を通り過ぎる中、娘は静かに頷く。

 しかし、その薄茶の瞳は、角前髪の少年一行よりも、その背後に広がる木立の暗がりに注がれているようであった。

 と、朱染めの衣が背を向けてまた山道を登り出す。

「頭の住まいまで、まだ半分も来てませんよ」

「そうか」

 少年は角前髪の下を拭って再び歩き始めた。獣たちもそれに続く。

「どうか、案内を頼む」

 それきり全員とも口を閉じた。

 蝉の鳴き声と風が時折緑を揺らす音だけが辺り一帯に変わらず響いている。


 *****

「こちらが私たちの頭領とうりょうの住まいです」

 山頂を吹き抜ける涼やかな風に赤茶けた縮れ毛を靡かせながら、娘は雀斑の顔を誇らしげに微笑ませた。

「これが……」

 汗に濡れて額に張り付いた角前髪を払いながら少年は茫然と眼前の家屋を見詰める。

「百姓や漁師の家と何も変わらないではないか」

 至って簡素な木造の家である。

「それは先代の頃からつましい暮らしをしていますから」

 娘は心なしか洗い晒した朱色の衣の胸を張る風にして答えた。

「鬼ヶ島には奪い取った金銀財宝が山とあるのではないのか」

 上質な着物を纏った少年は改めて相手の粗末な身なりを見やると、痛ましい眼差しになる。

「そんなもの、ここでの暮らしには役立ちません」

 娘は赤茶けた髪の小さな頭を静かに横に振ると、寂しく苦い声で続けた。

「こちらからお入り下さい。お連れの獣たちは足が土で汚れているからこちらで拭いて」

 ほの暗い家屋に足を踏み入れつつ娘は思い出した風に縮れ毛の頭を振り向かせて付け加えた。

「奥の間には病人もおりますから、どうかお静かにお願いします」


 *****

――ジィーイーイ、イ、イ……。

 蝉の鳴く声が震える羽音と共に家内まで聞こえてくる。

 近いはずなのにどこか遠い響きだ。

「中は案外こぎれいなものだな」

 客間に座した少年は幾分安心した風に連れの動物たちに呟いた。

 打ち水で程好く湿った庭土の香りが客間一帯にまで漂っている。

 縁側の向こうには張られた簾一面に朝顔が青紫の鮮やかな花を咲かせていた。

 その簾越しには黄金色の向日葵の花が二輪ほど開いているのが認められる。

 と、瑠璃色の蜆蝶しじみちょうが二つの向日葵の間にひらひらと姿を現した。

「おっ母様かさまも出る時、向日葵の芽に水やってたな」

 暑さと山道を登ってきた疲れに少しへたばった風な犬の背中や猿の頭を順繰りに優しく撫でると少年は小さく息を吐く。

「あの小さな芽も今は大きくなって咲いたかな」

 返事の代わりに瑠璃色の小蝶が昼近い陽射しに羽を煌めかせながら夏の山を遠退いていった。

「お待たせしました」

 案内してくれた娘の声に少年は思わず腰の刀の柄に手を掛けて振り向く。

 次の瞬間、その切れ長い双眸が大きく見張られた。

 朱色の衣を着た娘の後ろにはちょうど庭に咲いている朝顔と同じ青紫の着物を纏った女が立っていた。

「お初にお目にかかります」

 女が真っ直ぐな栗色の髪を束ねた小さな頭を下げると、庭からの陽光を浴びてその髪が微かに金色を帯びて輝き、また、その藍染の衣の胸元で小さな十字架が銀色に煌めいた。

「私はこの島で医者を務めるあおいと申します」

 金色を帯びた栗色の髪に彫り深い目鼻立ち、そして茶と緑の入り交じった不思議な色合いの瞳を持つ首領。

 しかし、年の頃は少年や案内の娘より幾つか上のまだ若い女である。

 肌は案内の娘や浜辺にいた子供たちより幾分白く、ほのかな桃色を含んで見えた。

「そなたが首領の青鬼か」

 少年はまだ眼前の光景が信じられぬといった語調で尋ねる。

「そういうことになるのでしょうね」

 藍染の衣に銀造りの十字架を着けた女は榛色の瞳を細めた。

「正しくは青鬼の娘です」

 穏やかに澄んだ声と「青鬼」という言葉はいかにも不釣り合いである。

一昨年おととし亡くなった父は本当に青い目をしていましたから」

 桃じみた紅顔の少年の姉ほどに若い女は自らの胸に提げた古びた銀の十字架を優しく撫でた。

「私やそこのあかねの父親たちは西方からこの辺りに流れ着いた異人いじんだったのです」

「異人……」

 茫然と呟く少年に茜と呼ばれた赤茶けた髪の娘も今度は朗らかな笑顔を見せる。

「あたしの父さんは朱色あけいろの髪に薄茶の目をしていたので“赤鬼”、葵姐さんの父さんは黄金色こがねいろの髪に空色の目をしていたので“青鬼”と他所よその人たちには言われていたの」

 刀を固く握り締めたまま黙している少年に葵と名乗った女は飽くまで穏やかに語りかけた。

「茜の父も去年の暮れに亡くなりまして、今はかつて異人の妻だった女性たちとその子供の私たちでこの島に暮らしています」

 沈黙が流れる。

 外で日が陰ったらしく、客間は薄暗くなった。

 縁側から流れ込む湿った土の匂いが一際強くなる。

 パラパラパラパラ……。

 雨の軒打つ音が三人と動物たちのいる間に響いてきた。

「そなたたちは」

 少年は光の消えた目で押し殺した声を放つ。

「異人がさらった女子おなごたちと儲けた子であるのか」

 それを聞くと相対する女二人の瞳にも陰が差した。

「私の母を含め、ここに来た女性たちは皆、里から売られたのです」

 藍染の衣の女はまるで聞き付けられるのを恐れるように声を潜めた。

「初めは向こうの島に流れ着いて助けを求めに上がった父たちを、里の人たちは鬼と呼んで恐れました」

 日の陰った場所では女の真っ直ぐな髪が今度は鴉の濡れ羽じみて見える。

「そこで、出て行ってもらう代わりに金銀財宝と身寄りのない娘たちを差し出したのです」

 サーッと外の雨音が引く波に似た響きに転じた。

「追い出された父さんと母さんたちはこの島に移るしかなかったわ」

 縮れた髪の娘は膝の上で両手を固く握り締めた。

「里の人たちが呪いの島と呼んで近付かなかったこの離れ島にね」

 若い娘にしては節くれだって荒れた手を少年は見詰める。

「それから私たちはこの島で漁や田畑を耕して暮らしてきました」

 頭領を継いだ女は元の穏やかさを取り戻した声で語った。

「父たちは殺しや盗みなどしませんでした」

 確固たる語調で続ける。

「若くして亡くなった母も父のような人に嫁げて幸せだったと良く言っていました」

 多少荒れてはいるがしなやかさを残した手が胸の古い十字架をそっと握った。

「姿形の違う父さんたちを鬼呼ばわりして身寄りのない娘たちを売り飛ばした里の人たちこそ鬼だとあたしの母さんも言ってた」

 赤毛の娘も言い添える。

「今でもあたしが沖に漁に出て里の漁師たちの船に出くわすと、鬼の娘だ、化け物とのあいの子だ、捕まったら喰われるぞと騒いで逃げていくのよ」

 薄茶の瞳に光るものが宿った。

「弟たちはまだ沖の漁には連れてってないけれど」

 声を詰まらせた妹分の背を擦りつつ、頭領の女は榛色の目を庭の方に向けている。

 青紫の朝顔は入り込んで来た雨に濡れそぼり、二輪の向日葵は降り続く雨の礫に打たれて揺れていた。

「それでは、今までここを訪れた鬼退治の武者たちは……」

 少年は言い掛けたまま二人の女を見詰める。

 銀十字架を提げた女は意を決した風に立ち上がった。

「こちらにおいで下さい」

 青紫の衣の背を見せて奥の間に歩き出す。


 *****

「じいや、お客様ですよ」

 薬膳じみた匂いのうっすら漂う、サーサーと外で降り続く雨音が遠く聞こえてくる奥の間で、葵は床に伏した老人に優しく呼び掛ける。

「この島に鬼退治に来たとおっしゃるの」

 老人は太刀を帯びた少年と同行の獣たちに眼差しを向けた。

 明らかな病身で痩せ衰えてはいるが、太く真っ直ぐな一文字眉と切れ上がった目に精悍さの名残りを残した風貌である。

 ふと、その瞳に鋭い光が宿った。

 少年は我知らず恐れを覚えて背筋を伸ばす。

「まだ子供ではないか」

 孫のような少年を見詰める瞳には憐れみと苦々しさが相半ばしていた。

「そんな小さな獣たちを道連れにして鬼を斬るつもりだったのか」

 老いた男の静かに語る声は非難よりむしろ憐憫を色濃く示していたが、紅顔の少年は瞳を伏せた。

 傍らの小猿も頭を垂れ、犬も鼻面を下に向ける。

 少年の肩の雉だけが琥珀じみた目を見開いて死にかけの老人を見詰めている。

「世には子供をそそのかして命を捨てさせるれ者が相変わらず多いのだな」

 まるで鏡でも覗くように伏した老人はおのが右の掌を見やる。

「儂の頃から、何一つ変わらぬ」

 体は老いと病で見るからに痩せ衰えているが、一際大きな骨太い手だけは精気を集めて残したように若い。

 シトシトと隔てた雨音が皆が黙した間に浮かび上がるようにして響いてくる。

 不意に少年は稲妻に打たれたように小さく叫んだ。

「もしや貴殿が俵藤太殿であらせられるか」

「昔の名だ」

 老人は押し殺した声で少年に答えると、傍らの葵と茜に乾いた笑顔を向けた。

「もう足腰も立たぬのに昔の名だけはまだ世間に残っているのだな」

 カラカラと皺だらけの顔が笑うと、薬膳の匂いが辺りに微かに漂う。

 老人の孫ほども若い女二人は痛ましい眼差しを返す。

「坊や、儂も昔、鬼退治をしようとこの島に渡ったのだ」

 痩せ衰えた病人は再び少年と獣たちに目を向けた。

「そなたと違って、その時にももう分別の付く年ではあったが」

 他人事のように淡々とした、しかし、奥底に苦いものを含む乾いた声で老人は語る。

「儂はそれまでも方々に出向いて無法者を斬る稼業をしていたのだ」

「父からも伺いました」

 少年は我知らず膝の上の拳を握り締めた。

「父の村も昔助けられた、天下に俵藤太殿ほどの武者はいなかったと」

 鍛えてはいるがまだ若いというより幼い拳が仔細に見てそれと分かる程度に震える。

「儂も」

 あどけない紅顔の少年を見据えて語る老人の眼差しに一瞬、白刃じみた煌めきがはしる。

「あちこちの無法者を斬り捨てたことで救われた人々も確かにいたことは悔いていない」

 少年は底知れぬ沼に出くわしたように相手に見入る。

「だが、恐ろしい鬼が棲むという噂だけを信じてこの島に渡った儂は、この島の人々について本当に何も知らなかった」

 切れ上がった精悍な瞳がふと遠くを眺める色を帯びた。

「夏の晴れた日で、浜辺に着いた時は人々は魚や貝を焼いて昼飯の支度をしていた」

 老人の目が懐かしげに頬笑む。

「粗末な服を着た異人の男たちと連れ去られたはずの娘たちを目にした時、何かが違うと感じた」

 一文字眉と切れ上がった瞳に虚をつかれた風な茫漠とした影が通り過ぎた。

「太刀を帯びた儂が砂浜に降り立つと、朗らかに笑っていた皆がシンとして諦めたような哀しげな顔になった」

 痩せ衰えた老人は静かに首を横に振る。

「それまで何度も目にした、無法者に虐げられる民の顔だ」

 掠れた苦い声で続けた。

「今は儂がその無法者なのだ、と」

 老人の言葉を聞く少年も恥じ入るように目を落とす。

「その時、頭領の青目殿と赤子を抱いた奥方殿が進み出て言ってくれた」

 老人の声に温かな潤いが生じた。

「今日は、この子の百日ももか祝いです、と」

 今は頭領を継いだ女が榛色の瞳を涙ぐませて老人の敷布を掛け直す。

「あなた様も一緒に祝っていただけますか、と」

 赤毛の娘も小さく啜り上げた。

「母親の胸ですやすやと安らかに眠っている赤子を目にした時、これ以上尊いものが、守るべきものが世の中にあるかと思った」

 老人は少年を真っ直ぐ見据えて続ける。

「それから、儂はこの島で生きてきた」

 鋭い瞳に白刃の光が一瞬、煌めいた。

「ここに闇討ちを仕掛ける者は全てこの俵藤太が斬り捨てたのじゃ」

 少年は茫然と聞くしかない。

「じいやは本当に私たちに良くしてくれたわ」

 葵はしみじみと語った。

「大工仕事も得意だったし、手習いも教えてくれた」

 茜も続いて言い添える。

「花火もよく作ってくれたわ」

 老人はまたカラカラと笑った。

「あちこち渡り歩いたからちょっとしたことなら何でも出来たのさ」

 孫ほども若い三人を遠く隔てられたもののように見詰める。

「だが、今はもう死を待つばかりだ」

 老人は飽くまで淡々と語った。

「近頃、鴉の鳴き声が妙にはっきり聞こえるようになった」

 少年の肩に止まった雉を見詰める。

「昔から人を斬ると鴉が集まってきた」

 鴉ならぬ色鮮やかな鳥は琥珀色の眼差しを瞬きもせずに死期迫る老人に注いでいる。

「あやつらは死人の匂いを嗅ぎ付けるのだろう」

 奥の間が全体にうっすらと明るくなった。

 外では雨が止んで陽が出てきたらしい。

「坊や、儂にはもはやそなたと切り結ぶことは出来ぬ」

 瀕死の老人は紅顔の少年をむしろ憐れむように注視した。

「どうか、この老骨を憐れんで穏便に引き取っていただきたい」

 少年が答えるより先に頭領の女が静かに言った。

「金銀財宝はもうお返しします」

 茶色とも緑色ともつかない瞳が続けて語る。

「あなたはただ宝物を持ち帰って、鬼は退治して住み処を焼き払ったと仰ればよろしいのです」


 *****

「これで、全部」

 金、銀、真珠に珊瑚石。

 夕焼けの浜辺に積まれた財宝の山を茜は惜しむ様子もなく指し示す。

 手伝いの女たちもむしろホッとした顔つきで宝の山を眺めている。

 子供たちは飽いた風に砂浜で追いかけっこを始めた。

「あの舟に積めるかしら」

 赤毛の娘は遠くの砂の上に忘れられたように置かれた舟を振り返った。

「多分、大丈夫だ」

 少年は輝く財宝の山を虚しく見詰めながら答える。

「お侍さん、気を付けてね」

 女の一人が案じた風に声を掛けた。少年にとっては母親程の年配である。

「里に着いたら、鬼に拐われた私たちはもう全員死んでいたとお伝え下さい」

 また別の老けた女も声を掛けた。

「その方が里の人たちも荷が下りるんですよ」

 少年にそう語り掛ける瞳には光るものが宿っていた。

「分かった」

 角前髪の少年は項垂れるようにして頷く。

「儂がそなたたちの仇討ちにここを焼き払ったと伝える」

「また来てね」

 不意に幼い声が飛んだ。

 少年が振り向くと、五つくらいの、縮れた鳶色の髪の少女が笑って犬の背を撫でている。犬は抗う様子もなく触れられるままになっていた。

「次は一緒に遊ぼ」

 角前髪の少年と目が合うと、幼い少女は小首を傾げて笑い掛けた。

「おい」

 子供たちの中では年かさの男児がより幼い妹分を案じる風に近寄ってきた。

 角前髪の少年は苦笑いして二人の小さな頭にそっと手を置く。

「次は、そなたたちが儂の所に来られると良いな」

 幼い二人は図りかねる風にいとけない眼差しで少年を見上げている。

 茜と母親たちは寂しく笑ってその様を見守った。

――ドーン。

 突然、人々の背後の山から轟音が響く。

――パッ。

 見上げた人々の顔を空に咲いた真っ赤な花火が染め上げた。

「姐さんが一発目を打ち上げてくれたわ」

 茜が少年に告げる。

「では、出よう」

 肩に雉を止めた少年の声に犬と猿が従う。


 *****

――ドーン。

 日暮れの空に大きな黄色い花火が上がる。

――ドーン。

 次の花火は蒼白く夕焼けに炸裂して黒く尾を引いた。

 行きと同じ鉢巻きを締めた少年は小さな頭を振り向けて舟の上から今しがた出てきたばかりの島を眺める。

――カァ、カァ、カァ……。

 茜色の空を背にした離島はまるで巨大な墓標のように黒々と聳え立ち、山の頂の辺りには鴉の群れが飛び交う影が認められた。

「俵藤太殿がとうとう身罷みまかったのかな」

 少年は傍らに座した小猿の頭を撫でて呟いた。

 人の赤ん坊に似た獣は黙して俯いている。

「クウーン」

 幼子の泣くのに似た声を出すと、犬は主君の腰に鼻面を擦り寄せた。

 舳先に止まった雉だけが次第に暗くなる海に嘴を向けている。

「クエーエン!」

 暮れ陽に紅く染まる海に鳥の鳴き声が遠く響き渡った。


 *****

「桃太郎!」

 午後に入り、涼しい秋風の吹くのどかな村の一軒家。

 白髪の老婆は庭の木から取ったばかりの柿の入った籠を抱えて振り向くと、皺だらけの顔いっぱいに朗らかな笑いを浮かべた。

「おっ母様、ただいま帰りました」

 犬と猿を付き従え、雉を肩に止まらせた少年はどこか疲れを滲ませた笑顔で返す。

「鬼を退治して奪われた金銀財宝を取り返したという噂はこちらにまで伝わっていたのよ」

 少年の母というより祖母にしか見えない老婆は籠を下ろして駆け寄ると、皺だらけの手で相手のつややかな紅顔の頬を撫でた。

「また背が伸びたのね」

「はい」

 答える声も声変わりが落ち着いて一段階低くなっている。

「これを」

 少年は腰に巻いていた巾着袋を外すと、ドサリと地面の上に置いた。

 老婆が中を開くと、団子の代わりに眩い黄金色の小判が詰まっていた。

「まあ、こんな」

 老婆は大金を手にした喜びよりもむしろ淡い恐れを滲ませた面持ちで見入る。

「里の人たちがお礼にと金貨の一部をくれました」

 少年は苦い声で付け加えた。

「儂は要らんと言ったのですけどね」

 長い睫毛の瞳を伏せた息子を母親は案じる風に見上げる。

「キキッ」

 小猿が籠の柿の一つを取って齧り始めた。

「あらあら、このお猿さんはお腹が空いたのね」

 苦笑する老婆の足許に犬も寄ってきて屈み込む。

「ワンちゃんにも餌を上げないとね」

 皺だらけの手で犬の毛並みを撫でる。

 つと、老婆は息子の肩に黙して止まっている一羽にも目を留めた。

「雉の餌は何だったかしら」

 少年は我が肩に止まった一羽に目を移す。

「おっ母様がまた団子を作って下されば大丈夫です」

 その言葉をしおに雉は羽をパッと広げて飛び立った。

 しかし、遠く飛び去りはせず柿を夢中で齧る小猿の傍に降りて、琥珀色の目で周囲を見回しながら忙しく歩き出す。

「お父様とっさまはまだ柴刈りですか?」

 少年は秋晴れの空の下に連なる赤や黄に色付いた山々に目を向けた。

――カァ、カァ……。

 鴉が二、三羽、鮮やかな紅葉の山を横切るようにして飛んでいく。

 少年の手前では、庭の柿の木にまだ微かに青みの残る実がぽつぽつと残っていた。

 隣の桃の木にはもう実はない代わりに茜色の長い葉が枝から垂れ下がっている。

 立て掛けた簾の朝顔の蔓はすっかり枯れて簾と見分けの付かない色に変じていた。

 その様に目を留めると、少年の眼差しに一瞬、また遠く寂しい影が差す。

 吹き抜ける風は枯れかけの草の匂いを含んでひやりと肌寒かった。

――カァ、カァ……。

 秋の空を飛び去っていく鴉の鳴き声が小さく尾を引いて響いてくる。

「奥の間に寝てるわ」

 歩み寄って息子に告げた老婆は更に声を潜めて続けた。

「お前が出てすぐに倒れて、もう足腰も立たないの」

 少年の紅顔がゆっくり青ざめると、弾かれたように家に駆け込んだ。


 *****

「お父様、桃太郎が帰りましたよ」

 少年は床に伏して目を閉じている老人に呼び掛ける。

 相手はやおら目蓋を開いた。

「ああ」

 地蔵眉に垂れ気味の丸い目をした老人である。

 その穏やかで温かな面影を確かめると、少年も安堵の息を吐いて微笑んだ。

「儂の坊やが帰ってきてくれた」

 差し伸べられた手は痩せ衰えて骨張っている。

 少年はその手を包むようにして握った。死そのもののように冷え切った父親の手の感触に息子は思わず目を潤ませる。

「これであの世でも俵藤太殿にお話出来る」

 老父もまた目を潤ませて誇らかに笑った。

「儂の伜が立派に鬼退治をしてあなた様の仇を取ってくれましたと」

「お父様……」

 少年は豊かな前髪を揺らすと赤ん坊じみたクシャクシャの泣き顔になった。

「お前は本当に桃から生まれた福の神だったわ」

 家内に戻ってきた老婆も少年の背を擦る。

 少年は切れ長い瞳からポロポロ涙を溢しながら首を静かに横に振った。

 床に伏した老人の目が次第に虚ろになっていく。

「儂のような何もない男に最後に福をもたらしてくれた」


 *****

「鬼退治をしおに剣は捨てた」

「儂はもう決して人は斬らぬ」

 郷里に戻り前髪を落として元服した桃太郎は、しかし、その後乞われても寂しく笑って首を横に振るだけで、二度と剣を取ることは無かったという。(了)

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鬼の棲む島 吾妻栄子 @gaoqiao412

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