第86話「晴翔と炎怒」

 兜置山、この世とあの世の間に帰ってきた晴翔。

 あとは一歩踏み出すだけ。


 しかしすぐには踏み出さなかった。

 怖いことは怖いが、怖気付いているわけではない。


 先週もそうだったが、いまも晴翔は振り返っていた。

 いままでの人生のことではない。

 炎怒と暮らしたこの一週間を……


 傍で見ていて痛快だった。

 だが凄かったのは炎怒だ。

 僕じゃない。

 同じくやってみろ、と言われたら無理だ。


 明日から、学校でいろいろなことが変わっているだろう。

 一番変わっているのは、みんなの僕に対する評価。


 中岡たちのいじめをやめさせた。

 担任の怠慢を明らかにした。

 クラスのみんなと打ち解け、孤立状態だった人間関係を修復した。

 桜井さんや光原と積極的に交流していった。


 そして、うちの家族も救われた。


 すべて弘原海炎怒の偉業。

 たった一週間で成し遂げた。

 誰だって見直す。


 これから先、みんなその弘原海晴翔を想定してくるだろう。

 でも僕にはできない。

 評価が上がった分、幻滅されたときには、より低く下がるだろう。


 先週、自分の人生に出した結論は正しかった。

 決して独り善がりではない。

 一週間、神様の模範解答を見て、答え合わせをした結果だ。


 これは悟りだ。

 やはり、弘原海晴翔の居場所はなかった。

 だからボロが出ないうちに消えるべきだ。


 晴翔の振り返りは終わった。

 足に力を入れる。


 炎怒は晴翔が踏み出すタイミングを見逃すまい、と読心を発動していた。

 その読心が、いよいよそのときが来たことを告げる。

 幽切を持つ手に力が入る。


 顎の下でロープを掴んでいた晴翔は手を離した。


 最後に、

「炎怒のおかげでいろいろ解決できて良かった。人と仲良くすることができた。ありがとう」

 そう感謝を述べた。


 ——行こう。


 …………?


 だが、そのあと踏み出せなかった。

 炎怒が首を傾げ始めたから。


 そういうことをされると、何に引っ掛かったのか気になる。


「何? 僕、何か変なこと言った?」

「任務中もそうだったが、おまえは時々、不思議なことを言う奴だな」


 一体何が?

 不思議というなら、いまの炎怒のほうが不思議だ。

 いまの話のどこに不思議があったのか。


 炎怒は構えたまま、不思議に思った理由を説明する。


「俺たちには制限がある——」


 それは憑代の能力の範囲内でしか活動できないということ。

 これは悪魔も同じだ。

 仮に本人が自覚していない能力であっても、存在しているならば使えるが、無い能力は発揮できない。


「つまり、この一週間のことはすべておまえがやったことだ」

「…………」


 ——この半鬼は何を言い出すのだ。


 晴翔は思考が追いつかなかった。


 僕がすべてやった?

 そんなわけないだろう。

 それができなくて、先週ここに来たのだから。


 炎怒は読心を発動させたままだ。

 当然、いまの心の声も聞こえている。


「晴翔、おまえは落ちこぼれじゃない」

「……それじゃ、何なんだ?」


 あれ?

 このやり取り、確か渡と玄関で……


 晴翔の中でそんな記憶が蘇っていると、炎怒の厳しい評価が飛んできた。

 弟は間抜けと評された。

 兄は?


「おまえは怠け者だ」


 おまえは日本語を話せる。

 そして相手は日本人。

 だから嫌なことをやめてくれと伝えることができる。

 桜井に声をかけることもできる。


「言えなかったんじゃない。言わなかったんだ」


 読心のことを褒めてくれたが、おまえの能力の範囲内でしか発揮できない。

 おまえは動体視力が良い。反射神経も悪くない。

 怖がらずに見ることができれば、素人の雑な攻撃など簡単に回避できる人間だ。

 だから読心を発揮できるのは、おまえが〈見えている〉範囲内のみ。


 倉庫裏で挟み撃ちになったときは、冷静に影を見て回避できたと説明がつく。

 光原との帰り道、中岡の飛び蹴りは回避できなかった。

 もちろん読心でわかっていたが、後ろからの飛び蹴りは肉眼で見えていない。

 そういうものを回避するわけにはいかなかった。


「すべておまえの能力で説明がつかないとダメなんだ」


 その上で、悪魔に特定されないように〈晴翔らしく〉しなければならなかった。

 それでも苦しい境遇を、可能な限り〈晴翔らしく〉対処してきた。


「おまえはできなかったんじゃない。やらなかったんだ」


 話が終わった炎怒は、崩れてしまった構えを改めて取り直した。

 再び晴翔の踏み出しを待つ。


 ——確かに怠け者だ。


 晴翔に反論の余地はなかった。


 確かに炎怒は相手の方を向いて、よく見て避けていた。

 読心も制限内でしか発揮できないのなら、なかったも同然だ。

 僕にない超能力を、炎怒が持ち込んできたわけじゃない。


 日本語のこともそうだ。

 相手と言語が通じないわけじゃない。

 言えなかったのではなく、言いたくなかっただけだ。

 人とぶつかり合うのが怖くて、面倒臭くて……


 どうせ下らない結末しか待っていない人生だと思っていた。

 だから他人と揉めてまで、そんな人生を全うしようと思わなかった。

 何かの岐路に立たされる度、その場凌ぎで楽になる道を選んだ。

 そんな道を選び続けた結果が、いまのこの状況だ。


 似たような他人がやったことなら、僅かな違いを見つけ出して否定できる。

 それを世界でただ一人の弘原海晴翔を使って、やってみせられた。

 一切、言い訳できない。


 晴翔は踏み出せなくなってしまった。

 死ぬのが怖いのではない。

 自分にも可能だったのだと知ったら、生きたくなってしまった。


 しかし目の前で炎怒が幽切を構えている。

 炎怒との約束通りに死ぬべきか。

 それとも正直に、生きたいと頼んでみるべきか。

 晴翔は最後の岐路に立たされた。


 一方、炎怒はベンチから飛び降りる瞬間をジッと待っていた。

 あとは晴翔の足を見ていればわかる。

 発動させていた読心を停止した。


 線を切る直前、命というものが発する悲鳴は凄まじい。

 読心を通して炎怒に伝わってしまい、手元が狂うかもしれない。

 それを防ぐためだった。

 だから晴翔の心の移り変わりは聞こえていない。


 ポタッ——


 静かな無人の山。

 地面に水滴が落ちる音がよく聞こえる。

 今夜は雨らしい。


 ポタッ——


 また一滴。

 炎怒はおかしなことに気がついた。

 水滴の音の大きさから推測して、そろそろ夕立のようにザァーッと降ってくるはずなのに、いつまでも一滴、また一滴。

 しかも雨粒が落ちるのは視線の先、晴翔の足元のみ。


 なぜそんな狭い範囲にだけ雨粒が落ちてくるのか?


 気になって見上げるその途中——

 雨粒の正体がわかった。


 晴翔は泣いていた。

 それは雨粒ではなく、涙だった。

 目から頬を伝い、顎先から滴り落ちていたのだ。


「晴翔?」


 晴翔は放していた両手を再びロープと顎の間に入れた。

 そして子供のように泣きじゃくった。

 いままでの一五年をすべて浄化しているかのように。

 男とか、一五歳とか、そんなことは瑣末なことだった。


 しばらく続いた。

 その間、炎怒は八相構えのまま。

 上で見ているはずの久路乃も沈黙のまま。


 一〇分程、泣いていただろうか。

 ようやく泣き止んだ晴翔が口を開いた。


「やっぱり僕、死なないとダメか? 僕は……生きたい!」


「生きればいいだろ」

「え!?」


 約束だからダメだ、と一刀両断にされると思っていた。

 それが意外な言葉だったので驚いた。

 俯いていた顔を上げると、炎怒は首を傾げていた。


「……死ななきゃいけないんじゃないのか?」

「おまえの生死をなんで俺が決めるんだ?」

「だって、どういう死に方がいいかって先週ここで……」


 炎怒はそこまで聞いて、ようやく食い違いの原因がわかった。


「あれは——」


 あれは邪魔して悪かったから、もしやり直したいならば手伝う、と申し出たに過ぎない。

 任務完了後は身体を返すから、自分の命は自分で好きに決めれば良い。


 晴翔も話を聞いて、自分の勘違いに気がついた。

 すぐにロープの輪から頭を抜き、ベンチから降りた。


「やめとくよ」

「そうか」


 炎怒は構えを解き、幽切を鞘に納めた。


「だったら早く帰るといい。あの両親が探しているだろう」

「うん」

「それから——」


 炎怒も晴翔のことを勘違いしていて、死に直しを希望しているとばかり思っていた。

 だから任務完了後も生き続ける場合の注意点を伝えていなかった。


 注意点は二つ。


 一つ目は、こちらが身体を借りていた時間は、憑代自身が生きた時間として勘定される。

 よって本来の寿命に一週間分を追加する等は出来ないということ。


 二つ目は、苦しまないように手伝うのも、天国行きも今回限り。

 後日、もう一度死のうとしても、俺は一切関わらない。


 もっともな話だった。

 晴翔は事後になったが、了承した。


「おまえは死期が近いと感じていたようだが——」


 炎怒に言われて思い出した。

 惣太郎との最後の戦いに向かう前、そう感じていたのを。


 死ななければならないと勘違いしていたから、尋ねなかったのだが、生きることになった。

 だから確認したかった。

 自分はあとどの位、生きられるのか。


「それはあのまま俺が憑依し続けた場合のこと。俺がいなくなれば、磨り減った命は回復していくだろう」


 憑依霊がいなくなれば、いわば身体を動かす燃料としての命が回復していく。

 晴翔の霊体が外で悪い気に晒されることもなくなるから悪霊化も治ると断言した。


 寿命についてはわからないという。

 あとどれだけ生きられるのか、それは今後の生き方によって変動するものらしい。


 晴翔がこれからの自分の命について理解できたときだった。

 炎怒から細々と立ち上っていた白煙が量を増し、勢いよく吹き上がった。

 さながら惣太郎のときのように。


「炎怒!?」

「時間が来たようだ」


 晴翔は霊になってわかったが、霊体のままで白煙を上げている状態というのはかなり辛い。

 例えるなら、片手で持てる程度の手荷物をずっと持ち続けている状態。

 弱音を吐くほどではないが、二四時間、どこにも置いてはいけないと言われたらどうだろうか?


 命ある身体に近づけば緩和されるが、霊が近づいた分だけ命が削れる。

 悪霊化のことを考えると命を過剰に消耗させることはできない。

 少しでも回復させようと、就寝時には身体を返してくれた。


 その間、炎怒はその苦しみに耐えていたのだ。

 毎日、朝まで一人で……


 あれから一週間、相当疲れているはずだ。

 任務が終わったいま、帰ってゆっくり休んでほしいと思う。

 その気持ちに偽りはない。


 でも……


「あと何十年後か経ったら、あっちでまた会えるかな」


 名残惜しかった。

 任務の邪魔をしてはいけないと静かにしていたが、本当はもっといろいろ聞いてみたかった。

 だから、いつか……


 しかしそれに対する炎怒はどこまでも冷たかった。


「いや、永遠に会わないほうがいいだろう」

「え……なんで……?」


 任務中、足手まといだったかもしれないが、最後くらい嘘でもいいから「そうだな」と言ってほしかった。


 その落胆がありありと表情に浮かんでいる。

 読心を使うまでもなく心中がわかった炎怒は苦笑した。


 人間が地獄と呼ぶ天界の辺境区——

 平時、炎怒はその地獄の獄卒。

 久路乃に連行されない限り、炎怒から中心区に出向くことはない。

 だから、天界で炎怒と再会するということは、晴翔が地獄に行くということを意味する。


「おまえは寿命が終わったら、大人しく久路乃のところに行けよ」


 久路乃のところ、それは天界の中心区——

 人間が天国と呼ぶ一帯だ。


 晴翔は納得した。

 この世での別れも、あの世での別れも。


「それじゃ、お別れだね」

「ああ、世話になった」


 別れの握手はなかった。

 互いに触れ合うことはできないから。


「久路乃、帰還人数を一名に変更。弘原海晴翔は残る」

「了解」


 久路乃の声は普段の明るいものに戻っていた。


「晴翔君」

「は、はい?」


 突然のことで晴翔は狼狽した。

 久路乃からも任務協力の感謝が伝えられた。

 そして、彼女の声は炎怒を介していたので、彼の帰還後、この会話はできなくなるということも。


 炎怒だけでなく久路乃ともお別れだった。


「ずーっと後で、私は晴翔君と会えるのを楽しみにしているよ」


 天使が歓迎してくれている。

 晴翔の心は少し救われた。


 しかし彼女は炎怒の後見。

 そんなしおらしいことを言う時は……


「それまで生きることをしっかり楽しんでね。特に——」


 久路乃の顔が悪くなるのを炎怒は見逃さなかった。


「桜井優里ちゃんとか?」


 狙い通りに顔が赤く染まる晴翔。

 久路乃の笑い声が彼の上に降り注ぐ。

 ここまでの話はすべてこのための伏線。

 最後に照れる晴翔を見たかったのだ。


「気にするな、晴翔。いつものことだ」

「うん。わかってる」


 炎怒の白煙が量と勢いを増した。

 惣太郎のときから推測するとそろそろだ。


 晴翔の見守る中、炎怒の輪郭はぼやけていって白い気の塊になった。

 塊は最後に言葉ではなく、意思を伝えてきた。


 ——頑張れ、と。


 木立の間を吹き抜けていく猛烈な突風。

 晴翔は目を開けていられなかった。


 再び目を開くと、そこに白い塊はもうない。

 見上げた空からは、何かが風を切って上昇していく音が聞こえた。


 炎怒が天に帰った。


 周囲には誰もいない。

 夜の山で晴翔は一人、上を見上げていた。


 いつもあった炎怒の気配はない。

 久路乃さんも、もうちょっかいをだしてくることはない。


 風が止んだとき、晴翔は一人だったことに気づいた。

 いまの状況のことではない。

 ずっと前からそうだったのだ。


 すべておまえがやったこと、という炎怒の言葉によるならば——

 先週ここに来たが、一人で思い止まった。

 下山し、家も学校も、自らの動体視力と日本語を駆使して解決した。

 今日、再びここに戻ったが、自分の意思でやめることにした。

 ……ということになる。


 炎怒が登場し、能力を発揮しなければ突破できないことは一つもない。

 だから晴翔は最初から一人だったのだ。

 炎怒抜きですべて説明がつく。


 でも、この一週間いつも傍にいたのだ。

 彼は否定するだろうが、晴翔にとっては救ってくれた恩人だった。

 その存在が感じられなくなったことはやっぱり寂しかった。


 星空を見上げながら最後の言葉を思い出す。

 ——頑張れ。

 おまえは置かれている境遇を自力で解決できたのだから、これからも頑張れ、と。


 晴翔は一度下りたベンチに再び乗った。

 やり直すためではない。

 枝に掛けたロープを外すためだ。

 これから頑張って生きていくのだから、首吊りのロープなど必要ない。


 炎怒は固く結びつけていたようで手こずったが、なんとか外すことができた。

 乱雑にリュックに突っ込む。


「ん?」


 手に何か当たったので引っ張り出してみると、それはロープと一緒に持ってきたノートだった。

 それを見て晴翔は思い出した。

 自分は孤独な存在ではなかったことを。


「家に帰ろう」


 このノートに、いろいろな物語の設定を書き込んでいかなければならない。

 力不足と言われてしまったから、勉強も頑張らなければならない。

 学校の人たちとも、もっと親しくなっていかなければ。


 ……あと、早く書き上げて、桜井さんに見せないと……

〈自分〉で約束したことなのだから。


 晴翔は休憩所にベンチを戻し、ハイキングコースを下っていった。

 半鬼が教えてくれた道を歩いて、晴翔の居場所へと帰るのだ。


 僕はいま、生きている。

 教えてもらったこの生を——明日も生きていく。


(了)

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少年と半鬼 〜ある日、山に登ったら半鬼に出会った〜 中村仁人 @HNstory

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