01:Recruits Frauen Corps(新兵女隊)

「嬢ちゃん、そろそろ起きろ」



 野太い声でそう言われながら、頭に被っている鉄製のヘルメットを何度か軽く叩かれる。


 蒼凪優希がそうされていることに気付いたのは、自分が腕を組み俯きがちな体勢でうっかり居眠りしていたことを自覚した時だった。


 未だ朧げな視界と意識をどうにかしようと、眠たな目尻を片手で擦る。

 その最中、彼女は今の状況を徐々に認識していった。


 まずはこの空間の状態だ。

 意識を少しずつ確立させていく最中で認識したこの場所は、「薄暗い」と「臭い」という感情しかわかないような所だった。


 この空間は、鉄と泥と汗のようなにおいが酷く充満しており、ある意味「毒素を含んだような臭い」という表現がしっくりくると思えるほど、ここはかなりくさい。


 次に、自分の服装だ。

 迷彩色の戦闘服を纏い、鉄製のヘルメットを被り、腰にはガンベルトが巻きつけてあり、革製のブーツを履いている。


 右側の二の腕辺りには、白色のピンヒールをモチーフとしたシンプルなワッペンが縫い付けられている。

 自分の所属する部隊を示すそれを、蒼凪は左手で軽く握りながら崩れていた体勢を正す。


 そして、自分がさっきから抱いている自動小銃――U.S.M1カービンを再度両腕で抱え直し、意識を多少強引に確立させた。


 さっきのは夢だったのか。

 今とは大違いである先程の状況から推測して、その事実を今一度理解した。


 さっきの情景は恐らく、彼女の過去の経験だったのだろう。

 決別に近いことをしたにも関わらず、生まれ育った地を心の片隅で想ってしまっていたばかりか、それが夢にまで作用してきたのだろう。


 未練がましい自分にいささか憤りを覚え、首を横に小さく振ってその感情を大雑把に拭い去った。

 そのまま周辺をゆっくりと見回し、不規則な間隔で上下左右に小さく揺れる視界の中、現状を理解した。


 自分は現在、乗り物に乗って何処かに移動している。

 腹の底へ何度も響いてくる振動や揺さぶられる視界、低めのエンジン音などの情報から、これは簡単に推測できた。


 厳密に言えば、彼女は軍用トラックの運転席に一番近い場所に座っている。

 荷台全体は迷彩色のカバーに覆われており、人が座るには少し手狭と感じられる荷台の両端には、荷台と同じ長さの簡素な腰掛けが設置されていて、若干体格の異なる人間がそれぞれ10人ほど腰掛けている。


 一般的な見方からすれば、それは単なる兵の運搬の一場面に過ぎないように感じられるかもしれない。


 だが、この場所少し違う。

 トラックの荷台の両端に設けられた腰掛けに座る人達――その殆どが、蒼凪優希と同様に若い女性だ。


 まだ20歳にも満たないような少女もちらほら見られ、彼女達もまた、自分と同じ戦闘服を着て、手元に様々な自動小銃を携えている。


 自分と同一のU.S.M1カービンを持っている者もいれば、色合いは似ているものの形状が若干異なる自動小銃――独製のKar98などを持っている者もいる。



 蒼凪優希は、その2列のうち右側の最も運転席寄りの場所に座っていた。

 ふと、視線を真横に向ける。


 隣に座っている茶髪の小柄な少女は、首から下げている小さな十字架のネックレスを胸元に抱いて、ただひたすら祈りの言葉を小声で唱え続けている。


 彼女は自分の世界に入り浸りすぎて若干発狂しかけている様子であるため、とても話しかけられるような状態ではなかった。

 

 それ故蒼凪優希はその少女の向こう側――荷台の出入り口に視線を移す。

 外に広がる景色には、無造作に積み上がっている瓦礫の山や半壊した家屋、所々抉れた道路が、手前から奥に向けて流れるように映っていた。



「そっか、私は――」



 戦闘の残痕と言えるだろうその光景を見て無意識につぶやき、彼女は改めて思う。

 自分が置かれている状況を再認識し、これからどこに向かっているかを脳内で思い返したのだった。



「目ぇ覚めたか? お嬢ちゃん」



 唐突に、低い声が自分の鼓膜を震わせる。

 それが自分に対して発せられたように感じた蒼凪は、少しだけ視線を左右に走らせ、声の主を探す。


 声の主はすぐに見つかった。

 目の前の腰掛けに座っている、筋骨隆々の体格をした白人の男だ。


 彼もまた自分と同じ戦闘服を着ており、体には一式の装備を装着している。

 自分の装備と違う点と言えば、片手には全体が茶褐色の自動小銃――米製のM14が握られているということくらいだろう。


 その男は口角をやや吊り上げながら、蒼凪優希に話しかけた。

 彼女はすぐに悟った。


 さっき自分の頭を軽く叩いたのは、恐らくこの人だと。

 今一度周囲に視線を送っても、彼以外の男はここにいない。


 そこからわかる結論は、「彼が居眠りしていた自分を起こした」という事実だ。

 蒼凪優希は姿勢を整え、彼に対し焦り気味に返事をする。



「ご、ごめんなさい。私、寝ちゃっていたみたいで……」



 彼の話す英語に関わらず、語学に関しては士官学校在学時代に気が滅入るほど学んだ。

 寝食を共にしたと言っても過言じゃないほど勉強し、著名人の論文や英字で書かれた本などはたくさん読み漁った。


 そのおかげで、終始完璧とは断言できないものの、同期はおろか歴代の士官の中では最上位の成績を収め、日常会話や軍隊では困ることは皆無というほど流暢に話せるくらいまで上達したのだ。


 無論、その努力もこうして海外の戦線へ赴くための準備のようなものであり、彼女にとっては話せて当たり前に近い感覚となっていた。


 蒼凪優希は英語を始め、主に欧州で使用される言語を幾つか習得している。

 聞いた言葉を一端頭の中で日本語に置き換え、英語に変換しながら言葉を紡ぐ。


 彼女はそういう感覚で外国語を話す。

 男は彼女の英語に感心しつつ、変わらず野太い声で言葉を返す。



「無理もねぇだろうな。東の果てからここまで長い時間をかけて来てんだから、疲れが溜まっちまうのも別に不思議じゃねぇよ」


「は、はい……」



 厳つい雰囲気を醸し出している見た目とは裏腹に、自分を気遣っているような口振りに、蒼凪優希は内心ほっとしたように思えた。



「ちょっと何を言っているの。彼女が眠ってしまったのは、貴方がそのゴリラみたいな顔で睨みつけていたせいで気疲れしてしまったからでしょう?」


「えぇー、そんな言い方ないでしょう曹長……。せめて男らしくたくましい顔と言ってくださいよお……」


「うふふ、ごめんなさい。私は気遣いというのが少々苦手なの」



 その人は男性の左側に腰掛けており、少しばかり笑みを浮かべつつ彼の肩を数回軽く。


 簡素かつ短く切り揃えられた金色の髪に、自分と同様の戦闘服と装備をまとっているその人物は、蒼凪優希と同じ一人の女性だ。


 蒼凪から見て左肩にはM14カービンに似た銃が掛けられており、白人の男性と比べて体格はやや小柄なものの、その身体は隅々まで鍛え上げられたように思わせる鋭利さを纏っている。


 彼が敬語を遣い女性を『曹長』と呼ぶことから、恐らく彼女がこの隊の指揮官だろう。



「あはは……」



 些細なものでも空気を和ませる冗談に対し、蒼凪優希の顔からも自然と小さな笑いが零れる。

  

 するとフィル曹長は、前方に少し身を乗り出して蒼凪優希に右手を差し出した。



「改めて。出発前のミーティングでも言ったけど、私は小隊長のフィル=ベネット、階級は曹長よ。フィルで構わないわ」


「よ、よろしくお願いします」



 差し出された手を握り、握手を交わす。

 温かい。

 その上柔らかくもあり、表面には細かな古傷らしきものの凹凸を感じる。


 安心できて信頼できる。

 まるで母性に似た何かを思わせる手だ。



「それと、こっちのゴリラはカーク=ペルツ伍長よ」



 カーク=ペルツと呼ばれた白人の男性も、フィル曹長と同じように右手を蒼凪優希に差し出す。

 

 彼女はフィル曹長との握手を解き、また同じように握り返した。


 彼の手もまた温かい。

 その上筋肉質で岩のような感覚を覚えさせる。


 そしてフィル曹長と同様、表面に小さな古傷が幾つかあるのを感じられるような手をしていた。



「彼はそうね――この隊の雑用係とでも思ってくれて良いわ」


「曹長、それわざと言ってますよね?」


「さあ? 本音かもしれないわよ」



 また冗談を混じえつつ、2人は蒼凪優希に視線を定めた。



「えっと……ユキ=アオナギです。新兵ながら、お世話になります」


「こちらこそ。よろしくね、ユキ」



 小さく一礼をしつつ、蒼凪優希は控えめにそう言った。

 外国では、ファーストネームを言った後でラストネームを言うのが一般的だ。


 ファーストネームは名にあたり、ラストネームは姓にあたる。

 無論それにも礼儀など細かなルールが存在するが、基本は親しみの意味を込めてファーストネームで呼び合うことが比較的多い。


 戦場において変な気遣いは不要だと判断してか、フィル曹長は蒼凪優希をそう呼んだ。



「そうそう、出発前にプロフィールを見させてもらったけど、貴方、単身でこの戦線に来たらしいじゃない」


「はい。一応日本による派兵に似た形で、こっちに送ってもらいました」


「遠路はるばるご苦労様と言いたい所だけど、アジアの戦線も、今はあまり芳しくない状態のはずよね?」


「今じゃ中国はアジア圏における最大の脅威だ。いくら国連の後ろ盾があるからと言って、嬢ちゃんの国も動ける人間は沢山必要だろう?」



 訝しげな表情で、カーク伍長とフィル曹長は蒼凪優希に尋ねる。

 彼の言う通り、日本は国連加盟国ではある。

 

 しかし、近年国連を脱退し南連に加盟した中国が北に、第2次世界大戦後から着実に独立を果たしていっている東南アジアの諸国が南に存在する。


 国連からの支援は受けているものの、現在は文字通り挟み撃ちの状態にあるのだ。

 無論、ソビエトとの連携によって中国を挟撃しようとする動きは活発に見られるものの、それでも現状は些か苦戦を強いられていると言う方が正しいだろう。


 国連は確かに類似の思想を持った国同士の集合体ではあるものの、同盟国の加勢に全力を注げるわけではない。

 自国の防衛を始め、資源や国力の維持、さらには国際的な立場を考慮した派兵など、今だけでなく将来まで見据えた行動をとらなければならないのである。


 

「そうですね……。日本にいる友人からの手紙には、連日南連の爆撃機が日本の何処かを焦土に変えているらしいですし。私の同期の中でも、成績優秀者は士官学校卒業と同時に北と南の最前線へすぐ向かっていきました」


「その中の1人である貴方は、わざわざこんな遠くの戦線へ単身で赴いた――差支えなければ、上層部をどう言いくるめたのか聞かせてくれる?」


「……特別な事なんて、本当に何もしてないですよ。私が士官学校を卒業する時、面倒を見てくださった上官に、僅かでも聞いてもらえれば良いなっていう気持ちで言ったんです」



 そばにある銃を強く抱きしめ、彼女はそっと囁くような感覚でそれを言う。



「『私の父と母を私の大切な家族を一遍に奪っていった人達の顔を見てみたい。それで、奪ったその時の気持ちをちゃんと直に聴いて――この手で命を奪ってやりたいです』と」



 この世界のどこかに、自分にとってかけがえのないものに等しかった家族を奪った人間がいる。

 その人間に直接会い、彼女の両親を殺した時の心境を聴いた後自らの手で命を奪う。


 要は自分の家族を葬った人物への復讐である。

 彼女はそれを目的にこの欧州戦線まで足を運んできたという事になるのだ。


 戦場に出てきた理由は単純で。

 成し遂げたい目的も淡白で。

 そして人間らしいものである。


 戦争は外交の最終手段と言われているが、彼女にとってそれは特別重要ではないのかもしれない。

 彼女にとって、戦争は自分の家族を奪ったものでもあるが、無くす対象ではないのだろう。


 目的はあくまで家族を奪った人物の命を奪うこと。

 自国に対する脅威に立ち向かうことではなく、個人の意思に基づいて身を投じた。


 蒼凪優希はそういう人間なのだろう。

 ただ一個人の人間であり、機械ではなく、自分の感情に素直になった結果が戦争への参加という形で収まったのだ。



「嬢ちゃん……」



 遠くで響く着弾音や車の走行音などが、不規則な間隔で小さく揺れる車内を数秒の間だけ支配した。


 カーク伍長は難しい顔を浮かべる。

 褒めるわけでもなく、かといって否定する様子も見せなかった。


 彼は内心どう反応すれば良いか迷ったのだろう。

 蒼凪優希は己の心情や信念に従った結果この戦線へ来たわけだ。


 同情の意味で肯定すると事情を深く知らないのに軽々しいなどと思われ、逆に真っ向から否定的な姿勢になると今度は配慮に欠けるなどと言われても可笑しくない。


 そう思った彼は肯定するわけでも否定するわけでもなく、感心に近い意味としてその言葉を言ったのだろう。


 杞憂や考えすぎという事も思ったものの、彼は自分の考えに対し正直になった。

 その結果がこの反応だった。


 カーク伍長がそんな風に気遣いをしているとはやや正反対に、彼の隣に座っているフィル曹長は軽快な口調で喋る。



「時間をかけてまでこっちに来たかった理由としては――なかなか良いんじゃないしら? 人間味溢れているというか、生々しくて」


「ちょ、ちょっと曹長……」



 彼女は若干笑みを浮かべていた。

 カーク伍長とは対照的に、彼女はそれを前向きな言葉として捉えたのかもしれない。


 下手なことを言うよりは話自体をさっと受け流し、少し面白いと感じたという意味で返答を行う。

 これが彼女なりの気遣いなのかもしれない。


 その証拠として、蒼凪優希は特に不満そうな顔や怒りの表情を浮かべなかったのだ。



「なんと思われたとしても、私がこちらへ来た理由はそれ以外にありません。特別秀逸なコネを利用してとか、そういう面白い話ではないです。期待に沿えず、申し訳ありません……」



 蒼凪は頭で一度小さくお辞儀をして、申し訳なさそうに謝った。



「いいえ、構わないわ。単にこちらが変な形で期待してしまったのよ。私はてっきり、その身体を使い色気仕掛けで上官を誘惑したり、逆にその上官の一物を使えなくするような脅しで屈服させたりしたのだと思ってしまったわ」


「曹長、もう少し節度を持ってくださいよお……」



 フィル曹長は「ふふっ」と、さっきよりも明るくはっきりと笑う。

 カーク伍長はそれが日常茶飯事であることを思わせるように、フィル曹長を適当に抑える。


 遠慮がちな物言いには、さすがの蒼凪も苦笑いしかけた。

 強靭で鋭利な雰囲気を醸し出しているフィル曹長がそんな言葉を使うとは思っていなかったのか、はたまたその言葉自体に対し少しだけ呆れてしまったためか。


 フィル曹長は満足したかのように笑うのを止め、普通の表情と口調になって言う。



「でも人間臭いのは良いことよ。ここじゃ下手な義務感なんかをあてにしているとすぐにまいっちゃうわ」


「そ、そうなんですか……?」


「そんなものよ。肝に銘じておきなさい」



 蒼凪は内心安堵していた。

 こうしてここに来るまでの道中は終始しゅうしりきんでいて、気を緩める余裕やそうしようという意識すら湧かなかったからだ。


 いや、厳密に言えばそういう気持ちを湧かせるべきではないと身体が無意識に反応していた。

 不慣れな土地や部隊などから四六時中舞い込んでくる新しい情報を認識することばかりに意識を傾け、気を休める機会が訪れなかった。


 さっき居眠りしてしまったのも、長旅の疲れと相まってのことだったのだろう。

 

 だが、彼女自身が素直な感情に従い行ってきたことをフィル曹長が認めてくれた。

 人間的側面を再認識したが故に、前ばかり見つめるだけでなく時には人間らしく気を紛らわせるのも悪くない。


 直接言われてないものの彼女がそう感じたから、蒼凪は気を休めることができたのである。


 戦場に向かう最中さなかに訪れたつかの間の休息を味わい、上がりかけていた心臓の拍動を僅かながらも緩めることができた蒼凪は、自然と強張っていた姿勢を正した。


 感情を噛み締め適当に視線を流し始めた――そんな時、車両荷台の最奥の壁面に設けられている引き戸式で簡素な作りの小窓が開いた。


 フィル曹長とカーク伍長は誰よりも早くそれに気づき、フィル曹長が慣れた感覚で小窓に顔を近づけ、向こう側にいる相手と短く会話を交わす。


 数秒ののち彼女は小窓が閉じると同時にカーク伍長へ耳打ちをして、姿勢を元に戻した。

 何を話していたかは小声でうまく聞き取れないが、見た目では何かを確認する行為のように見受けられた。


 そして――2人の顔つきが変化した。


 さっきまで温和な雰囲気も感じられた表情は瞬く間に鋭利なものへと引き締まり、表面上だけでも心中しんちゅうにある感情や意志などが安易に読み取れる。


 ほんの数秒で、まとっている雰囲気までもが刺々とげとげしいものに変わった。

 それくらい変化は大きなもので、やがてそれは伝染する。


 2人を起点にこの空間内でじわじわと着実に。

 満遍なく、巨木が根を張るがごとく伝わって、根付いていく。


 蒼凪も例外ではなかった。

 冗談を交し合っていた2人が、さっきまでとは別人のような形相を浮かべている。


 彼女も無意識にというより、半ば強引に悟らされたという方が正しいだろう。


 安息の反動でうわつきかけていた心は鉛が注ぎ込まれたかのようにまた沈み、それと同時に、精神だけでなく身体の末端までもが過剰な程に研ぎ澄まされていくかのような幻覚を覚えていく。


 彼女は思い出していた。

 この感覚は、以前感じたことがある。


 欧州行きが決定した瞬間と、己に最悪の不幸が降りかかった時。

 その時も、こんな感覚を味わった。


 ただ目の前の情報を過敏な感覚で理解して、脳で処理して、それがなんなのかを何度も何度も認識する。

 過度な緊張と言えばそれで片付いてしまうものだが、状況が状況なのだ。


 私はこれからそれをする。

 それをするため私はここにいる。


 彼女はその情報をひたすら理解し続けていた。

 手元ばかりに目の焦点を合わせ、じんわりと高鳴り始める鼓動が視界外から飛んで来る音などを遮り始めていた。

 

 そんな時に――フィル曹長が、腹の底に鈍く響き渡るくらいの大声でそれを話し始めた。

 唐突な出来事に蒼凪の身体がびくっと反応してしまったのは言うまでもない。



「あと8分で目的地よ! 各自、装備の最終チェックと銃の安全装置の解除――それから、ヘルメットの顎紐をもう一度よく確認しておいておきなさい。ヘルメットは替えがきくけど、その綺麗な顔に替えはきかないわ。パパとママから貰ったもの、ちゃんと自分で守り抜きなさい!」



 蒼凪も言われるがままに、迷彩色が施されている自分のヘルメットの顎紐の締まりを確認した。

 国連からの支給品であり、既存のものの問題点を改良してあるそれは新兵にとって命綱の1つであるため、新兵は全員隣を真似るようにして確認する。


 もっとも、バックルなどの状態を確認する事自体は出撃前に済ませておいたのだが、蒼凪は長時間緊張が続いていたためそれすらも忘れてしまっていたらしい。

 

 うっかりしていたと自覚するのに時間は要らなかった。

 本当に――忘れていたのだ。


 割と気にしなくても良い所に気を使い、反面気にして当然の所には気が回っていなかったりで心に余裕を持っていなかったが故に。


 むしろそんな風にあべこべ状態である事自体にも気付くのが遅れていた。



「あれ……?」



 思わず声を漏らした。 


 それくらい色々と鈍くなっていて。

 それくらい気付くのが遅くなっていた。

 

 銃口を上にして一か所を包むように握っている彼女の両手など身体からだ全体が小刻みに震え、身体からだの至る所に嫌というほど冷や汗をかいている。


 いつからなのかわからない。

 たった今そうなっている事に気付いたのだ。

 

 蒼凪は動揺せざるを得ない。


 何故という考えが真っ先に浮かび、それを無理矢理掻き消しても震えや冷や汗は無くならない。

 ただ小刻みに震え、悪寒と不快感が身体を駆け回る。


 彼女の身体は――ようやく恐怖と不安を感じ始めていたのだ。


 勿論出撃前などに感じなかったわけではない。

 その時も心臓は早打ちをして血液を身体の節々に行き渡らせ、感情を煽って蒼凪に恐怖を与えていた、


 だが、今感じているのはそれと異なるレベルの恐怖で。

 圧倒的に強く、そして経験してきた中で過去最高の恐怖と不安である。


 未知の暗闇を前に畏怖いふの念をいだき、足を踏み入れる事に躊躇ためらって拒絶を示すのは人間として当たり前。

 蒼凪は、その反応が身体に現れたという事だ。

 

 わからない、知らない、感じた事がない、経験がない。

 だから嫌、だから怖い、だから恐れる、だから怯える。


 未知の恐怖は人を押しつぶし、見えない脅威は身体をむしばむ。

 感情を持つ生物として、彼女はそれを感じた。


 おののき、すくみ、精神を揺さぶられる。

 人は冷や汗をかき、身体を震わせ、動揺する。


 蒼凪優希という人間は、目に見えない怪物に心をおかされ始めていた。

 


「あっ――」



 突然両手に温もりを感じたのはその最中さなか

 虚ろになりかけていた視界に映ったのは、正面から差し出されている右手。


 治りかけの小さな傷が幾つもある誰かの右手が、蒼凪の両手に触れていた。


 彼女はその感触を知っている。

 ついさっきも感じたし、何よりこれは、無くなりかけていた自意識を再度この場所へ繋ぎ止めてくれたのだ。


 幼い頃にも同様の感覚を味わった事がある。

 忘れもしない、あの木洩れ日のような日々の中で感じた優しさと温かさ。


 それをくれた人の右手とこの右手を、蒼凪は重ねる。

 多分違うかもしれないけど、同じと感じてしまうほどのそれは彼女に安らぎを与えたのだった。



「落ち着いて」



 凛として澄み渡るようなその声と、声の聞こえた方にいた人物を見て、誰の右手なのか確信した。

 手の主は、少しだけこちらに近づき、深い暗色の瞳でこちらを見つめていたフィル曹長だった。


 蒼凪は、予想と半分一致していないけど半分一致しているフィル曹長に視線を向け、



「す、すみません……」



 と、小さな一礼いちれいと共に謝った。

 ありがとうございます、と返すのも気恥ずかしく感じてしまい、いつも通り一歩下がった返答を行った。


 蒼凪は自身の動揺と緊張を再び自覚し、今度は飲み込まれないよう自我を強く意識して現状と向き合う。

 元の位置に戻り、足元に置いてあったヘルメットを頭に被りつつあるフィル曹長に、蒼凪は問いかけた。



「フィル曹長は、その――怖くないんですか?」



 蒼凪にとっては極々自然な質問だ。

 目の前には表現しがたい『恐怖』が迫り来る状況だというのに、フィル曹長は蒼凪を気遣った。


 その行動の表れがさっきのそれである。

 でもそれは、見方を変えれば周りに気を配るほど気持ちに余裕があるという事。


 曹長という立場上部隊をまとめる事に慣れているからと言えばそれで終わりだが、蒼凪はさっきの行動の中から少し違う何かを感じたのだ。


 慣れから来るものだけでなく、強い心を持っているからこそ他人からでも感じられる程のものを。

 蒼凪はそれを知りたくて、怖くないのかという切り口から問いかけた。



「そうね……。初めて戦場こういうばしょに来た時は私も足がすくんで、その時の戦果スコアはゼロだったわ。今だって怖い時は怖いと思うし、死にたくないとも思う。けどね――」



 装備を今一度整え、銃のリロードを終えた彼女は蒼凪にその双眸そうぼうを向けてこう紡いだ。



「感情を持っているのはまだ人間である証。それすらも感じなくなった時は――人が人である事を辞めた証よ。貴方が人でありたいなら、その気持ちを強く心に刻みなさい。大事な時物を言うのは、意志の強さと感情よ」 


「……」



 蒼凪は何も言い返さなかった。

 野暮のように思えた、というのが彼女の胸中を表現するのに最も適した言葉だろう。


 目の前にいるのは自分よりも多くの経験と多くの窮地、そして多くの感情を味わってきた人物だ。

 兵士としてだけでなく人間として、彼女は今の自分より中身が充実している。


 私が口を挟むのは彼女のしていた事を否定するような気がしてならない。

 ありのままの意味を理解し、蒼凪は納得した様子だった。



「まあ、いざという時になったらこの肉壁にくかべを盾にでも遣いなさい! こんな奴でも、銃弾の1発や2発くらいには耐えられると思うから」


「いててっ! ちょっと曹長、自分の扱い方どんどん雑になってませんかあ!?」



 フィル曹長は冗談染みた様子でカーク伍長の肩を勢いよく何度か叩き、叩かれたカーク伍長も僅かながら笑みを浮かべていた。


 2人はまた、張り詰めていた空気をある程度揉みほぐそうとしたのだろう。

 心をきつく縛っていた糸が緩む感触を、蒼凪は再び感じていた。


 目標へひたむきになるのは人間味があって良いのかもしれないが、時には人間らしく冗談を振る舞ったりするのだって悪くないのかもしれない。


 フィル曹長の言葉と独自の思考を心に深く留め、蒼凪は少しだけうつむいた。

 俯いた――それと同時だった。


 一度車両が左右へ大きく揺れ、身構えていなかった身体は危うく体勢を崩しそうになる。

 すんでの所で力を込めて身体を戻し、状況を確認するため視線をあちこち走らせた。


 荷台の外に視線を向けると、外の様子がさっきまでより明らかに荒廃している。

 手前から最奥へ流れるようにして映る景色は、既に一都市としての景観を喪失しかけていると言って良い状態だった。


 辛うじて原型を留めているもののほとんど倒壊しかけている煉瓦れんが色の建物。

 車体が損傷し廃棄されている軍用車両や仮設用救護テントの残骸。

 数百メートル遠方で濛々と上がる黒煙や、数人によって構成されたいくつかの部隊が自分達と同じ方向へと走っている様子。


 それらが景色の中に頻繁に現れては視界外に消え、また別の形となって現れては視界外に消えていく。


 体裁をなか瓦解がかいしかけており独特の哀愁を漂わせている欧州の街並みの中には、人の住まう都市に不似合な土嚢どのうが髄所に積み上げられていたり、砲弾の着弾跡があちこちに点在している。


 ついさっきもそれは見た。

 しかし問題は、その数がかなり多くなってきているという事だ。


 建物の壁面や地面に不規則な間隔である銃弾跡じゅうだんせきも、総数が増した故にそれが銃弾跡じゅうだんせきだと明確に理解できる。


 今この車両が通っている道も、よく見れば両脇には瓦礫や投棄された武器弾薬など様々な物が見受けられる。


 何かしらの行動の痕跡が目覚ましい程増えたがために、その場所で何があったか、そしてどれだけ激しい『動き』があったかを大雑把おおざっぱに感じ取れる。


 蒼凪はその光景を見て理解し認識している。

 時々視界の隅に映る何かには気を向けず、ただどういう様子なのかという事だけを考えていた。



「降車3分前ぇっ!!」



 再び聞こえた怒号に近い大声はフィル曹長のものだと彼女は直感で悟る。

 いや――それが誰の声なのかを深読みする余裕が彼女には無くなってきていた。


 間隔が短くかつかなり大きくなってきている砲弾の着弾音や、確実に濃くなっている火薬と鉄、そして土と砂の臭い。

 不規則な感覚で揺さぶられる視界。

 荷台の中で急速に発達している緊迫感と焦燥に駆られる空気。


 それらが蒼凪の思考を着実にむしばみ、余裕と楽観の念を強引にむしり取る。

 彼女の鼓動は圧倒的に早くなり、不安は身体からだを漏れなく覆い被さり、感情は悪い意味で煮えたぎる。


 移り変わり続ける現状を恐れ、目に見えない恐怖と自分を飲み込もうとする空気の波をおそれ。

 勇気と安息を渇望し、幸福と安らぎを求めて視線を彷徨さまよわせる。


 見えるのは自分と似た状態の少女ばかり。

 カーク伍長とフィル曹長は違うものの、表情には焦りが感じられる。


 気休めにはならなかった。

 心はきつく縛り上げられているような窮屈と痛みを感じ、命を刈り取ろうと構える死神が間近にいるような威圧感すら感じらえる。


 勿論それは幻覚だろう。

 幻覚と割り切れるなら苦労はしない。

 

 今の彼女には通用しないのだ。

 鈍色にびいろの刃を心臓の数ミリ手前に突き付けられていると言えば信じかねないし、むしろその一言で理性すら崩壊しかねない。


 それくらい彼女は繊細で。

 壊れやすく、崩れやすく、散りやすい身体からだとなっていた。



「――っ――っ」



 蒼凪は目を閉じ祈った。

 たどたどしく自身の胸ポケットに片手を当て――金属製の小さな写真入れにすがっていた。


 日本をつ少し前に友人から貰ったそれは長方形で7、8センチ程の小さなものだ。

 けど今の彼女にとって、その小さな写真入れは大きさ以上の価値があるもの。


 家族との写真と友人との写真を折り畳む形で中に入れ、御守りとして持ち歩いている。

 

 気持ちのどころとして。

 自分の意志を再確認するためのものとして。

 縋れるものとして。


 兵士の間では写真を持ち歩いたりすることはよくあるが、彼女は今になってその意味を実感する。

 これは――大切な意味を持つものだと。


 落ち着けるかどうかはまた別問題だ。

 しかし、彼女の本能は自然と求めていた。


 かつての安息と平和を。

 過去の安らぎと喜びを。

 昔の記憶と、未来への思いを――。



「きゃあっ!」



 再び視界が大きく揺さぶられると同時に、近くで誰かの悲鳴が上がった。

 揺れがこれまでの中で最も大きかったためだろう。


 大口径の砲弾がかなり近くに着弾したと推測できると共に、車内の兵士達には共通の思考が巡る。

 考えるべきではないだろうし、考えた所で何も良いことはない。

 

 しかし感情の制御は実感の前に消え失せ、それが前に出てしまう。

 あれがこの車両に当たっていたらどうなっていたのかという考えを、みな考えていた。


 蒼凪はふと荷台の外に目を向ける。

 いつからなのかは不明だが、自分達が乗っている車両と同型の車両が3台、この車両から後方10メートル程の位置にいてこちらを追従している。


 瓦礫や道の大きな凹凸おうとつなどを避けるように蛇行運転をしながら、かなりのスピードで追いかけてきている。


 自分達の乗る車両もさっきよりもスピードが出ていることを知り、蒼凪はまた少しだけ焦燥に駆られ始めた。

 駆られ始めて――数秒後だった。


 数度の爆音ののち耳をつんざく爆発音が一度だけ車両後方から聞こえ、熱風と衝撃波が蒼凪達のいる荷台の中まで伝わってくる。

 

 反射的に顔を少し背け薄目で見たのは――後方を追従していた車両の1台が一瞬にして火の塊となった惨状だった。

  

 車体に砲弾が直撃し全体が歪な形へと変形したかと思えば、次の瞬間には紅蓮の炎が鉄の塊を瞬く間に呑み込み、数秒後にはそれが自分達から急速に遠ざかっている状態が見えていたのだ。


 本当に一瞬の出来事すぎて、蒼凪は当初何が起きたのかを理解するのに時間を要した。

 それくらい短い時間の中でそれは起き、そして終わってしまったのだ。


 彼女は2、3秒後にようやく『味方の車両が撃破された』と認識し、脳内でそれを反復させる。

 反復させ――また悪いことを考える。


 あれには一体何人の人が乗っていた?

 乗っていた人はどうなったのか?

 あの攻撃で、何個の命が散ったのか?


 心臓が一層早鐘いっそうはやがねを打つ。

 銃を握る片手に手汗が吹き出し不快感を募らせる。

 思考回路が熱を帯び、理解の限界を迎えている感覚を味わう。


 焦燥、動悸、戦慄。

 様々な形の鈍器が彼女の心身を殴打する。

 

 胸は押し潰されそうな程重みを感じ、四肢の末端の感覚はどんどん薄れていく。

 また恐怖が身体を包んできている。


 そう感じることすら難しい状態に、彼女は陥った。



「降車準備!」



 フィル曹長が再び大声でそう叫ぶと、車両は速度を徐々に落としていく。

 そのスピードと反比例するように、荷台の兵士達の不安と恐怖は頂点に達していた。


 怖くないと思う人間など、ここにはいるはずもない。

 そう感じない人間はここに存在しない。


 全員が似て非なる形の感情を抱き、そして何度もそれを咀嚼していた。

 やがて車両が完全に停車し、フィル曹長が早足に車両後方へと前かがみで移動したかと思うと、



「全員降車ぁっ!! 私に続いて!」



 何度かそう叫びながら荷台から降りていった。

 停車する前後から身構えていた兵士達は、足音を大きく鳴らしつつ荷台後方の兵士から順にたどたどしく降車していく。

 

 中には祈りに夢中で到着したことにすら気づかず、隣の兵士に肩を叩かれ慌てた様子で降りていく兵も1人か2人見受けられた。

 

 様子を見ていた蒼凪も手早く身なりを確認して小銃を片手に腰を上げ、その後ろに続く。

 自分の後ろにはカーク伍長がすぐにつき、彼は確認の意味も込めて荷台を一通り見回しながら降車した。


 1mほどの高さから固めで黄土色おうどいろの地面に両脚で降り立った蒼凪は、地面に足を着いた事に対して少し安心した。


 これまでは不安の渦中かちゅうとも言えるほど暗い空気が漂っていた荷台から離れ、割と新鮮な空気に溢れる外へと飛び出せたのは気分を転換するという意味で良いものだと僅かに感じた。


 そう感じた――その矢先に、彼女の鼻孔と肌には不自然な感覚が生まれた。

 土と硝煙と形容しがたい何かが複雑に絡み合った臭いが鼻を差し。それはお世辞にも良いとは言えない臭いだ。


 肌にも似たような感覚が生まれていた。

 棘に刺されているわけでもないのにやたら違和感のある痛みを感じて、蒼凪自身も理解が追い付けなかった。


 荷台の外は何かが違う。

 視界からの情報ももっと欲しい。


 直感でそう感じた彼女は――降車して少し俯きがちだった顔をおもむろに上げる。

 やや薄暗い荷台の中で順応じゅんのうしていた目が外の世界の光量に慣れておらず、眩しさを感じた彼女はなかば目を細める。


 外の世界は、その狭い視界からでも読み取れた。

 いや――限られた視界でも十分すぎた。


 適度な眩しさに対し徐々に慣れを感じて視界を広げていく蒼凪。

 その瞳に映る世界は――『荒廃』の一言に尽きるものであった。


 彼女が降り立った場所は、かつて西欧風の建物が数多く連なり、独特の雰囲気と街並みを形成しながら一都市として発展の途中にあったとある町だろう。

 

 かつて、というまるで昔の話のような言い方は何も間違っていない。

 だって――この惨状を見れば、それが過去のものだという感想を誰もが抱くからだ。


 その場所は――都市であって都市ではない。


 何もかもが壊れ。

 何もかもが廃れ。

 何もかもが荒れている。


 見渡せる景色はどこをどう見ても荒れ果て、破壊され、綺麗な景観とは程遠い有様だ。

 蒼凪は大きめの爆発音や小さな銃声が交差する中、数秒ほど視線を走らせた。


 彼女達の車両が通ってきた道は、『道』というより『無理矢理こじ開けられた道』と言えるだろう。

 遠方えんぽうまで長く続く道の両脇には先程見かけたように瓦礫がある程度の高さで積まれ、その横には瓦礫となる前の建築物などが半壊または全壊した状態で存在している。


 それがあちこちに見受けられ、かなり遠くまで続いている。

 この場所を初見で訪れた時の感想はこんなものだろう。

 

 壊れた建物を遠くへ伝うように動かしていくと、かなり遠くでは数か所濛々と黒煙や白煙を上げている箇所がある。

 原因ははっきりしないものの、恐らく建物や建築物の火災、大破し炎上している車両などが発生源だ。


 煙の進む上方向へと視線を向けると――空が見えた。

 彼女はそれを見て、一瞬だけ日本で最後に仰いだ空を思い返す。


 それは限りなく澄み渡り白雲ひとつない快晴の空だ。

 自分の門出かどでを祝福するかのように、よどみやけがれなどが一切無かった空だ。


 そんな景色を見た記憶が鮮明に蘇りつつあったが――すぐに消し飛んだ。

 彼女が頭の中で描いたそれと、こうして見上げたそれは全く違う。


 今視界に広がっている空は――どこまでいっても薄墨色うすずみで、お世辞にも美しいとは言えないものだった。


 薄黒く濁り不規則な形の積層雲せきそううんはこの空を万遍まんべんなく覆い、知識として知っている空の水色を微塵も垣間見せようとはしていない。


 ただ不気味にその姿を見せ、見る者に嫌悪感や不快感を思わせる。

 蒼凪も例外ではなかった。

 

 変な方向に歪みかけている感情を揺さぶられ、地面に降り立った一瞬の安らぎを跡形もなく払拭させられた。


 彼女はすぐに視線を外し、何か違う場所を見ようとする。

 しかし――景色はどこも似たようなもので、どこを注視しても大した差異は無い。


 どこを見ても同じで、どこもかしこもめちゃくちゃだ。


 蒼凪はその有様を見ていて少しずつ悟る。

 当然のような感想だが、今一度確認するかのようにそれを胸中で思う。


 これが人の手によって破壊され、人の手によって成された景色だという事を。



「おいっ、嬢ちゃんっ!」


 

 また外界の物量や情報量に飲まれかけ自我を喪失しそうになっていた彼女は、大声と共に背中を軽く叩かれて身をビクつかせる。


 意識を戻して現状を理解しようとすると、視界の隅にこちらを伺うカーク伍長の顔が映った。



「大丈夫か? どこか痛むのか?」



 声量は変わらず、正常であるかどうかを問い正すように彼は蒼凪に訊いた。



「す、すみません。大丈夫です」



 慌て気味に頭を小さく下げ、周りでとどろく戦闘の雑音に掻き消されないよう声を張り上げて返事をした。

 

 カーク伍長は彼女が正気である事を確認すると、少しだけ笑みを浮かべて彼女の背中を優しく押す。

 蒼凪はそれに応じて小銃を抱え直し、隊列を保ち前後の間隔をけながら駆け足で離れていく自分の部隊の後ろに続いた。


 彼女は部隊の一番後方に追いつき、姿勢を低めに取りながら周りを見回し、前の人間に付いていく。

 揺れる視界の中で簡潔に状況を読み取り、今いる場所がどういう状態なのかを大雑把に理解した。


 さっきはやたら悲観的に見てしまったものの、この場所は言ってしまえば――銃弾が豪雨のように飛び交う本当の最前線という訳ではないようだ。

 確かに銃撃音や爆撃音は轟いており、景観は最悪の一言に尽きる。


 しかし、自分達のすぐ近くが爆撃されたり自分達の部隊が熾烈な攻撃を受けているという事ではない。


 どれもやや遠くの方から聞こえてくるものであり、瓦礫や所々から上がる煙のせいかもしれないが、現に彼女達は敵方の機関銃や小銃の類をまだ視認できていない。


 駆け足の最中に見かける兵士も、地図や無線を片手に複数人の兵士が集まって何かを話し合っていたりどこかを指差し指示をしていたりなど、小銃片手に突撃を行う人間がいないわけではないが、思っていたよりも若干少ないように見える。

 

 無論危険地帯である事に変わりは無い。

 先程のような遠距離からの砲撃がなくなったわけではないし、遠回りではあるものの激戦地へと近づいているのは確かだ。


 しかし1歩進むたび多数の屍を築くというほど凄惨な場所でもない。


 ここから7、800メートル前方。

 様々な戦闘の音の発生源であるそここそが、文字通り『本当の最前線』だろうと推測できる。


 蒼凪がそんな思考を交えながら走っていると――数十秒走った所で先頭をくフィル曹長が後ろを振り返らず手で制止のハンドサインを出した。


 後ろに続いていた隊員は隊列前方の人間から緩やかに足を止め、激戦区域からの流れ弾などから身を護るため近くの瓦礫や壁に身を隠す。


 すぐ近くに脅威がある――という訳ではなく、部隊の前には半壊した家屋のかたわらで瓦礫製の腰かけに座り衛生兵の治療を受けている負傷兵がいた。


 外から見る限り、負傷兵の傷は右太腿に軽度の銃創じゅうそうという軽いもののようだ。

 表情も柔らかく、衛生兵と会話しつつ脚に包帯を巻いてもらっている。


 フィル曹長は小銃の中ほどを片手で持って警戒を解き、その負傷兵と衛生兵に速足で近寄る。



「ここの指揮官はどこに?」


「あそこで双眼鏡をのぞいている人がそうだよ」



 彼女の質問に負傷兵が答えると、2人の兵士は揃って同じ方向――蒼凪達から見て左方向に顔を向けた。

 視線の先にいるのは、その言葉通り丸形レンズの眼鏡を掛けている兵士と隣で双眼鏡を覗いている兵士。


 数十メートル先にいる2人はどちらも遠くの方に注目し、何かを話し合っているかのように頻繁に口を動かしていた。

 フィル曹長はさっきと同様早足で近寄り、開口する。



貴官きかんがここの指揮官でしょうか?」



 敬語かつ畏まった態度と身振りで問いかけた。

 反応に応じたのは、双眼鏡を覗いていた初老の男の方だ。


 男は双眼鏡を首に掛けた状態にして、フィル曹長の方を見る。



「そうだ。……そういう君は?」



 低めの声音こわねで口周りに短い無精髭ぶしょうひげを生やしている男の問いかけに対し、フィル曹長は簡素な敬礼を交えて答える。



「『新兵女隊チーム・シンデレラ』のおり役、フィル=ベネット曹長であります。部隊のことはご存知で?」


「ああ、出撃前に聞いたよ。ということが君が『母親シンデレラ・マム』か。いやはや――名前の通り強靭そうな女性だ」 


「……お褒めの言葉として、捉えておきます」



 あまり嬉しくない呼び名である事を表すように、彼女は数秒の間表情を曇らせた。



「いや失敬、心からの敬意だが、気分を害したのなら申し訳ない。私はイギリス陸軍のダレル=マクギャリー中佐だ」



 差し出された片手をフィル曹長は片手で握り、短い握手を交わす。



「書類上では一応国連に所属する訳ありの部隊だと聞いていたものの、部隊編成はアメリカが先頭に立って行っていたり、装備などの諸経費は加盟国全体で負担したり、ある時はフランス軍の指揮下に入ったりで私も接し方がわからなくてね。良く言えば多様性に富んでいて、悪く言えば寄せ集めの部隊って認識でも良いかね?」


「ええ、そのような形でも構いません。我々は如何なる捉え方をされようとも、一部隊として任務を遂行するだけですので」



 腰に手を当て、皮肉さえも一蹴いっしゅうするフィル曹長。

 ダレル中佐も、その毅然とした態度に対し短い沈黙を挟んで答える。



「……さすが、マムと言われるだけの事はあるようだ。度重なる失礼を謝罪するよ、今後は偽りなき敬意を君と君の部隊に表するとしよう」


「ふふっ、ありがとうございます」



 両者とも明るい口調で打ち解け合い、摩擦の要因となるものは粗方取り除けたようだ。

 談話に近い会話を交わし、2人はまた元の表情を浮かべる。



「現在我々が展開している作戦については既に知っていると思うが、2個中隊が小さな街のある西側から、1個中隊が丘陵地帯のある東側から南連の軍を追い込んでいる」



 戦闘音の発生源である方向を指差しつつ話すダレル中佐。

 フィル曹長はその指先にある光景を注視している。



「この『ヴイーヴル作戦』ではフランスの東側の国境の北部・中央・南部からフランスへ同時に進撃を行うが、我々のいる中央は激戦が想定されている南部やオランダなどの支援を大々的に受けられる北部に比べ、投入された兵力が全体的にやや少ない。上層部にとって、我々のいる場所は他と比べれば埋め合わせ程度の小規模な作戦かもしれない――だが気は抜けないぞ」


「ええ、承知しております」


状況説明ブリーフィングでも聞いていると思うが、戦闘の長期化で部隊の疲弊が大きくなり機動力が低下している。おまけに援軍の到着も遅れていてね。予定では君達とほぼ同時刻に来るはずとなっているんだが……。

 南方から来た君達は見かけなかったと思うが、頼みの戦車は私達の後方に設けられていた人口の沼地で全部もたつき、航空機は数十キロ先から支援に来る敵の航空機を迎撃するのに手一杯だ。現状は優勢であるものの兵の数が不足し始めており、負傷兵などの退却も十分とは言えない。

 郊外の農村地帯まで追い込めれば良いと思うが、もう少し数と火力が欲しい所だ。君達には中央辺りに展開し戦闘を行っている中隊と退却する部隊の支援を行ってほしいが――何か意見はあるかね?」



 そう問うダレル中佐に、フィル曹長は淡々と提案する。



「でしたらまず我々の部隊が中央から左翼にかけて展開し、左右全体の支援を行いましょう。部隊の間延まのびが減り部隊の集中運用が可能となれば、中隊も持ち直すと考えられます。左右の部隊はどちらも同程度の被害を受けているのでしょうか?」


「いや、東側はまだ軽微だと報告を受けている。敵は東側を上手く防ぎきれていないようだ」


「わかりました。展開している部隊にも我々の事は周知で?」


「ああ勿論。戦場に華が咲くとかで大はしゃぎしていたかな」


「そう言っていただけると、彼女達も喜ぶと思います」



 蒼凪達のいる方を一瞥いちべつし、談笑染みたやり取りを交わす。

 


「それでは」



 表情を引き締め、ダレル中佐に対し敬礼を行ってから踵を返し――フィル曹長は蒼凪達の元へ小走りで戻った。

 蒼凪をはじめ部隊のみなは神妙な顔で彼女に視線を向ける。


 彼女もそれに応えるように、間髪入れず口を開いた。



「それじゃ、出撃前の状況説明ブリーフィング通りに部隊を2つに分けるわ。ローダ、エルナ、ヤネット、ラシェル、エリザ、ジュリーの6名はカーク伍長に付いていって撤退する兵士の支援を。残りは私と一緒に中隊の援護に向かうわよ。くどいようだけど、銃の安全装置とヘルメットの顎紐はもう一度チェックしておきなさい!」



 喝を入れるように声を荒らげ、みんなが自分の言葉に耳を傾けてくれたの確認も兼ねて彼女は部隊の面子を見回す。

 

 視界に映るのは、彼女の言葉通り各々が再度確認行為をしている光景だ。

 フィル曹長はカーク伍長に視線を向け、重い口調で言葉を紡ぐ。



「カーク伍長、その子達をよろしく頼むわ」


「任せてくださいよ曹長。シンデレラをエスコートするのは男の使命ですから!」


「ふっ、お願いね」



 こんな時でも場を和ませようとする彼に対し、フィル曹長は彼の胸を握りこぶしで軽く叩き、笑みを浮かべてそう言った。



「よーしそれじゃあ呼ばれた嬢ちゃん達、不満かもしれねぇが俺のケツについてきてくれよ。この召使めがみんなをお城へと案内しちゃうぜえ!」



 陽気な言葉を紡ぎながら離れていく彼に、先程呼ばれた6名が部隊の合間を縫って駆け足でついていった。

 覚束ない足取りで隊列を大雑把に組みながらみるみるうちに遠ざかるその後ろ姿を、少しの間蒼凪も見続けていた。



「私達も進むわよ。全員ついてらっしゃい」



 フィル曹長がそう切り出すと、各々は身体を本来の進行方向へ向けて駆け出す。

 蒼凪はその隊列の最後尾から2番目辺りに位置取り、また同じように走り始めた。


 広がる景色を横目に、彼女は先程フィル曹長の会話を無意識に思い出す。


 『ヴイ―ヴル作戦』。

 それが彼女達『新兵女隊チーム・シンデレラ』が参加している作戦の名前だ。


 無論蒼凪も状況説明ブリーフィングでその概要を聞かされているため、今更事細かく思い返す必要は無い。

 大まかに言えば、主にフランス東側の国境の北と南から侵攻する反攻作戦というものだ。


 蒼凪達の部隊がいるのはその中央部分であり、ダレル中佐の述べた通り大規模な戦力の投入は行われていない。

 それくらいこの場所は比較的容易な部分として国連側に捉えられているのだろう。


 しかし蒼凪達が参加している作戦も、国連側にとっては一大反攻作戦の一端を担っていると言えるほど重要な作戦のひとつと言える。

 イギリス海峡を渡って進撃する軍やイタリアを経由して進撃を行う軍と呼応する形で、この作戦は展開されている。


 だが現状は南連相手に優勢であるものの、布陣を逆手に取られたりしたら北部と南部は最悪挟撃の脅威に晒される。

 現在この地域に展開されている部隊はそれを防ぐ意味でも、また同時に多正面作戦の一環としても機能しているのだ。


 そのため成功した場合は称賛され、失敗した場合は大きな被害を招くだろう。

 今作戦はそんな当たり前の性質を持った作戦である。



「……」



 蒼凪はまた周囲を軽く見回した。

 瓦礫と煙と兵士の姿で構成されているこの景観は、やっぱりお世辞にも美しいとは言えない。


 町並みに特別な情緒を感じる事も無く、彼女の瞳には鉛色のような景色として映っている。

 未知の土地に来たとはいえ、ここにはお気楽な観光目的で来たわけでもなく、かと言って留学のような勉学を目的として来たわけでもない。


 ここには自らの命を賭してまでしたい事がある。

 甘えたくなるような生温なまぬるい思考と自分を律するための冷淡な思考が、彼女の胸中で混ざり合い視界を薄めていた。


 それ故なのか――部隊の数百メートル前方で大きめの爆発音が轟き、一時的に部隊の脚が止まった事に蒼凪が気付いたのは、自分の前にいる隊員に誤って追突してしまった後だった。


 唐突な出来事に彼女も困惑し、直ぐに首を左右に振って視界に正確な情報を入れる。

 現状は瞬く間に理解する事ができたものの、ぼんやりしていた事に変わりはないため自責の念を感じずにはいられなかった。

 

 そんな蒼凪とは裏腹に、迫撃砲の砲弾と思われるそれは自分達を狙ったものではない上にまだ迫撃砲の射程外であるはずとフィル曹長は瞬時に予測するが――瞬間的に思考を巡らせ隊員に対し迅速な指示を出す。



「各自散開して進んで! ここからは文字通り戦場よ、敵が見えたら迷わず応戦しなさい。行くわよ!」

 


 怒号に似たその指示を出すと、フィル曹長は小銃を抱えて一目散に前方へと駆けだした。

 ある程度隊列を組んでいた先程とは違い、その姿はもう小銃を片手に突撃を行う兵士そのものだ。


 追従してきた隊員をほとんど気にせず、彼女は走り出した。

 他の隊員達は若干戸惑いつつも、数秒後には隊列を解散させ各々のタイミングで激戦地へ向けて突撃を始めのだった。



「……行こう」



 蒼凪も見習うようにして小銃を抱え直し、前後左右との間隔に注意を払いながら地を蹴る。

 みるみるうちに身体を加速させ、呼吸を速めながら脚を動かす。


 ペースは無理をしない程度で、しかしノロノロと走る事は厳禁とする。

 そんな形で覚えた感覚を思い返し、蒼凪は走り始めた。


 少し経つと息は徐々に荒くなり、心臓は四六時中大きな拍動を行う。

 地面を蹴る砂利の音がやたら大きく聞こえるようになり、五感が過剰な程研ぎ澄まされていく。


 数百メートル程走ると――そこからは明らかに違った。


 空気を切り裂く銃弾の音や砲弾の着弾音が明確に聞こえるようになり。

 不鮮明な叫び声や轟音が度々響くようになり。

 空気に対し痛みを感じ、感覚が消失するかのような虚無感を覚え始めていた。


 外傷は無いし細菌兵器などの類も存在しない。

 だが。

 

 けど――歪で奇怪な感触が彼女の身体をむしばんでいる。

 目に見えないものが自分に覆い被さろうとしているような、そんな感覚だ。


 形容しがたいという言葉ではとても片付かない。


 なんなのか本当にわからない。

 何が迫っているのかも。

 自分を睨んでいるそれがなんなのかも。


 学校でこれでもかと身体に叩き込んだ知識のおかげで身体はどうにか動くものの、どこかギクシャクしている。


 関節が硬い。

 皮膚が強張っている。

 思考も十2分に回っていない。

 

 無意識に周りを見回す。

 周囲には自分と同じように、小銃片手に走っている人間がかなりいた。


 同じ部隊の隊員だけでなく、同地域に展開中の部隊の隊員と思われる男性が同じ方向に向けて進んでいる。 


 彼らはこちらを一瞥するものの大して気に留めない様子で直ぐに視線を戻し、自分を追い越して先に行く。

 何人もの兵士がそんな様子で視界内に現れては背景と同化していく。


 蒼凪は無心に近い感情でそれを見る。

 小さな瓦礫は飛び越え、大きめの瓦礫や負傷兵は少し迂回して先へ往く。

 

 それをしばらく繰り返していると――近くの瓦礫に1発の銃弾が着弾した。

 

 方向は正面。

 正確な場所はわからない。


 闇雲に進むのは危険と判断し、銃弾が飛んできた方向に対し壁を作るかのように、腰丈ほどの高さがある近くの瓦礫へと身を隠す。


 長い間激しい拍動を繰り返し、血流がこれでもかと回っていた身体を休めるように呼吸を整え気持ちを落ち着かせようとした。


 無論すぐさま冷静になれるはずもなく、高ぶっていた感情は思考の充実化の礎となる。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――」



 とにかく落ち着かない。

 心臓から髪の毛一本に至るまで熱が籠り、身体自体が精神を過剰に煽っているような感覚だ。


 熱は空中に放出される訳でもなく、身体の内側を嫌気が差す程駆け回り続けている。

 

 時折吹き付ける砂埃すなぼこりは目に入って視界を濁らせ、全く予測できない爆音などは彼女の心を平然と殴打する。


 蒼凪は拭う事ができない苦しみを、嫌という程痛感していた。

 そして無意識に――視線を手元に向ける。


 彼女の手は、異常な程震えていた。

 小銃を掴む事は可能であるものの、弾込めなどの多少細かな作業を行う事はとても難しくなるくらい小刻みに震えている。


 震えは先程荷台に乗って移動中だった時よりも酷く、彼女はその状態を見てまた認識してしまう。

 自分は恐怖し、戦慄わなないているという事実を。


 心身共にそれ程怖気づいている――その時だ。

 彼女のすぐ横に、何かが土煙を上げながら勢い良く滑り込んできた。


 突然の出来事に対し彼女は身体をビクつかせ反射的にそちらを見るが、すぐさまそれが敵などではないと理解する。


 自分と同一の戦闘服を着て、弾丸の飛んできた方向を瓦礫越しに伺っているそれは――同じ『新兵女隊チーム・シンデレラ』の兵士だった。


 ヘルメットの間からちらつくダークブロンドの短髪と顔のそばかすが特徴の彼女は、険しい表情で瓦礫の向こう側を何度か観察しながら開口する。


 

「あんた、大丈夫?」


「う、うん……ごめんなさい」



 肩で息をしながら、彼女は蒼凪の表情をうかがう。

 そばに仲間がいる安心感とはこれほど心強いものなのかという感想を噛み締めながら、蒼凪は返事をした。



「怖い事には慣れないとキツイよね。あたしも最初はそうだったよ」


「貴方は……戦場こういうばしょに慣れているの?」

 

「いや、本物の戦場なんて初めてだよ――けどあたしはロシアのスラム街で育ったからね。撃ち合いとか危ない事に関しては……多少慣れているさっ!」



 金髪の少女は瓦礫の上に両肘を置いて、小銃を連射する。

 小気味良こぎみよい銃声を響かせると、また姿勢を低くして瓦礫に身を隠す。



「軍に志願したのは、飯にありつくためと家族を養うためのお金目当て。まっとうな理由なんて持っちゃいないけど、あたしらスラムの人間が生きていくにはそれだけありゃ十分だよ」


「……」


「あんたみたいなお嬢様っぽい人達を羨ましいとは思うけど、別に恨んじゃいないよ。戦場ここじゃ他人を殺してまで生きたいと願う奴が生き残る――それくらいシンプルな場所だしねっ!」



 先程と同じように、瓦礫から身を晒して何発か弾を撃つ。

 それが敵に命中しているかはまだ不明だが、行動には牽制けんせいなどの意味があるのだろうと蒼凪は理解する。


 同時に、彼女の言葉を頭の中で何度か反復させた。


 彼女は軍に志願した自分を卑下しているような物言いをしていたが、蒼凪もまた彼女と大差ないくらい自己中心的な理由で志願している。


 褒められる程のいわれもなければ、けなされる程の資格だって無い。

 彼女の言葉を思い返す度に、蒼凪の中にある罪悪感は掻き立てられていた。


 ダークブロンドの彼女は再び瓦礫に身を隠し、空を仰ぐように顔を上げながら蒼凪を横目で一瞥いちべつする。



「あんたもちゃんと生きたいと願いなよ。帰る場所があるなら尚更なおさらね」



 余裕が無い状況下でも強引に作り出しただろうその僅かな笑みは、蒼凪の心をほぐすのに十分なものだった。

 少女はまた一息ついた後瓦礫から身を乗り出し、不規則な間隔を開けて小銃から弾丸を飛ばし始めた。


 その姿を見ていた蒼凪は――今一度覚悟を改めていた。


 自分は何を焦っていたんだろうか。

 我武者羅がむしゃらに走り襲ってくる脅威にも屈しかけて、自分はどれだけ向こう見ずなのだという事を痛感していた。


 蒼凪は正面を向いて小銃の銃身を両手で握り、閉眼し自分のおでこ辺りのヘルメットに軽く当てて数秒間思考を巡らせる。

 深呼吸をしつつ、己を戒める。


 決しておごらず、常に正しい姿である事を心掛ける。

 戦争へ身を投じると決めた日から、彼女はいつもそうしてきた。


 歩む道を踏み外さないよう意識を払い、目前を十分に見通せるよう生きてきた。

 自分の進んでいる道は生易しいものではないし、生半可な心は己を殺す凶器にもなる。


 蒼凪優希はどんな時でも――目指す所は間違えないよう考えて進んできたつもりだ。

 だから、ダークブラウンの少女の言葉は蒼凪に深く響くものとなったのだった。



「……」

 

 

 戒めは終わり。

 蒼凪は目を開けて――少女に感謝の言葉でも送ろうと横を向く。

 

 気の利いた言葉はすぐに思いつかない。

 けど、感謝の気持ちは例え小さくても伝える事に大切な意味がある。


 両親に教えてもらったその言葉は蒼凪にとって既に遠い過去の言葉になっているが、言葉の持つ温もりは今でも全く失われていない。


 その温もりを感じてもらえれば良いなんて思いながら、蒼凪は顔をそちらに向ける。

 


「ごめん、ありが――」



 いや――その言葉には確かに目に見えぬ温もりが存在しているだろう。

 でもそれは、感情に温もりを与える事ができるのであって消えたランプに火を灯す事は不可能だ。


 何もない場所で暖を取れるようにするため用いるものでもない。

 彼女の目に映った唐突な出来事が、そんな歪な考えを芽生えさせた。



「えっ――」



 ドサッ、という音が聞こえたのは、横を向いた瞬間とほぼ同じタイミングだった。

 蒼凪には最初何が起きたのかなんて理解できるはずもなく、さっきと同じように瓦礫の壁を背にして座り込み数秒間固まったのは事実だった。


 でも、数秒で十分だった。

 むしろ理解するための所要時間には十分すぎて、蒼凪にとっては時が止まったも同然の衝撃だった。


 音の正体は――ダークブロンドの少女だ。

 先程まで小銃を手に果敢な攻撃を行っていた彼女が、仰向けで地面に倒れた音だった。

 

 彼女の右目の辺りには――綺麗なが花開いていた。



「――――」



 少女の左目辺りに命中した弾丸は内部をえぐり、後頭部まで綺麗に貫通していた。

 屍と化し、血の気が無くなっていく彼女の顔は、着弾箇所を中心に赤黒い血肉が石榴ざくろの花のように外側へとめくれて、顔一面には無数の細かな血飛沫ちしぶ飛散ひさんしている。


 死を考える時間も無かったのか、表情も無に等しい状態で。

 被弾していない右目は瞳孔が完全に開ききっており、まるで彼女の死を物語っているかのような有様だ。

 

 蒼凪は――言葉を失った。

 目の前の唐突な出来事に、彼女はただただ絶句した。


 つい先程まで煌々こうこうと輝いていた命のともしびは、こうもあっけなく消し飛んで。

 ひとつの命とはこれほど脆く、いともたやすく消えてしまう事実を――彼女は痛感した。


 写真越しで見るものとは違う。

 現実はもっと歪で、言葉で表す事すら難しいと。

 

 固く目を閉じ縮こまる彼女に間もなく襲ってきたのは、酷い嘔吐感と不快すぎる異物感。

 理解できない感覚がショックで俯きかけている彼女をみるみる犯していき、精神を支配する。


 何もできず、何も言えず、何もしたくない。

 周りの音が掻き消え、全ての感覚が止まりかける。


 拒絶と恐怖が彼女の心に居座り、死にゆく彼女に対し何もできなかった自分に罪の意識を感じ始めていた。



「はぁ……はぁ……」



 

 しかも――連鎖のように思い出してしまう。

 荷台に乗って移動中の最中さなかに見た『何か』が――嫌でも頭にちらつく。


 それは紛れもなく、彼女がたった今見てしまった『死体』だったのだ。

 不安に駆られるのを避けようと意識をそらして、認識しないようにしてきたものだ。


 背景に溶け込むような形でそこにあった死体を、蒼凪は思考の中に入れぬよう無意識に避けて。

 理解せず、視界に極力入れず、それが死体だと思わないようにしてきた。


 しかし、蒼凪はそれをこんな形で思い出してしまった。

 己をむしばみ犯す感覚に、彼女は彼女自身で拍車をかけてしまっていた。



「……」



 嫌だ。

 怖い。

 いたくない。

 

 でも――しかし、ここではそんなの通用しない。

 戦場に赴く兵士は命を賭すのが必然で、それが全てだ。


 勝手に回れ右をして後退すれば、それこそ間違いなく死んでしまう。

 規律を破る異端児として、処分されてしまう。

 

 逃げられない。

 進むしかない。

 行くしかない。


 怖くても、嫌でも、やりたくなくても、止まってはいけない。


 余計な情を捨て、悲鳴を上げる身体に鞭を打って奮い立たせる。

 恐怖を暗示で強引に上書きし、感情を塗り替える。


 蒼凪は――目を開けた。

 完全無欠の強靭ではない彼女は、自分の感情を完全に拭い去る事なんてできない。


 だから、進むしかないという事実にすがっておもてを上げる。

 傍らにある屍に意識を持っていかれるものの、身体を動かして瓦礫越しに本来の進行方向を一瞥した。


 そして――小走りで移動を開始した。

 今の自分に死を惜しんだりする余裕なんて無い。


 敵討かたきうちという大層なものではないだろう。

 だが少なくとも、何もしないよりはマシだと信じて、蒼凪は屍と別れる。

 

 元通りに進行方向へと注意を向け、脚を動かし始めた。

 


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――」



 蒼凪は走り続ける最中さいちゅうでも、周囲に注意を払う。

 小刻みに揺れる視界の中には、やはり小銃を片手に進撃する兵士がたくさん映っていた。


 誰もが険しい形相で遠くを注視しており、各々がそれぞれの速度で歩を進め攻撃を行っている。

 その光景の中に混じっているのは――先程目撃してしまった屍の類。


 点在しているは、機能を失った機械と同様微動だにしない。

 命を失ったその身体はただの肉塊同然であり、周りの瓦礫と一緒で単なる背景の一部となっている。


 蒼凪はそれらを深く認識しようとしなかった。 

 理解しじっくり見てしまえば、また得体の知れない何かが彼女の身体を蝕んでしまう。

 

 本能が鳴らす警鐘を重々受け止め、視線をほぼ真っ直ぐ前に固定し瓦礫の多い街中を進んだ。

 固定したのが幸いなのか――蒼凪はようやく認識する。


 自分から見て左斜め前方にそれがいる事を。

 数十メートル程先に、それが陣取っている事を。



「――っ!」



 すぐさま相手の視界に入らないよう近くの瓦礫に身を隠し、身を出さないよう注意しながらこっそりとそちらの方をうかがう。

 

 そこにいるのは――紛れもなく南連国軍の兵士だ。

 自分と異なる独自の戦闘服を着た黒人系の若い男2人組は、あおみを帯びた墨色の銃身が特徴の汎用機関銃『GD.40』を腰丈ほどのへいの上に設置しどこかに向けて連射している。


 聞きなれない言語の怒号と共に銃声をひっきりなしに響かせているその姿は、蒼凪が学生時代に資料で何度も見たものと同一だ。

 憎悪に近い感情をいつも向けていた対象そのものと言っても良い。

  

 機関銃の照準は、彼女の左後方。


 2件分の家屋の瓦礫越しに蒼凪は相手を観察しているため、彼女と相手の間にある瓦礫が射手の視界を若干遮さえぎり、蒼凪の身体の大部分を隠している。


 そのため、相手がまだこちらを認識していない可能性が高い。

 この状況を好機と捉えた蒼凪は、学校での訓練を今一度思い出し、脇を締め上半身全体を使って小銃を固定し構える。


 そして自分の小銃の先を――おもむろな手つきで南連の兵士に向けた。

 

 反動や命中率に配慮しつつ引き金に指を掛け、狙いを絞っていく。

 蒼凪はこの戦場に来て初めて見るその姿に、若干戸惑いながらも変に興奮し始めていた。

 

 無論彼女は超人ではないため、死の恐怖と正面から対峙しているこの状況下に畏怖いふの念を感じないわけがない。

 だが、畏怖の感情が高まるのと比例して彼女の中には歪な感情が芽生えていた。



「やるんだ……。やらないと……」


 

 一拍交え、小銃の狙いを定める。

 飛び交う銃弾がくうを切る音や轟いているいくつもの爆発音を頭からシャットアウトし、目前の標的に集中する。


 生きるか死ぬか。

 2択しかない戦場で、彼女の身体は常に鞭で打たれているような錯覚を感じ続けていた。


 追い込まれ煽られる感情は身体の隅々にまで影響を及ぼし、彼女の心を急き立て、四肢の感覚を麻痺させ、精神を喰らう。


 完全に飲み込まれてしまえば、蒼凪とて錯乱してしまうだろう。

 

 しかし。

 彼女は意志をもって心の霧散を食い止め、行く先を見失わぬよう彼女なりに心掛けてきた。

 追い込まれようとも理解を諦めず、乗り越える事へ尽力するよう考えていた。

 

 その考えは今も身体に宿っており、宿っている考えは行動へと具現化する。

 考えは彼女へ力を与え、行動の原理へと昇華する。


 蒼凪は――躊躇ためらわなかった。

 発射するタイミングを見計らって息を止め、小銃の引き金を引いた。


 筋力が無ければのけぞってしまいそうなほど大きな衝撃が指先から何度も身体全体へととどろき、彼女はその振動を少しでも抑え込もうと歯を食いしばる。


 発射された3発の.30カービン弾は――射手の左頬ひだりほほ辺りに見事命中した。


 力を失ったかのように射手はその場で崩れ落ち、弾幕を張っていた機関銃を一時的に無力させる。 

 射手の被弾に気づいた弾薬手は叫び声を上げながら弾薬手から射手へと役割を変え、弾丸が飛んできた方向――蒼凪に機関銃の照準を向けようとする。


 だが、状況を制したのは蒼凪だった。


 先程の照準箇所から狙いを少し左にずらすだけで十分な蒼凪と機関銃とでは狙いを定めるための所用時間に決定的な差があったのだ。


 蒼凪は瞬く間に狙いを絞り、攻撃を続行。


 再度放った3発の弾丸は、反動により僅かに狙いが逸れて射手の近くに着弾し無力化には失敗した。

 しかし、射手が狙いを定め絶大な攻撃力を誇る機関銃が彼女に対し火を噴く前に――決着はついていた。

 

 蒼凪が間髪入れずに放ったもう3発の弾丸うちの1発が射手の顔面に命中し、さっきと同様射手を絶命させる。

 機関銃は蒼凪に対し火を噴く事無く、無力化されたのだった。



「――はぁ、はぁ、はぁ……」


 

 蒼凪は束の間の安心からか軽い脱力感に苛まれ、再び瓦礫を背にしてそれに寄りかかった。

 

 故意に息を止めたはずだが、その事さえ忘れかけてしまうほど酷い緊張に襲われていた彼女は、まるで数分間も息を止めていたかのような状態になってしまっていた。


 慌てて呼吸を再開した彼女の肺には、土煙などで汚染され清純とは言いがたい空気が大量に取り込まれ、全身への酸素供給が行われる。

 

 そうしてどうにか息を整えながら残弾と小銃の状態を確認していき、変にショートしかけていた思考は明瞭さを取り戻し始めていた。


「はぁ……、はぁ……」


 その最中、彼女は小さく息を切らせながら、小刻みに震えるその手を見つめる。


 両手に残る銃撃の余韻は未だに奥底で反響しており、あまり薄まっていない様子だ。


 これが――敵を討つという事なのか。


 再確認を行うかのようにその言葉を心の内で復唱させ、己に対する戒めとして心に刻み付けていた。


「……」


 視界と感情にもある程度落ち着きを持たせると、次にすべき事を考えるために、五感からわかる周囲の状況へと意識を傾け始める。


 余裕と言えば聞こえは良いが、これは一種の興奮状態なのだろう。

 心身の最適化がある程度進んだ事によるものか、それとも単に変な形で感情がたかぶっているのか。


 蒼凪すらもよくわからず、適当にその思考を放棄した――そんな時だった。



「嫌ぁああああああああああああああ!!」



 銃声や爆発音にも負けないくらいの大きな悲鳴が割と近くで突然上がり、蒼凪は思わず驚く。

 すぐさま悲痛な声の聞こえた方向――今の状態から見て左側に顔を向けた。


 見れば1人の兵士が道の真ん中で片脚の膝辺りを両手で押さえてうずくまり、酷く悶えていた。

 よく見れば膝に暗色の染みができているという事から、恐らくその部分に銃弾を受けてしまったのだろうと蒼凪は瞬時に予測する。


 兵士は悲痛に苦しんでいるような表情を浮かべ、両目尻からは止めどなく涙が溢れている。

 悲鳴とも嗚咽とも判別できない叫声きょうせいを絶え間なく上げ続け、地面をのっそりと這いずり回っていた。


 蒼凪がその様子を見ていると、不意に思い出す――その顔になんとなく見覚えがある、と。

 完全に思い出すのに時間はほとんど必要なかった。


 その身悶えする兵士――彼女は、荷台に乗って移動している最中隣にいた茶髪の少女だ。


 小さな十字架のネックレスを胸元に抱いてただひたすら祈りの言葉を小声で唱え続けていたその様子はある意味特徴的だったため、蒼凪も割と記憶に残っている。

 

 時折見え隠れする片腕のワッペンも、彼女が蒼凪と同じ部隊に所属しているという証。

 戦場のど真ん中で耳をつんざめくような泣き声を上げながら苦しむ兵士は、蒼凪と同じ『新兵女隊チーム・シンデレラ』に所属する兵士だった。


 彼女の倒れている箇所は遮蔽物が少なく、追撃を受ければ恐らくひとたまりもないだろう。

 

 おまけに彼女は悶えるばかりで身を隠そうとしていない。

 これでは瞬く間に蜂の巣にされ絶命するのがオチだ。

 

 蒼凪は――深く考えるよりも身体が先に動いた。

 そんな彼女を、蒼凪は看過する事ができなかった。


 進行方向と彼女が向かっていただろう方向を何度か一瞥してある程度状況を確認すると、一拍おいてから決心して小銃を抱え直し、瓦礫の陰から彼女のいる方へ飛び出した。


 身を低くし彼女へと駆け寄る最中さなかも進行方向や周囲に注意を払い、極力身体を瓦礫から露出させないよう気を付けつつ急いで近寄った。


 そして一端少女の近くにある小さな瓦礫へ身を隠し、もう一度タイミングを見計らって――少女の傍へと走り寄った。


 この状況下でこんな事をするのは馬鹿げているだろう。

 とばっちりを喰らったり、別の兵士を救助に来させるための罠だという可能性だってある。


 余計な手出しをしなくとも、衛生兵メディックを探して救護を頼む事だってできなくはない。


 でも――少なくともこの瞬間の蒼凪は、自分の直感に従った。

 常識と規則を遵守じゅんしゅするのは当然であり、それは揺るぎないものとして理解するべきだろう。


 しかしこの泣き叫びながら倒れている少女は、まだ命を失ってはいない。

 蒼凪にとってはそれだけで十分だった。


 ついさっきの悲劇をまた繰り返したくない。、

 もうそういうのは見たくない。


 その意味合いも兼ねて、彼女はこんな行動を起こしたのだろう。

 蒼凪は銃弾が飛んできただろう方向へ注意を払いながらも、小銃を肩に掛けてずり落ちないようスリングベルトを適当に引き締める。


 その流れで身悶えする少女を力任せな手付きで仰向けに転がし、両手で彼女の服の襟を強く掴んで全身に力を込め、自分の後方へと引きずり始めた。



「痛いよぉ! 誰か助けてぇ――死にたくないぃ!」



 引きずっている間も悶えて暴れる彼女は、精神を半分崩壊させているかのように狂っている。 

 蒼凪もそのせいで襟元を掴む手にうまく力が入らない。


 装備の重量もあってか、普通に引きずるより何倍も苦労しながら少しずつ移動させていく。



「くっ――!」



 案の定、自身の左から何発もの銃弾が飛んできていた。

 敵からすれば、今の彼女は移動力も乏しいため格好の的だろう。


 視認されたら狙われないはずも無い。


 蒼凪も近くの地面や瓦礫などに着弾するたびに身をすくめ、顔のすぐ横を銃弾が掠めると恐怖で縮み上がりそうになる。

 でも襟元を掴む手だけは、決して離さないようにしていた。


 たった数メートル移動させるだけで十分のはずなのに、まるで数キロに渡って引きずっているよう感覚に苛まれる。

 疲れるし、辛いし、何より怖い。


 危ない橋を渡るどころか、渡っているのは1本の細い糸なのではないかと思えてしまうほどこれは危険な行為だ。

 だが諦めず、蒼凪は少女を比較的安全な瓦礫の傍まで引きずろうと努力する。



「嫌だ嫌だ嫌だぁ! 怖い死にたくない助けて――助けてママァ!」



 助けたいと願う蒼凪とは裏腹に、少女は依然として狂いっぱなしだ。

 錯乱状態と表現するのが適切だろう。


 怪我の具合は蒼凪が見ても割と軽度だとわかるもので、すぐに命を脅かすほどのものではないだろう。

 でも少女にとっては――それが引き金となった。


 似た感覚を前になんとか踏み留まれてまともになりつつある蒼凪とは違い、少女は負けてしまったのだ。

 恐怖という怪物に、身体をむさぼられている。


 こういうのは、なんて言ったっけな。

 そんな事を思いながら、蒼凪は後退を続けた。



「だ、大丈夫――貴方は死なない! その程度ならすぐに良くなるから!」


「痛いよぉ! もう嫌だぁ――もうダメなんだぁ!」



 なだめようにも少女は聞く耳を持たず、駄々をこねるように所持している小銃を振り回して暴れる。

 蒼凪はその赤子同然になっている少女を引いていき――ようやく割と安全な瓦礫の傍に到着した。


 背丈の倍近くある瓦礫が袋小路のような形を形成しており、それが遮蔽物となって銃弾程度なら防いでくれるだろうと彼女は考えた。

 さすがに砲弾となれば両者とも無事では済まないとも思えるが、今じゃそんなのは野暮に近い。


 とにかく少女を落ち着かせ、衛生兵を呼ぼうと蒼凪は両手を離す。

 疲労の溜まった身体に鞭を打って少女の横でしゃがみ、息を整えながら口を開いた。



「落ち着いて、ね? 貴方は大丈夫、死なないから! もうすぐ助かるから!」


「嫌嫌嫌ぁ! もうおしまいなの、もう助からない、もう死んじゃうの!」


「そんな事無い、まだ大丈夫!」



 自分にも言い聞かせたいくらいの言葉を投げかけながら立ち上がる。

 近くに衛生兵がいないかと、周囲を見回し始めた。


 この戦場は広い。

 この中から特定の兵士を探すのは容易ではないけれど、近くにいればすぐに治療を頼める。


 そう、その小さな姿が視界に入れば、駆けよって頼む事だってできるかもしれない。

 戦場で動く小さな姿を見落さなければ、彼女は助かる。


 蒼凪はその小さな動きを、見落さないよう注意していた。



「もうダメ――助からない。でもあいつらに殺されるのは――」



 助けたいと願う蒼凪の傍で――少女は持っている小銃に視線を向けた。

 恐怖は、人を歪に動かした。

 

 小銃を念の為リロードし、本来使用する時の向きとは――銃口を自らの下顎にゆっくりと突き付けて、膨大な走馬灯を巡らせる。


 巡るのは過去の様々な記憶。

 そして今感じている恐怖から脱却したいという逃避の感情。


 ただそれだけだ。

 蒼凪は少女が行うその小さな動作を――見ていなかった。



「とにかく衛生兵を探してくるから貴方は――」



 1発だけ、鮮明な銃声が響き。

 蒼凪の頬に、正体不明の水滴が僅かに付着した。

 

 この空間には何十発という銃声や爆発音が響いているが、その1発だけは蒼凪の身体の隅々にまで嫌というほど重く響いた。


 重く響いたのには訳がある。

 それは勿論――考えたくもないものだ。


 だってそんなのはもう嫌だとしか思わないもので。

 想像すらもしたくないもので。


 視線を少女に向けたいと思わなくなるもので。

 起きてしまうかもしれないという予想すら立てたくない惨劇。


 しかし蒼凪は、周囲を見るため巡らせていた視線を。

 恐る恐る、そしてゆっくりと――少女に向けてしまった。

 


「――――っ」



 絶句し、思考が止まってしまった。

 少女は――自ら命を絶っていた。

 

 自害のため発射した弾丸は下顎から頭頂部にかけて貫通し、彼女の頭の周囲には赤黒い小さな池がみるみる形成されていく。


 頭頂部の銃創付近には肉片が散らばり、銃弾の薬莢が1つだけ転がっていた。


 冷たくなった少女の瞳には、既に光が無く。

 微動だにしない表情は、恐怖と逃避が混在しているかのように酷く歪み。


 青白くなっていく顔は、蒼凪にとって些か恐怖を感じてしまうほど恐ろしいものだった。



「どう……して……」


 

 ショックのあまり左右によろけて、脇にそびえ立つ壁のような瓦礫にもたれ掛かる。

 命の灯が消えていく少女から視線を外す事など、今の蒼凪には決してできなかった。


 彼女が必死に絞り出した心の声も、爆音や銃声に比べれば霞んでしまうほど小さなものだ。

当然そんなのは戦場で無限に湧き続ける喧騒のおかげで、瞬く間に掻き消されてしまった。


 思考が追い付いていない蒼凪には――少女を理解できなかった。

 

 どうして自殺してしまったのか。

 どうして生きたいはずだった人間が自ら死を選んだのか。

 どうして一時いっときの恐怖に耐えられなかったのか。


 無論蒼凪だって少女がどういった状態だったのか知らないはずがない。

 彼女は恐らく、極度のストレスと外傷による『Post Traumatic Stress Disorder(PTSD)』。


 『心的外傷後ストレス障害』。

 在学中の授業で学んだものだ。


 何度も復習した記憶がある彼女にとって、それがどういうものなのかは重々理解している。


 でも、それはあくまで知識としてのみだ。

 

 目の前で発症し、酷く錯乱し、自我を犯される光景なんて実際に見た事も聞いた事も無い。

 それがどれだけ異常なもので、どれだけ醜いもので、どれだけ惨劇をていするものなのかなんて――蒼凪は知らない。


 それに少女だって、兵士になるための狭き門をいくつもくぐり抜け、蒼凪と同様厳しい訓練課程を終えた1人の兵士であるはずだ。


 潜在的な問題があればそもそも入学試験の時に弾かれるはずであり、戦場でこんなにももろく崩れてしまう事だってあるはずがないだろう。


 しかし――現実は違った。

 少女は――壊れてしまった。



「……やらなくちゃ、やられる――」


 

 蒼凪はまた震える両手を強引に酷使し、覚束おぼつかない手付きで小銃を握り直した。


 揺れる照準と視界は歩き始めた歩調を鈍らせ、彼女の意識を蝕み始める。

 屍にはもう、視線を向けなかった。


 細かい思考を放棄して、目前にのみ注意を払う。


 遠くに敵を見かければ、そちらに対して小銃を構え粗雑な射撃を行い。

 近くで味方が奮戦している味方を見かければ、敵対している相手に対して自分も攻撃をする。


 蒼凪はまるで思考を持たない機械のように、それをひたすら繰り返した。

 

 敵を目視するとそちらに向けて数発撃って移動。

 また敵を発見すると数発撃って移動。

 熾烈な攻撃を受ければ身を隠し、放火が収まった頃を見計らってまた攻撃をする。


 敵兵に攻撃を行って移動し、また同様に攻撃をして適当に移動する。 

 兵士としてはある意味理想的な行動パターンだが――今の彼女は少し違った。


 小銃を構える動きにキレが無いのは勿論、負傷兵も同然のような鈍足であるため、彼女は周りの味方に次々と追い越されていく。


 蒼凪を見る国連側の兵士は、みな一律の感想を抱いていた。


 前線の片隅で小銃片手に敵地を伺う者も。

 瓦礫の陰で衛生兵めでぃっくに応急処置を受けている者も。

 道に横たわり生と死の狭間を歩く者も。


 彼女を一瞥したりする味方の兵士の視線には、果敢に戦う兵士に対して送る感心の念が含まれていない。


 ただただ言葉が出て来ない。

 異質なものとしてしか見る事ができない。


 周囲の兵士は、蒼凪にそういう感情を抱いていた。



「はぁ――はぁ――」



 戦闘を始めてから、もう何発撃ったのだろうか。

 この状態は一体どれほど長く続いているのだろうか。


 足が重い。

 手の感覚が鈍い。


 身体が痛い。

 思考が回らない。


 彼女の心身は疲弊し、意識がぼんやりと薄れ始めていた。

 たちまち起きた2度の悲劇を忘れるため起こしたなかばやけくその進行には、さすがに無理があったのだ。


 軋む身体は悲鳴を上げ始めており、時折弾を再装填さいそうてんする手付きもたどたどしい。

 蒼凪はもう――限界だった。



「つぎ――は……きゃっ」



 踏みつけて上を通るなりまたぐなりして避けられる程の小さな瓦礫に、彼女は躓いて前のめりに体勢を崩してしまった。

 幸いな事か、かなり遅めのペースで走っていたためそれほど盛大には転ばなかった。


 慌ててうつ伏せに近い状態から起き上がろうと四肢に力を込める。 

 が――うまく立ち上がれない。


 外傷が酷いとか、骨折をしたとかではない。 

 手足をはじめ身体全体に十分な力が入らないのだ。


 両手両膝を地面に付けて上半身や下半身を何度も浮かせるが、変に空回りして砂利や土を巻き上げながら滑ってしまう。


 蒼凪の頭には「どうして?」という感情がこれでもかというほどたくさん湧いた。

 だって、かすり傷程度しか目立った外傷は無いのに立てないのだ。


 どう頑張っても四つん這いが限界であり、2足歩行など夢のまた夢の状態で。

 唐突に置き始めたその異常をどうにかしようと必至に足掻いていた。 


 何かにすがれば立てるかもしれないと視線を上げるものの、視界に入るのは瓦礫が支配する荒廃した街と自分を追い越していく味方の兵士の姿のみ。


 さっきと変わらないその光景は、戦場で無様に倒れている彼女の中にある焦燥を酷く掻き立てていた。



「なんで、力が……」



 とりあえず敵の射線上に出ているのは悪いと考え、近くで乱雑に積み上げられている土嚢どのうの陰に身を隠す。

 そして土嚢をたより、上半身だけをどうにか起こす。


 しかし依然として下半身はうまく機能せず、立ち上がろうにも地に足を着ける事ができずにいた。

 ――そんな時だ。



「ユキッ!!」



 聞きなれた大声が、頭の中で何度も反響した。

 蒼凪は声が聞こえた右後方へと顔を向けると、そこには見知った顔があった。


 目を見開いて険しい表情を浮かべながら蒼凪を注視し、肩で息をしながら彼女へ一目散に駆け寄る1人の兵士。

 言葉を交わしたのが遠い過去の事のように思えてしまうほど、蒼凪にとっては久しぶりに見るその姿。


 時折立ち止まって敵方に対し身構え、数発射撃を行っては蒼凪に近寄る兵士――フィル曹長はうつ伏せになっている蒼凪の傍へと駆け寄ると、蒼凪から小銃を拝借して2人分の小銃を右の肩に掛け、彼女に左の肩を貸し声を張る。



「しっかりなさい! まだ戦闘は終わってないわよ!」



 フィル曹長は蒼凪をどうにか中腰ちゅうごしになるまで立ち上がらせ、後方数メートル先でほとんど廃墟と化している2階建ての民家を見つけると、断面図のような状態の一角から蒼凪を建物内へと引きずり込む。

 

 多少息を切らせながらも無数の銃創が残る煉瓦製の壁のすぐ傍まで彼女を連れていき、壁に背を向けて座らせた後、それに寄りかかれるよう優しく介抱した。


 やっとの事でその身体を運び終えるとフィル曹長は周囲を軽く見回し、それなりの安全性がある事を確認してから蒼凪の近くで片膝を突き、彼女の小銃をすぐそばに置いて容体を窺う。



「大丈夫!? どこか負傷して――ちょっと。この顔の血、どこか撃たれたの!?」



 彼女の顔に付着し未だ拭われていなかった血を片手で何度もこすって落とす。

 血の滴は顎の方にまで伝っており、その跡は乾燥していて大部分を消すのには少々時間を要した。



「フィル曹長――すみません、大丈夫です。ちょっと足が滑っちゃって……」



 しっかりと声量はあるが、どこか抜けているようにも聞こえる情けない声音で蒼凪は言った。



「傷は? 外傷は無いの? ならどうして――」


「この血は……私のじゃないです。他の人の――仲間の子のやつで……」


「……そう。……」



 その一言だけを発したフィル曹長の表情には、一瞬だけ悲しみのような影が走る。

 言葉を紡ごうと再度口を開きかけるが、すぐに口を閉じて喉まで出掛っていただろう他の言葉を呑みこんだような様子を見せると、静かに俯いてしまった。


 短い空白を挟んでから彼女は顔を上げたが、そこにはいつもの凛々しい顔立ちが戻っていた。



「少し休みなさい。さっきダレル中佐からの伝令を受けたわ、もうすぐドイツの支援部隊がこちらに到着するそうよ。そうすれば私達の部隊は一端後方に下がれるから」


「は、はい……」


 

 息切れを起こしながらも、蒼凪は言葉に応じる。

 上下に揺れる肩に片手を置いてから、フィル曹長は蒼凪の片頬にてのひらを触れさせ彼女の頬を優しく撫でる。



「ユキは良く頑張ったわ――戦果スコアなんて気にしないで。初めての戦場で生き残れた事の方が凄いわよ!」


「そう……ですか」


「ええ。私の『初めての時』についてはもう言ったでしょ? その時の私は足がすくんでしまい戦果スコアがゼロだったって話。それに比べて貴方は果敢に進んでいたって事でしょう? それだけで十分なの」


「そう言っていただけると、私も嬉しいです……」


「謙遜しないで。もうひと踏ん張りよ」



 微笑んでくるフィル曹長に蒼凪は元気づけられ、体力の回復を実感しつつあった。

 不自然な感覚に陥っていた四肢は快方に向かい、表情も安堵の色を帯び始めていた。


 終わってはいない。

 しかし終わったような達成感が、蒼凪の心の片隅で湧き始めていた。


 数秒撫でた後フィル曹長は蒼凪の頬から手を放し――丁度弾切れになっていたのか自分の小銃に新しい弾を込め始めた。

 蒼凪も、自分の身体を一通り見回す。


 手足はもう体力の限界であまり力が入らない。

 傍らに置かれている小銃の中心辺りを握ろうと手を置くが、さっきと比べて動きが鈍く感じる。


 よく見ると両手には細かい擦り傷が何ヶ所かあり、そのどれもが乾燥して血を止めていた。

 いつの間に付いたのかと自分に問いかけるが――結局わからず早々に思考を放棄したのだった。



「…………」



 これ以上何か来たら、どう対処すれば良いのだろうか?

 杞憂きゆうとまではいかないが、細かく考える事でもないなのかもしれないその考えを頭で巡らせる。


 ゆっくりと瞬きをしてふと視線を外に向けると、廃墟の外には何人なんにんもの味方の兵士が険しい表情を浮かべつつ怒号をあげ右から左へと駆けていく光景が見える。


 時折数人グループの兵士が黒色の重そうな重機関銃と共に歩いていく様子も見られる。


 耳を澄ましてみれば、遠くでは爆発音や着弾音などの戦闘音が未だに轟いている。

 でも――心なしかその数は減っていると感じてしまう。


 戦闘もようやく終局に向かっているのだろうか。

 そんな考えも、蒼凪の心の憶測には芽吹いていた。


 安息の兆しが見え始めたが故に――大きく息を吐いて肩の力を抜く。

 激しい銃撃音と爆発音が廃墟の外で数度響いたのは、その直後だった。


 抜けていた力は一気に蒼凪の身体を逆流し、溶けかけていた意識を現実へと引き戻す。

 何事かと外を見やると――何故だか味方の兵士が左から右へとじりじり後退している。


 左側にいるに対し数人が応戦するも、横に落ちる局所的な雨のように大量の弾丸が味方にまき散らされ次々と屍が築かれていった。 

 

 すぐ近くに敵がいる。

 直感でそう感じ取った蒼凪はフィル曹長へと視線を向けるが――彼女は既に行動に移っていた。


 ひび割れて所々硝子が欠けている窓から屋外を確認した後、入ってきた一角の陰から顔のごく一部をゆっくり覗かせて外を窺う。


 その先にいたのは――オリーブドラブの大きな鉄塊。

 南連合の主力戦車の1つである『A11 シロサイA型中戦車』。


 大口径の主砲と高い防御力を持ち、土煙を上げ両隣を複数人の歩兵に護られながら進むその光景はまさにシロサイのような重量感と圧迫感を醸し出している。


 鉄の塊であるが故に並大抵の攻撃では撃破する事が難しい。

 しかもそれが間を空けて5輌、こちらへ向かって瓦礫を踏み越えながらゆっくりと近づいてきている。


 随伴の南連兵士も決して寄せ集めというわけではなく、それぞれがフル装備でその5輌を護衛しており、さらにその随伴の後ろには、蒼凪が先程撃破した兵士が使用していた汎用機関銃『GD.40』や発展型の重機関銃『GD.50』などを携えている兵士が数名いる事を遠くからでも確認できる。


 数人の兵士で撃破するには難しい脅威だ。

 フィル曹長は数秒でその結論に達し――険しい表情を蒼凪の方へと向けた。

 


「ユキ、南連の戦車が来る。今の火力では太刀打ちできないから後退するわよ」


「戦車、ですか……?」


「そうよ。市街地に単独で突っ込んでくるならまだしも、随伴の護衛がいる戦車はかなりの脅威よ。不死身でもない限り挑むのは無謀ね――立てるかしら?」


「……なんとか、大丈夫です」



 介抱しようと寄ってきたフィル曹長に対し、蒼凪は手振りを混ぜて言葉を発しそれを断る。

 軋む身体に鞭を打ち、彼女は壁に手を着きながらどうにか立ち上がる。


 始めはぎこちなかった動きも――時間が経過するにしたがって多少はマシになった様子だ。

 自分の小銃を手に取り、彼女はもう一度両手でそれを携えた。



「奴らに見つからないよう反対側から出ましょう。後に続いて」


「は、はい」



 フィル曹長はそう言うと、入り口として利用した断面側とは逆方向に向けて駆け足で進む。

 蒼凪はあまり速く走れないものの、遅れないよう必死でその後ろについていった。


 何故そちらの方向へ進んだかはすぐにわかった。

 廃墟に侵入した当初蒼凪は気付かなかったが、部屋の奥の壁際には上階へと通じる階段がある。


 2人は木製のその階段を軋ませながら駆け上がり、2階へと足を踏み入れた。

 2階も1階と同様に部屋の3分の1ほどが消し飛んでおり、薄汚く物が所々に散乱している。


 廃墟となる前は寝室だったのだろうか、部屋の片隅には布が破れ中身がむき出しになっている古いベッドがあった。

 

 そのまま彼女達は部屋の右側にあるドアへと近寄り、錆びているドアノブを回して前後に押したり引いたりするが――どこかが壊れているのか、ドアはびくとも動かない。



「ちょっと下がって」



 小銃の中心辺りを持ちながらため息交じりにそう言われ、蒼凪はそれに従って数歩後ろに下がる。

 フィル曹長も同様に数歩後進するが――すぐに前方へ駆け出した。


 助走をつけている、と表現するのが適切だろう。

 彼女はその勢いのまま片足を突き出し――簡素な掛け声を交えて豪快にドアを蹴破ったのだ。


 ドアは見事に音を立てながら奥へと倒れ、道が開かれる。

 この音は確かに大きいものだが、敵の耳に入る前に銃撃音や砲弾の音で掻き消されるだろう。

 

 ドアの先にあるのは、古びた小さなバルコニー。

 と言ってもその場所の手すりはほとんど意味を成していないほど無残な有り様だった。


 フィル曹長は躊躇いもなくその傍へと足を運び――下を覗き込む。

 そして確信を持ったのか蒼凪を一瞥し、



「こっちよ」


 

 そう言って――彼女は飛び降りた。

 それほど高さは無いものの、いきなりの事だったので蒼凪は急いで駆け寄った。


 不安になりさっきと同様に下の方を窺うが――躊躇せず飛び降りた理由はすぐにわかった。

 彼女が飛び降りた先には廃車になっているだろう中破した水色のダンプカーが駐車してあったのだ。


 フィル曹長はその荷台に飛び降り、無事着地している様子だった。

 蒼凪は内心安堵し、彼女に続いてそこへ降りる。


 実質1メートルほど降りるだけなので、特別気を付ける必要はあまり無かったのだった。



「よいっ――しょ!」



 蒼凪はその一声と共にバルコニーから荷台へ、荷台から地面へと降りた。

 身体的負担が少ないのがなんとなく幸いである。


 多少息を切らせていると、フィル曹長は周囲を警戒しながら口を開いた。



「奴らは道沿いに進軍し続けるはずよ。私達はできるだけ建物から建物へと移りながら退きましょう。護衛は戦車からあまり離れられないでしょうから……」


「はい、わかりました」


「……出撃前の状況説明ブリーフィングでは、『戦車の類は確認されていない』と聞いたのに、すっかり騙されたわね。これじゃどっちが優勢なのかよくわからなくなるわ」


「敵が戦力を集中させてきた、という事なのでは?」


「いいえ、それなら航空支援も交えて大規模な支援があるはずよ――恐らくあれは臨時投入された戦力でしょうね。だとしても私達ではどうしようも無いわ。まずは後方に下がって――」



 その時、唐突にすぐ近くで大きな爆発音が轟いた。

 不意を突かれた形であったため、2人は身体をビクつかせ音のした方向へと顔を向ける――その音の正体は、蒼凪の10メートルほど後方にある別の家の外壁が破壊された音だと瞬時に理解する。


 そして理解をした瞬間――それは崩壊させた壁を踏み越える形で壁の向こう側からゆっくりと半身を露わにした。

 フィル曹長が先程視認した『A11 シロサイA型中戦車』。


 その姿を見た瞬間、2人の心拍数は急激に跳ね上がる。

 言葉にならない恐れを直感で感じ取り、手足が強張る。

 

 突如として発生したこの状況はつまり、先程目視した2輌の内の片方がこちらに進撃してきたという事を意味していた。



「ユキ――走って!!」



 やんわりと後退しながら、フィル曹長はありったけの大声でそう叫ぶ。

 蒼凪は言われる前に察していたのか、すぐさま身を翻し全速力で反対方向へと駆けだした。


 フィル曹長は小銃を『シロサイ』に向け、それがこじ開けた道から出てきた南連の兵士2人を瞬く間に狙撃して無力化させると、構えを解いて蒼凪の後ろに続いた。


 隠密性など関係ない。


 周りに複数の味方がいるならまだしも、目前に立ち向かえない脅威が現れた以上彼女達の勝ち目は限りなく無いに等しい。

 だから――逃げるのだ。



「真っ直ぐに走らないで! 廃墟を利用して射線を遮るのよ!」



 蒼凪に返事をする余裕は無かったが、頭で理解し身体に反映させる。

 大小様々な瓦礫と廃墟が地形と景観を構築しているこの場所は、言わば高低差のある巨大な広場のようなものだ。


 例え強力な攻撃力を誇る戦車と言えども、障害物が多数あるこの一帯では満足に動く事も相手を仕留める事も一苦労だろう。

 だからこそ随伴の歩兵が重要な立ち位置を意識しなければならない。 

 


「はぁ――はぁ――」


 

 蒼凪達の後方では、彼女達に向けて撃たれた銃弾や砲弾が至る所に着弾して、廃墟を瓦礫の山に変えたり瓦礫を吹き飛ばしたりといった具合に、自分達が突き進む道を更地に変えながら進撃を続けていた。


 奴らは彼女達を第一の殲滅目標としているのだろうか、怒号と共に小銃や機関銃をしつこいくらいに連射し、戦車と離れすぎないような編成形態を維持している。


 蒼凪達はそんな追っ手の全てを視認する事なく、瓦礫を乗り越えて適当な廃墟へと侵入し、そこから出てまた別の廃墟へ入る。


 何度かそれを繰り返していると――フィル曹長がとある廃墟の中で突然後進し、飛び込むようにして壁に背を付け身を潜める。


 蒼凪も彼女の近くへと寄ると、転がり込むようにして身を隠した。



「流石に、あれには驚くわね……」


「そう――ですね。はぁ、はぁ――」



 全速力で走ったために身体が悲鳴を上げたのか、肩で息をする2人。

 蒼凪もなんとか声を絞り出しその言葉に頷く。


 フィル曹長はいつになく真剣な表情を浮かべながらそう言うと――自分の小銃の弾倉を外し、残弾を確認し始めた。

 


「ユキ、残弾はどれくらいあるの?」



 蒼凪も覚束ない手付きで自分の小銃の弾倉を外し、確認してから返事をする。



「ほとんど使ってしまったため、予備も含め残り僅かです」


「ふぅ、このままではジリ貧ね。けど、いつまでも尻尾巻いて逃げ続けるわけにはいかないわ。せめて歩兵だけでも仕留めないと」


「でも、どうやって――」

 


 フィル曹長は壁から身体を離して四つん這いのような状態になり、壁が途切れている部分まで移動して恐る恐る外の様子を窺う。

 彼女の視界には――小銃片手に駆け足で瓦礫を乗り越え、こちらへ迫り来る南連の男性兵士の姿が数人映った。

 数秒その光景を見続けると、彼女はそそくさと元の位置に戻ってまた壁に背を付ける。



一先ひとまずこちらに来ている奴らをやるわ――私が囮として北の方へ走っていくから、貴方は私が出ていって20秒経ってから、私に付いてきている奴を撃ちなさい。私も囮をやりながら撃つから安心して」


「……その後はどうします?」


「確か北東の方に使われていない大きな教会があったはずよ。そこで一旦落ち合いましょう。もし弾を撃ち尽くしてしまった場合は少し後退して、武器を調達してから教会まで来て頂戴。いずれにしてもそこで合流するわ」


「はい。わかりました」


 

 残りの弾薬に一抹の不安を抱えながらも、蒼凪は覚悟の眼差しをフィル曹長に向ける。

 そんな彼女の胸中を察したのか、フィル曹長は蒼凪の頭に片手を置いて言葉を紡ぐ。



 「フィル――曹長?」



 きょとんとする蒼凪。

 フィル曹長は余計に言葉を飾らず、一言だけこう言う。



「もう一仕事、するわよ」


「……はいっ!」



 不安を拭い去るかのような元気のある言葉を蒼凪は返して、小銃を胸に抱える。

 先程まで表情にあった陰りは既に無くなっており、今ではすっかり明るさを取り戻していたのだった。



「それじゃ――いくわよっ!」



 一呼吸置いて、フィル曹長は廃墟の北側に開いている大穴から飛び出した。

 西側を一瞥しつつ身を屈めて走り、廃墟から廃墟へ、瓦礫から瓦礫へと身を運ぶ。


 そして時折強引に静止しては瓦礫の陰から敵に向けて発砲し、また同じように駆け始める。

 敵も彼女の存在に気づいたらしく、廃墟から出て数秒後には幾多の銃弾が彼女の周囲に着弾し始めていた。



「14、15、16――」



 蒼凪は徐々に遠ざかるフィル曹長の背中をある程度見送ると、頭でカウントしていた数を小声で口にして心を落ち着ける。

 やがて壁から身を起こして片膝をつき、小銃を両手で握り直し感覚を今一度研ぎ澄ませ、フィル曹長の向かった方向へ銃を構える。

 もう少し頑張るんだと自分で自分に言い聞かせ、身体と精神を奮い立たせた。



「19、20!」


 

 フィル曹長が提案した囮作戦はうまく行ったと、彼女は実感した。

 蒼凪が小銃で狙っている先には、フィル曹長が言及した通り『数人の南連の兵士が彼女の通った道を進みながら追撃を続けている』状況が作り出されていたからだ。


 これは理想的な作戦経過と言えるだろう。

 先読みの力に内心感服し、蒼凪は最寄りの兵士に照準を合わせて息を止め――攻撃を開始した。


 

「……っ!」



 前方にいる3人の内、一番後方の兵士目掛け発砲する。

 数発分の銃声が蒼凪のいる廃墟を中心に響き渡り――初弾は外れたものの、最後に放った弾丸は狙いを定めていた南連兵士の背中の中央部分に命中した。


 被弾した兵士は躓くようにして崩れ落ち、ものの数秒で活動を停止する。

 すると――蒼凪の狙撃に気づいたのか、被弾した兵士の前を走っていた2人の兵士はすぐさま踵を返し、廃墟の陰から自分達を狙う蒼凪の存在を認識した。


 蒼凪はすぐさま照準を横にずらして手前側の兵士に狙いをつける。

 が、考えている事は向こうも同じだった。


 南連の兵士達は怒号を発しながら蒼凪に向けて銃撃を浴びせる。

 建物内部の陰にいて被弾面積もある程度限られてはいるものの、自分の身体の近くを突き抜ける2人分の銃撃には蒼凪もひるんでしまい、彼女が発射した弾も相手に当たらない。


 やがて双方の距離は徐々に縮まっていき、互いの顔をそれなりに識別できるくらいになるまで接近する。

 劣勢に立たされる。

 残弾もあと数発で尽きる。 


 そう予測し後退を決意した蒼凪は、最寄りの瓦礫に身を隠した南連兵士に今一度牽制射撃を行いつつじりじりと後方へ数歩下がり――相手が発砲を再開する前に身を翻して、急ぎ足で廃墟を出た。


 後ろは時折一瞥する程度にとどめて執拗に注意せず、小銃を片手で持ちながら必死に駆ける。

 さっきと同じように街中を駆け抜ける要領で突き進む。


 また手足に変な痛みが出てきた、

 忘れかけていた疲労が再燃してきたのか、彼女の感覚を鈍らせる。



「きゃっ!」


 

 そんな時だ。

 走り続ける彼女の側頭部を、敵が放っただろう弾丸が勢い良く掠めた。


 唐突な事に小さな悲鳴を上げ、一時的に走る速度を緩めてしまいよろつくようにして体勢を大きく崩す。

 


「転んじゃ――だめっ!」



 蒼凪は強引に身体を捻り、転倒しまいとありったけの力を全身に込めた。

 そして傾きかけていた身体を近くの瓦礫の壁に叩き付け、転ぶ寸前の所でどうにか止めた。


 体の片側が酷く痛む。

 目立つ傷も無いし打撲の跡だって無いはずなのに、嫌な痛みがまた走る。

 

 なんなのだろうか。

 その問いが彼女の頭で鈍く反響し続ける。


 そして――顔を後方へ向け状況を確認する。

 先程までこちらを追いかけていた南連の兵士はどうやら蒼凪を見失ってしまったようであり、かなりの後方を遅い足取りで歩きつつ周囲を見渡し警戒している。


 蒼凪からは奴らを目視できるが、向こうにとっては聳え立つ瓦礫などのせいで彼女のいる位置がほとんど死角になっているのだろう。

 しばらく警戒をした後――奴らは味方の戦車がいる後方へと撤退していった。



「……」



 逃げ延びたからといってまだ油断できない。

 蒼凪は肩で息をしながら急いで小銃の残弾を確かめると――いかに自分が危険な行いをしたのか痛感していた。

 

 その最後の弾倉にあったのは、たったの4発。

 少し前の戦闘でほとんど撃ち尽くしたため予備は無い。

 

 もしこれが尽きた状態で敵とまともに交戦したらと思うとぞっとする。


 蒼凪は弾倉を元に戻して小銃をリロードし、顔を上げて前方を見る。

 大小様々な瓦礫が所々に点在しているが、その合間を縫うように進んで広い道に出れば前進できそうだ。


 周りに味方は――いない。

 動きの感じられる情報は、遠くで響いている疎らな銃声と砲弾の着弾音くらいだ。


 先程の戦車の報告を受けて戦線を一時的に後退させたのか、それとも兵力が他の所に集中しているのか。


 実際の様子はわからないが、適当にそう考えて思考をやめる。

 ふと遥か遠くに視線を移すと――先程と同様に薄墨色の空に向けて黒煙がいくつか立ち上っていた。



「合流して……。その前に武器を……」



 フィル曹長の言葉を頭で復唱しながら、腰を曲げて周囲の地面に向けて視線を巡らせる。

 今手元にある残弾が尽きた場合は銃と弾を調達して来いと言われたが、4発程度では無いも等しい。


 だからこの行為は、武器になる何かが落ちていれば良いという淡い期待を胸に念の為確認しているに過ぎない。

 所詮小さな願望だ。

 落ちていなくても、集合地点である教会に辿り着くまでに見つければ良い。

 そう考えていたが――視界の左片隅にそれは映る。


「――?」



 見落としかけたがすぐにそちら顔を向け、彼女はそこを注視した。

 板状の瓦礫が複数折り重なっているその場所の下をよく見ると、小さなドーム型の土台のようなものがある。


 これは――石窯だ。

 頂点の部分に穴が開いている小さな石窯が、瓦礫の下敷きになりかけている。


 そして石窯の中をよく見ると、鈍色のような何かが詰め込まれていた。


 蒼凪はいくつか瓦礫を跨いでそちらに寄り、しゃがみ込んで石窯の中に片手を突っ込んだ。

 何度か空振りをしてから指先でそれに触れ、中心部分を鷲掴みにして外に引きずり出す。


 外の光にちゃんと当てると――正体がわかった。

 南連製の自動式拳銃『WAG《ワグ》64』だ。

 

 やや長めの銃身と大きめの弾倉、茶褐色のグリップパネルが特徴的で威力は平均的なものより高い。

 基本的に所持が許されるのは尉官以上であると学校では習った。


 だがわざわざ南連の兵士がこんなものをこんな所に入れておくはずが無い。

 となれば――これはフランスに点在する『南連抵抗軍レジスタンス』が隠し持っていたものだろうか?


 無論こちらに来て日が浅いため直接見た事はまだ無いが、今でも各地で抵抗運動を続けているらしい彼らは国連から武器を仕入れるだけでなく南連からも武器を略奪していると聞いた事がある。


 これはその時に隠されて、そのまま放棄されたものだろうか。


 予想しながら小銃を肩に掛け、拳銃本体を回転させるようにして状態を確認した。

 目立つ傷は無い上に、弾倉を確認すると半分以上まだ弾が残っている。


 杜撰な管理に思えるが、今の蒼凪にはありがたい。

 使い方も一通り勉強しており、何より小銃を2丁抱えるよりは多少楽だと感じたからだ。



「これで……なんとか」


 

 立ち上がって拳銃の砂埃を手で適当に払い、ズボンの腰の辺りに差し込む。

 とりあえずは小銃に変わる武器を手に入れた。


 射程や火力の話をし始めたらまた終わりの無い自問自答を繰り返すだけなのでやめておこう。

 結論付けて、小銃を再び両手に持つ。



「教会のある方は確か――北東だったよね」



 ぐるりと身体をそちらに向けて、また遠くに視線を投げる。

 前方にはさっきと似たような光景がどこまでも広がっている。

  

 だが方角は間違っていないはず。

 蒼凪はそう信じて、



「……っ」


 

 腹を括り、小走りのような足取りで教会を目指し進んでいった。



   ◇       ◇       ◇

  


「はぁ……、はぁ……」



 数十分程度走り続けた所で、お目当ての教会は発見できた。


 一先ひとまずそれを確認すると蒼凪は一時的に足を止め、両膝に手をついて息を整える。

 足元には大小様々な瓦礫が点在しており、お世辞にも足場が良いとは言えない。

 

 そんな野暮な事を思いつつも体力が少しだけ回復したところで顔を上げ、再び前方に視線を戻した。


 過去に降り注いでいたと思われる砲弾の雨のせいで、見渡す限りどこまでも荒涼としている土地の一角。

 教会はその場所で、やや異彩を放つようにして聳え建っている。


 無論景観を壊すという意味ではなく、周りのどの建物よりも高さがあるため必然的に目立つという意味だ。

 あれほどの建物なら、何かの際に落ち合うにはある意味うってつけなのかもしれない。


 少し離れた所からでも確認できる他の特徴は、西欧風の外観と空に向かって伸びている青い屋根の時計台、そしてその上部にある鐘楼くらいだ。


 あの教会も戦禍に巻き込まれる前は町のシンボル的な存在としてこの町に居座り、住民などからはさぞかし愛されたりしていたのだろう。


 蒼凪はしばしその姿をじっと見つめた後――そちらに向けてまた駆け出した。



     ◇       ◇       ◇



 また数分程度走り続け、その教会の正面付近にまで蒼凪は近寄る。

 周囲に敵影が無い事を確認した後脚を止め、彼女は教会を見上げた。


 時計台を含めると、建物の高さは50メートルほどあるだろう。

 それ以上の長さを有すると言っても過言ではない横幅も相まって、大きな教会というよりは巨大な大聖堂と表現する方が適切かもしれないような外観だ。


 左右に幅広く伸びている白色系の外壁の随所には銃弾の跡が生々しく刻まれており、ここでも少し前に激しい戦闘が繰り広げられていたのだと予測できる。


 また、接近して判明した意外な事実がひとつだけある。

 この教会は、時計台と正面部分以外の場所が酷い有り様だという事だ。


 外壁の中央にあり、見るも無残な姿となっている木製の大きな扉の隙間から屋内を伺うと、かつて礼拝堂だったと思われる場所は天井が崩落し、ほとんど全壊に近い状態だった。

 それだけではない。

 

 壁に沿って足早に歩を進めていき、損壊した壁の隙間から教会の裏手を窺うと、植え込みがあったと思われる場所や小さな広場の中央は大小様々な砲弾が着弾したかのように荒れている。


 また、あちこちには使い捨てられたと思われる小銃や日常生活の中で使用する生活用具がかなり汚れた状態で放置されていた。



「…………」



 蒼凪がその光景を見て抱いた感想はただひとつ。

 これが戦闘の跡なのか。


 それだけだった。

 砲弾の雨が降り注いだ後でも時計台が原型を留めているというのが不思議と思えてしまうくらい、その教会は隅から隅まで荒らされていた。



「ユキッ!」



 不意に後方から声が聞こえた。

 遠くで砲撃音が未だに響いているが、その呼びかけは割と鮮明に聞き取る事ができた。


 蒼凪は条件反射の如く半身を向け、そちらに小銃の先を向ける。

 無論その声の主は脅威では無いとすぐにわかり、彼女はやがて構えを解いてその人物に駆け寄る。



「フィル曹長!」


 

 視線の先にいるのは、小銃を両手で携え優しい表情を浮かべているフィル曹長。

 心なしか頬に小さな擦り傷がいくつか増えている気がするが、それ以外の表面上に大きな変化は無かった。



「無事だったのね、良かったわ……その様子だと、作戦はうまくいったようね」


「はい。でも、この拳銃以外にちゃんとした武器を拾えず、結局残弾が少ないままここに来てしまいました。すみません……」



 腰に差してある拳銃に顔を向け、謝罪の念を込めた言葉を蒼凪は紡いだ。



「それは――南連製の物ね。良いわよ、気にしないで。貴方の火力が限られているなら、その分私がカバーするわ。とりあえずこっちへ」


 

 その拳銃を数秒見つめた後、フィル曹長は蒼凪の顔に視線を戻して険しい表情を浮かべ、無残に崩れ落ちている外壁の傍まで蒼凪を引っ張る。

  


「さぁ仕切り直しよと言いたいところだけど、まずは悪い知らせよ。

 さっき後方に撤退する味方に訊いたのだけれど、展開中の全軍は私達の降りた場所辺りまで一時後退して体勢を立て直し、ドイツの支援をもって再び攻撃を仕掛ける決定を下したみたいよ。戦闘力の低下の深刻さを考慮したとか言っていたけど、早い話、長時間の戦闘で戦闘継続自体がしんどくなっているのでしょうね。優勢とは言えど、今押し込まれたらどうするつもりなのかしら?」


「それって――最前線まで進んだ私達は、見捨てられているも同然という事ですか!?」


「大雑把に言えばそうなのでしょうけど、一応撤退のための支援はあちこちで行われているみたい。けど、撤退の原因はそれだけじゃないでしょうね」


「……もしかして、敵戦車の出現でしょうか?」


「ええ。作戦の計画段階では、敵戦車の投入は極々少数だと予想されていたから、対戦車兵器の準備もほとんどされていなかったのね。戦争の長期化でどこも苦しいからって甘く考え過ぎよ」



 立案者とその周りは何を考えているのかしらね、と叱責に近い言葉を小さく漏らすフィル曹長。

 お互いに時折周囲を警戒しつつ、会話を続ける。



「人海戦術の如く兵士の数で押し潰す手段もあるのでしょうけど、現状では得策じゃないわね。強引な押し潰しで更に犠牲を増やしてしまったら、それこそ奴らにとっては反撃のチャンスとなってしまうわ。戦車に酷く固執していたずらに兵士を消耗しちゃ、部隊を支える兵士が不足してしまうもの。それくらい味方の数は減ってきているのよ」


「では、どうすれば……?」


「司令部の考えと同じで支援を待つか、それともこちらに来る戦車と奴らをどうにかするしかないでしょうね。けどそれにはそれ相応の火力か、火力と同等の脅威になりうる何かが必要だわ。使える対戦車兵器でも転がっていれば苦労はしないけれど」


「…………」



 自分達の置かれている状況を再確認し、蒼凪は少し暗い気持ちにさせられる。

 そんな感じで俯く彼女の頭にフィル曹長は片手を置き、言葉を掛ける。



「大丈夫よ。安心できる状況とは言えないけど、もう少しだけ頑張りましょう?」


「はい……」



 しかしなお不安は拭えない。

 目前に迫る脅威に対し、混乱するのは当然と言えるだろう。


 だからこそ蒼凪の顔は一抹の不安を帯びていて――。



「さて、それじゃ私達も司令部の考え通り後方に下がりましょう。今ならまだ見捨てられずに――ユキ?」



 撤退の道を数歩だけ進んだフィル曹長は、蒼凪が自分に付いてきていない事を感じ取り、瞬時に蒼凪の方へと半身を向ける。


 彼女は数メートル離れた場所で、自分が今まで走ってきた方向を見遣みやっていた。



「…………」



 だが――様子が変だ。

 彼女が纏う雰囲気には憤懣ふんまんのようなものが現れていて。

 

 鋭利な眼光と力強く小銃を握りしめる両手は、彼女の内で煮え滾る苛立ちのような感情を表しているようで――。



「やめなさい」



 それがどういったものかを熟知しているフィル曹長は蒼凪に駆け寄り、彼女の手に自身の片手を重ねた。

 蒼凪はすぐに表情を戻して力を抜き、フィル曹長の方へ目を向ける。



「貴方の気持ち、私も少しわかるわ。少し前に話してくれたでしょう? 貴方が欧州こっちに来た理由は、平たく言えば『復讐』。敵を前に強気になるのは大いに結構よ」


  

 これは説教ではない。

 ただ純粋に物事を分析し、結果導き出される最適解の価値についての話だ。



「でも――それだけは駄目よ。ちゃんと復讐を果たしたいなら、今は全体で足並みを揃えて反撃を行うべき。私達は一騎当千の英雄でも、不死の化け物でもないわ」



 目前に迫るその脅威は蒼凪にとって様々な意味で特別。

 脅威を打ち倒し仇討ちを遂げるという事は、彼女が軍人として命を賭すための原動力であり、同時に軍人として存在する理由そのものだ。


 それを目の前にして感情を尖らせずにはいられないのだろう。



「わ、わかっています……すみません……」



 蒼凪の胸中が改まったのを悟ったのか、フィル曹長は一瞬だけ表情を緩める。

 ――そして何かに感づいたかのようにまた表情を固くし、周囲を警戒し始めた。

 


「フィル曹長?」


 

 蒼凪は気付いていない。

 彼女とフィル曹長では経験の差があると言えども、蒼凪は今の状況と数秒前の状況がどう違うのかを感じ取れていない様子だ。


 かなり遠方で爆発音や発砲音が響いているものの、少なくとも彼女達がいるこの場所では、人気ひとけどころか戦闘の兆しとなりうるものがほぼ無い。

 

 乱雑に散らばっている瓦礫と半壊または全壊寸前の廃墟が見渡す限りどこまでも続いていて、彼女達以外に動いているものも存在していなかった。


 だが――不意に現れるものは別だった。



「……何か来るわ。隠れて」


 

 疑念を抱きつつも、蒼凪はフィル曹長と共に数メートル左にある瓦礫の小さな山へと走り寄る。


 そしてその瓦礫の意隙間に身を隠した後、2人は自分達が走ってきた方向に小銃の先を向けた。


 自分達のいた場所を視界に捉えつつ息を殺し、フィル曹長の言葉を脳内で反復させながら蒼凪は熟考する。


 彼女が言っていた何かは、さっき邂逅した敵戦車の事ではないのだろうか?


 フィル曹長は何を感じたのだろうか?


 とても訊けないような張り詰めた空気が両者の間に鎮座しており、何が来るのかという思考だけが何度も脳内を巡り。


 時間だけが――ゆっくりと過ぎていった。



「…………」



 息を殺してしばらく待っていても――何も来ない。


 フィル曹長の思い過ごしだろうか?


 蒼凪の胸中にはそんな思いが募り始める。


 撤退する脚を止めてまで隠れるという事は、それ相応の脅威か何かだろうとは思うものの、それ以上は予想ができない蒼凪。


 心臓の拍動が空間を少しずつ支配し――。

 こめかみから一滴の汗が頬の表面をゆっくりと這っていき――。


 砂利を踏みしめるような音が、どこからか小さく鳴った。



「――!!」


 

 硬直した表情のフィル曹長は、突然身体を後ろに反転させる。

 横目でそれを見ていた蒼凪も、嫌な危機感を瞬時に感じる。


 まさか、後方に回り込まれた?

 彼女は思考と反応を同時に行い――小銃の先を向け、それと対峙した。



「……曹長、ご無事でしたか?」


 

 それらはこちらの顔を視界に入れて正体を理解したのか、中腰の姿勢で向けていた3挺の小銃を引き、安堵の表情を浮かべる。

 瞬間的に湧き出た冷や汗は、その言葉を耳にするとなだらかに引っ込んでいった。


 フィル曹長が本能で感じ取った存在は――戦闘服が泥で汚れているカーク伍長と部隊の仲間3人だ。

 

 その顔ぶれは蒼凪もしっかりと覚えている。

 負傷した味方の撤退を援護するため動いていた別働隊の面々だ。



「伍長――脅かさないでよ、もう……」



 彼女は溜め息交じりにそう言うと、緊迫していた空気を散らすように構えを解き、互いに身を低くして話をし始める。

 

 周りにいる蒼凪達も同様に姿勢を低くしてそれを聞いた。



「す、すみません……、瓦礫で顔の辺りが隠れていたものですから曹長と気づかず。てっきり味方が何かを狙っているのか、死体を利用したブービートラップかと思いまして」


「酷い事言ってくれるわね――私達はまだ死んじゃいないわ、近づいてくる足音が聞こえたからここに身を隠していただけよ、貴方達こそどうしたの? 撤退する味方を支援していたのではなくて?」


「ええ、ついさっきまでは我々もそうしていました。しかし情報に無い敵部隊の登場に対し味方は相当混乱しているようで、『自分で最後だ』と言う奴がいて変に思いましてね。負傷兵の撤退もほとんど終わっている様子でしたから、ピンピンしている奴らに残りの仕事を押し付け、撤退を支援している女兵シンデレラ達と共に、こうして曹長達を捜索しに来たわけですよ」


「貴方ねぇ……まぁ良いわ。今回のは煙草1箱で不問にしてあげる」



 カーク伍長の奔放ぶりに呆れた様子のフィル曹長。

 念のためか周囲を一瞥しながら、膝丈程の近くの瓦礫に彼女は腰を下ろした。



「……ここにいない子達はどうしたの?」



 蒼凪も無意識では薄々感づいていたものの、直視する事を放棄していた現実に、フィル曹長はためらいもなく聞いてしまう。


 戦闘に入る前に部隊から離れた人数と、伍長が連れてきた人数が一致しないのだ。

 蒼凪とフィル曹長は、最悪の結果を覚悟しつつあった。



「安心してください、残りの3人もちゃんと無事なはずですぜ。戦闘で怪我を負っちまったみたいで、撤退する味方と一緒に後ろへ下げました。怪我と言っても命に別状がある子はいないですよ」


「そう……。ちゃんとシンデレラ達をエスコートできたみたいね」



 安堵の感情が内心湧いたのか、フィル曹長の顔には一瞬だけ微笑みが浮かんでいた。



「それより――その口振りから察するに、貴方も既に聞いたのね。敵の増援が来たって事を」


「歩けない味方を負ぶって後退している最中でした。曹長もご存知のようで」


「直接見たのよ、そいつらをね。応戦しようにも限界があったから、ユキと一緒に尻尾巻いて後退してきたのよ。対戦車兵の支援でも受けられればと思ったけど……ん?」



 伍長へと再び視線を向けたフィル曹長は、彼のある一部分を注視しつつ指差した。



「伍長、腰のそれは何?」


「これですかい? さっき話に上げた味方からかっぱらったものですよ」


 

 そう言いつつ、彼は腰に携えている直方体の塊を何度か軽く叩いて見せた。

 

 煉瓦ほどの大きさで、薄茶色の包みと十字に巻き付けられているテープが特徴のそれを、カーク伍長は左右の腰のベルトに2つずつ垂れ下げていた。


 それが何かは蒼凪もよく知っている。

 学校でも何度か見かけたし、それがどういった時に用いるものかも、扱い方も知っている。


 寧ろ兵士として知らない方が可笑しい。

 陳腐な感想を抱いていた蒼凪の頭の中を代弁するかのように、フィル曹長はそれの名前を呟く。



梱包爆薬サッチェルチャージ……」



 持ち運びしやすい量の爆薬を梱包して携帯し、信管を使用して爆発させる梱包爆薬。


 障害物などを破壊したりする時に使用されるものだが、カーク伍長はそれを数個だけ腰に携えていたのだ。


 包みの色と戦闘服の色がほぼ同色なため、蒼凪もフィル曹長もすぐには気付かなかったのだろう。



「カーク伍長、これの中身は?」


「なんと、普及したてのCー4ですぜ。珍しいでしょ? あいつらこんないもんをガンガン使ってやがりましたよ。大義名分を掲げていても未だに旧式の装備を使わされる身としちゃ、羨ましいったらありゃしないですよ……」


「…………」



 フィル曹長は思索に耽るような顔で――数秒間沈黙を挟んだ。


 横目で蒼凪達シンデレラ達を見たかと思いきや、自分が蒼凪と共に退いてきた方向へ顔を向けたりと、何か答えを出そうとしているような素振りを見せる。


 蒼凪達はその姿を傍らで見続けていたが、やがてカーク伍長が小首を傾げて訊ねる。



「曹長? どうかしたんですかい? まさか奴らが……?」


「……いえ、違うわ」


 

 回答は、やけに重めの口調だった。

 何かを考え、何かを導き出し、何かを捻りだしつつある。


 そう感じられるような、ゆっくりとした物言いをするフィル曹長。


 そして瓦礫から腰を上げ、部隊の面々を今一度視認して――口を開いた。



「ねぇ……、私達だけで奴らに一泡吹かせる作戦を思いついたと言ったら、貴方達はどうする?」



 唐突なその言葉に、蒼凪を始め女新兵シンデレラ達は言葉がうまく出なかった。


 それはつまり、もう一度戦うという意味なのか?

 それはつまり、南連の兵士とまた戦火を交えるという事なのか?

 それはつまり、フィル曹長はこれから命令を下すと言う事を表現しているのか?


 憶測が脳内を飛び交い始めるが、カーク伍長だけは様子が異なっていた。



「付き合いますぜ。無論、この子らをエスコートできる保証があるならですが」


 

 蒼凪達に手を差し伸べながらフィル曹長の方へと身体を向けている彼は、フィル曹長を信頼しているのだ。

 何を言ってくるのかわからずじまいの蒼凪達とは異なり、2人の間には確固たる信頼関係が根付いている。


 だから異なる答えを出せるのだ。

 蒼凪はそう思いつつ、2人の言葉に耳を傾けた。



「当たり前よ、じゃなけりゃさっさと尻尾巻いて逃げるわ」


「そうですかい。って事は逆に、それだけ自信のある作戦だと言う事で?」


「勿論勝率は100%じゃない。戦場でそれはありえない。けど――限りなく100%に近づける事はできるもの。それにあんなのが一気にこちらへ来たら、味方も混乱程度じゃすまないわ」



 フィル曹長は、女新兵シンデレラ達へと近寄って言葉を紡ぐ。 



「あとは貴方達次第よ。私に乗っかる? それとも後ろに退く? 退くなら早い方が良いわ、じきここにも奴らが来るだろうし、私の命令で退いた事にするから大丈夫よ」



 言葉に棘は無い。

 むしろ戦場であるこことは相反するほどの優しさを感じるほど柔らかく、そして温もりのある言葉だ。


 そうして、フィル曹長は2つの選択肢を蒼凪達に問う。


 撤退か、それとも応戦か。

 どちらかひとつを選び、ひとつを選ばない。


 どちらもというのは無い。

 どちらかというのがある。


 その問いかけはフィル曹長の温厚な性格を窺える言い方だが――蒼凪達は、当然すぐ返事をしなかった。


 どちらを選ぼうにも、どちらを選んで良いか決められない。


 彼女達には経験が足りない。

 更に決断力が足りない。

 そして判断力が足りない。


 足りないものだらけの彼女達は考えを必死に巡らせるだけで精一杯だ。


 何が良くて何が駄目で、何が大丈夫で何が悪いか。

 ひとつひとうかいつまんでは、また同じ所で考えに耽る。


 考えて、考えて、考えて。

 答えを一番初めに出したのは――蒼凪だった。



「やります」


 

 一歩踏み出して答えた彼女に、迷いや曖昧な意思は感じられない。

 はっきりとした口調でそう答える彼女は、内心に意欲を滾らせているような表情だ。


 フィル曹長に阻まれた無謀な突撃とは違う。

 これは彼女が認める反撃で、そして自分がやるべき事の一環だろう。



「いえ――やらせてください。私には、ここに来た理由がありますから」



 自分は何故ここまで来たのか。

 そんな至極簡単な事まで忘れるほど落ちぶれてはいない。


 己にそう言い聞かせ、奮い立たせる。 

 そんな立ち姿で、蒼凪はフィル曹長に視線を向けていた。



「嬢ちゃん……」



 カーク伍長は呟いた。



「……本音を言うと、ユキには反対されるのを覚悟していたわ」



フィル曹長は僅かに表情を緩ませる。

それは恐らく、自責の念による自分の浅はかさを悔いているからだろう。



「でも、ユキがそう言ってくれて嬉しいわ。ありがとう、ユキ」



 ――そんな2人に呼応する形で。

 残りの女新兵達は困惑した表情を浮かべていたものの次第に強張りは解け、互いの顔を一瞥した後、決意の面持を露わにする。


 自分達も賛成だ。

 何も言わないものの、胸の内に秘めている闘志はフィル曹長へ十分に伝わったようだった。



「みんなもありがとう。貴方達の思いと命、私に預けて頂戴――早速教えるわ、私の考えた作戦シンデレラストーリーを」



 南連の戦車はまだ近くにいない。

 しかし、遠くから聞こえる砲撃の音は、未だに戦場の唄を疎らに響かせていた。



 

 

   ◇       ◇       ◇


 



 砲声は緩やかに収まりつつあるものの、疎らに響く銃撃音は未だにんでいない。

 連合国軍と南連軍の小競り合いは終わりを迎えておらず、両軍の衝突から数時間が経過した今でも、遠方では散発的な戦闘が続いている。


 街ごと廃墟と化したこの場所は、そんな両軍の丁度中間地帯であり、そしてある意味空白地帯でもあると言えるだろう。


 優勢である連合側は十分な戦力を送ろうにも損耗が激しく。 

 劣勢である南連側は連合側の間を突く形で局所的に増援を送り始めている。


 この廃墟の街は現在、そんな両陣営にとっての最前線になっているのだ。

 

 攻めようにも進む兵士が足りない優勢側。

 反撃の機会として小さく動き始める劣勢側。


 情勢はある程度固まりつつあるものの、大きく動く程となるにはまだ時間が足りない。

 だから――ここは今、無人地帯であるも同然だ。


 両軍の兵士が自陣営でもたついている故に、銃弾や砲弾の嵐らしきものは見られない。

 動かない屍と廃墟、立ち上る黒煙と曇天の空。


 それらがこの空間を構築している。


 そして動くものが少ないこの街の中を、蒼凪達は小銃片手に息を荒らげ、駆け足で突き進んでいた。


 蒼凪と共に進むのは、フィル曹長と部隊の仲間1人の計3人。

 

 フィル曹長を先頭に、少しだけ間隔を開けて二等辺三角形のような陣形で進んでいた。



「この辺りが良いわね」



 ものの数十分程度走った所で、フィル曹長は息を切らしながら脚を止めて周囲を警戒する。


 蒼凪達もつられるように駆ける速度を緩め、同じ行動を取り始めた。


 彼女達の周囲にあるのは――先程と同じ瓦礫ばかりだ。


 特別目立つものがあるわけでもなく、倒壊した建物等が織り成す悲惨な風景である。



「それじゃ、手筈通りにお願いね。前段作戦はシンプルにいくわ。私が単独で南連やつらを引っ張ってくるから、貴方達は私が合図したら斉射してなるべく敵を引き付ける。何かイレギュラーな事が起きるか、もう限界と思ったら、後ろの教会まで全速力で撤退。良いわね?」


「は、はいっ!」


「わかりました」


 蒼凪はフィル曹長の言葉に真っ先に反応し、暗色の赤毛をまとめ髪にしている仲間の1人も、蒼凪とタイミングを少しずらして返事をした。


「無理をさせてしまって本当にごめんなさい……でも頼むわね、シンデレラ達。貴方達に魔法使いのご加護を――」



 フィル曹長は2人の方を向いてそれぞれの頭にあるヘルメットへ手を置き、その言葉を口にして微笑みを向ける。


 その優しさに陰りは未だ無い。


 いつまで経っても変わらない温もりに、強張っていた2人は少しだけ気を緩めることができたように表情を崩していた。


「また後で会いましょう」


 フィル曹長はそう告げてすぐに踵を返す。


 そしてまた駆け出し、瓦礫が続いている風景の奥へと瞬く間に進んでいき――数秒後にはもう見えなくなっていた。



「…………」


「…………」



 蒼凪と仲間の間には、沈黙が居座っていた。


 厳密に言えば、時折遠方からは砲声や銃撃音が聞こえているものの、至近距離にいる2人の間にすぐ会話が生まれるという事は無かった。


 一抹の気まずさを覚えた蒼凪は、小銃に視線を落とす。


 土汚れなどが目立つそれを見て気を紛らわし、どうするべきかを模索しかけた所で――。



「き、緊張……、してる?」



 先に口を開いたのは、蒼凪ではなく仲間の方だった。



「えっと――そりゃ、もうずっとだよ」



 はたから見てもわかるほど動揺している蒼凪は、直前の記憶を頭の片隅から引きずり出して言葉を紡ぐ。


 視線は向けず、手元の小銃を執拗に触り続けている。



「ふふっ、私も。手の震え止まらなくてさ……」



 仲間の少女は少し弱々しい口調でそう言いながら、片手を蒼凪の前に差し出した。


 小刻みに震えるその手は、少女の内心を物語っているかのように恐れを表している。


 蒼凪は同情に似た視線を少女に向けて、



「そう……なるよね、やっぱり」

 


 そう言って、お互いに微笑んだ。


 安堵感が身体を支配しているような表情を浮かべる蒼凪を、仲間の少女も優しい笑みを浮かべて見つめる。


 2人の間には、確かに深い関係があるとは言えないのかもしれない。


 しかし今の彼女達の間には、同じ空の下で命を預け合い、同じ目的を成し遂げようとする共通意識がある。


 それだけで、芽生える温かな感情がある。

 互いを信頼するという意識が生まれている。



「よいしょ――と」



 それ故に、と言えば奇妙に聞こえるかもしれない。


 しかし、その一連の会話が彼女達の緊張と恐怖をほぐしたのは事実なようで、半壊した一階建ての家屋の別々の窓に小銃を置くまでの動作には、幾分かの軽快さが垣間見えた。


 蒼凪は北側にある小さな木製の窓に。

 もう1人の少女は西側にある大きめの窓の端に。


 それぞれで仮設の銃座をこしらえ、共に北西に銃口を向けて待機し始めた。



貴女あなたの名前は……、ユキだったっけ?」



 室内は黒く薄汚れた日用雑貨が散乱して酷い有様だが、2人の間を隔てるものはほとんど無い上に距離も離れておらず、言葉を交わすのも容易い。


 そのためか、先程とは違って会話が途絶える事も無かった。



「そうだよ、ユキ=アオナギ。貴女は?」


「ジ、ジュリー……ジュリー・メイヤール・ルシオン。家族や友達はみんな『ジュリー』って呼んでる」

 


 警戒は怠らない。

 しかし、少女達は一瞥しつつ言葉を交わす。



「ジュリーは私の名前、覚えていてくれたんだ。みんなの前でちゃんと自己紹介したの、出発前のミーティングの時だけだったのに」


「う、うん……貴女みたいな日本人、欧州ここじゃ珍しいし……。日本だって、今はとても大変なはずだから……」


「そう……だね」



 それはトラックで運ばれている最中、カーク伍長にも言われた。


 やっぱり、己のワガママをお構いなしに体現している小娘だとみんなに思われているのか。


 蒼凪はそんな感想を押し殺そうとしたためか、返事に不鮮明さを生んでしまう。



「あっ、ご、ごめん! 悪く言うつもりなんて無いの! ただ私は、単に物珍しさで気になっただけというか……本当にごめんなさい」



 垂れがちな両目を僅かに濡らし、慌てふためきながら身振り手振りを混ぜて弁明する少女――ジュリー。

 しまいには、蒼凪に向けて深々と頭を下げた。



「そんなの、気にしなくて良いよ。それくらいは覚悟してきているんだから、それよりちゃんと外見てて」


「あっ、うん……」



 しかし蒼凪は特別責め立てる様子も見せず、柔らかな口調でそう答える。

 ジュリーはそれを聞くなり、ゆっくりと頭を挙げてまた顔を外に向けた。



「私……田舎育ちであまり気を使うなんて事、してこなかったから……。他の人と話す時、なんでも言っちゃうのが癖で……直したくても、なかなか直せなくて……。気を悪くさせちゃう、かも……」



 小銃の表面を指先で小さく撫でるように弄りながら、ジュリーは歯切れの悪い言葉を紡ぐ。

 上げていた顔も、少しずつ俯きがちになっていく。 


 おまけにジュリーが言う言葉は、喋れば喋るほどか細くなり聴き取り辛くなっていく。

 そこからでも、少女の気弱な性格は読み取れた。



「私は――はっきり言ってくれる子の方が良いと思う」


「えっ……?」



 蒼凪の言葉は、嘘の色を帯びていなかった。

 その変わりに込められていたのは、遠い過去の温もりだ。



「私のお母さんが、丁度そんな感じだったんだ。遠慮って言葉を知らないほど気が大きくて、気弱なお父さんをいつも困らせてた。でもお父さんはお母さんの事、絶対に『嫌い』と言わなかったし、お母さんも自分の事を理解してくれるお父さんにいつも感謝していた」



 語られるのは、蒼凪の記憶。

 昔は触れる事ができた、その温かさだ。


 目前に広がる瓦礫の景色の先にある虚空を見つめながら、蒼凪は続ける。



「私もそうだよ――ガサツな言い方をするお母さんと喧嘩する事はあったけど、仲直りしないなんて事は無かった。勿論、誰にでも言い過ぎちゃうのは確かに良くない事かもしれない。けど、それでも――それは『悪』だと決めつけなくても良いと思う」


「……」


「私がおかしいのかもしれないけど……、必要以上に遠慮する人よりは、ちゃんと自分の本心を言ってくれる人の方が、好感は持たれやすいんじゃないかな? そういう意味じゃ、ジュリーの性格はすっごく強みになると思うし」


「……」


「っていうのは、私の自論なんだけど。ジュリーが直したいって言うのなら、私はちゃんと――えっ!?」



 若干恥ずかしいのか、愛想笑いを浮かべながらジュリーの方に顔を向けた蒼凪は――驚いた。

 見ればジュリーは、両目に大粒の涙を浮かべて表情をくしゃくしゃに崩し、蒼凪の方を見ていたからだ。



「ど、どうしたの? 私、ジュリーに何か酷い事言っちゃったの?」


「ち、違うの……そんなふうに言ってくれた人、初めてなの。今まで嫌われた人からは、『礼儀知らずの田舎女』だとか……『性悪』だとか言われてて……・私だってちゃんと直そうとしているのに、聞いてもらえなかった……。そのせいで子供の頃、苛められた事だってあったの。でも、私の事をユキはそんなふうに言ってくれて……それを聞いているだけで、涙が出てきちゃって……」



 片手で乱暴に涙を拭うジュリー。

 対して蒼凪は、少しだけ困った様子だ。



「わ、私は特別な事言ってないよ! 本当にそう思ったから言っただけで。私の方こそ、知らない事ばかりだから気を悪くしちゃうかもしれないって思ってて……だから今だけは泣かないで、ねっ? あっ、外もちゃんと見てて」


「……ご、ごめんなさい」



 涙声を発しつつ鼻を啜り、泣きの表情を少し残しながらジュリーはまた窓の外へと視線を戻す。

 蒼凪はそれを確認した後、自分もまた外へ視線を向けた。



「ユキ……ありがとう。この部隊に入ってから不安だらけだったけど、ユキに慰められるなんて……思ってなかった。私なんかより、遠くから来ているユキのが辛い事多いはずなのに。ごめん……」


「お互い様だよ。私もジュリーと話せて嬉しいし、落ち着ける。今が怖くないと言えば嘘になるけど、もう手は震えてない」



 蒼凪は自身の片手に視線を落とす。

 その言葉通り、先程まであった手の震えは――ほとんど無くなっていた。



「……私も、おんなじだよ」



 ジュリーも同じ行為をする。

 涙で視界はぼやけているだろうが、輪郭からでも震えの停止は確認できたのだろう。


 表情にも、少し余裕が生まれていた。



「ね、ねぇユキ……ユキは、どんな所から来たの? もし良ければ、色々教えてほしい……って思って……」


「私の住んでいた所? うーん……なんにも無い田舎かなぁ。静かな所と言えば聞こえは良いけど、小さな町で観光名所も無かったし、どこにでもある町だったよ。ジュリーの方は?」


「わ、私の所も、田舎だったよ。生まれはルーズって町なんだけど、山や川しかなくて……。この部隊シンデレラに入るためパリに出てきたら――人がたくさんいて、ビックリしちゃった……」


「ビックリって……あはは」


 

 やや乾いた笑顔を見せた蒼凪も、警戒は怠らない。

 互いに顔を見せる事無く、言葉は繋がれていく。



「私も、もしよかったら教えてほしいんだけど――ジュリーはさ、どうしてシンデレラに入ったの? 何か理由があったとか?」


「り、理由……そんな大した理由じゃないけど……」



 ある意味踏み込んだ問いかけに、ジュリーは微笑する表情を変える事無く答えた。



「さっき、生まれはルーズって言ったよね……? フランスの南の方の町なんだけど……、戦争が始まって南連が攻めてきたから、私達家族は親戚がいるデンマークへ移り住むしかなかった。だから……『本当のおうち』にはもう、長い間帰れていないの」


「……」



 蒼凪は、その返答を聞き始めてから瞬時に後悔の念を露わにした。

 ジュリーが悪気なく行った質問を、今度は蒼凪がしてしまったからだ。



「デンマークでの暮らしに不便な事は無かったけど……軍に入った今でも、ちゃんとおうちに帰れなくて寂しいって気持ちはあるかな。家族のみんなも、そう言っていたし……」


「……ごめん。私、ジュリーに嫌な事聞いちゃった」


 

 ジュリーは首を横に数回振る。

 気にしていない、という言葉を行動で表したのだろう。



「良いの。今はこの寂しいって気持ちをバネにできているから……頑張れている気がする。私……生まれつき取り柄も何も無くて、なんにもできずにいたけど……こんな形でだけど、今は、ちゃんとできていると思うから……」


「…………」


「だから、私がシンデレラに入ったのは――『お家に帰りたいから』。それが理由……かな……。例え南連のせいで無くなっちゃっていたとしても……私が知っているあの町は、私の中でずっと残り続けているから……。だから、帰りたい」 



 言い換えれば、献身を取り柄にして平和を手に入れる。

 ジュリーという少女はそれを理由に、『命のやり取りが行われる戦場』へと赴いた。


 流暢に語られるその言葉の中には、強い決意と確固たる信念が健在している。



「ジュリーは強いね」


「わ、私が強いっ!? そ、そんな事ないよ! 私……凄くワガママな理由で軍に入っちゃったし、無神経な物言いで、みんなに迷惑かけているだろうし……」


「ううん、強いよ。自分の為だけじゃなくて、家族のためにも動いているし。ちゃんと考えて、ちゃんと目標があって――けど私、そんなジュリーに対して偉そうに質問しちゃったし……」


「ユキ……」



 互いに表情を曇らせる。

 ジュリーの方は蒼凪を一瞥し続け、やがて顔をそちらに向けて口を開いた。



「じ、じゃあ、これでおあいこ……ってのはどう?」


「おあいこ?」


 

 小銃から手を離して身振りを交えた事により、窓辺にあった小銃は一時的に落ちそうになるが、ジュリーは慌てて銃床を抱え直し小銃を支える。


 蒼凪も、ジュリーに対して顔だけを向けた。



「私がさっき言った事と、ユキが今言っちゃった事で……。だから、ユキも私もお互い様って事で、どう……かな?」


「お互い様って……なにそれ。ふふっ」


「え、えへへ……」



 2人からは、自然と笑みが零れた。

 

 ジュリーなりに気を利かせ、蒼凪に自責の念を負ってもらいたくないがための行動だと思われるが、当の本人にとってはどうやら良い意味で拍子抜けだったらしい。


 小さな笑いが、2人の間を何度も行き交っていた。

 


「わ、私……気を使うとか苦手だから、ユキの方こそ遠慮しないでほしい……かな」


「私だって。ジュリーの心遣いは凄く嬉しいし、なんでも言ってよ」


「ありがとう、ユキ」


「こちらこそ」



 また、笑みが交わされる。

 年端もいかぬ少女が織り成すこの会話が、紛いなりにも戦場で行われていると言われてもなかなか信じられないだろう。


 当たり障りのない会話も同然だが、しかしこれも、一兵士が紡ぎだす生々しい言葉である事に変わりは無い。

 

 望郷、羨望、そして希望。

 それらで色鮮やかに染まるこの空間に、憂いの色はほとんど無い。


あるのは安らぎと、温かな雰囲気と――。



「き、来たよ!」



 ジュリーのその一言で、2人を包んでいた温和な空気は鋭利に引き締まる。

 数十分の間緩んでいた拍動が瞬間的に高まり、身体が強張る。


 その状態でも蒼凪達は小銃を両手で固定したまま、瓦礫の海が広がる窓の外へと視線を巡らせた。


 ――それは、視界の右手から小さく散発的な銃撃音と共に出現する。


 蒼凪達が陣取る廃屋の北西側、数百メートル前方。

 瓦礫の海が丁度途切れ、轍などによって形成されている小さな小道。

 

 その奥の方から、険しい表情を浮かべている1人の女兵士が現れた。

 小銃片手に瓦礫の間を縫うように蛇行しながら走り続け、蒼凪達から見て左手前に向けて突き進んでいる。



「ユ、ユキ……」


「大丈夫。フィル曹長の合図を待って」



 思わず不安の声を漏らすジュリーを宥め、蒼凪達は変わらず小銃の照準をその女兵士――フィル曹長の少し後方に固定し続けた。


 こちらに向かって走って来るのは小粒ほどの人影で判別が難しいと思われるが、蒼凪とジュリーはそれが誰なのかを外見だけですぐに特定できた様子だ。


 目立つ外傷等は見られないが、肩を大きく揺らして時折後方を一瞥している。

 その様子だと、囮作戦は成功しつつあるのだろうか。


 蒼凪は徐々に早まる拍動を感情で抑え付け、フィル総長に対するその疑問を明確に浮かべ熟考する前に――ほどなくして、それらはフィル曹長が現れた場所と同じ箇所から登場する。


 簡素な装備を身に付けている南連の男兵士達だ。

 様々な体格と顔付き、千差万別の一挙手一投足と共に一人、また一人と不規則な間隔を空けて瓦礫の間から姿を現していく。


 そんな彼らが共通して行っている行動はただ1つ――フィル曹長に対する追撃。

 蒼凪達のいる位置からでも視認できるほど、彼らは執拗にフィル曹長を追い回していたのだ。


 1人は小銃を構えながら走り、狙いが十分に定まっていないにも関わらず自分の前を行くフィル曹長に向けて適当に銃撃を浴びせる。


 別の1人は片膝を着いて小銃の先をフィル曹長に向け、散発的に撃ってはまた少し走って片膝を着く。

 中には、拳銃片手に彼女へ怒号を浴びせながら追撃を行う兵士までいる。


 そんなのが瓦礫の間から滲み出るようにして出現し続けていた。



「早く……早く……!」


「…………」



 声を漏らして焦りの感情を見せるジュリーと、固唾かたずを飲んでただ静かに固まっている蒼凪。

 鉛のように重く感じられるほど、2人の体感時間は異様に延びていた。

 

 作戦の内と理解していながらも、目の前で徐々に追いつめられている人をただ止まって見ているのは、彼女達にとってとても多大な負担になっているのだろう。


 感情を露わにしているジュリーと対照的に静止している蒼凪も、時間の経過と共にその表情は少しずつ険しいものになっていく。


 小銃の引き金に掛けている人差し指は、彼女が直接言わない「まだか」という胸の内をさらけ出しているかのように、四六時中前後に小さく震えていた。



「7……、8……」


 

蒼凪は相手兵士の人数を無意識に数えている。

 そんな状態でも、相手方の兵士は瓦礫の間から不規則な間隔を開けて現れ続ける。

 現在の歩兵の総数は8人。


 フィル曹長を追う兵士の列は間延びしていて、その全長は数十メートルに達しかけていた。

 ――そうして、ようやくだ。


 蒼凪達が潜む方向に向けて、フィル曹長が大きくハンドサインを見せた。



「撃ってっ!」


「うん!」



 火蓋は再度切られた。

 溜まりに溜まった感情を吐きだすかのように、蒼凪とジュリーは構えていた小銃の引き金を力の限りを引いて、鉛弾を放ち始めた。


 狙いは当然、フィル曹長の後方に群がる南連の兵士。

 具体的に個人を狙う事をせず、2人は数人の南連兵士に向けて乱射した。


 重苦しい衝撃と発砲音が酷く轟き、多くの弾が南連兵士の周囲の地面に着弾して小さな土煙を上げる。

 発砲の衝撃に蒼凪達が慣れていないのか、それとも疲労によって制御が十分でないのか。

 

 散布界が広くなりすぎており、なかなか弾丸が命中しない。

 しかし突然の銃撃に対し、南連兵士は酷く混乱している様子だ。


 自分の身を守ろうと周囲の瓦礫に身を隠そうとする者、構わずフィル曹長への追撃を続ける者。

 反応にはバラつきがあったものの、大雑把に分けるとその2つのうちのどちらかだった。


 その反応を見せる南連兵士のうち、先頭を走っていた南連の兵士の脇腹にようやく弾丸が一発命中する。



「あ、当たった……!」



 被弾した兵士は脇腹を片手で押さえながらその場に崩れ落ち、悲痛な叫び声を上げる。

 その兵士を視認したジュリーは思わず喜びの声を小さく発し、同時にその姿は蒼凪も確認していた。

 

 だが喜びは束の間だ。



「隠れて、ジュリー!」



 蒼凪達の居場所をざっくりと把握したのか、被弾した味方を庇うようにしてほとんどの南連兵士がこちらに熾烈な銃撃を浴びせてきたのだ。



「きゃあああっ!」



 悲鳴に似た叫びをジュリーは上げつつもすぐさま膝を抱えてその場でしゃがみ、頭を抱えて迫り来る弾丸の雨を逃れていた。


 蒼凪も同様に窓のすぐ下へとしゃがんで身を隠し、南連兵士の攻撃を回避する。

 何十何百という着弾音が蒼凪達の鼓膜を強制的に震わせ、2人の前に死の恐怖をちらつかせていた。


「あっ……」



 蒼凪は時間を無駄にしまいと、焦りの見られる手付きで小銃の弾倉にある残弾を確認していた。

 だが――そこには何も無い。


 残弾が少ないのはきちんと覚えていたはずだが、これほど早く無くなるとはあまり思っていなかったのだろうか。

 無意識に撃ち過ぎていたのかは知らないが、その現実を目の当たりにして蒼凪の身体を再び不快な焦燥感が駆け廻る。


 しかしそれでも、彼女は呑まれそうになる感覚を押し殺す他無かった。



「ジュリー、作戦通りここを出よう! 残弾はあとどれくらいあるっ?」


 

 途絶える事の無い銃声の最中、蒼凪は小銃を肩に掛け、また声を張り上げてそう問いかける。

 問いかけられたジュリーは、半べそをかきながらそれに反応した。



「い、今までほとんど使ってないから、まだたくさん!」 


「なら、もう一度だけ奴らに向けて撃って! そしたら作戦通りにすぐに下がる。い!?」


「無理無理、無理だよぉ! 今顔を出したら死んじゃうって!」


「今ここに留まっていても同じだよ! フィル曹長と一緒に下がるって約束したでしょ? もうすぐ奴らが来ちゃうよ!」


「んん~…………!!」


 

 優柔不断でなかなか応じないジュリーを前に、蒼凪は落ち着かない様子だった。

 南連の兵士は目先の脅威を取り払おうと、フィル曹長だけでなく自分達も殲滅目標に加える可能性が高い。

 

 現に先程の銃撃もそうだ。

 敵を追撃している最中に近くの建物から攻撃があれば、放置したりせず攻撃して無力化し、より安全を確保しようとする。


 蒼凪はそれを見越してなのか、本来の作戦通りに動く事を重視するようジュリーを説得したのだろう。



「私が合図するから、当たらなくても良いから窓の外へ牽制射撃! そしたら一気に逃げる。それで行くよっ!」


「う、ううぅ――!」



 ジュリーもようやく現状を正確に理解したのか、壁を背に座ったまま泣きじゃくる顔を戦闘服の袖で適当に拭い、小銃を身体の正面に持ってきた。



「行くよジュリー!」



 蒼凪は口を動かしながら、少し前に拾った『WAG64』をズボンの隙間から引き抜いて片手に構え、腰を僅かに浮かし。



「3、2、1――」


 

 今一度、命を賭して生死を決めるカウントを重ねて。



「撃って!」



 合図を下した。

 2人は同時に胸より上を南連に対してあらにする。


 目の前に広がるのは、相も変わらず無機質な瓦礫の海。

 その間を縫うようにして接近してくるのは、自分達に銃を構える数人の兵士達。


 蒼凪とジュリーはその兵士達に対し引き金を再度力強く引き、一時的な弾幕を張るようにして何度も銃撃を浴びせ始めた。


 ジュリーは堪えるような泣き声を発しつつ、建物の中から見て左翼に散開する兵士に向けて。

 蒼凪は恐怖を噛み殺すように下唇を噛み締め、右翼で一塊になって身を隠しつつある小さな集団に向けて。


 無論。相手からは何度も何度も反撃を受ける。

 窓枠の周囲には弾痕が少しずつ増えていく。



「左に2、右に3、奥に5――3増えて8……!」



 身体を露わにしたのは単なる的になるためではない。

 その総数と状況を再確認するという意味を、蒼凪は個別に持っていたようだ。


 呟きながら狙いを定め、相手に命中せずとも散発し続ける――。



「あれって……」



 唐突に、蒼凪の表情がより険しいものへと変貌した。

 目の前の瓦礫の間を縫うようにして接近してきているのは、確かに南連の屈強な兵士達。


 しかし蒼凪はその後方――兵士達の後方から巨体の動物のようにのっそりと見え隠れするものの存在を視覚で捉えた様子だった。



「ジュリー、これ以上はもうダメ! 急いで退くよ!」


「も、もう良いの? あんまり早いと、ちゃんとした足止めにはならないんじゃ……?」


「そうだけど、そう言ってる余裕が無くなっちゃったから――急いで退かないと危ないの!」



 数秒程度の間攻撃を行った後、両者は一旦身を隠し、蒼凪は合図を出すようにしてジュリーへ避難を指示した。

 絶え間ない銃撃は廃墟の壁へ着弾し続けているが、それにはもうお構いなしのようだ。



「ま、待ってよユキ!」



 落ち着く間もなく腰を上げ、2人はどたばたという擬音が似合いそうなほど一目散に廃墟の窓から離れる。

 半壊した家屋を滑るようにして駆け降り、足を取られそうな小さな瓦礫を避けて屋外へ出ると、遠くにそびえ立つ協会に向けて、また全力で走り始めた。



「ジュリー、見えた? さっき僅かに見えたあれっ!」


「な、何? 敵の兵士? それなら……」


「違う、戦車! 向こうにもう戦車がきてたの! あれが来なければ、もう少しくらいやれそうだった……。でもあのまま欲張ってたら私達――今頃は戦車の砲弾で木端微塵だったかも……」


「こ、木端微塵……」



 荒い息遣いの合間に出る言葉で、会話は交わされる。

 その状態でも、蒼凪とジュリーは共に戦慄の感情を含んだ声を漏らしていた。


 もしあのまま粘っていたら。

 敵の戦車が射撃姿勢を整え、自分達のいた場所へ砲撃をしてきたら。


 実際に訪れていない、遭ってもいない場面なのにも関わらず。

 もしかしたらという未知のものに対して、今一度恐怖を抱いていた。



「ユ、ユキ! 後ろからまた……!」



 ジュリーは再度後方を一瞥しながら弱音を吐く。

 蒼凪もつられて後ろを軽く確認すると――確かにいた。


 こちらに迫り来る南連の兵士数人が、遠くの瓦礫の合間からちらちらと見え隠れしている。

 蒼凪達の場所からでもわかるほど殺意と気迫に満ちた様子で、時折小銃を乱射し2人を仕留めようとしている。


 まるで兎を追う猟犬の如く、こちらを執拗に追いかけていた。



「このっ――!」


 

 蒼凪は恐怖に震える心を抑えつけ、決心して半身を振り向かせ身を低くする。

 脚を止めると同時、片手に持っている拳銃を敵目掛けて散発し、牽制射撃を行った。


 性能が比較的良いとはいえ、拳銃は小銃と比べて威力だけでなく射程距離でも基本劣ってしまう。

 発射時の反動を未だ十分に押さえられないほど未熟な彼女がそれを扱った所で、当然命中などしない。

  

 しかし「運が良かった」と表現すべきなのか。

 戦闘を行く南連兵士のすぐ横に積み重なっていた瓦礫に弾は着弾し、敵はそれを過剰に脅威と感じたのか一時的に瓦礫の陰へ身を隠した。


 一瞬だが、蒼凪の牽制は進軍速度を遅らせる事に成功していたのだ。



「ふせてっ!」



 そして、また唐突に。

 ジュリーが叫び声と共に蒼凪の腰へ飛びついて来たと同時。


 蒼凪は、退く敵兵士達の奥に出現した『鉄製の穴』を視認する。


 視線の先にそれが入ると、彼女の視界は瞬く間に大きく横へと揺らぎ、そのまま半ば強制的に地面にうつ伏せとなる。

 爆発音に似た着弾音が耳を強襲し、近くにあった半壊の家屋の一部が爆散したかのように消し飛んだのはその直後だった。


 衝撃で巻き上げられた砂と石が通り雨の如く降り注ぐ最中、2人はたった今起きた出来事を嫌でも理解させられていた。

 それは――敵戦車の砲撃。

 

 蒼凪が先程敵兵の奥にあるのを確認した穴は単なる弾痕などではなく、自分達を狙っていた戦車の砲の穴。

 

 あとほんの少し反応が遅れていたら。

 ジュリーが戦車に気付かず蒼凪を立ったままにさせていたら。


 起きてもいない事にまた恐れを抱いて身体を軋ませ、2人は砂の通り雨が収まるまで何も言わず。

 転げ落ちそうになる平常心を保とうと、口に入る僅かな砂利の味に意識を傾けていた。



「ユキッ……だ、大丈夫!?」


「う、うん――ごめん。私……」


「は、早く行こう!」



 些か虚ろになる視線と意識の中、蒼凪とジュリーは重なっていた身体を起こして中腰になり、それぞれ銃を片手にまた一歩を踏み出そうと動く。


 そして――また唐突だった。

 蒼凪は進行方向へと顔を向ける途中、同じように走り出そうとしたジュリーの斜め後方数十メートルの位置にある廃墟の間から飛び出た影を見る。


 その正体を全て理解する前に。

 蒼凪は跳ね上がる心拍数を気にも留めず、また片手の拳銃をそちらに向ける。 


 迫り来るは――南連の小柄な男性兵士。

 機動性特化の簡素な軽装備に加え、片手には刃渡り数十センチの軍用ナイフ。


 そして堀の浅い顔には――明確な殺意。

 一瞬で得られた情報から、少なくとも味方ではないと判断した蒼凪は、一発だけそちらに向けて撃とうとする。



「! もう弾が……」



、拳銃の引き金を力の限り何度も引くが、弾は出ない。


 撃鉄は音を立てて動くものの、発射時の衝撃と発砲音が鳴る事は無い。

 常時焦燥感に駆られていたために拳銃の残弾数を考慮していなかったのか、残弾数がゼロという現実は蒼凪にまたもや嫌な焦燥感と命を狩られる恐怖を芽生えさせ――。



「ジュリーッ逃げてっ!!!!」



 肉迫されるジュリーは後方から迫り来る気配を感じ取ったのか、小銃を構え直しつつ振り向こうとするが――油断から生じた反応の遅れは挽回させられない。


 蒼凪は身を挺して状況を打開しようと考えたのか、地を踏んで彼女に向け駆け始めるが、その反応も遅れてしまう。


 そして彼女はまた――訪れようとしているものを意識してしまう。

 いくつも目にしてきた『死』というものが、今度はジュリーに訪れようとしている事を。


 彼女はわかっていた。 

 この状況は、自分ひとりじゃどうしようもできないものだと。


 ジュリーがそれに向けて攻撃を行うより。

 蒼凪が間に入ってジュリーを庇うより。


 振り上げられている『鉄製の刃物』の動きの方が、圧倒的に早いと理解していたからだった。


 敵兵の口からやがて聞こえ始める怒号。

 ジュリーは振り下ろされる『死』を小銃でなんとか防ごうと構えようとして――。


 ――銃声が聞こえた。


 敵兵の攻撃範囲まであと数十センチとなったと同時。

 その兵士の左胸には小さな風穴が肉を切り裂く音と共に開き、先程まで見せていた勢いは軍用ナイフを振り上げた姿勢のままぱたりと止まる。


 そして少量の血飛沫を胸から出したかと思えば――力無く、ジュリーにもたれ掛るようにして倒れた。



「えっ……どうして……、お、重いっ……!」


 

 急に自分の方へ倒れてきた男性兵士に戸惑い、ジュリーは将棋倒しのように倒れつつあった。

 自然と、蒼凪の脚も止まる。


 一瞬で変化した状況に対し、ジュリーも蒼凪も完全に置いてけぼりだ。

 起きた事を理解しようにも、「誰が撃ったのか」という最大の謎が目の前に鎮座しているせいで正常な思考ができてない様子だった。 


 流れ弾にしても向こうにいる敵兵とは距離がかなり離れているし、かといって他に兵士など――。



「ユキ! ジュリー!」



 答えはそこにあった。

 無論それが『考えられなくはない答え』だったと2人が理解したのは、その『答え』がなんなのかを十分に理解した数十後だった。



「フィル曹長……!」

 

 

 後方の廃墟の間から湧き出るように出現し、自分達を追いかけてくる南連の兵士がいる方へ牽制射撃を行いながら2人を取り囲んだのは――先程別行動を取ったフィル曹長と、カーク伍長と行動を共にしているはずの仲間2人だった。


 フィル曹長は蒼凪達のすぐ横へ滑り込むように片膝を着くと、小銃を敵兵のいる方向へ構えながら2人を一瞥して口をまた開く。


 

「うまく敵を釣れたようね――このまま教会まで一緒に後退するわよ! 先に行きなさいっ!」」


「は、はいっ!」



 良い意味で有無を言わせないような物言いに蒼凪とジュリーは反応する。


 ジュリーは自分にもたれかかってきた南連兵士の遺体をどうにか横へ退け、落とした小銃を急いで拾う。

 その間に、蒼凪はそんなジュリーに気を配りながらも、フィル曹長の言う教会のある方向へと再度顔を向けた。


 見れば――教会までは残り百メートルあるかないかの距離に蒼凪達はいたのだ。

 相も変わらず目の前には廃墟や瓦礫、砲撃や爆撃等によって人工的に生み出された起伏が大海のように続いているものの、目印となるその教会はさっきと変わらずそこに佇んでいる。

 

 がむしゃらに、そして死にもの狂いで駆け続けてきたため目標物を見失いかけていたのだろうか。


 しかし――いずれにしても、自分達が進むべき道を今一度確認する事ができたようだ。

 蒼凪は一呼吸を交えて改めて覚悟を胸に抱き、フィル曹長達と共に後退を開始したのだった。


 

   ◇       ◇       ◇



 後方から飛んでくる銃弾の間隔は様々だ。

 散発的な時もあれば、いくつもの弾丸がほとんど間隔を空けず飛来してくる時もあり、銃弾は総じて自分達のすぐ横や脇を掠めたり、少し離れた地面や廃墟の壁などに着弾したりする。


 その凶弾を放っている人数に変化が無いのは遠目からでも確認でき、更にその後方には、命を狩られる恐怖を一層煽り立てるかのように、戦車の姿が瓦礫の間から時折見え隠れしていた。


 それらは執拗に追撃を続けており、蒼凪達を亡き者にしようと未だに迫ってきている。


 そんな状況がどれだけ続いただろうか。

 幸い部隊の面々はまだ被弾していないものの、長い間追いかけられているという過酷な状況に晒され続けたせいか、疲労が蓄積しているのは火を見るよりも明らかだ。



「はぁ――はぁ――」



 無論それは蒼凪も例外ではない。

 随所で燃え盛る戦場の業火の中を潜り抜けてきた事により、心身共にほとんど摩耗しきっている彼女は、既に気力だけで身体を動かしているも同然の状態だ。


 疲弊により駆ける足は時折もたつき、先程までの機敏さと生命力はいつの間にか喪失しており、今となっては他の仲間の走るペースについていくため常に身体に強く鞭を打ち続けているような有様だった。



「伍長っ!」



 そんな彼女の不安定さを消し飛ばすかのように、フィル曹長は声を張ってそう叫ぶ。

 気が付けば、蒼凪達は先程も訪れた大きな教会のすぐ手前まで戻ってきていたのだ。


 そしてフィル曹長の視線の先に――戦禍を盛大にこうむった事により、一枚の巨大な壁のような有様となっているその建物の正面、木製の大きな両開き扉の下部に彼はいる。


 カーク伍長は蒼凪達に背を向けるようにしてそこでしゃがんでおり、呼ばれた時は何かの作業の途中だったのか、上半身を捻って顔だけをこちらに向けてきた。


 また、残りの仲間の1人は彼の護衛役を担っていたのか、小銃を適当に構えつつ彼の傍で腰を下ろし待機していた。

 フィル曹長が発した伍長を呼ぶ声に彼女もすぐ気付き、カーク伍長と同様こちらに視線を向けて軽く反応したが――ほぼそれと同時。


 蒼凪達のやや後方にいる敵を彼女も視界内に捉えたのか、小銃を今一度構え直し戦闘態勢を取り始めていた。



「各自、手筈通り廃墟を盾に散開して迎撃よ。準備ができるまで持ちこたえるわ! ユキは私と一緒に!」



 指示を受けた蒼凪以外の3人は、教会の近くまで近づいていたその足で左右へ適当に散る。

 1人は教会左手にある物置小屋の入り口付近に身を隠し、もう1人は教会右手にL字型の状態で佇む石造りの一軒家の窓に陣取り、残るジュリーはその石造りの一軒家の2階に駆け上がっていった。


 他方、引き連れている面々にそう指示を飛ばしたフィル曹長と蒼凪は、姿勢を低くして頭のメットを手で押さえながら、カーク伍長の傍に数段積んである土嚢どのうの陰に滑り込んだ。


 長時間の苦行を終えたような顔で蒼凪は背を土嚢の側面にどっかりと預け、これでもかというくらい荒らげていた息を整え始めるが、それとは対照的に、フィル曹長は間髪入れず土嚢越しに元来た道の方へと銃を構え、すぐさま臨戦態勢を整えていの一番に引き金を引き始めていた。 

 


「曹長、上手い事行列を引き連れてきたようで!」



 周囲から聞こえ始める銃撃音に負けないくらいの大声を上げて傍に来たフィル曹長に話しかけていた。

 


「お世辞なんて結構よ! それより準備は? みんなの弾薬も残り少ないわ!」


「こいつで最後ですが、あと2分くだせえ……!」


「駄目よ、あと1分でやりなさい!」


「へへ――やっぱりそう来ますかい。いつも通り、無茶言ってくれますねぇ!」

 


 カーク伍長はその言葉に呼応するようにして正面へと向き直り、足元にある白色系の直方体を目の前にある大きな扉の片側へ押し付けるように設置していた。

 直方体の上面中央からは数本の黒いケーブルが伸びており、彼は何やらそのケーブルを束ねたりして弄っている様子だった。



「ユキ、最後にもう一仕事よ! 合図があるまで伍長を援護して! アリッサ、弾薬があるならユキに分けてあげなさいっ!」


 半ば怒号に近いフィル曹長の命令に喝を入れられ、蒼凪は飛び起きる。

 現実の戦闘はまだ終わってはいない。


 その事実を再認識し、誰かから弾薬が渡される事を予想して視線を左右に動かす。


「投げるよっ!」


 声の発生源は――カーク伍長を挟んで反対側からだ。

 蒼凪が自分の顔をすぐそっちに向けると、そこにはついさっきまで伍長を護っていたやや長身の少女が、険しい剣幕のまま腰にある弾倉を忙しい手付きで取り出していた。


 彼女が持っている小銃は、蒼凪と同じU.S.M1カービン。 



「もう予備は無いからねっ!」



 茶髪のベリーショートが特徴の少女は、そんな大声と共に二つの弾倉を蒼凪に投げ渡し、また正面へ向き直って銃撃を再開する。


 対する蒼凪はなんとか受け取った弾倉の片方を腰の弾帯へ乱暴に収めると、ずっと肩に掛けていた小銃を久しぶりに下ろし、急いでそれに弾薬を装填し始めた。



「早く……あっ……っ」



 土嚢に背を預けて視線を下に落とし、手元を確認しながら弾を込めるものの――焦るあまり弾倉を一旦地面へと落としてしまった。


 慣れつつはあるが暴力のように耳へ入ってくる銃撃音と着弾音。

 過酷な状況が継続している事を示す各々の険しい表情。


 半ば麻痺している己の指先の感覚。

 彼女を急き立て追い込む要因は、彼女の周囲にいくらでも存在していた



「これでっ!」



 弾倉をようやく交換し終え、フィル曹長の指示通り迎撃を行うために土嚢の上部から上半身だけを露出させると、蒼凪は小銃を正面に構えながら敵の位置を目視で手早く確認する。


 先程から自分達に付きまとっている敵がいるのは百も承知のようだが、改めて状況把握をするため、視界に映っている敵を可能な限りかつ大雑把に捉え直した。


 左の建物の陰に1人、右の瓦礫のすぐ脇に2人、奥の廃墟の向こうに数人の南連兵士。


 現状は敵部隊の先頭集団と撃ち合いになっていると理解したのか、蒼凪は躊躇う前に自分から最も近くにいる右側の二人組に向けて銃を撃ち始め――。


 その直後だ。


 自分達の左方にある物置小屋の近くに立っている建物の上部が突然爆散し、凄まじい爆風と爆発音、無数の小さな石の雨が数秒間蒼凪達を襲ったのは。



「うわっ……、ちくしょうなんだってんだっ!」



 物置小屋の近くで応戦していた仲間――首まである灰髪が特徴の小柄な少女は、目の前で突然起きた出来事のせいか尻餅をつくようにして体勢を崩す。


 だがすぐに持ち直し、頭を片手で押さえながら一つ手前の瓦礫の傍まで急いで後退すると、身の安全を確保するためそのままそこに隠れ、文句を垂れつつさっきまで自分がいた方の様子を瓦礫越しに観察し始めていた。


 爆発地点のすぐ近くにいたというわけでもなく、尚且つ突然の轟音に驚いて思わず片腕で爆風を遮ったため蒼凪は怪我を負わなかったが、部隊の面々は酷く混乱している様子だ。


 唐突な爆発の正体がなんなのか。


 目の前でうろつく敵を対処しながらも各々は視線を巡らせてその原因を探すが――その爆発を引き起こした原因は、やがて重厚な機械音と共に瓦礫の奥からその一部を露出させてきた。



「……『シロサイ』っ」

 


 蒼凪が呟いた通りだ。


 視界の奥の方にある倒壊した石造りの建物の脇を抜けるようにしてのっそりと現れ始めたのは、ついさっきも彼女達の命を掠め取ろうとした南連の戦車――『シロサイ』。


 鉄の巨体は先程と変わらず両側を数人の南連兵士に護衛されながら、周囲にある瓦礫を自然の盾として利用しつつ、蒼凪達のいる教会に向けてやや蛇行するように進軍していた。


 それも1輌だけではない。


 少し間隔を空けて同じ型の戦車が同じ所からもう1輌出現し、計2輌の戦車がこちらに向けて轟音を響かせながら迫ってきている。


 あれらは蒼凪を目標物に定めてここまで執拗に追ってきたのだろうか。

 いずれにせよ、目の前にある脅威が一気に強大なものへと変化したのは言うまでもない。



「伍長っ、まだなの!?」



 蒼凪のすぐ近くにいたフィル曹長が、表情を酷く歪めながら焦燥の声で尋ねていた。 


 当然の問い掛けだ。


 立案した作戦を確実に成功させるためには、現出してきたあの鉄塊に作戦を台無しにされぬよう立ち回らなければならない。


 敵に一泡吹かせるため立てた作戦が敵の手によって壊されてしまっては本末転倒である。



「もうちょい……、最後にこいつを繋げりゃ……!」



 カーク伍長がそう呟いている間も、向こうから飛んでくる弾丸の数は次第に増えてきている。


 正面に陣取っている敵の数も初めは少数だったが、今となっては後方から来た味方と合流を済ませ、前方の様々な位置から蒼凪達に向けて銃撃を行っていた。


 正面の道沿いに置かれている土嚢や放置された廃車の陰、道の左右で崩壊しかけている廃墟の隙間、だいぶ前に出来たと思われる砲弾の弾痕だんこん等々。


 確かにフィル曹長などの攻撃は時折敵に命中し、それらの場所に陣取っている敵を亡き者にしていくものの、そのペースを上回る速度で敵の銃口の数はひとつまたひとつと増加している。


 それに対して、こちらの攻撃力は既に上限に達しているも同然だ。


 劣勢に立たされかけているが故に、その現実は部隊の人間に一層重く圧のし掛かる。


 己に迫ってきている恐怖と焦燥を前に、蒼凪達は肉体的にも精神的にも少しずつ押され始めている様子だった。


 

「当たって……、当たってよ……!」



 そうして迎撃を行う部隊の中でも悪い意味で一際目立っていたのは、やはり蒼凪だ。


 他の者よりも明らかに狙いのブレや手足の震えが大きくなっており、肩で息をしながら何度も引き金を引くが、その攻撃にはほとんど有効性が無い。


 明後日の場所に着弾するのは勿論、偶然敵兵に当たる事も牽制の一種になる事も無く。


 一発、また一発と、彼女はただ弾を浪費しているに等しい状態だった。

 度重なる死地へのいざないをどうにか拒んできた彼女だが、やはりもう擦り切れる寸前なのだろうか。


 本能的に不満の声を漏らしても、狙いが定まる事は無く発射された弾丸は次々に空を切っていき――そしてその時だ。


 自分達の目の前の地面が鼓膜を破壊しかねないほどの爆音と共に突然爆発し、発生した凄まじい衝撃と風圧のせいで部隊の仲間は全員大きく姿勢を崩された。


 無論蒼凪も例外ではない。


 爆発の中心地から最も近い位置にいた彼女はその場で身体を後ろ向きに半回転させるようにして勢い良く転ばされてしまい、衝撃と混乱によって一瞬意識が飛びかけてしまう。


 それとほぼ同時だ、

 一瞬で大量に舞い上げられた砂埃は、辺り一帯を不鮮明な世界へと変貌させる。



「奴ら煙に紛れて来るわよっ!」



 朦朧とする意識の中、地面に手をついてなんとか立ち上がった蒼凪にそんな警告が不意に飛んできた。

 出所はフィル曹長だろう――砂埃のせいでその姿をはっきり確認する事はできないが、その言葉を理解し咀嚼しだした頃だ。


 遠くの方から、何やら大小高低様々な叫び声が聞こえ始めたのだ。

 初めは小さく、しかし時間が経過するにつれて全ての声は大きくはっきりとなっていく。

  

 やがて砂埃の向こうから現れたそれは、怒号をまき散らしながら走る勢いを利用する形で蒼凪達に突撃してきた。


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続く(更新日:2019/10/6)







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