0.5 :決別

 蒼凪優希あおなぎ ゆきという少女が士官学校を卒業したのは、夏のうだるような暑さが未だに自分の住む町を覆い、太陽からの強い日差しがアスファルトをじりじりと照り付けている9月上旬のことであった。



 屋外へ出る人に対し容赦なく降りかかる熱線は、道を往く人に疲労と不快に近い感覚を与え、体力の無い者はその足を少しだけ鈍らせる。


 木々に留まっている蝉は他に負けず劣らず鳴き続け、短い生涯の中で子孫を残そうと懸命になっている。


 道端に生い茂っている草はその緑色を一層濃く見せ、若々しく生命力がみなぎっているように感じられる。


 町の随所を流れる小川は聞き心地の良い水音を常時響かせ、それを聞く人には安らぎを与えている。


 彼女の生まれ育った地である槙原まきはらの町は、南方に広大な太平洋が、北方に標高の低い山々が連なっており、そんなありきたりな夏の光景が観光名物の場所だ。


 その町を一言で表すなら、『どこにでもある田舎町』というのが的確だろう。


 山から海に流れる水流は町の至る所を流れており、そこに沿うようにして草木が豊かに生い茂っている。


 それ故か整備されている道路は比較的少なく、土や砂利を敷いただけの急ごしらえの道が多い。


 人口が都市部と比べて少ないという点も理由の1つかもしれないが、やはり大きな理由は年齢層が高いという点に落ち着くと言える。


 海岸に近付くにつれて住居の数やコンクリートの使用されている場所の数は多少増えるが、それでも都市部などからこの町を訪れた者にとって、この町は一昔前の時代に取り残されたような町だと感じるだろう。


 通信網や電力供給が豊かであるとは言い難く、未だ昔ながらの方法で生活を営んでいる人達が多い。


 以前はそれに不満を抱く者もいたが、生きる術を独自に確立させた現在ではあまり気にされなくなっているようだ。


 それでもある程度安定した供給が必要であるため、北方に住まう住民は主に農業で、南方に住まう住民は漁業などで、中間に住まう者は遠方へ出稼ぎにいくなどして生計を立てている。


 先の大戦によって引き起こった人口の減少に加え、大戦の再発により人口の流出は既に歯止めが利かない領域にまで到達しており、現在は少子高齢化に加え過疎化が著しい。


 数十年後には無人になるという可能性も、あながち否定できなくはないだろう。


 『どこにでもある田舎町』と言われる理由はそういう面の他に、町の特徴と言う面からしても間違っていない表現だと言える。



「…………」



 そんな槙原の町の西部。

 周辺を田園に囲まれた日本式の住居の一室に、蒼凪優希はいた。


 未だ猛暑の続くこの時期であるにも関わらず、身体に暑苦しそうなカーキ色の軍服を纏い、襟元えりもとからすそに至るまで衣服には僅かな乱れもない。


 首の辺りで揃えられているその艶やかな黒髪も綺麗に整えられている様子から、彼女が几帳面で真面目な性格であるというのが推測できる。


 その引き締まった姿勢から端麗な顔立ちに至るまで、彼女の容姿には咎める点が存在せず、これぞ大和撫子と言えるほど美しい姿をしている。


 彼女は今、その部屋の一角にある仏壇の前で正座をし、両の掌を合わせて目を閉じている。

 傍らには彼女のものと思われる軍帽が丁寧に置かれ、目前に飾られている2つの遺影に対し、彼女は静かに祈っていた。

 

 その遺影のうち、右側は少し威厳な風貌をしている40代前半の男性。

 左側は、男性とは対照的に温和な雰囲気を感じさせる30代後半の女性。


 無論、彼らはいずれも彼女の両親だ。

 蒼凪優希は彼らの遺影に身体を向けて祈り、同時にこれからの武運長寿などを願っていた。



「お父さん、お母さん――とうとう私も、この待ち望んだ日を迎える事ができたよ」



 凛として引き締まったその声は、屋外にいる蝉の鳴き声が少しだけ聞こえるこの空間に響く。

 何気ない一言のようで、けどどこか感情が強く込められているように聞こえるその言葉。

 

 彼女にとって、この言葉を言うまでには悠久に近い感覚の時間を費やしてきた。

 両親を同時に失ったその日から、彼女は今日という日が訪れる事を待っていたのだ。


 1人の人間として。

 1人の軍人として。

 1人の戦災被害者として。


 蒼凪優希は、士官学校を卒業した今という瞬間を心待ちにしていたのだった。


「戦争が始まってからまた苦しい生活の毎日が続いていたけど……。その中でも私は、2人の事を思うだけで今日まで頑張れた」



 目を閉じ両の掌を合わせたまま、彼女は言葉を紡ぐ。



「凄く時間が掛かっちゃった事、この場をもって謝らせてね……」



 声と両肩が微かに震え、彼女の身体が少しだけ前のめりになる。

 それは単に同じ姿勢でいる事に疲労を感じたのか。

 それとも湧き上がる悲哀に似た感情を堪えようとしたためなのか。


 蒼凪優希が抱く本当の感情は彼女自身しか知らないが、悲しみを垣間見せているその様子から、彼女がこれまで歩んできた道の壮絶さを伺う事ができる。



「ごめん……、悲しい顔はもう見せないって約束したのに」



 その一言を言い終わると、彼女は身を起こし、背筋を伸ばす。

 それと同時に、閉じていた瞼をゆっくりと開き、漆黒のような黒い瞳で仏壇にある遺影を真っ直ぐ見つめる。


 屋内に入ってきた日光を反射している瞳は、見方によって僅かに濡れているように見えなくもない。

 彼女はやはり、涙を流さぬよう堪えていたのだろうか。



「そうそう、今日は渡したいものがあってここに寄ったんだ」



 蒼凪優希は右手で、左胸のポケットから紙に包装されている小さな何かを取り出し、それを両手で持つ。


 白色の上質な紙に包装されているそれは、大体片手ほどの大きさだ。

 それをそのまま遺影の近くにまで持っていき、遺影の前に静かに置いた。



「これ、私の髪の毛と爪。私がいない間、これを私だと思っていてねーーって言っても、やっぱり無理だよね……」



 自虐的な冗談と共に、蒼凪優希は小さく笑う。

 微笑ましいようで、どこか痛々しい雰囲気を含んだその笑顔を彼女は少しの間浮かべた。


 彼女は内心感じていたのかもしれない。

 自分がこれから向かおうとしている場所は、大戦の中でも激戦地と言われる場所の1つである欧州戦線。


 そんな場所へ行って無事に帰って来る事ができる可能性なんて、火を見る事より明らかだ。

 手足はおろか、五臓六腑が無傷で帰って来る保障だってあるはずはない。


 最悪の場合、亡骸が無数に横たわる戦場で、誰にも知られず骨がうずまってしまう可能性もある。

 蒼凪優希は、そんな現世の地獄と名高い欧州戦線に単独で向かうのだ。


 口には表さずとも、その身を戦争終結などのために捧げる覚悟をしているのだろう。

 自身を亡き者とする勇気もあるという事も、その決心から読み取る事が可能だ。



「お父さん、お母さん。私、蒼凪優希は、これから欧州の戦線へ赴きます。身勝手な娘ですが、どうかこの蛮行を何卒お許しください。それと、これまで私を大切に育ててくれた事、私を支えてくれた事……、そして、私をこの世界に生んでくれた事――」



 蒼凪優希は両手の先を膝の前の畳に置いて左右を揃え、背をゆっくりと曲げていく。

 同時に肘の関節を駆使して腕も曲げていき、額を地に付ける。


 そして――彼女はありったけの感情を込めて、その言葉を言う。



「本当に――ありがとうございました」



 仏壇にある遺影に向け、彼女は深々と土下座をした。

 一連の動作やその雰囲気からは、彼女の決意が並大抵のものではないという事を象徴しているように感じられる。


 その動きには、それ以外にも様々な要素が含まれていたのだ。


 これまでの悲願がようやく叶ったという事への達成感。


 こうして2人の前で決心を語り、後悔も殆ど無いまま戦場へ向かう事ができるという感情。


 これから起こるであろうとされる多くの出来事に対する憂い。


 そのようなものが混ざり合い形成されている彼女の姿勢には美しさがあり、同時に儚さを併せ持っていた。

 蒼凪優希は、そう感じさせる土下座を数秒の間遺影に向け行ったのだった。


 やがて彼女は背を起こし、



「らしくないよね……、ごめんなさい」



 遺影に向け再び微笑みながらそう言った。


 生きているか否かで言えば、2人はもう既にこの世を去った身だ。

 しかし、こうしていると2人が目の前にいるように感じられて、自然と張りつめた空気を和ませたくなる。


 蒼凪優希は、そんな感情に基づいて笑みを浮かべたのだろう。



「それじゃお父さん、お母さん。私、表に人を待たせているからもう行くね」



 彼女は傍に置いてあった軍帽を手に取ってその場で立ち上がり、それによってずれた服の裾などを簡単に直すと、手に持っている軍帽を頭に深く被った。


 遺影に向け「じゃあね」と軽く挨拶をすると、和室を後にして廊下を歩いていき、一直線に玄関へと辿り着く。


 自宅に入る際揃えた軍靴ぐんかを履き、横開きの玄関の扉を開ける。

 家の前には、この田舎町にはあまり似合わない黒光りの車が1台停車していた。

 その車の傍には、蒼凪優希と同じ軍服を着て彼女が戻ってくるのを待っている30代前半の男性がいる。


 蒼凪優希が先程待たせているといったのは、恐らくその車の事だろう。

 車が視界に入った事により身体を若干引き締め、動きの1つ1つに少しキレを持たせる。


 そして――家の方へ身体を向け玄関の扉を閉めようという時、彼女は扉を閉めようとした右手を止めた。


 彼女はそのままその場で背筋を伸ばして踵を合わせ、姿勢を改めて整える。

 右手を地面と水平にし、先を軍帽の右に当て、二の腕を地面と平行になるよう肘を横に動かした。



 蒼凪優希は言う。

 誠意を込めて、その言葉を静かに言い放つ。



「今まで――お世話になりました」



 そう。

 彼女は家と亡き家族に向け、陸軍式の敬礼を行ったのだ。


 それは、長きに渡るしがらみに似たものとの決別や、自身の決意をより強固なものにしようという彼女の考えによるものだろう。


 もしかしたら、これが最後の挨拶になるかも。

 これは彼女のそんな弱い一面を表現したものであるのかもしれない。


 蒼凪優希はその不安を取っ払うかのように敬礼を止めて扉を閉める。

 

 施錠を行い鍵を胸のポケットにしまったあと車に向かって歩いていき、後部座席に乗り込んだ。

 そして傍にいた男性の運転によって、彼女は自宅から去っていった。



 約7年前――彼女が軍人になると決心したのは、まだ年端もいかぬ11歳の時。

 第三次世界大戦の勃発から2年が経過した時期であった。


 大手の重工企業に勤める父と、それを支える母の間に生まれたごく普通の愛娘まなむすめであった彼女は、特別な取り柄などもこれといって無く、かといって他より劣っているとも言えない人間だった。


 可憐な花や愛らしいものが好きで、昆虫の類や辛い食べ物が苦手な乙女であり、今の服装とは無縁に近い人生を送っていた。


 これから彼女は普通の少女として、その人生を全うしようとしていた時だ。



 その生活を変えたのが、数年前から現在も続いている歴史的な出来事。


 国連と南連の間に起きた戦争。

 第三次世界大戦の勃発である。


 蒼凪優希は、その大戦の被害者である。

 だが彼女は、今から加害者という名の十字架を背負う人間にもなろうとしている。


 1人の人間であり1人の少女である彼女は、これからその手を紅い血で汚そうとしている。

 その事に気づくのには、もう少しだけ軍人になるという事を考える時間が必要であった。



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