僕を除いていい具合に打ち解け合った彼らは顔をほんのり赤く染めて、心なしか物理的な距離も縮まっているようだった。佐野が「盛り上がってきたところで、カラオケいっちゃいますか」と陽気に右手の拳を掲げて見せ、伝票を持って立ち上がった。皆口々にいいねとか、最高とか言って賛同して、今日は俺の奢りだと言ってやけに羽振りのいい佐野に、更に一同は熱狂していた。

 居酒屋を出て、駅の近くのカラオケへと足を運ぶ。足取りの覚束なかった僕らは互いに支え、支えられながら飲み屋街の来た道を戻っていった。途中、一番飲んでいた僕は何度かこけそうになり、佐野に「飲みすぎだぞお前」と言われたが、何と応えたのだったろうか。普段酒など一滴も飲まない人間が急にウイスキーをあれだけ飲んだのだから、意識が混濁するのは当然のことだ。僕は確か佐野と西沢に肩を借りながらようやく歩けている状態だったはずで、二人に肩を組まれながら歩いていて、どこかで違う選択をしていれば、こういう生き方もあったのかもしれないと自分の四半世紀にも満たない人生を回顧していると、無性に泣きそうになって、それを誤魔化すために大笑いしていたはずだが、実際はわからない。アルコールが作り出した夢を見ていただけだったのかもしれない。冷静に考えれば迂闊だった。どんな形であれ、佐野に対して借りを作ってしまったのは腹立たしいことだった。

 天王寺駅の前の大通りを道なりに進んでいくと、三階建ての大きなカラオケ店がある。店内に入ると、僕らと同じような学生だと思われる集団が受付をしているところで、立っているのもままならない僕はほんの気持ち程度に三脚ほど置かれていた椅子に腰を下ろして、佐野が受付を終えるのを待っていた。

 俯いて頭を抱えていると、「大丈夫?」「トイレ行く?」「手貸そうか?」などと投げかけられたが、僕は微かに首を縦に揺らすので精一杯だった。

 辛い、苦しい、痛いと堂々と叫ぶことのできる人間は、それは甘えだと罵られる場合もある一方で、誰かには気に留めてもらうことができるのであるし、伝わらなければ周りに認知されることはない、というのは悲しいかな覆らない事実だ。

 誰もが周知の通り人は超能力なんて使えない。言葉で表現しなければ相手に思っていることは伝わらない。悲しみの指標は人によって大きく異なる。しかしそれを踏まえても、自分が悲しみを語ることによってまた別の誰かが悲しむのではないかという可能性を考慮していない人間が、この世には余りにも多すぎるのではないか。

 自分の弱さを認める勇気。逃げ出す勇気。それは確かに尊いものだが、何にでも勇気と言ってしまえば美徳となってしまうような風潮が、本当に強い人間の逃げ場をなくしていると思えて仕方がないのは、僕が酔っているからだろうか。

 泣き出せば助けてもらえる。「助けて」と言えば誰かが手を差し伸べてくれるのなら、最期まで一人で抱え込んで、何があっても笑っていた彼女が、まるで白痴みたいではないか。

 酔いがいよいよ全身に回ってきて、思いがけず余計なことまで思い出してしまった。しかしもう思い出すことでしか、彼女には会えない。

 もう立てないのではないかと思われるほど、指先からつま先まで気怠さに襲われていると、佐野が受付を終わらせたようだった。

 大部屋はどこも満室らしく、僕らは空いている小部屋に入ることになった。一人二人で使われるのが通常な部屋に六人も押し込まれれば、近いを越えてもはや卑猥だとも言える距離感で、僕らは肩をすくめながら座るしかなかった。

「飲み物何がいい?」と佐野が訊くと、あちこちから「私ジンジャーエール」「じゃあ私はなっちゃんオレンジ」と声が飛び交ったので、僕は水を頼んだ。「てか誰か一緒に取りに行こうぜ」「私行ってくるね」「俺も行くわ」と、客室からの音漏れに負けじと声を張り上げながら、一番端に座っていた僕の前を、ドリンクバーを取りに行く何人かが通っていく度に僕の足と彼らの足が触れ合った。

 部屋に残されたのは僕とナツだけだったが、特に何を話すでもなく黙り込んでいた。テレビジョンの画面では、今人気沸騰中の若手バンドがインタビューを受けている映像が流れていて、どこかの客室からマラカスとタンバリンの音が聞こえてきた。

 部屋に戻ってきた面々は、狭苦しいソファーにぎゅうぎゅう詰めになりながら、デンモクに曲を入力していて、程なくして街中でよく流れている聴き慣れたメロディがスピーカーから旋律を奏ではじめた。

 佐野は「お、これ誰が歌うの?」と楽しそうに問いかけながら僕の前にコップに八割ほど注がれた水を置いた。僕にはそれに礼を言う余力も残っておらず、彼に手渡された水を一飲みする。しかしその水でさえアルコールの味がして噎せ返ってしまった。

「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」

 佐野にそう言い残して部屋を出る。直線状の廊下の左右に等間隔で部屋のドアがあって、そのドアノブを手すり代わりにして鉛のように重い足を何とか動かした。よりによってトイレは部屋とは真逆の突き当りにあって、辿り着くまでに意識が飛びそうになるのを寸でのところで耐えて、這いつくばるように洋式の個室に入ると、鍵を閉める力もないまま便器に吐いた。一度、二度、なけなしの三度と連続で吐ききると、もう胃の中には何も残っていなくて、それでもまだ収まらない吐き気に今度は胃液が込み上げた。アイドルグループのポップミュージックをBGMに嗚咽を繰り返す僕の姿はさぞかし無様だったであろうが、幸い、誰かがトイレに入ってきてこの醜態が見られることもなく、僕の体から放出されたそれを水に流して、手洗い場で口をゆすいだ。

 一体何故僕がこんな目に遭わなけらばならないのか。もとはと言えば佐野が僕をこんなところに連れてきたからだ。そうだ、佐野のせいだ。あいつのせいなんだ。自分の欲求を満たしたいなら一人で勝手にやってろ。僕には関係のないことだ。鏡に映る青ざめた僕の顔を見ていると沸々と怒りが湧いてきて、僕は顔を洗った。火照った肌には冷たい水も温く感じたが、頭を落ち着けるにはむしろそれが望ましく思えた。

 もう部屋には戻らずこのまま帰ってしまおう。吐き出すべきものを吐き終えて冷静な自分を取り戻した僕の頭に、街の中を佐野の肩を借りて歩いたあの羞恥がまざまざと蘇ってきて居心地が悪かったが、このまま彼らに付き合うことは、きのこの山派かたけのこの里派で言い争うよりも意味のない時間だと思われ、意味のないことに精神を擦り減らすことほど徒労なことはないと思われた。

 丁寧に手を洗ってから、僕はトイレを出る。するとそこには、意外な人物が僕を待っていたのである。

「私、君みたいな人、嫌いじゃないなあ」

「は?」

 そう言って僕が出てくるなり意味不明な告白をしたのは、あのナツという女性だった。予想のしようがない人物から理解の困難な言葉が知らせもなく飛んできたから、僕はあからさまに間の抜けた返事をしてしまった。彼女は壁にもたれかかりながら腕を組んで、人に不信感を与えるには最適な角度で口角を上げていた。もしもこの場面を漫画にするのなら、きっと僕の頭上には?マークが埋め尽くされていたことだろうし、呆気に取られるとはこの時のために準備されていた言葉かのように思えた。そして彼女は僕にこう言ったのだ。

「最高な夜か、最低な夜か、どっちの方が楽しいと思う?」


 我に返ると、僕はナツに手を引かれて天王寺の街を全力疾走していた。

 歩道で人とすれ違う度に、彼らからの痛い視線を一身に浴びているのを背中に感じていたが、今はそんなことどうでもよかった。僕を引っ張っていく彼女、引っ張られて為されるがままな僕。その二つが、まるでこの世界の中心であるかみたいな錯覚に僕は見事に陥っていた。というのも、彼女の手からそういった断固とした自信が漲っていたのを感じ取ったからかもしれない。少なくとも、彼女の足取りには一縷の迷いもなく、一方向に進む人混みの中を逆走していた。後ろにいた僕からは、前を走っている彼女の顔は見えなかったが、きっと先ほど僕に向けたような表情でにんまりと口角を上げていたに違いない。

 カラオケを出た後、人混みを抜け、コンビニから出てきた客とは出合い頭にぶつかりそうになり、パチンコ店の前の喧騒を通り過ぎ、そして散歩中の小型犬にも吠えられると、彼女は脇道の裏通りへと入っていった。僕は額にじんわりと汗をかいていたが、それよりも繋がれた手にびっしょりと手汗をかいていたのは、彼女に気付かれていただろうか。

 街灯の少ない裏路地を、肩を揺らしながら走る。連れていかれたのはそこにある小さな有料駐車場だった。表通りの人だかりが嘘のように静かなそこは、古びた自動販売機と、経営が成り立っているのが不思議なくらい客のいない居酒屋の看板があるくらいで、僕はだんだんと違う世界に迷い込んでいるかのような気分になった。

 彼女は精算機で料金の支払いを終えると、「これ乗って」と、傷一つ見当たらない光沢のある黒いセルシオ30後期を指さした。僕はそれに大人しく従い、助手席に乗り込んだ。彼女は「これ、私の車なの。渋いでしょ」と自慢げに語りながら、運転席に座って、羽織っていたジャケットを後部座席に投げ捨てた。中には白のカットソーを着ていて、露わになった肩部には口を開いた髑髏のタトゥーが入っており、その目が僕をじっと見据えていた。が、情報過多でとてもじゃないがそれを気にしている隙はなく、僕は今僕自身の身に起こっていることを頭の中で処理するのが限界だった。僕は今、本名も年齢も、一切の素性が分からない女性に連れ出され、強面でサングラスでも付けたがたいのいい屈強な男が乗っていそうな車に乗せられている。知らない人には付いて行ってはいけないと小学生の時に飽きるほど習ったが、もう連れ去られてしまったのでは後の祭りだった。

「ねえ、最高の夜か、最低の夜か、どっちが楽しいと思う?」

 彼女は再び同じ問いをしながら、考えられないスピードでバック、急旋回し、その遠心力で僕は窓に頭をぶつけた。

「質問の意味が分かりません」

 せめて声に出せたのは、これくらいだった。でも何故かこの時僕は、楽しい、と感じていた。しかしそれが人の心として健常なのかと訊かれれば、答えはおそらくノーだっただろう。

「もうさ、疑われることすら忘れてしまった平和ボケした常識ってやつに対して、私たちに何かできることがあるとするなら、一思いにぶっ壊すか、それか永続的な隷従を誓って見せるかだと思うのよね」

 駐車場を出た車は、そのままバイパスを走った。

 アクセルを全開まで踏んだセルシオは、エンジンを唸らせて車という車を無理やり追い越していく。その姿は、滝を懸命に登っていく鯉を彷彿とさせた。登り切ればこの車は竜になるだろうか。はたまたぐしゃぐしゃに潰れた廃棄車に成り果てるか。

「君は、どっち側になりたい?私は、そのどちらにもならずただその二つが互いを滅ぼし合うのを見てみたい」

 法定速度は守らないのに、彼女は赤信号ではしっかりと止まった。まるで暴走の仕方を熟知しているかのように、気まぐれに車を走らせていた。もしかしたら彼女の言動は全て気まぐれで、そこに何か規則性を見出そうとしていた僕が、初めから間違っていたのかもしれない。今になってやっと僕はそう気付いた。

 その後、蛇行運転、無理な追い越し、無意味な指示器の点滅、急停止急発進などを無数に繰り返した彼女は、今夜天王寺で起こった交通事故の、そのほとんどの要因になっていることだろう。後ろからはクラクションの音が絶えない。だがしかし、彼女は信号だけは決して破らず、停止線を越えたこともただの一度もなかった。

 車内のスピーカーでは、tofubeatsのLONELY NIGHTSが爆音で流れていた。

 車は、あべのハルカスの前、動物園前、新世界の付近などを暴走して、しばらくの間天王寺の街中を徘徊しつつ、そのままの勢いを失うことなく梅田方面へと向かっていった。色とりどりのネオンが早送りで再生される映画みたいに過ぎ去って、代り映えしない街の光景が恐ろしい速度で流れていく。狭い車両の間隔の中に割り込んでは車体をガードレールにぶつけそうになり、カーブでは横転しそうになったが、彼女はその時でさえ奇々怪々な微笑みを浮かべていたのである。その凶暴さには微塵の躊躇もなく、その振り切れ方はむしろ清々しいほどだった。

 僕は体を右に左に前に後ろに揺さぶられ、一度消えうせた吐き気をぶり返しそうになったが、その嘔吐感でさえもが、この瞬間を何か特別なものに昇華させる一因な気がしてならなかった。

 途中、道沿いにあったコンビニに入っていくと、彼女は「ちょっと待ってて」と言って店内へと姿を消し、そして三分後にはレジ袋を持って戻ってきた。

「はい、これ」

 そう言って彼女に渡されたのはストロングゼロのグレープフルーツ味だった。

「僕が酔い潰れていたの、知っていますよね?あなたは鬼ですか」

「鬼でも悪魔でもない、私はナツちゃんだよ」

「それ、可愛いと思ってやってます?だとしたら今すぐ考え直した方がいいです」

「冗談も通じないようじゃ小説は書けないんじゃない?ねえ作家先生」

「余計なお世話です。あとこれはいただいておきます」

 僕は彼女からもらったストロングゼロのプルトップを思い切り開けると、それを一気に半分ほど胃に流し込んだ。すると彼女は「素直でよろしい」と言いながら、また飽きずにカルピスを飲んでいた。

「あの、なんでこんなことしたんですか」

 こんなこと、とは説明するまでもない、カラオケ店のトイレの前で僕を待ち伏せて、そして半ば強制的に僕を連れ回した、その一連の全てのことだ。

「うーん、ロマンチックに言うのなら、君が私と同じ目をしたから。そして適当に言うなら、あの中で君が一番暇そうだったからだよ」

 僕の知る限り、彼女は最もカルピスを色っぽく飲む女だった。飲む時に微かに動く喉仏の滑らかさは美しくて、艶やかだった。

「あの、急にあなたの数多の道交法違反に僕を巻き添えにされても迷惑です。あの時僕は、帰るつもりだったんです、あなたの車の中じゃなくて、自分の家の中に。こう見えて僕も忙しいんですよ。バイトもあるし、課題やレポートもある。それに、小説だって書きたいし、時間があれば資格の勉強もしたい。無駄にしていい時間なんて一秒もないんですよ」

 彼女は窓を開けると、ダッシュボードからラッキーストライクを取り出して、その先端にライターで火を付けると、「ラッキーストライクって、煙草の中で一番体に悪いらしいよ」と訊いてもいないことを話した後、こう続けた。

「君は家にどうしても帰って守らなければならないものか、バイトをしてなんとしてでも手に入れたいものか、それか自分の人生を売ってまで学びたいことでもあるのか。資格がなんだ。もっと言えば単位がなんだ。偏差値がなんだ。通帳の預金残高がなんだ。そんな数字は、君の情報ではあるかもしれないが、肝心な君の本質を語るには弱すぎる。私たちはいつも数字で表される。勝利の数、メダルの数、トロフィーの数、内定の数、告白された数、異性との経験数、学業成績、営業成績、そしてその全ての逆も然り。だが本当に目を向けるべきはその数ではなく、その数字を得るにあたって捨ててきた選択、そしてその葛藤の中にある本音の方だ。無駄じゃなかったと思える何かを成し遂げるには、何百回、何千回にも及ぶ無駄を蓄積して、無駄の裏付けをする必要がある。なぜなら人はやってもいないことは無駄かどうかもてんで分からないからだ。そうして数に拘るが故に無駄を省くのは、却って無駄を増やしていることもある」

 彼女は煙草の灰を指で弾いて窓の外に落としながら続けた。

「だがだからって闇雲になればいいってもんじゃない。私たちに急がば回っている時間はない。だから焦る。だが安心していい、その焦りはきっと正しい。それでも何か答えが欲しいって言うなら、一つだけ言えることがある。人はやりようによっては、思いようによっては、無駄を有意義な何かに変換させることができる。チートでもない。-裏技でもない。ただ人は、思い込みだけでノンアルコールでも酔える。つまりはそういうことさ」

 僕は彼女が垂れ流した彼女なりの哲学のように見せかけた能書きを、ほぼほぼ理解することができなかった。でも言いたいことの二割くらいは、辛うじてくみ取ることができそうだった。

「その暴論で、この無駄な暴走の言い訳をしようって魂胆ですか。生憎ですが、それは通じません」

 僕は残っている液体を全部飲み込んだ。喉の奥にはアルコールの後味が執拗に居座っていた。

「でも、正直に言っちゃうと、この時間は、なんか楽しかったです」

 僕が伏し目がちにそう言うと、彼女はまた、「素直でよろしい」と言った。


 こうして、母と佐野しか連絡先のなかったLINEには、アイコンもホーム画面も初期設定のままの彼女が追加された。この日の晩、母から「最近どう?」「仕送り送っておいたから不在表は注意して見ておいて」「バイトもいいけれど、あんまり無茶したら駄目だよ。体を壊さないようにね」などと通知が来ていたが、それらは既読も付けられなければ返信がされることもなかった。そして彼女から遅られてきた需要のなさそうなスタンプには、「よろしく」とだけ返した。アカウントの名前は、片仮名でナツとなっている。

 これが、僕の前に颯爽と現れて忽然と消えていった彼女との出会いである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛も、命も終わるものでよかった 四月 @shigatsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ