午後七時と言っても、もう六月に入りそうな夜はまだ少し明るかった。

 L号館の教室前で彼と別れた後、教室で昼食を取って、午後の講義もバイトもなかった僕は、家に帰って久しぶりに執筆作業に没頭しようと思っていた。と、いうより、佐野の約束なんて無視して夜中まで書き進めようと思っていたのだが、あまりにも彼からの着信がしつこいため、不本意ながら来てしまうことになった。電話で僕を呼び出した張本人が、待ち合わせの七時に五分遅れてきた時は、僕はとうとう頭にきて、「お前なあ、自分で呼び出しておいて自分が遅刻するってなに?あと、あんまり電話しつこい男は嫌われるぞ」と大声をあげてしまったのだが、彼は怒っている僕の方がおかしいのだという風に「いいじゃん五分くらい。細かい男の方が嫌われんだぜ」と僕の肩を叩いた。喜怒哀楽の中でも、怒るというのは特に体力を浪費する。その怒りが一方的だと余計に。ゆえに怒りも通り越すと呆れてしまうのだ。何より佐野のために無駄に使われていい体力など一つだってありはしないと思われる。

 天王寺には他のメンバーと待ち合わせしていた時間より三十分ほど早く着いた。

 改札を出ると、まるで自分たちの出会いが奇跡であると確信しているかのように見つめ合っているカップルがいて、その男女が公衆の面前で口付けをかました時に佐野が、「よく人前でこういうことできるよな」と言ったことには珍しく同意できた。退勤のラッシュもピークは過ぎたものの、まだ駅の構内は誰かと電話しながら歩いている人、出張から帰ってきたのであろうキャリーケースを持っているサラリーマン、抱えきれないほどの買い物袋を両手に下げた人など、たくさんの人が行きかっていた。

 どうやら今日これからの予定は、八時に駅から近くの飲み屋街の一角にある居酒屋に集合して、そこで一飲みしたあと、二次会はカラオケに行くことになっているらしい。そしてそのあとは、各々あわよくば好みの子を持ち帰って友達以上の発展を望んでいるのだろう。もちろん合コンとはそういう出会いを求める場所だ。だがこれっぽっちもそんなモチベーションのない僕が、そこにいるというだけで顔も知らない初対面の女性から、顔や服装の隅から隅まで、発言や行動の端から端までを性的な目で観察されると思うと、まだ飲んでもいないのに吐き気を催した。

 まだ時間に余裕のあった僕らは、佐野の提案で、天王寺駅に併設されている大きなショッピングモールをぶらつきながら、暇を潰すことにした。ただ突っ立っていたって仕方がないから、僕もそれを断る理由はなかった。自動ドアを潜って店内に入ると、目の前にあったエスカレーターで二階に上がった。東京で何度も左側に並んだが、大阪という街では右並びなのにはまだ慣れない。僕の後ろにいる佐野は、今夜来るもう一人の男と電話をしていて、その内容を聞くからに、その男は西沢というようだった。

 ショッピングモールには、有名なファッションブランドや、雑貨屋、日用品の売り場からアクセサリーまで、何でも揃っていた。僕らはそれを、童貞のまま生涯を終える男性は今までどれくらいいたのだろうとか、宝くじが当たったらどう使うかとか、もし人の命が永遠だったらそれは地獄か天国かどっちだろうとか、くだらない話をしながら見て回った。そのうち会話するのにも飽きた僕らは喋らなくなり、無言で店を行き来する二人の男の様子は、傍から見れば異様だったかもしれない。しばらくしていいぐらいの時間になると、彼はスマフォの画面を一瞬見て「そろそろ行くか」と言った。

 モールを出て、飲み屋街を目指す。今日は金曜日ということもあり、もう既に出来上がって管をまいている人もちらほら見受けられた。どこかからは学生と思わしきコールの声が、またどこかからは悪酔いした中年会社員の怒鳴り声が聞こえてきたりして煩かった。

 目的の店の近くまで行くと、店の前に誰か立っているのが見える。佐野が「西沢!」と叫ぶと、西沢と思われるその男は、こちらを振り向いて手を挙げた。

 西沢とは、今日この合コンの席で初めて顔を合わせた。僕と佐野が文学部なのに対し、彼は理学部らしく、佐野とはサークルで知り合ったのだと爽やかに言って、握手を求めてきたのでそれに応じた。悪い感じはしなかったが、いい意味でも悪い意味でも、なんの印象もない人、というのが初めて会った正直な感想だった。

 Tシャツに薄手のカーディガンを合わせ、下は黒のスキニーと、無難な格好をしている彼は、同じく白無地のインナーの上にチェックのシャツを着て、デニムを履いている可もなく不可もない格好の佐野と、一見見分けがつかなかった。しかし今思い返せば、似たような男は大学にも腐るほど存在した。右も左も似たような顔つきで、似たような服を着て、単位だとか、成績だとか、テスト対策だとか、企業だとか、似たような話ばかりを繰り返していた。

 思うに大人になるとは、こういうことなのだ。

 社会というのは決まった方向に進む水流のようなもので、その流れに揉まれるうちに、角は削られ、大きさは調節され、下流に行くに従って均等になっていく。

 子供から大人になる明確な定義はなくとも、ヤることしか考えていないやつも、酒を喇叭のみして乱痴気騒ぎしているやつも、精神を病んだ捻くれたやつも、真面目に真っ当に生きてきたやつも、二十歳を境に一緒くたに大人と呼ばれるようになり、大人という枠に、いや、それ以前に僕らは人という枠にぴったりはまるように生きることを強制される。

 つまり、皆がしていることを真似するというのは、生き方として正しくはなくとも一番安全でリスクもない正解な道なのだ。誰だって無駄に傷つきたくはない。できるだけ楽に、それでいて得をしたいというのは、動物の生存本能として正常である。

 ただ正解が必ずしも全ての人間を導くのかというのはまた別の問題で、少なくとも量産型にはなりたくないのなら、それを破壊する勇気か、逃げて逃げて逃げまくる根気が必要になるが、そもそも本当にそんなことをやってのける人間は、御託を並べている間に行動しているし、それを勇気だとも根気だとも思わないだろう。楽しんでいるやつに努力は勝てないと聞いた事があるように、異才は自らの生き方こそが常識だと言い切れる信念を持っている。孤独を恐れる一般人とでは、この差はどう足掻いても埋まらない。

 隣では佐野と西沢が「こないだの新歓でさ」などどいう話題で盛り上がっていて、僕はiPhoneで「狭山事件」とエリア51についての都市伝説の記事を読み耽っていると、程なくして約束の八時になり、女性の三人組が現れて、幹事であろうと思われる花柄のワンピースを着た女が「待った?」と訊いたのに対し佐野が「いや、今来たとこだよ」などと定番の嘘をさりげなく付いた。

 かくして全員が揃った一行はぞろぞろと居酒屋の暖簾を潜っていった。今から互いの品定めが始まることにまだ心の準備ができていなかった僕は、僕だけが異物であるかのような後ろめたさが喉から逆流しそうなのを我慢しながら、その一番後ろを付いて店内に入っていった。

 店内は独特の熱気が立ち上っていて、長袖ではいられそうもなかった。出入口を入るとすぐカウンター席が並んでいて、その向かい側には掘りごたつ式の座席があり、その二つを分け隔てるかのように細長く続いている通路の奥から、店員が忙しそうに出てきて僕らをもてなした。佐野が「予約してあった佐野です」と手慣れた雰囲気で言うと、店員は疲れているのを懸命に取り繕ったような空元気で僕らを奥の座敷へと案内した。

 席には、男女が三対三になるように対面して座り、壁の方から順に西沢、佐野と座り、通路側には僕が座った。そして女性陣は、壁側に座った女からそれぞれ結城、吉田と名乗り、僕の正面にあたる女はなぜか名前を言わず、「ナツって呼んでください」とだけ告げたので、場の空気は戸惑いで一瞬凍り付きそうになったが、佐野の「可愛い名前だね」というファインプレーで何とか難を逃れたといった感じだった。空気を乱した当の本人は、何食わぬ顔で「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀までしていて、変わった女だなと思った。

 席に着いて一段落したところで、佐野が中心となって先に飲み物を頼むことになった。

 注文を取りにきた店員に佐野が「カシオレを二つとファジーネーブルを一つ、あとレモンサワー一つ」というところまで小気味よく喋ると僕の方を見たから、僕はジントニックを、僕の前にいるナツという女は、「私お酒駄目なの」と照れながらカルピスを頼んだ。僕はそれほど酒に強いわけではなかったが、この状況を素面で乗り切るのは耐えきれる自信がなく、できるだけ早く酔ってしまいたかった。

 佐野の愛想のいい性格はここでも存分に発揮された。

 彼の「医大ってやっぱ忙しいですか」という質問が口火を切る形となって、彼女らは女子医大あるあるの人間関係のいざこざについてや、私生活の潤いの無さや、合コンの類に参加するのは初めてなんだということを次々に語り、佐野を筆頭に西沢もそれに興味深そうに頷きつつ、時々口を挟んだりしていた。

「そういえば、佐野君のお友達は何をしている方なの?」

 リーダー格と思われる花柄のワンピースの女が結城だったか吉田だったかは早くも忘れてしまっていた。そんなことより、目の前のナツという女性のどことなく計算されたような、どんな振る舞いもするには容易いが、敢えてこのキャラクターを選んでいるのだとでもいうような、隠しきれていない傲慢さとその所作に、僕は無意識に見入ってしまっていた。

「そうだそうだ、紹介がまだだったね。こいつは西沢って言って、俺と同じ大学の理学部に通ってる。頭もよくて運動もできて、何でもできちゃうやつでさ、こいつとはサークルで知り合ったんだ。そんでこいつは俺と同じ文学部。高校の頃からの付き合いでさ、こいつ、こう見えて小説とか書けちゃうんだぜ。将来作家志望でさ。今のうちにサインもらっておいた方がいいかもよ」

 まだ酒も入っていないのに彼はいつにも増して饒舌だった。

「えー小説?すごーい」

 胸のあたりで小さく拍手をしながら、彼女たちは一斉に僕に好奇の目を向けた。

 人の夢は、話題作りのために簡単に語られていいものではないと思いつつ、なんだかんだ悪い気はしていない自分が気持ち悪くて、僕は反応に困って返事を濁した。

 そうこうしているうちに、頼んでいた飲み物が運ばれて来て、一番通路側にいた僕と、ナツと名乗った彼女がそれを自然と配る立場になった。飲み物が全員に行き渡ったところで、佐野が乾杯の音頭を取る。

「えー、じゃあ今日は楽しもうってことで、乾杯!」

 かちゃん、とグラス同士がぶつかる音を皮切りに、僕はジントニックを一気飲みした。

 それからのことは、よく覚えていない。早急に酔いたかった僕の思惑は、一杯目にジントニックを飲み干し、立て続けにテキーラとウォッカを二杯ずつ飲み切ったあたりで成功して、視界が軽く揺れ始めていた。僕が一人飲み倒している横で、平成の次の年号の予想大会が行われていたのはうっすらと記憶に残っている。

 しかしこの後の夜のことを、僕はおそらく一生忘れることはないだろう。

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