食堂はお昼時という事もあって多くの学生で賑わっていた。

 入学式から一ヶ月以上が過ぎ、もうすぐ五月も終わろうとしている。学生の中ではもう既に派閥ができ始めていて、それぞれ五、六人からなるグループで机を独占している者が大半を占めていたが、その中には流れに乗り損ねて団体に属せなかった人や、僕のように普段から一人を好む質の人間が、本を読むなり、何か勉強に励むなり、ヘッドフォンをつけてまるで自分は別の世界の人間ですとでもいうかのように振舞っていたりしているのを、僕は長蛇の列が出来ている受付の最後尾に並びながら見ていた。こうして食事をすることが目的の食堂でさえ、ちょっとした人の性質が垣間見えるから面白い。群れを成して生きる中でもその構造は統率する者とされる者に分かれるだろうし、集団に溶け込むのが得意な人もいれば不得意な人もいる。一人でいることを厭わない人もいれば、不本意ながら何らかの事情があって一人でいることを甘んじている人もいるかもしれない。十人十色という言葉があるが、だがしかしそこに優劣を作りたがるのもまた人間だ。

 順番が回ってきて、僕は唐揚げのセットを注文し、レジを済ませる。白いユニフォームを身に纏った従業員に持ち帰りかここで食べるかを訊かれて、僕は迷うことなく持ち帰りを選んだ。

 揚げたての唐揚げと白米が入っているパックを手に持ち、僕は一応空いている席がないか探しつつ歩いた。しかしやはり昼のピークという事だけあって、どこもかしこも人に溢れていたから、昨日のミュージックステーションがどうだとか、流行りのアプリがなんだとか、やれ飲み会、やれサークルの集まりなどと言っていかにも学生を謳歌していそうな連中を横目に、僕は足を早くした。

 食堂を抜けると、僕はその足で教学部やキャリア支援部、図書館などがある一番大きな中央棟の横を突っ切ってL号館の方に向かう。多種多様な学部があるこの大学の面積は広く、学部ごとに主な建物が分かれていて、皆が共有して使うのは中央棟と食堂くらいだ。L号館は小さい教室が集まっている建物で、少し高台にある大学の敷地の端に建てられているL号館からは、巨大なオフィス街や歓楽街がよく見えて、ここからの景色を僕は気に入っていた。そして食堂からここまで歩いてくる間に、唐揚げがいい塩梅に冷めて猫舌の僕でもおいしく食べられるという事に気付いたのは、四月の終わり頃だった。それから僕は、昼食の時間になるとここで空き教室を見つけて、食堂のメニューの中でも一番好みの唐揚げを食べるのが日課になっていた。退屈な授業と、その学費を稼ぐためのバイトに支配されている僕の生活の中で、この時間はある意味その二つから解放された安寧の時間だった。しかしその平穏もあの男によって突如壊された。どこから見られていたのか分からないが、とうとうここも彼に見つかってしまった。

 「お前、いつもこんなとこで飯食ってたのか」

 背後から聞こえてきた声の主は、振り向かずとも分かる。何よりこの大学の学生の中で僕に話しかけてくるような物好きを僕は一人しか知らない。いつものように教室に入ろうとしていたところを後ろから佐野に呼び止められた。

 「今まではそうだったけど、お前に知られたんなら場所を移すことにしよう」

 「いや、いいって。別にお前の妨げをしたかったわけじゃないんだ。たまたまここに入っていくのを見かけたから声かけただけで」

 彼はいつになくよそよそしく目を泳がせていて、何かを言わないでおこうとしているのをその顔が物語っていた。だが彼の隠している事情も、僕の唯一といってもよかったこの安息の地が発覚してしまったことに比べれば随分些末な問題だった。彼の間合いの広さは、僕が守りたい個人的な時間やスペースまでもをいとも簡単に越えてきて、悪びれもせずに侵略してしまう。その暴力的ともいえるコミュニケーション能力の、使い時も使いかたも熟知している彼の周りには、僕の知る限り、高校の時から人が絶えたことがなかった。しかしそれが、僕のように一人でそっと暮らしていたい人のテリトリーを縦横無尽に破壊しているという事を、彼は自覚しているのだろうか。

 「妨げをしたくないのなら初めから声をかけるべきではないって、お前は小学生の時に先生から習ってこなかったのか。だとしたら、女を口説く前にもう一回一年生からやり直してこい。あとなんか言いたいことがあるんならなよなよしてないではっきり言え」

 逐一子供のように突っかかってしまう僕が駄目なのか、それとも彼の不配慮が問題かを求めようとすれば、それは宇宙の面積を計算するよりも果てが見えず、最強の盾か、最強の槍のどちらが強いのかを証明するくらい終わりがない堂々巡りだと思われた。

 「ああ、悪い。どうでもいいんだけどさ。俺もよくここで飯食ってんだよね。ほら、人混みって情緒もくそもないじゃん。女性とスマートな会話をしようと思ったらさ、静かなとこの方がいいんだよ。ここ、景色もいいし」

 僕がこの眺望を満喫していたのと同じ空間で、佐野がパステルピンクの背景でお馴染みの恋愛ケータイ小説か、ギャル攻略ゲームばりの展開を人知れず起こしていたことを想像すると鳥肌ものだったが、今それを口に出してしまったら、いよいよもうこの大学の全てを憎んでしまいそうだったので我慢した。そんな僕の気苦労も知らず、彼は「お互い、知らなかったという事で」と、手を合わせながら僕の様子を上目遣いで伺っていた。

 「お前がとどこでどんな女と話をしようと知ったこっちゃないがな、もし僕がおいしく昼飯を食べている時にお前らの喘ぎ声でも聞こえてみろ。その時はお前の命日だ。この校舎ごと燃やしてやる」

 「ははっ、気を付けるよ。あ、そう言えばさ、お前今晩何してる?」

 彼が僕の予定を聞いてくる時、もう既に僕の予定など関係なく彼の予定の中に僕が組み込まれていることを知っていた。

 「今日は家に帰って小説の続きを書くんだよ。お前と違って、俺はバイトもあるし忙しいんでね」

 彼とくだらない会話をしていたら、丁度いい温度だった唐揚げも冷めきってしまっていた。

 「今日さ、天王寺で女子医大の奴らと合コンなんだけどさ。俺の友達が急に用事でこれなくなって、男の席が一つ空いちまったんだよ。お前、来ない?」

 「遠慮しておく。合コンに出会いを求めてくるやつになんの魅力も感じない」

 僕は硬くなってしまった唐揚げを立ったまま口に放り込むと、それを食いちぎりながら吐き捨てた。しっかりと断りを入れたはずなのに「じゃあ、七時に駅前で」と、頓珍漢な応えが返ってきたから、僕はこの世には人の言葉が理解できない人種がいるという事を学ぶか、僕が伝えたい言葉が、極端にそのままの意味で相手に伝わらないこともあるという事を知らなければならないようだった。

 「おい、だから行かないって」

 そう言って振り返ると、そこにはもう廊下を歩いていく佐野の背中だけが見えて、僕はその背中が校舎を出ていくのを黙って見送った。

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