三
「教授。今お時間よろしいでしょうか」
ある日の文学の講義のあと、気が付くと僕は帰り支度をする教授の手を止めていた。
「ええ。なんでしょう。講義の質問かね」
「いえ。講義というよりかは、もっと人生において本質的で直接的な、正と死についての質問です」
教授とまともに目を合わせるのはこれが初めてだったにも関わらず、僕は何故こんな暴挙に出たのか。今になっても説明がつかない。今まで個人的に話をしたことのある学生でないのに、嫌な顔一つせず聞いてくれた教授は人として多分立派だし、教育者としても正しかったかもしれない。
「ほう」
彼は興味があるような、ないような、どっちとも言えない返事をした。
「教授は、生きるという最低な行為についてどう思いますか」
「どの部分がどう最低だと、君は考えるのかね」
「それはもう、全てです。生きていく上で、自分で自分の全てを理解して制御することって不可能だと思うんです。昨日食べた朝食だってすぐには思い出せなかったり、つい二秒前前まで言おうとしていたことが思い出せなかったり、とにかく忘れてしまう生き物じゃないですか、僕らって。忘れてしまうのはまだ許せるとして、そもそも覚えておこうとしないことだってあって、そうした無責任さで簡単に傷つけ合って生きることは、最低だと思いませんか。誰かの正義は誰かの悪になりえるとは言いますけど、それを自覚し生きている人ってどれくらいいるんですかね。つまり僕が僕として生きるだけでも、誰かを傷つけていたかもしれないじゃないですか。誰も傷つけずに生きることができないのなら、どうすればいいんですかね」
彼はしばらく熟考したあと、「どうもできないさ」と言った。
「君は自分が神様だとでも思っているのかい?それか、自分が完璧な人間になれるとでも?人一人にできる事なんてたかが知れてる。大概は自分の事で手いっぱいになるものさ。私も若いころはよく悩んだものだよ。もし君が、人を傷つけるのがそんなに怖いって言うなら、それはよく言えば優しさとも取れるけど、過ぎた優しさは自らの身をも滅ぼすってことを君は覚えた方がいい」
無論、僕は自分が完全で無欠の人間だなんて思っていないし、優しさも、過剰になれば卑屈である最たる例を知っていた。
「傷つくよりも、傷つけることの方が怖い人と、そうでない人の違いってなんなんですかね。どうでもいいですけど、教授は性善説を信じていますか」
「私は信じているよ。わざわざ悪い事をしたくて生まれてくる人なんていないでしょう」
「でも悪い事って、どこで線引きしたらいいんですか。必要とされたくて体を売る人とか、生きてる実感が欲しくて手首を切る人とか、アルツハイマーで大切なことを忘れてしまうのが辛くて殺してくれと切願する人、そんな人を憐れんで殺す人、世間的には間違ってても、悪だと言い切れない事っていっぱいあると思うんです。そういう人にとって、正しさってなんの意味があるんでしょう」
ふと辺りを見渡すと、二百人近くが入るこの大講義室に残っているのは、僕と教授の二人だけになっていた。講義室の外では学生たちの楽しそうな声が響いていて、僕は耳を塞ぎたくなった。
「難しい問題だね。だから君自身がさっき言ったように、誰かの正義は誰かにとっての悪なんだよ。全員を幸せにできるなんて思いあがらないことだね」
教授は手元につけていた高そうな腕時計をちらちらと見ていた。毎年少なくない志望者がいるこの大学で教授を務めるほどの人だ。忙しいであろうことは容易に想像できる。
「ですから。僕が言いたいことはですね。そうやって誰もが全員は幸せになれないってどこか諦めて、そして理不尽な不幸には見向きもしないじゃないですか。仕方がないんだって面をして。そうやってしか生きられないのが最低だって思いませんか」
何を熱くなっているんだろうと俯瞰している自分がいる傍らで、僕は教授に向かって話すことに必死だった。共感が欲しかったのか、否定してほしかったのかは未だにわからないけれど、今思えばただ八つ当たりがしたかっただけなのかもしれない。熱が入っている僕を見て、教授は初めてあからさまに嫌そうな顔をした。
「確かに最低なのかもね。君の言い分もわかる。だけど最低は最低なりに考えて生きるしかない。そりゃ世間には色んな人間がいる。他人を平気で攻撃する人だっているだろう。でも同等数優しくありたいって思いながら生きている人の事を、君のその最低呼ばわりが傷つけているかもしれないことについては考えたことがあるかね」
「僕の発言が教授を怒らせたのなら申し訳ない。僕は教授と言い争う気は全くないですから。必要なら撤回しましょう」
彼は気まずそうに顎を掻きながら、「君は大分拗らせているようだね」と、嘲笑交じりに言った後、「続けなさい」と静かに囁いた。
「ありがとうございます。では最低は最低なりに考えるしかないとして、本当に好きな人に本当に好きなことはいつまで経っても伝えられなくても、あらゆる絶望も誰かの二番煎じでも、孤独同士が集まったところで決して二人以上にはなれなくても、虚しさを埋める行為全般がその虚しさを増幅させたとしても、知識も感情も金も最後は無になるとしても、それでも僕ら生きなければならないんですかね」
教授は短く咳ばらいをして、また腕時計を確認した。
「ところで君は最近はよく眠れているのかい」
五月に入ってからの二週間、カフェインの取りすぎなのか、それとも鬱屈とした日々の疲れからか、僕はほとんど眠れないでいた。
「いいえ。睡眠が今の僕の問題を解消できるとは思えません」
「ご飯は?一人暮らしなら、どうせろくなものも食べていないんだろう」
「今さっき言ったように、食事も今の僕の問題を解消できるとは到底思えません」
ここのところ、バイト先のコンビニの廃棄をもらって、それで食いつないでいる生活だった。生活費と学費を稼ぐ身としては、バイトをしている時間はお金を使わなくて済むし、食費も抑えられて一石二鳥どころか三鳥と言っても過言ではなかった。母からはよくちゃんと食べているかと心配のメールが来たり、仕送りを送ろうかとも言われていたが、全部を断っていた。自分の夢のために家を出てまで、家族に迷惑をかけたくなった。
「いいかい。まずはちゃんと寝て、ちゃんと食べなさい。最低限の生活が送れるようにまずは心がけることだね。細かい話はそれからだ」
「心配してくださるお気持ちは大変嬉しいですが、僕は僕で何とか生きてるので大丈夫です。今日はお時間を取らせてしまって申し訳ありません。今後はもう話すこともないと思いますが、僕は教授のお言葉はごもっともだとは思っています」
「その気持ちは嬉しいけど、君はもっと自分を大事にした方がいい」
「自分よりも大事にしたいものがある人にとって、その言葉はなにも響きませんよ」
「自分を大切にできない人が、他人を大切になんてできやしないものだよ」
教授がようやっとまともな大人みたいなことを言ってくれたので僕はなんとなく安心した。僕が教授に対して求めていたものはこれだったのかもしれない。僕の言葉を、道徳の教科書にでも載っていそうな綺麗事で、すかさず一蹴して、否定してほしかったのかもしれない。その疑惑は、頭の中で彼の言葉を反芻しているうちに徐々に確信に変わっていった。
「では自分が一番大好きだと言いのける人間がいざという時に自分を犠牲にできると?」
「なにもこういう人間はこうなんだって決めつけなくたっていい。君が思うほど人の心の機微というものは単純ではないからね」
「ごめんなさい。ちょっと疲れているんだと思います」
「私もそう思う。このあとの予定は?」
「この後は空きコマです」
「では家に帰って休むといい。疲れている時の思考なんて大体悪い方向にしかいかないのだから」
これだけ僕の意味不明な世迷言に最後まで付き合ってくれて、その上僕の体調まで気にかけてくれる教授の正しさがあまりにも真っ直ぐで、僕はもう彼と話す価値はないなと思った。
「今日はお時間を取らせてしまい申し訳ないです。教授の事は好きになれそうもないですが、教授の文学の講義は好きです」
僕は精一杯の皮肉を込めてそう言うと、彼はまんざらでもなさそうに「ありがとう」と嬉しそうな顔をしたので、僕はその顔を睨みつけて大講義室を後にした。
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