ファストフード店を出て、最寄りの駅からJRの電車に飛び乗る。どこに行くのかと彼に訊いたところ、一週間前に他大学の経済学部と合コンした時に知り合った好みの女性と今週末にデートするらしく、その子が海を見たいと言うからその下見に行くのだと意気揚々と語った。

 「お前の色恋沙汰に僕を巻き込むなよ」

 まあいいじゃないか、と彼は屈託ない笑顔を見せる。きっと彼は笑えばどんな悪い状況も何とか切り抜けられるのだと思っているのだろうし、実際に今までもそうして危機回避をしてきたのだろう。佐野の笑い方からはどことなくそんな絶対的な自信が感じられる。自分の武器を完全に理解してそれを使いこなすのは一種の才能だ。それが受験勉強だったり、スポーツであったり、あるいは人付き合いであったり。僕にはこれが武器だと言い切れるものが一つもない。

 現在、日本の平均寿命はおよそ男性八十一歳、女性八十七歳だと言われており、男女ともに世界トップスリーに入っているが、果たしてこの健康な国日本で八十余年生きたとして、死ぬまでに自分の向いているものに巡り合える人ががどれだけいるのだろう。幼少期には個性が大事だと散々言われるくせに、小学校では協調性を習い、中学校、高校と守れない者は罰せられるようになり、髪色だとか、ピアスだとか、あまつさえ靴下や下着の色まで厳しく統率され、人と違うことは恥ずかしい事だと学ばされるこの国で、自分の確固たる武器に出会える人間はそう多くない。常識という名の副流煙が蔓延した喫煙室みたいな教室で、僕らは列から乱れることの恐ろしさを学ぶのだ。

 東京の車内も大阪の車内も、似たような風景だ。スマホの画面を真剣な面持ちでのぞき込んでいる人がほとんどで、つり革を握りながら項垂れる会社員が、こんな昼間にも列をなしている。この社会に打ち勝つ武器を手に入れられなかった行く末。だがその多くの犠牲によって、社会が成り立っているのもまた事実なのだ。その輪の中に入りたくなければ、そこから逸脱する才能と、孤独を恐れない勇気がいる。

 一つ前の駅で多くの乗客が降車し、空いた席に僕らは並んで座った。僕は窓枠に肘をついて移り変わる景色を呆然と見ていた。横に座っている佐野は呑気に眠りこけている。

 こうしてあり得ない速さで変わっていく街の様相を眺めていると、疑似的に走馬燈を見ている気分になる。墓標のように聳え立つビル。高速道路。アパートのベランダに干されている洗濯物。古びた住宅街。その隅にある公園でキスする高校生の青さ。踏切で仲睦まじそうに手をつなぐ家族。瞬く間に過ぎていく今のその一コマ。僕とは決して交わらない軸で生きている人たち。そのどれもがいちいち僕の思い出と結びついて、思い出したくもない記憶に頭を支配される。そして厄介なことに記憶には密接に感情が付随しているもので、僕はいつまでたっても過ぎた傷に悩まされる。二百年前に生きた人たちが、苦労して歩いていた距離を今はものの数分で行き来することができるように、二百年後にはiPhoneに人の心をQRコードみたいに読み取る機能が搭載されていたりしないだろうか。それか癌の腫瘍を見つけ出すアプリでもいい。寝ているだけで勝手に風呂に入れてくれる装置なんかもあったらいいかもしれない。それぐらい科学が発展していたら、僕になんの宣告もなく唐突に襲ってくる感傷にも、何らかの対策が打てたかもしれない。だがしかし、残念ながらそれらが完成するころには僕はもうとっくに死んでいる。

 「おい、ここだ。降りるぞ」

 つい今の今まで寝ていた佐野がいつの間にか目を覚ましており、僕らは急いで電車を降りる。目的地に到着したかと思ったら環状線から南海線に乗り換えなければいけないらしく、僕は不満ながらも、人込みをかき分けるようにして彼の後ろ姿を追いかけた。

 佐野の後に続いて乗車した電車は先ほどの電車よりも大分空いていて、関西圏の有名大学の広告がやけに目立っていた。アナウンスが発車を告げ、ゆっくりと車体が動き出す。電車はいくつかのトンネルを通過したり、橋を渡ったりして僕らを運ぶ。田園地帯が目立つようになってきた頃にはもうコンクリートと鉄で埋め尽くされた街は随分と後ろに見えるようになっていた。遠くに見える名前も知らない鳥の群れがしばらく電車と並走していたが、次第に電車は群れを置き去りにした。僕はその一部始終を呆然と眺めていた。

 「どこまで行くんだよ」

 「それは着いてからのお楽しみってやつだろ」

 さすがに苛立ちを抑えられず溜息交じりな僕と、少年が初めて遊園地に遊びに行くみたいに目を輝かせている彼とのテンションは、結露でもできそうなくらい温度差があった。社内アナウンスでは、人身事故により一部の路線が遅延、運航中止していることを放送しており、放送の最後は「ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした」で締められていた。人一人が電車に飛び込んで死んだって、第一声がお悔やみの言葉ではなく謝罪なのはこの国の文化だが、そんな人間が今まで頭の片隅にもなかったくせに三月十一日にだけヤフーで3・11と検索しましたアピールをしているのだと思うと寒気がしてきた。「鉄道業界では人身事故のことマグロって言うらしいぜ」なんてぺらぺらとうんちくを垂れ流している佐野には、もしかしたら血も涙もないのかもしれない。

 目的の駅に降り、改札を出る。老朽化した鉄骨になんとか支えられている古い駅で、降りてきた乗客は僕と佐野の二人だけだった。切符売り場がある広場では、名前も聞いた事のない宗派の宗教の勧誘が立っていて、そのピクリとも動かない表情はマネキンみたいで、夜に見れば幽霊との見分けがつかなそうだ。

 駅を出ると、ほんのり潮の香りがした。佐野はスマホでグーグルマップを開いて位置を確認していて、そのあいだに僕は自販機でボスの缶コーヒーを買った。プルトップを開けて、乾いていた喉を潤す。この頃微糖でも甘すぎるよう感じてしまうのはブラックの飲みすぎだろうか。

 駅から海は目と鼻の先だったが、細い脇道が多く、入り口にたどり着くのには少々時間がかかった。海賊船の船首をモチーフにしているような建造物の下を通ると、一面に砂浜が広がっていた。何のことはない、それだけしかない普通の海だ。水質が特に綺麗なわけでもなく、何か珍しいものがあるわけでもない。ただ、関西空港から飛行機が飛び立っていく様子がよく見えるところだった。

 「ほんとにここか。なんにもないぞ」

 「確かにここだ。女を落とすのに余計なものは何もない方がいい。それにここからはラブホが近い」

 どうやらそれが本命だったらしく、水平線からそのまま右に視線をずらしていくと、まだ看板の光っていないラブホテルが見えた。

 「お前は全世界の海愛好家に謝れ。土下座して靴でも舐めろ」

 「俺に言うならあんなとこにホテルを建てた建設会社に文句言ってくれ」

 佐野はお得意の笑いで誤魔化そうとする。

 「うるせえ。お前の死因は恨みを買った女からそのどてっぱら刺されて殺されるか、溺死がお似合いだ」

 ははっ、彼はいつものように笑いながら波打ち際のぎりぎりのところまで歩いていくと、そこに腰かけた。なんとなく僕は彼から二メートルほど離れたところに腰を下ろした。今日は風が強く、波が荒い。飛行機雲が三本並んでいて、それが人の顔のように見えた。佐野が「火、ある?」と訊くからライターを渋々貸してやると、彼は咥えていた煙草に火をつけた。彼はマルボロを、僕はハイライトをよく好んでいたが、煙草を購入する時、どちらかと言うと老け顔の僕は年齢確認などされたことがなく、童顔な彼に買ってくれとせがまれることが多かった。

 砂浜には、打ち上げられた木々や海藻があるくらいで、ごみというごみも見当たらなければ、これといって目を引くものも落ちていなかった。

 僕らは寄せては引いていく波の音を聴きながら煙草を吹かした。波の音は母親の胎内の音に似ているらしく、リラックスできる効果があるらしいが、どこまでも深く、広い水平線。覗き込もうとする者を引きずり込まんとする濃い青。吸い込まれそうな不穏感は、安心とは程遠いものに感じられ、寧ろ不安を煽る気すらした。だがそのどことなく冷淡で、孤高で、こちらの感傷になど全然配慮してくれなそうなその海が、僕と似ているようで、けど全く似ていなくてよかった。たとえ僕がこの海をどんなに思い恋焦がれようとも、それを意にも解さなそうな、僕がどれだけ好意を伝えても、遠慮なく嫌いだと言ってくれそうな、そんな一方的な片思いみたいな感情を、僕はこの海に抱いていた。

 他に友達なんて腐るほどいるはずの佐野が、金魚の糞のように僕の周りをうろつくようになってから、邪魔なことの方が多かったが、感謝していることも片手で数えられるくらいはある。そのうちの一つがこの海である。彼のデートの下見に付き合わされて来たのを運命なんて呼びたくはないけど、僕はこの海に何か運命的な出会いを感じたのであった。

 そしてこの日から僕は、事あるごとに、事なんてなくたって、この海に足繁く通うことになる。

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