歪の起点

清井 そら

歪の起点

「ただいま……」

 学校から帰り玄関の戸を静かに開け、音を立てないように閉めて小声で帰宅の宣言をすると二階の自室に向かう。細心の注意を払うが、階段が軋む音がテレビの音だけ響くリビングに届いてしまった。「しまった」そう思った時には遅かった。

「帰ってきてるんなら、ただいまぐらい言えないの! とっととこっちきて夕飯作んなさいよ!」

 ああ、今日の母は機嫌が悪い日だ。静かに深くため息をつくとリビングに降りてエプロンをつける。いつも部屋に戻る前に呼び出されるから制服が汚れないようにキッチンにしまっておいている。一旦部屋に戻って着替えてこようとしたものならさらに機嫌を損ねる可能性が高い。

 時計を見て悲しくなる。ちょうど午後4時、普通の同級生なら部活しているか、委員会活動をしているか、放課後の寄り道をしている頃だ。高校生にもなって日がくれる前に帰宅する人はほとんどいない。ましてや4時に帰ってすぐに夕飯の準備をする人なんていない。

 冷蔵庫の中身を確認し献立を考える。今日は母からの指示がないので好きに作って良いということだろう。

「揚げ出し豆腐でいい?」

 そうたずねるとソファーに腰掛け私に背を向けたまま、好きにしなと返ってきた。許容範囲の献立のようだ。取り掛かるとしよう。

 

 料理自体は嫌いではない、もともと仕事人間だった元看護師の母は料理をするのが大嫌いなため、干渉してこないし自分で好きなものを作るのはそれなりに楽しい。嫌いなのは、食卓を囲む時間だ。母は学校では何をしているのか、勉強はどうなのか、一通り尋問したら私の将来の設計について語り出す。「地元の専門学校に進学して手に職をつけて実家から通学し、地元で就職しろ」最近は専門学校に通うことになっている。この前までは「地元の国立大学に進学しろ」、それより前は「公務員になって高卒で地元の市役所に就職しろ」、どれを取っても私を解放するつもりはないようだ。高校だってもっと上のレベルを目指したかったのに家から近い中堅の高校に入れられ、当たり前のように部活に入ることも許されず、交友関係も干渉される。

 父も同じ時間に食卓を囲むことがままあるが、基本的に口出しはしてこない。母の逆鱗に触れたくないのは父も同じだ。同情はするが母を選んでしまった父の落ち度でもある。

 昔は感情的な面が垣間見えたくらいの割と綺麗な女性だったらしいが歳を重ねるごとにシワは増え目はつり上り若かりし頃の面影などない。図太くなり更年期が始まった今、もはやほぼ毎日当たり散らし機嫌のいい日は月に数日ほどだ。加えて、常時母の主張には一貫性がない。学習して対処しようなどというのは理不尽の前では何の意味もない。

 夕食を終え、風呂に入り終えたらようやく自由が訪れる。自室に戻りひっそりと過ごす。趣味もない私は勉強以外特にすることがないので成績はかなりいい方だ。

 休憩がてらSNSを眺めるのは毎日やっているが投稿したりはしないし、惰性で眺めているだけで趣味と言えるほどのものではない。気になること以外も視界に入ってくるのは日常ではなかなかないため、つい手を伸ばしてしまうのがSNSの恐ろしいところだ。

 今日もクラスメイトの日常がタイムラインのほとんどを占めていた。その中に異様な投稿を見つけた。明らかにフリー素材の風景のアイコンのそのアカウントは彼氏とのデートや逢瀬を赤裸々に投稿していた。私に関係なくランダムでオススメされたもののようだったが、彼氏も作らせてもらえない私にとってはあまりにも新鮮で、そのアカウントの過去の投稿にふと出来心で興味を持ってしまった。内容に対してフリー素材を使っているアイコンという裏アカウントの雰囲気に野次馬心が騒いだのだ。

 なんの変哲も無い、怯えながら暮らす日々で刺激を求めていることにその時気がついた。本当に久しぶりに好奇心をワクワクしている。自分でもかなり野暮なことをしているのはわかるがこの高鳴りに逆らうことなんてできない。

 アカウントの自己紹介文には「nurse ♡Since.2017.10.7」と書いてあった。看護師であることと彼氏と付き合い出した日以外の情報がないことが実に裏垢らしい。投稿のほとんどが彼氏と旅行に行ったことや遠くのホテルに訪れたことを官能小説さながら鮮明に描写したものだ。未知の世界に引き摺り込まれている感覚だった。

 しばらく投稿を遡っていると微かな違和感を覚えた。しかし、違和感の正体には気がつくことはないままその日は眠りについた。



 家と学校を往復して母親に雑用を命じられるか勉強するだけの日々が続いた。これが日常だが、物足りなさを感じてしまう。時々SNSを開いては例のアカウントの投稿を確認したり、他の刺激的な生活をしている人々を垣間見たりするのがやめられなくなっていた。

 ルーティーンの通り、夜中自室で勉強してキリのいいところでベッドの横たわりSNSを眺めていた。同級生たちが、部活帰りに大型ショッピングセンターに寄ってタピオカミルクティーを飲んでいる写真が投稿されていた。屈託無く流行りに乗って自由に寄り道できるのが羨ましくないと行ったら嘘になる。羨ましくなったり、母に反抗する時期はとうに終わった。体力の無駄だということがわかってしまって。せめて高校を卒業するまでは穏便に過ごそうと、あと1年半の辛抱だと、そんなことを思っている時にふとあることに気がついたのだ。急いで以前見つけた看護師のアカウントの投稿を見返すと違和感の正体が判明した。旅行に行った時も美味しいものを食べた時もデートをした時も人の写真はおろか景色の写真ひとつ投稿されていなかった。このような投稿には移り位がいい写真を載せる人の方が多数であるような気がしていたため、違和感を覚えたのだ。どうしても正体をバラしたくない人もいるのかなとは思ったが、それでは事細かに自分の行動を投稿する理由はわからない。また新たな謎が残ってしまった。また新たな謎を抱えながら生活することにすら心が踊っている。かなり看護師である彼女の正体や意図について興味を持ってしまっていた。

 

 それからの日常が大きく変わることなんてことはなかった。息抜きが増えるだけでは救いなんてものは訪れない。母の機嫌にはもともと波があるが、浮き沈みが激しくなってきているのを感じる。父はそんな母を避けてか、家に帰らないことが多くなった。会社の飲み会、同窓会、出張。大人は逃げる名目があって羨ましい。自分から飛び込んだ父は自由があるのに、私は自ら選んだわけではないのに不自由だ。救ってもくれずに一人逃げ出すようになった父などもう信頼なんてしていないし、軽蔑すら覚える。

 たまるだけのストレスはやり場なんてものはなく、ごまかして過ごすしかなかった。いい息抜きである看護師のアカウントは最近進展を見せた。「彼の奥さんがすっごく機嫌悪くって彼は最近疲れちゃってるみたい……。私が癒してあげないと!」この投稿でどこの誰かも知らない看護師の女性の恋愛事情がわかった。不倫だったから証拠を残さないために写真の投稿を避けたのだ。合点がいった。スキャンダラスな展開は胸踊るもので、今後の展開に期待が募った。と同時に、他の家庭でも機嫌の悪い妻に悩まされているんだと気付き、不倫をしている看護師の彼氏である既婚者にわずかばかり同情した。同情してから、同情する価値もない行為をしていることを思い出し無関心が戻った。


 今日はせっかくの土曜日だというのに父が出張な上に、私が作った夕飯が気に入らなかったらしく母からのあたりはひどいものだった。早々に自室に逃げ込み現実逃避をする。 

 SNSのお気に入りのアカウントの彼女は、最近写真をあげるようになった。何の変哲も無い景色の写真だったが、驚いた。あまり外に出ない私でも何度か見たことのある景色。まさかとは思ったが看護師の彼女は同じ市内で生活しているようだ。この頃は、登校中に働きに出る若い女性がいるとその人なのではないかと思ってしまう。

 自分でもなぜそんなに彼女によう身を持っているかがわからないが、どうしても展開が気になってしまう。

 今日の彼女は旅行中のようだ。鎌倉旅行に行ったと文面だけの投稿があった。


 休日が開け、食卓の上に父の出張のお土産が置いてあった。父とはほとんど顔を合わせないし、顔を合わせても会話をすることは滅多にない。いつも出張明けはお菓子が食卓に置いてあるが、そのお菓子がどこのお菓子か調べるまで父の出張先を知らない。今日置いてあった「半月」というお菓子が鎌倉のものであって、父が鎌倉に行ったのであろうことも調べるまで知らなかった。

 「半月」をさらに半分に割りながらふとしょうもないことを考えた。あの看護師の彼氏が父だという可能性だ。くだらない妄想だ。そう思いながら父の出張や飲み会の日を思い出そうとする。詳しい日にちなんて覚えていないが。そんな日はだいたい母の機嫌が悪く、私が息抜きで例のアカウントをよく見る。そういう日に限って投稿されていなかっただろうか? 彼とのデート記録が赤裸々に書かれていたのではなかったか? まだ家庭の域を出ないが、くだらない妄想が点と点を繋げてしまった。 

 こうなっては真実を確かめたい。それしか考えられなくなった。お菓子をちょびちょびかじりながら頭の中で計画を立てた。


 父が「飲み会で帰りが遅れる」と言った日と、看護師の投稿の「彼と一日デートの日」が合致した時を狙い真実を知るべく行動を起こした。いつも通りの登校時間に家を出て学校に体調不良で1日の間だけ休むと連絡をする、担任は何となくではあるが家庭事象を知っているため、親からの連絡ではなく生徒からの連絡であることも深く突っ込まずにいてくれた。学校では優等生な私は一切の疑いを持たれることなく仮病を使うことができた。あとは見失わないように父をつけるだけだった。なぜか高揚感があった。

 結果は思いの外あっけなくて、拍子抜けだった。駅の方まで徒歩で向かった父は、そこでアカウントの正体であろう女性と腕を組み午前中からホテル街の方に向かって行った。ギャルのような投稿をしている女性が思ったよりも化粧が濃くて派手な感じではあったが20代後半か三十過ぎのように見え、思ったよりも老けていて驚いた。ボロいホテルに入ってく様子を見て、深く考えず証拠を押さえないといけない気がして写真を撮った。すぐに踵を返し、ホテル街を抜け帰宅までの時間を潰すために図書館へ向かった。図書館の自習室で撮った写真を確認すると横顔ではあるが誰かわかる程度には撮れている。何かのためにとっておこうと思い、画像は消さずにスマートフォンをしまった。

 すでに父を追っていた時のワクワクはもうなくなっていた。虚無感だけが残った。母を欺くのも、父の不倫を暴くのもこんなにあっけないのかと。こんな簡単なことがいつもはできないことを考えると、それが呪縛なのだと思い当たった。

 このままの状況を放置しても状況は一向に良くなることはないだろう。何か大きく状況を変えたらいい方向に転じるんじゃないか。そう思って、先ほど撮影した写真と探偵事務者のパンフレットを印刷し、家のポストに投函した。父はポストを確認なんてしたことがないから、絶対に母が確認する。そうしたら怒りの矛先が今後父に向かうのではないか、そんな思いつきだった。

 何となく性格が歪み、精神が壊れてきているがための行動だと感じたがそんなことはどうでもよかった。ただただもう辛かったのだ。


 自体は大きく動いた。結果的には私にとって良い方向に。

 母や探偵事務所に依頼し不倫を突き止めた。正式な証拠を持って離婚へ向かおうと動いた。もちろんその期間の母は猛獣のごとく荒れ狂った一過性のものと信じて耐え忍んだ。

 離婚の手続きはそんなに時間がかからなかった。母は父とその不倫相手から慰謝料をもらい、そのお金で幾度か旅行をした後少し感情の起伏も落ち着気を取り戻し元の職場に復帰した。仕事人間だった母は生き生きと働き出した。家にいるよりも働いた方がストレスはないらしい。父は慰謝料を払い、看護師と再婚するつもりだったらしいが金も余裕も妻もなくした男に興味がないとばかりに捨てられたらしい。のちに母がいい気味だと笑いながら話していた。看護師の方はろくに貯金もしていなかったようで借金をして慰謝料を払っていた。今までちやほやされていて気がつかなかったみたいだが、借金を抱えた三十路が次の相手を探そうしてもなかなかうまくいかず苦戦しているようだ。彼氏ができても長続きはせず、結局今は他の既婚者と不倫しているようだ。何も学んでいないのか、逐一SNSに投稿されるので全ての事情がわかってしまう。

 大人たちの間でいろいろなことが起こった。みんながみんないい方向にも悪い方向にも元あった形を失った。その間は誰も私に干渉してこなかったので。がむしゃらに多方面に働きかけてどさくさに紛れて手続きを進め地方の国立大への進学という名の母からの逃げ道を手に入れた。学費は出してもらえないが奨学金やアルバイトでうまくやりくりすれば何とかなる。自由の値段にしては安いものだ。

 こんなこと思うのはおかしいとは思うが父と不倫相手には感謝している。自由のために暗躍する時間と、逃げることへの可能性を見つけ出すきっかけをくれた。おかげで今の私がある。その反面、あの二人のせいで母の機嫌が悪くなり私の性格は大きく歪んでしまったとは思うが。

 あとはこの自由を維持するために全力を注いで生きていけばいいだけだ。

 踏み出してしまったらあとは進むだけだったのに……。閉鎖された環境にいた時は気がつかなかった。踏み出すことの重要さやそれが意外と簡単なことに。

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