最終話 僕が望んだ答え


         32


 低木の生い茂った空き地や、畑ばかりが目についた。灰色の夜空を背景に、草木は一塊のシルエットになり、輪郭だけを浮き上がらせていた。道路脇に街灯はなかった。僕を降ろしたタクシーの赤いテールランプが、滑るように坂を下っていくと、あたりは圧倒的な闇に包まれた。僕はブルゾンの襟元を合わせた。闇のなかでも、自分の息が白いことだけは判った。寒いと感じたのは、沖縄へ来て初めてだ。最も冷え込む夜明け前ということもあるし、身体が沖縄の気候に慣れてきたせいもあるのだろう。

 勝連城跡のある丘陵も、シルエットになって夜空にそびえていた。道路際から見上げた限りでは、丘陵は五・六十メートルの高さに感じられる。日曜の昼、紗季と一緒に来た時とは違って、少しだけ気味悪く感じられた。

 丘陵の一方の斜面だけは、他の部分とは異なり、樹木がほとんど生えていなかった。ちょうど段々畑のように、石垣に区切られた3つのステージがある側だ。僕はカメラバッグを肩にかけ、なだらかな勾配を登っていった。雑草のなかをのびている、細い剥き出しの地面を進むうちに、闇のなかに仄白い石垣が見えてきた。最初のステージは百坪ほどの広さで、小振りな樹木が二本立っている他は、まばらに芝生が広がっているだけだった。そこから三メートルほど高い場所に、二番目のステージが造られていた。日曜日に訪れた時には、この高さからでもかなり遠くの景色が見渡せた。僕は石垣に両手をついて、そこから身体を乗り出してみた。

 暗いのは空だけではなく、眼下に広がっているはずの海も陸地も闇に沈んでいた。それでも小さなビーズをちりばめたように、陸地のあちこちにライトが並んでいるので、海と島との境界は判った。光が連なっているところと暗いところがあるのは、市街と山林の違いなのだろう。遮るものがないせいで、風が強く吹きつけた。僕はブルゾンの襟を立て、それから腕時計を確認した。赤嶺敏夫へ連絡を入れてから、すでに三十分が過ぎている。彼は自宅から警察署へ戻り、ここへ向かう準備を済ませたころだろう。そろそろ小野寺に電話をしてもいい頃合いだった。紗季から借りた携帯電話を取り出し、ナンバーを検索した。キーを操作すると、ディスプレイライトが闇に淡く灯った。

『ホテル・ファルマンです』

 呼び出しの音が一度鳴っただけで、男が答えた。

「こんな時間に申しわけありませんが、そちらに宿泊している小野寺隆司さんへ、至急伝えたいことがあるんです。私は花城という者です」

 僕は薫の姓を名乗った。薫が姿を消したことで、小野寺は困惑しているはずだ。同姓の人間から連絡があったら、電話に出るだろうと考えたのだ。

『小野寺隆司様ですね。はい、こちらへ宿泊していらっしゃいますが』

 電話の男は少し躊躇していたようだが、『失礼ですが、お急ぎの用でいらっしゃいますか?』と訊いてきた。

「ええ、急用でどうしても連絡を取りたいんです」

 僕は深刻な声を作って答えた。『お待ちいただけますか』と男が答え、保留のメロディが流れ始めた。電話はなかなか切り替わらなかったが、小野寺がホテルから出ている可能性は低いはずだ。昨夕のうちに薫の名前で「遅くなるかも知れないが、部屋で待っていてほしい」と伝言を入れておいたからだ。電話をしたのは紗季だが、ホテルの従業員にはそこまで判らない。

『もしもし』

 長く続いた保留メロディの後で、小野寺の声がした。相変わらず抑揚のない、無感情な話しかただった。

「偽名を使ってすみません。魚住です」

 名乗ると、電話の向こうで息を呑むのが判った。こちらが何も云わないでいると、『どうして?』と独り言みたいに呟いた。

「どうして居場所が解ったのか?ですか。ここ数日、ずっと小野寺さんを尾行していた人がいて、その人から教えてもらいました。堂島恭一郎さんです。多分ご存じでしょうけれど、堂島杏子さんの御主人です」

 小野寺は黙り込んでしまった。おそらく混乱しているのだろう。僕はかまわずに自分の用件を告げることにした。

「実は、小野寺さんにお願いがあるんです。これから勝連城跡へ来てほしいんです」

『勝連城、ですか。ちょっと待ってください。どうしてそんなところに?』

「僕は今、勝連城跡にいるんです。これからあなたのお姉さんも、ここに呼び出すつもりでいます。彼女から逃げようとしていた小野寺さんは、お姉さんに会いたくはないでしょう。それでも、来てもらいたいんです」

 小野寺はまた黙り込んでしまった。やがて、慎重に言葉を選んでいるかのように、低い声で話し始めた。

『悪いんだが、魚住さん。あなたの云っていることがよく解らないんだ。私と姉を勝連城へ呼び出して、どうしようっていうんですか?』

「話し合いたいんです。僕はおおよその状況を把握しているつもりです。話し合いをした結果、どうなるかは解りませんが、できれば二人に自首してもらいたいと思っています。この城跡を選んだのは、広くて、人目につかなくて、落ち着いて話せる場所だと考えたからです。どこかの海岸でもいいんですけれど、身を隠す場所がないでしょう? つまり、あなたのお姉さんが銃を持ってくるかも知れないから、それを警戒しているんです。ここならば城壁に身を隠すことができる」

 小野寺は答えなかった。返事を待つあいだ、僕は石垣の表面を掌でなぞっていた。ひんやりとしていたが、石灰岩の感触は柔らかく、爪を立てれば表面を削り取れそうなくらいだ。

『は、自首ね』

 しばらくの後、小野寺がどこか投げ遣りに云った。それから少しの間を置いて、低い声で言葉を続けた。 『何をどう解釈したのか知りませんが、本当に私は犯人じゃありませんよ。でも、解らないな。もしあなたが、状況を把握しているのなら、なおさらに解らない。どうして私が、素直にそこへ行くと思っているんだろう』

「小野寺さんに来てもらわないと困るんですよ」

 僕は答えた。 「それにもし、あなたが来なかった場合、花城薫さんをお姉さんへ引き渡すとしたらどうします? いや、もうストレートに、増田整子先生へ……と云ったほうがいいでしょうか。これはさっき、気づいたことなんですが、セイコ・マスダでも旧姓のセイコ・ムシモトでも、イニシャルはS・Mになるんですね」

 電話器を通して、小野寺が小さく、ふっと息を吐くのが聞こえた。僕にはなぜか、彼が微笑んだような気がした。

『なるほど、そういうことですか』

 小野寺の声のトーンが変わった。物憂い感じがなくなり、口調もいくらかスピードが増したようだった。 『確かに魚住さんは、状況を正しく把握しているようだ。薫もそこにいるんですか? だけど、薫は何も関係がないんです。この件に関して彼女には何も罪がない。それは解ってくれていますか』

「比嘉ルミさんだって、何も関係がないし、罪がなかったはずですよね?」

 わざと意地悪く返した。その言葉だけで、小野寺はまた勢いを失ったらしかった。しばしの沈黙の後で、すっかりいつもの口調へ戻っていた。

『仕方がなかったんですよ』

 小野寺の言葉に、僕はあえて答えなかった。仕方なかったで済む問題かどうかくらい、理解できないはずはないだろう。 『どうしようもなかったんです。本当にどうしようもなかったんだ。今日まで私が、どんなに苦しんできたか、魚住さんには想像もつかないでしょう』

 電話の向こうの小野寺は、それから一方的に喋り始めた。 『あの時、そう、私がまだ高校生だった時ですよ。彼女の夫だった増田さんは、どうしても離婚に応じてくれなかった。彼女は精神的にも追い詰められていて、最初は本当に自殺を考えていたほどです。いっそ二人で死んでしまおうかと、私も考えた。それから父が、私を熊本の叔父に預けることに決めて、二人は引き離されそうになった。彼女は一緒に行くと云ったけれど、増田さんが連れ戻しに来るのは明らかだ。だから彼女が、死んでしまったことにするしかなかったんです。

 新しい土地で、しがらみから逃れて、最初はうまく行っていたんです。でも彼女は次第に変わってしまった。身元を証明できないから、きちんとした仕事に就けないとか、そういうことも影響していたんでしょう。彼女は最初、近所のスーパーマーケットでレジ係をやっていました。けれど収入が不十分だったことや、人間関係のトラブルもあって、誰かから紹介された仕事を始めたんです。いかがわしいキャバレーでした。もちろん私は反対した。しかし彼女だって、好きこのんで選んだ仕事ではないんです。私にとっても、彼女にとっても、受け入れがたい状況でした。今になって考えれば、私達はあまりにも無計画だったんでしょう。

 整子さんは変わってしまった。一年も経たないうちに、まったく笑わなくなって、大声で罵ったりするようになったんです。ノイローゼみたいな状態だった。私も彼女と一緒にいると、気が変になりそうだった。いや、実際におかしくなってきていました。まだ大学生だった私には、あまりに過酷な状況で、何もかもに疲れ果てていました。でも、彼女から離れることはできなかった。戸籍まで失っている彼女が頼れるのは、私しかいないんですからね。そうするうちに彼女は、店の客の一人と親しくなりました。それを知った時、私はほっとしたんです。嫉妬ではなく、安堵を感じました。それでようやく自覚できました。私が整子さんと一緒にいるのは、すでに愛情などではなく、責任感になっているんだと……。整子さんが、客の男と恋愛関係になればいいと願っていました。私から別れを切り出すことはできない。けれど、彼女のほうから見限ってくれれば、私は自由になれるんです。陽の当たる場所へ戻って、普通の人生を送れる。でも、そんなに都合よくはいかなかった。ある日、彼女は唐突に云いました。“銃なんて安いものね。中古なら十万円もしないのよ”と。客の男はクレー射撃が趣味でした。男と親しくしていたのは、銃を手に入れるためだったんです。“これで私達、いつでも一緒に死ねるわよ”と、彼女は勝ち誇ったように笑いました。正気とは思えなかった。私は戦慄しましたよ。たぶん、彼女は気づいていたんでしょう。私の気持ちが、すでに冷めていることに。二人の関係を、終わらせたがっていることにね。

 もう、あのころからずっと、心から安らぎを感じられる日なんて、私には一日もなかったんです。ずっとずっと苦しみ続けてきたんだ。誰にも甘えることができない。誰にも気持ちを許せない。もちろん、そんな風な心境になることは、他の人にだってあるでしょう。しかし、その状況が永遠に続いていく苦しさ、それが魚住さんに想像できますか?』

 小野寺の声は、少し震えていた。まるで彼は、怖れや不安といった感情に急き立てられて、喋り続けているかのようだった。

『そんな生活を続けている時でしたよ、アルバイト先で杏子さんと知り合ったのは。杏子さんは、心から私を気遣ってくれていた。正直にいえば、私は杏子さんが好きだった。一緒にいるだけで、気持ちが救われた。けれど二人の間には、何もなかったんです。それなのに彼女が、杏子さんを殺してしまった。警察が整子さんを捕まえてくれることを、私は心の底で願っていました。しかし、そうはならなかった。どうして自分から通報しなかったんだ?と訊かれるかも知れない。でも、私にはできなかったんです。彼女が精神的に追い込まれたのも、殺人を犯してしまったのも、元はといえば私に原因があるんですから……。確かに、確かに私達のやってきたことは、誉められたものではないでしょう。でも、それじゃあ、どうすればよかったんですか? それが私には、どうしても解らないんだ。教師だった彼女を、好きになったのが悪いんですか? けれど、誰かを想う気持ちはどうしようもないじゃないか? 違いますか!』

 電話口で、小野寺は涙ぐんでいるようだった。自分よりずっと年上の男性が泣いているというのは、何か遣り切れないものだった。小野寺には彼なりの云いぶんがあるし、おそらく増田整子も同じだろう。

 石垣へ片手を添えたまま、僕はゆっくり坂を登った。二番目のステージと、最上ステージは、緩い坂道と二十段ほどの石段で続いていた。小振りな丸岩を並べて造った階段は、雨風に晒された結果なのか、凸凹に波打っていた。階段を登り切ると、ごく狭い正方形の土地が広がった。面積は他のステージの半分にも満たない。正方形の土地を取り囲んでいるのは、やはり一メートルほどの石垣だった。僕はカメラバックを石垣へ乗せ、自分も腰をかけてから、景色を見下ろしてみた。頂上まで来ても、闇に見えるのはイルミネーションだけだった。

 そうしているあいだ、電話口からは小野寺の呼吸が聞こえていた。すでに泣きやんではいるようだが、まだ息遣いが荒い気がした。僕はできるだけ穏やかに話しかけてみた。

「その通りだと思いますよ」

 小野寺は一呼吸おいてから、『え?』と低く問い返した。

「だから、あなたが増田先生に愛情を抱いたのは、どうしようもないことだったと思います。相手に魅力があって好きになったのなら、教師だとか既婚者だとかは関係ないでしょうしね。自分の気持ちを受け入れてくれる無難そうな女性をピックアップして、そのなかから好きな人を見つけるというのも、すごく不自然な話でしょう。相手が魅力的な女性で、その人を好きになってしまった以上、その気持ちはどうしようもないと思います。小野寺さんは高校を卒業してから、増田先生は離婚してから、そうして付き合うべきだったという人もいるでしょう。それは確かに正論だ。それをしなかったあなた達は、過ちを犯したと責められるだろうけれど、それはそんなに重大な過ちなんですか? そのていどの過ちだったら、誰でも犯し得るんじゃないですか? 生身の人間のやることですから、そうそう完璧には行かないと思います」

 小野寺が黙っていたので、そのまま言葉を続けた。 「でも実際のところ、小野寺さんはどう考えているんですか? 自分と増田先生のやったことが、万死に値するような、重大な過ちだと思っているわけですか?」

 小野寺はまだ黙っていた。僕は片手でブルゾンから煙草を取り出した。一本を口にくわえ、ライターで火をつけようとしたが、風が強くてうまく行かなかった。

『そんな風には思っていないさ』

 やがて小野寺は、不機嫌な声で答えた。 『運が悪かったんだ。たまたま好きになった相手が、結婚している女性で教師だった。もし彼女が独身だったら、私との関係が教師と生徒じゃなければ、あんなにまで非難されなかった。まったく同じことをしたとしても、あそこまで非難されたりしなかったはずなんだ』

「その通りでしょうね」

 火のついていない煙草を指の間で転がしながら、僕は同意した。 「実をいうと、僕は昨年の秋に離婚しています。妻だった女性は、まだ婚姻関係があるうちから別の男性と暮らし始めて、それから別れてほしいと云ってきました。だからといって、彼女のことを激しく非難した人がいるわけじゃない。おそらく彼女自身も、罪悪感なんて抱いていないでしょう。

 でも彼女がやったことと、増田先生がやったことが、大きく違うと僕には思えません。本質の部分は同じだし、そういう心変わりは、別に珍しいことでもない。魅力的な女性から求愛されたら、僕だって似たようなことをしていたかも知れません。その可能性がゼロだと断言できるほど、僕は自信家でもモラリストでもないですよ。いずれにしてもこの件で、小野寺さん達を非難したり軽蔑したりする気はまったくありませんね」

 僕はもう一度煙草へ火をつけようとしたが、ライターの炎は激しく踊って、すぐに途絶えてしまうだけだった。

『よく解らない』

 小野寺がぽつりと呟いた。実際に困惑しているみたいな口調だった。 『そうやって私の意見に同意したり、同情したりしていれば、私が自首すると思っているんですか?』

「まさか」

 僕は笑った。 「率直な意見を述べているだけです。それに小野寺さんのやりかたに、全面的に同意しているつもりはありません。たとえば、小野寺さんは自分達の行為が、さほど重大な罪悪だと思ってはいないらしい。なのに、本気で心中しようと悩んだわけですよね。それはなぜですか? そして結果的には、自殺に見せかけてまで、増田先生は行方をくらました。どうしてそこまでする必要があったんですか?」

 僕は煙草を諦めて、持っていた一本を箱へ戻した。

『魚住さん、あなたは何も解っていない』

 疲れたような小野寺の声が、電話器を通して聞こえてきた。 『私達はあの時、周囲の誰彼から白い目で見られていた。外に出るだけで、好奇の視線に晒された。揶揄したり、嘲罵したりする奴等もたくさんいた。私達は世間に追い詰められたんだ。きっとあなただって、私と同じ状況になったら、同じ気持ちになるはずだ』

 想像通りの答えだった。小野寺も結局はボードビリアンなのだ。僕は努めて穏やかな声で話しかけた。

「ねぇ小野寺さん、あの日……、比嘉さんが殺されそうになった日、僕が警察のやりかたに憤慨していたことを覚えていますか? あなたはあの時、『もっと利口に振る舞え』と云ったんです。確かに、ベルリエヒガルミのメモについて、黙っていたのは悪かったかも知れない。でも、警察の奴等にあんな失礼な扱いを受ける理由は何もない。それでもあなたは『利口に振る舞え』と云ったんです。それはつまり、『立場が強い相手には、自分が正しくても逆らうな』ってことでしょう? あなたと増田先生は、世間に非難された。世間のほうに勢いがあったし、多勢に無勢だったんでしょう。だからあなたは利口に振る舞ったんじゃないですか? 反論もせず、ただ小さくなっていたんだ。そうしているうちに、とうとう自殺まで考えなければならなくなってしまった。

 おそらくあなたは、世間が悪いと認めれば、それはもう動かしがたい『事実』で、悪いと認めるしかないと信じ込んでいるんでしょう。逆に世間が悪いと認めなければ、何をやっても罪悪感は抱かないんじゃないですか? あなた達の恋愛について、僕は同情はしても非難する気はまったくありません。でもね、あなたが比嘉さんをオトリに使ったことは激しく非難します。そっちのほうが何万倍も罪が重い。もしあなたが、自分の行いを恥じて自殺するのなら、比嘉さんの件で死んでもらいたいくらいだ。でもあなたは、おそらく比嘉さんの件では、さほどの良心の呵責は感じていないんでしょうね?」

 小野寺はしばらく黙っていたが、やがて険しい口調で話し出した。

『魚住さん。悪いんだが、これ以上話しても埒は明かないでしょう。ただこれだけは云わせてください。私は高校生の時、世間の誰彼から責められていた時、本当に苦しかった。でもあなたは、私を追い詰めた世間が悪いんじゃなくて、追い詰められた私が悪いんだと云う。そんな風に考える人間がいるなんて、思いもしませんでしたよ』

 言葉は抑え気味だったが、小野寺が憤慨していることだけは、口調から充分に感じ取れた。僕が答えずにいると、彼はそのまま言葉を続けた。 『とにかく、あなたの用件はよく解りました。私がそこへ行きさえすれば、薫の無事は保証してくれるわけですね?』

「そのつもりです」とだけ答えた。小野寺は何か言葉を続けようとしたようだが、思い直したのか、そのまま通話を切った。

 携帯電話をポケットへ戻してから、僕は夜空を見上げた。それでも、小野寺が花城薫を見捨てなかったことには、いくらか安堵していた。もし彼が自分一人で逃げ出したりしたら、さすがに遣り切れない気持ちになっただろう。

 僕は石垣のうえに立ってみた。海は相変わらず暗いままだった。はるか遠くの海上を、光の粒をまとった船が、ゆっくり移動していく。吹きつける強い風が、身体を前へ持っていこうとした。よろけたら闇に飲み込まれそうで、少し怖い気がした。

(そんな風に考える人間がいるなんて、思いもしませんでしたよ)

 小野寺の言葉を、胸で繰り返してみた。もっとも僕のほうでも、「追い詰めた世間が悪い」なんて考えかたは、思いつきもしなかった。追い詰めた側も、追い詰められた側も、僕からすれば同じようなものだ。簡単に追い詰められる人間ほど、簡単に他人を追い詰める。いつも強者にへつらっている桃花が、サークルの友人を虐げていたのと同じだ。ボードビリアンは、容易く被害者にもなるし容易く加害者にもなる。結局彼等は、世間の下したジャッジに、盲目的に従っているだけなのだろう。

 あとは増田整子を呼び出すだけだった。二十分か三十分くらい、時間をあけることにした。まず小野寺が到着し、それから彼女が到着するほうが、スムーズに話を進められそうに思えたからだ。




         33


 いつの間にか、空の低いところに月が出ていた。薄雲に覆われてはいたが、それでも蒼い光であたりを照らした。足元の芝生に、自分の影が淡く形づくられた。景色をいくらか見渡せるようになったが、世界に独りきりで取り残されたような感覚が、強くなったことも事実だった。

 真下の通りを走ってくる車が見えた。何気なく目で追っていると、さっき僕がタクシーを降りたあたりで停止し、ヘッドライトを消した。小型の乗用車みたいだった。赤嶺が到着したのだろうかとも考えた。しかし電話で話した時、彼は多人数の警官を連れてくるようなことを云っていた。それならば車は一台きりではないだろう。紗季の車のようにも見えるが、彼女は花城薫と一緒にいるはずだ。まったく無関係な人物が、たまたま城跡に来たのだとしたら、それはそれで厄介だった。

 車から降りてきたのは一人だけだった。白っぽい服を着た人物は、こちらを見上げているようだったが、やがて坂を登り始めた。目で動きを追い続けたものの、樹々と石垣に遮られ、確認できなくなってしまった。再び視界に現われた時には、最初のステージまで来ていた。人影が大きく腕を振ってみせたのと、どうやら紗季のようだと判ったのが、ほぼ同時だった。彼女は小走りに石段を駆け上がってきた。白いハーフコートが、藍色の空気のなかで跳ねるように見えた。

「薫さんはどうしたの?」

 紗季が石段を登り切る手前で、見下ろして声をかけた。彼女はそれに答えず、そのまま石段を登り切って、すぐ目の前まで来た。

「やっと、堂島さんに連絡がついて……。それで事情を話したら、彼が薫さんを預かってくれるって。だから私は、何か魚住さんを手伝えないかと思って……」

 呼吸が整わない紗季は、苦しそうに切れ切れに答えた。予想もしていなかったので、ちょっと当惑した。

「堂島さんに頼んだのは、別にかまわないけれど。彼が薫さんに危害を加えるとは思えないし。でも、ここにはいないほうがいいよ。これから殺人犯が来るわけだからさ」

 彼女の気持ちを傷つけないよう、できるだけ穏やかに云った。

「でも、まだ来ないでしょう? もう電話はしたんですか」

 紗季が訊いた。あまり緊張感のない口調だった。それから彼女は、コートの二つのポケットから缶コーヒーを取り出し、片方を手渡してくれた。近くで買ってきたらしく、コーヒーは掌に熱く感じるほどだった。僕は礼を云って、飲み口のプルリングを起こした。

「増田整子先生には、さっき電話したばかりだよ。でも、警察はそろそろ到着するかも知れない。この時間なら道は空いてるだろうから」

「どう云ってました?」

 缶コーヒーを、両手で包み込むようにしながら、続けて紗季が訊いた。

「あの赤嶺っていう警察官は、本気で憤慨していた。それでも、提案には応じてくれたよ。念のため、そこらの林のなかとかに、警官を配置してくれるってさ。もっとも彼のことだから、約束を守るかどうかは解らないな。自首を勧める暇なんか与えず、いきなり小野寺さん達を逮捕するかも知れない。増田先生が到着するまでには、少なくとも三十分以上かかると思う。けれど、とにかく、紗季さんはここにいないほうがいい。警官が周囲を固めてくれたとしても、万が一ってこともあるからさ」

「そうですね、解りました」とあっさり答えて、紗季は近くの石垣へ腰かけた。そうして両脚を、宙を蹴るみたいに揺らしていた。やはり、あまり危機感を感じている様子ではなかった。もっとも僕にしても、これから殺人犯と向き合うという実感が、うまく持てないままでいた。あまりにも日常とかけ離れた状況だと、リアリティを抱きにくいのかも知れない。

「でも、これで、決着するわけですよね」

 紗季が柔らかい微笑みを向けていた。夜明けが近づいているせいで、表情を見極められるぐらいになってきている。

「うん、そうだね。おそらくは決着するんだろう。とにかく今回の件では、紗季さんに心から感謝しているよ。もし紗季さんがいなかったら、僕は途中で諦めて家へ帰っていたかもしれない」

 僕は煙草の箱を取り出した。一本を振り出してくわえたが、やはり風のせいで炎が途絶えてしまった。仕方がないので、紗季の腰かけている傍らへ行き、石垣を背に地面へ座り込んだ。掌でライターを包み込むようにすると、ようやく火をつけることができた。地面はひんやりと湿っていて、シロツメグサに似た白い花がたくさん咲いていた。紗季は石垣から立ち上がると、自分もすぐ隣へ腰を下ろした。間近に彼女の顔があるので、少し照れ臭いような気持ちになった。目は合わせなかったものの、紗季の視線がこちらを観察していることは感じ取れた。

「何か、納得が行かないんですか?」

 彼女は優しい声で訊いた。

「どう説明したらいいのかな」

 それだけ答えて、煙草を喫い続けた。釈然としない理由が、自分でも客観的に解っていなかったからだ。吐き出した煙は、一定の高さまで舞い上がると、強い横風に押し流されていった。それを目で追いながら、うまく考えをまとめようとしてみた。

「つまりさ、一連の事件の最大の被害者は、殺された杏子さんだろう。でも、桃花や堂島さんも、人生を大きく狂わされてしまった。彼等はまだ生きているだけに、ある意味では杏子さん以上の被害者だって気もする。だけどね、桃花や堂島さんの人生を狂わせたのは、小野寺さん達じゃなくて、むしろ有村櫻子だ。小野寺さん達はやがて捕まるだろうけれど、櫻子伯母さんが罰せられることはおそらくないよね。罰せられるどころか、良心の呵責だって感じちゃいないはずだ。

 それと、そう、小野寺さん達が罪を犯したのは、世間に追い詰められたからなんだろう。けれど僕には、追い詰めた世間と追い詰められた小野寺さん達は、何も変わらないように感じるんだ。だから小野寺さん達が捕まるのは当然だと思う一方で、たまたま運が悪かっただけのような気もする。変な表現だけれど、くじでハズレを引いただけみたいな、そんな気さえするんだよ。僕個人の考えでは、小野寺姉弟と桃花は、基本的に似たような性格だと思う。不運な状況が揃えば、桃花が犯罪者になっていても不思議はないはずだ。どうして彼等は善悪の判断を、すべて世間に……、すべて『観客』に任せてしまうんだろう? つまり、どう云ったらいいのかな。うまく説明できないな」

 隣に座っている紗季は、何も答えずに藍色に変わってきた空を見上げた。時折、強い風が吹きつけると、丘陵の反対側にある林がさざめいた。その度、樹々で休んでいたらしい鳥達が、短く驚いたような鳴き声を上げた。僕達は肩を並べたまま、ただ空を見詰め続けた。

「ねえ、どうしてここに、カメラを持ってきたんです?」

 長い沈黙の後で、不意に紗季が訊いた。彼女は両膝を抱えるようにして座り込んだまま、こちらを見ていた。

「なんとなく、かな。たいした理由はないんだ」

 気恥ずかしい気がして、曖昧に答えた。さっきチェックアウトを済ませてから、僕は国際通りまで歩いた。荷物をコインロッカーへ預けるつもりだった。しかし、デイパックや紙袋を押し込んだあと、カメラバッグを足元に残したまま、うっかりロックを回してしまったのだ。自分自身の間抜けさに呆れ返ったが、精神的に疲弊してきているのも一因だと思う。もう一度ロッカーを開けるべきかどうか考えている時、こちらへ近づいてくる空車タクシーが見えたのだ。

 ふと、思いついたことがあった。その考えを、そのまま口に出してみた。 「ねぇ、もしよかったらなんだけど、紗季さんを撮らせてもらえないかな?」

「え?」と微かな声が聞こえた。少しのあいだ、彼女は戸惑っていたようだったが、すぐに「かまいませんけれど」と答えた。

 バッグを乗せた石垣のところまで行って、ファスナーを開いてみた。入っているのは、カメラ本体と三本のレンズだけで、フラッシュも用意していなかった。手持ちのなかで、最も明るいレンズに付け替えながら、紗季のほうを見ないで話しかけた。

「本当に嫌じゃない?」

 写真を撮られることに抵抗を感じる人もいるので、念のために訊いてみたが、「全然」と答えた紗季の声に、不快な調子はなかった。景色はかなり明るくなってきていた。空と海は墨をにじませたように薄暗いが、陸地との境界がはっきり判別できる。このくらいの光があれば、フラッシュを使わなくても撮影は可能だ。むしろ問題は三脚を持ってきていないことだろう。僕は少しでも手ぶれのリスクを減らすため、入っていたフィルムを途中で巻き戻し、より感度のいいものと交換した。

 準備を済ませ、紗季の正面へ移動した。地面に座り込んだり、片膝をついたりしながら、安定する姿勢を見つけようとした。ファインダーを覗くと、四角い景色のなかで紗季がこちらを見詰めていた。

「さっきの話ですけど」

 レンズ越しの紗季が石垣に腰かけた。僕はカメラを構えたまま、「何?」と訊き返した。

「さっき、魚住さんが話してくれたことです。私、解るような気がします。魚住さんは、櫻子伯母さんにも罰を与えたいわけですか?」

 紗季が両腕を下げて石垣へ掌をついた。首を傾げるようにして、可愛らしい感じの微笑みをつくった。僕はファインダーを覗いたまま、その問いについて考えてみた。けれど考えるまでもなく、答えははっきりしていた。

「櫻子伯母さんに罰を与える方法なんて、一つもないと思うよ。それに僕は神様でも、法律を決める人間でもないんだ。彼女に罰を与える権限はない」

 何度か姿勢を変えた後で、両膝をついて上体を起こしたまま、カメラを構えることに決めた。「じゃあ、撮るよ」と云うと、ファインダーのなかで、紗季が小さく頷いた。ミラーが跳ね上がり、いつもよりも長い時間、視界が閉ざされた。僕は息を殺し、じっと光が戻るのを待った。失敗の可能性が高かったので、続けて七・八枚同じように撮影した。それから紗季に礼を云って、ジーンズの膝をはらった。彼女もようやく立ち上がり、腕を頭上に上げて伸びをした。

「ちゃんと撮れました?」

「おそらくね」と答えた。一枚くらいは大丈夫だと思うが、確信までは持てなかった。それでも、こうして彼女の写真を撮れたことで、多少は沖縄まで来た甲斐があったような気持ちになった。

「魚住さん、最後に一つ訊きたいことがあるんです。魚住さんは私のこともボードビリアンだと思っていますか?」

 唐突な質問で驚いた。彼女はどこか悪戯っぽい瞳でこちらを見ていた。

「いや、それはないな……。一緒にいたのは一週間だから、たいしたことは解らないよ。でも紗季さんが都合よく事実を歪めるところを、僕は一度も見ていない。紗季さんはいつも自分自身に誠実だったと思う」

 彼女は静かに視線を落とし、微かな声で「それは、よかった」と呟いた。あるいは僕の耳にそう聞こえただけかもしれない。どうしていいのか解らないまま、僕は風のなかに立ち尽くしていた。

 しばしの沈黙の後で、紗季は一転して明るく話し出した。

「ねぇ、ちゃんと撮れていたら写真を送ってくださいね。もし撮れていなかったら、また沖縄へ来て撮り直してください。私、何度でもモデルをやりますから」

 彼女が笑ったので、僕も微笑してみせた。そうしながら、もう今日にでも沖縄を発つことができるのだと改めて気づいた。きっと明日からは仕事に戻れるし、それは紗季も同じだろう。小野寺達は別としても、この事件に関わった多くの人達は、やがて以前と同じ生活に戻っていく。義明と桃花の結婚は駄目になったが、それでも彼等の人生は基本的に変わらないはずだ。僕と何年もの時間を過ごしても、桃花が何一つ変わらなかったように。

「多分、納得できないのは、そこだろうな」

 ようやく自分で気がついて、独り言を云ってみた。

 僕はおそらく、櫻子のやりかたが、そして桃花達のやりかたが、単純に気に入らないのだ。できることなら櫻子には、良心の呵責に苛まれ続けてもらいたかった。しかし、こうした状況をどれほど不快に感じていても、僕は何一つ変えることができなかった。僕が納得できるような答えは、望んでいたような結末は、どうすれば得ることができたのだろう。そんな答えは最初から、どこにもなかったのだろうか。

「かなり明るくなってきましたね。私はそろそろ隠れたほうがいいでしょうか?」

 紗季がぽつんと訊いた。僕も景色へ目を向けてみた。眼下の通りを、三台の車が連なって走ってくるのが見えた。

(おそらくあれが、赤嶺達の車だ)

 そんなことを考えながら、冷たい風のなかで、僕はじっと見詰め続けた。目の前に広がっている景色が、少しずつ光で満たされつつあった。



 **********************

 Homage to 〝The Chill〟 by Ross Macdonald

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ノー アンサー 坂井シロ @shiro_526

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