「わたし」がいなくなる

ノノミヤ作良

第1話

「『人が変わる』って言葉さ。あれ、おもしろいよね」

クーラーの効いた部屋に入り、学習机の椅子に腰掛けるなり、小夜はゆったりとした口調で話した。

「え?」

「だって、本当に別人になっているわけじゃないでしょ」

文脈も何もなく、突然空中に放られた言葉。あかりは、この従姉が突然何を言い出したのか、しばしの思考の後理解した。

「そりゃそうでしょ、あくまで慣用句なんだから。SFじゃあるまいし」

なんとか言葉をキャッチする。それから、あかりは自分のベッドに腰を下ろして、壁に背をもたせると、先ほど導き出した回答を確かめる。

「それが、今回のテーマなの?」

そうそう、と、幾分間の抜けたトーンで、小夜は返事をした。この従姉との会話では、たまにこんなハイコンテクストな状態を強いられることがある。今回は、小夜があかりの部屋に来た目的が、「心理学の話をすること」とわかっていたから、何とか理解できた。そうでなければ、唐突な独り言として受け流すか、文脈を問いただすか、のいずれかが必要だっただろう。

 そんなあかりの、ある種呆れに似た感情を知ってか知らずか、小夜は自分のラップトップPCを黒いリュックサックからずるり、と引っ張り出し、テーブルの上に置いた。リュックサックの中は少々混雑しているらしく、PCに巻き込まれて引きずり出された、少なくとも小説ではなさそうな無骨な本や、ホチキスで角を止められた、英語がびっしり書かれたA4サイズの紙の束が、ちらりと顔をのぞかせていた。

この、持ち物のみならず、服装や髪形にいたるまで飾り気のない女性、三星小夜は、東京の大学院に通う修士一年生だ。専攻は心理学。大学や大学院特有の、長期の夏季休暇を利用して帰省していた。一方、この部屋の主であるあかりは、この春県内の公立高校に進学したばかりだった。この従姉に会うときあかりは、容姿は人並み以上に整っているのにもったいないな、といつも余計なお世話が頭をかすめてしまう。


 あかりが小夜から、夏休み中にときどき心理学の話をしてあげようか、と持ち掛けられたのは、期末テストも終わった七月頃だった。そのときあかりは、もう寝支度を整えて、就寝前に自室のベッドの上で、だらだらと小夜とチャットをしているところだった。話題は取り留めもない、何度となく繰り返したようなものだったが、一段落ついた頃に、小夜が「進路」の話題を出してきたのだった。

「そういえばあかりは何か進路とかって考えてるの?」

きたな、とあかりは思った。あかりももう高校生だ。家族からこの話題が出るのは不自然なことではない。小夜からこんなに早い段階でこの話題が出たのは少し意外だったが、妙に世話焼きな部分がある小夜だから、親切心から出た言葉なのだろうとは思った。

「うーん、まだ考えてないよ」

「というか考えられないかなー、よくわからないし」

連続してメッセージを返す。あかりはまだ特別にやりたいことがあるわけではなかった。勉強も運動も得意とは言えず、部活は帰宅部。高校では日々の授業や課題をこなすので精いっぱいで、先のことなんてまだまだ具体的には考えられなかった。ただし、「進路」という漠然とした、しかしどこか重苦しい存在感を放つ二文字(あるいは三文字)は、そんなあかりの意識圏内にも確かに存在した。

「急だねー、なになに?」

少し待っても返事が来ないので、さらに続ける。小夜は、学業面だけで言えば間違いなくエリートである。県内の高校から東京の大学に進学し、さらには国立の大学院に進学した、親戚中の出世頭だった。そんな小夜だから、勉強法とか参考書とか、そんな話になるのかな、と、チャットメッセージとは裏腹に、興味はひかれていなかった。

「わたしがやってる心理学の話でもしてあげようか? 進路って言っても情報少ないでしょ、まだ。ちゃんと聞いてみるとなにかの参考になると思うよ」

だから、小夜の返信は意外なものだった。小夜が心理学を専攻していることはもちろん知っていた。しかし、心理学とは実際に何を勉強するものなのか、詳しく聞いたことはなかった。いや、聞いたことはあったが、興味がなかったので毎回内容を忘れてしまう。なぜなら、小夜が話す内容は、少なくともあかりが「心理学」と聞いて期待していた、人の心を読んだり、操ったりする方法ではなかったのだから。

 しばらくどう返そうか迷っていると、今度は小夜が連続でメッセージを送ってきた。曰く、心理学は大体において誤解されているので、その誤解を正したい。以前から伝えているが、テレビや本で取り上げられがちな、メンタリストやらマインドコントロールは、あるとしても心理学のごくごく一部だ。そして曰く、小夜がわざわざ地元の従妹を捕まえてこんな話をするのは、若者に選択肢を持ってほしいから、だそうだ。七つ違いの従妹だが、数年前成人を迎えた割に、まるで自分は「若者」じゃないような大層な物言いだ。少し突っ込んで聞いてみると、小夜はこう答えた。

「高校生までの頃って、親とか先生とか、周りの期待とか価値基準に自分を合わせがちじゃない? 文系理系を選べとか、大学の学部を選べとか、将来を考えて、とかでさ。まるで後戻りできない選択をそんな早いうちから迫られてるみたいで。それなのに、ちゃんと自信を持って選択するだけの情報は、ろくになくって無責任だなって思うの。わたしはまあ、いろいろあって今は心理学やってるけど、それもきっかけはたまたまだし。でも、できるなら、早いうちからいろいろな情報を知って、その上で先のことを判断してほしいなって思ってるんだ。まあ、わたしが話せるのは、わたしが選んだ心理学のことくらいなんだけど」

 チャットなのに長文が送られてきて面食らう。なるほど進路に漠然とでも不安を感じるあかりには、ありがたい申し出に思える。ただし、心理学だけ知ってもな、ずいぶん偏ってないか、とも思うが。

「あ、だからって、あかりも心理学を専攻してって言ってるわけじゃないよ。学問としての知識抜きにしても、いろいろ考えるきっかけになるかなって思ってるし。それに、単純におもしろいし」

そんな疑問を予期していたかのように、小夜が続けた。まあいいか。別に成績もよいわけではないし、大学に進むかどうかも決まってないのだ。高校生となった今、進路という重荷に向き合う必要はある。学業エリートの小夜が話をしてくれるのだ、以前聞き流した内容も、今度はちゃんと聞いてみようか。小難しいタイプの心理学自体には興味はないが、折角だ。提案してくれた小夜の顔を立ててやろう。定期的に会うきっかけにもなるし、退屈せずに済みそうだ。

 そんな考えを巡らせて、返信しようと指を動かし始めていたら、追加のメッセージが現れる。

「今度はあかりが楽しめるように、ちゃんと準備するからさ」

返信が来なくて焦ったのだろうか。従姉の随分必死な様子がほほえましく、少し頬が緩んだ。ここまで気にしてくれるのもありがたい話である。

そうして、あかりは承諾の意を表すスタンプメッセージを送ったのだった。


 小夜がパソコンをいじっている間、そんな経緯を思い返しながらぼうっとしていたあかりが気づくと、すでに小夜は手を止めてPCの画面を見ていた。あかりの位置からは角度が悪く、画面に映っている何かはわずかに見えない。

「今日のテーマは、人格です」

あかりが、具体的に何するの? と、停滞していた場を進めようとしたら、小夜が不意に言葉を発した。

「人格?」急に来た、と思いながら、あかりは小夜の言葉を繰り返した。

「人格って......つまり?」

「性格と言ってもいいけど、これからする話的には人格がしっくりくるかな」

学術的な正しさは分かりやすさ優先で目をつむるとして、と付け加えた言葉を聞き流し、明確になった今日のテーマとやらをインプットする。どうやら人格、あるいは性格についての話が始まるらしい。確かに、心理学と性格は結びつきがありそうだ。

「性格って、A型は几帳面とかそういうの?」

「いやいや、血液型性格診断は科学的根拠はないよ。少なくとも、因果関係をちゃんと主張できるだけの研究はないんじゃないかな。まあ、その辺の方法論の話もおいおいするとして、今日は実際にあった事件を題材に、その人らしさってのを考えてみよう」

わたしは血液型と性格は関係ある気がするけどな、とあかりは思ったが、目の前の大学院生は構わず続ける。

「質問。わたしが事故にあって、片脚をなくしてしまいました。さて、片脚がなくなったわたしはわたしでしょうか」

質問形式か、授業みたいだ。事故にあって片脚をなくした小夜ねえか。気持ちの良い想像ではないが、それと小夜が小夜であることは関係ない。

「当然同じでしょ」

迷うことなく答える。世の中には、そんな不幸な事故や病気にあう人はいるが、それで別人になるわけではない。想定通りの答えだったのだろう、小夜は表情を変えずになるほど、と言い、続ける。

「じゃあ、もし明日わたしが、すごく明るくて社交的で、人類皆友達みたいな人間になってたらどう思う?」

突飛な内容だ、と思いながら、イメージしてみた。普段の人付き合いの苦手な小夜を知っているだけに、しっくりくるものではない。

「うーん......何かあったの? って思う」

「うん、かもね。じゃあ、そうなったわたしはわたしかな?」

あ、「人が変わる」という言葉を出したのはこういうことか、と気づく。はじめと答えは変わらない。

「そうでしょ、性格は変わるものだし」と答える。

「うん、じゃあ今度は、わたしがものすごく乱暴で、悪口ばっか言ってその辺のものを手あたり次第壊すような人間になったら、それもわたしかな?」

やはりしっくりこないが、それはいやだな、と思った。とはいえ、それも同じ人間ではあるだろう。

「まあ嫌だけど、そうなんじゃない?」

「そうだね。私が別人になったわけじゃないし、いいこととか嫌なことがあって、一時的にそんな性格になっただけかもしれないしね。さあ、ここまで考えたところで、じゃあこの写真を見てください」

小夜がPCを回転しようとしたが、動きが止まる。テンポが悪いなぁ、と苦笑が漏れると、小夜はあかりの顔を見て、骸骨とか大丈夫? と聞いてきた。げっ、と思ったが、生々しくなければ、とうなずく。意外とこんなところに気が付く従姉である。

あかりの返答を受けて回転を再開したPCの画面に映っていたのは、確かに骸骨の絵だった。ただし、その骸骨は、左頬あたりから頭にかけて、太い鉄棒のようなもので貫かれていた。


「何これ?」

先ほどまでの話とこの骸骨がどうつながるのかわからず、尋ねる。

「この骸骨がね、わたしたちの人格、性格とは何かっていう話に関係があるんだ。あかりはなんで今日も明日もあかりなのか、あかりがあかりじゃなくなってしまうことがあるのか。この骸骨の持ち主、フィニアス・ゲージに起きた事件から、考えてみよう」

わたしがなんでわたしなのか? わたしがわたしじゃなくなる......? 思いがけない言葉が出てきて、すぐには小夜の言葉を消化できず、反芻する。画面に映る、貫かれた骸骨の絵を眺めながら。

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