チョコレートは、

「これ覚えてますか。小学校のころ、啓太郎先輩と一緒にホームセンターで選んだゴーグルっすよ。別に水泳用でもなんでもない、レジャー用の安物ですけど、俺はずっとこれをお守りにしてきたんすよ。多分、先輩がいなかったら俺は水泳やってなかったと思うし。釜の淵の岩の下の淀み、本当にきれいだったすよね。晴れた日はガラスが光を反射してきらきらしてて、夢の中みたいだった。シーズンになったらあそこの公園のプールが解放されるからそっちばかりに行くようになりましたけど、俺はあっちのほうが好きでしたよ」


 隼人くんはそこでいったん言葉を切ると、そばで座っていたお兄ちゃんの顔を両のてのひらで掴んだ。日に焼けてがっしりとした腕とてのひらに、血管が紋様のように浮き出る。


「俺は啓太郎先輩に憧れてたんすよ。泳ぎはうまいし、寡黙で多くを語らないし。でも、知らないとでも思ってたんすか。先輩のご両親はお酒を飲むと子供に暴力をふるうってこと、あんまり周りには知られてなかったっすけど、俺は知ってましたよ。あの川底の楽園は、先輩と梨穂子さんの苦しみによって生み出されたものだってことも。あんたは一言、きちんと言葉にして相談してくれればよかったんだ。俺と一緒に川を泳いで、ゴーグル越しにあの景色を見て、『男同士の秘密だ』なんて言うような、回りくどいことをせずに。ねえ、今日超いい天気だと思いませんか。もうそろそろ七月っすよ。あのときはもうこれぐらいの時期には泳いでましたよね。行きましょうよ。川。聞いてるのかよ」


 隼人くんはお兄ちゃんから手を離さないまま、そうまくしたてた。たしかに今日は、玄関扉のガラスから差し込む日の光がいつもより強烈だった。まだ一度も外に出ていないからわからないが、きっと雲一つない青空が広がっているのだろう。

 しばらくの間、彼はお兄ちゃんの瞳を穴が開くほど見つめていた。が、ふいにその手を彼は離してしまう。

「泳ぎましょうよ。ねえ。外に、出ましょうよ。ねえ、啓ちゃん、なんで」

 啓ちゃん。昔のお兄ちゃんの呼び名をそこに残して、隼人くんは家を出ていった。扉が閉まってしまうと、廊下にはその言葉と彼が置いていったぼろぼろのゴーグルだけがそこに置かれた。ため息を一つついてから、私はゴーグルを拾いあげる。古いゴムのざらついた感触が指に伝わる。それをもてあそびながら、私は彼が消えていった方向を見つめているお兄ちゃんに声をかけた。


「本当は、喋れるくせに。人の姿にも、戻れるくせに」


 お兄ちゃんの顔が、ゆっくりとこちらを向く。マズルが裂けるように開き、鋭い歯と舌がのぞいた。よく、笑っていると例えられる犬の仕草の一つだ。それでも、彼は人の姿には戻ろうとしない。手の中のゴーグルが、少しずつ握りつぶされていく。シリコンがたわんでいく感触がした。


 最初の電話がかかってきたときからすでに、お兄ちゃんが犬になってしまったのではなく、自ら望んで犬に変身した、ということには薄々気づいていた。電話口のしゃがれたお母さんの声。中途半端なところで切れた電話。つい先ほど電話したばかりのはずなのに、メールで再び同じことを連絡してきたお母さん。きっと、お母さんに声がよく似ているお兄ちゃんは、散歩から帰ってきたときに隙をついて人間の姿に戻り、電話口に立ってお母さんのふりをして私に電話をかけてきたのだろう。お母さんはお兄ちゃんのことを『お兄ちゃん』なんて呼ばない。


 お兄ちゃんの口から、荒い息遣いが漏れる。笑っているようにも苦しんでいるようにも聞こえる。先ほどからずっと、黒水晶のような濡れた瞳が、私になにかを問いかけている。

 そんな彼の横を通り抜けて二階にあがり、自分の部屋に置いていた紙袋を掴み、階下に戻る。そのまま私はお兄ちゃんの前に座り込み、紙袋の中からかわいらしい装飾の施された箱を取り出し、ふたを開けた。そこには、この前購入したアソートチョコレートと同じものが収められている。薔薇やヒトデなどの形をしたチョコレートのひとつひとつが、箱の中をのぞきこむ私とお兄ちゃんを見上げる。優雅で甘い香りが、ほのかに立ちのぼってきた。薄い茶色の上に、ピンク色の波のような不定形の模様が浮かんでいるチョコレートを指でつつきながら、私は口を開く。


「最初に電話がかかってきたとき、お兄ちゃんはお母さんのふりしてめちゃくちゃにわめきながら、頼みがある、って言ったでしょ。こっちに来てからなんだろうどういう意味なんだろうってずっと考えてたんだけどさ。それって、こういうことなんでしょ」


 そう言うが早いか、私はそのチョコレートをつまみあげ、お兄ちゃんの口にそれを突っ込もうとしたが、やめた。宝石のように美しいチョコレートが私の指に挟まれたまま、中途半端な位置で制止する。そのさまをお兄ちゃんはなおも変わらず、犬としてのつややかな目で見つめていた。そこに、あの夏の日に揺らめいた意志のようなものはない。さっきまではあったはずなのに。私は思わず舌打ちをしてしまう。


「お兄ちゃん、私に殺してほしいんだよね。だから電話をかけてきたんだよね。犬の姿になったんだよね」


 チョコレートは人間の食べものだが、犬の食べものではない。摂食してしまえば中毒症状を起こし、最悪、死に至る。だから、お兄ちゃんは犬の姿をすることを選んだ。私にチョコレートを買わせ、それで自死することを考えた。きっとそうなのだ。そうに違いない。そう考えたら、そうなのだ。

 だから私はこうして、今までひた隠しにして家に持ち込んだ劇物を、お兄ちゃんの眼前で振りかざしている。本当はそのまま口にチョコレートを詰め込んでやろうかと思っていたのだが、私はそれをやめてしまった。他の方法を、考えついたのだ。

「お兄ちゃん。私はお兄ちゃんを殺さない。そのチョコレートを自分で食べて、自分で死んでよ。あのときの私と同じように。お兄ちゃん、私はね」


 一緒に、お母さんたちと戦ってほしかった。お兄ちゃんに、私の味方になってほしかったんだよ。


 もうそれ以上、私の中に言うべき言葉は残っていなかった。アソートチョコレートの箱を残し、私は犬の姿をしたままのお兄ちゃんに背を向けた。リビングへと続く扉のノブに手をかける。

 その瞬間、床板が踏まれて軋む音、三和土と靴の底が擦れる音、玄関の扉が開く音がそれぞれ混ざり合い、私の耳に届いた。


 振り返ると、お兄ちゃんはいなくなっていた。三和土にあったはずの男物のスニーカーも一足だけなくなっている。チョコレートは手つかずのままだ。触ったり噛んだりした形跡もない。


 あのときと同じだ。私だけが、いまだに憎悪の中にいる。でも、あの瞳はどこにもない。ふと、てのひらの中で不快な感触がした。握りしめていた手を開いてみる。先ほど振りかざしたチョコレートが、体温で溶け始めていた。『憎悪』のときに感じたにおいが爆発したかのように広がり始める。しかしそれは、湿気ではなく私の体温で炙られたものだ。お兄ちゃんはなにを考えてあんなことをしたのか。私に対して腹を立てていたのか。その答えだけは、あのときも今も同じだった。

 犬は禁酒をしないし、水泳ゴーグルも装着しない。そして当然のことながら、チョコレートも口にしない。記憶の中、人だったころのお兄ちゃんの顔がどんどん犬に変わっていくのを感じながら、早くここから出なければ、と思った。今度こそ、私は置いていかれたくない。犬になんて、なりたくない。だが、てのひらの甘い茶色に、いつの間にか私は夢中で舌を這わせていた。

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