あの日のこと、今のこと

「あんなにおいしいもの、生まれて初めて食べたんだもん。これなんていうお菓子なの、って聞いてチョコレートだよ、って答えが返ってきたときはさすがに血の気が引いたけど。でもさ、そのとき私は思ったの。お兄ちゃんにも、チョコレートはおいしいものなんだってことを教えてあげなければならないって、そう思ったんだよ」


 チョコレートは人間の食べものではないと物心ついたときから教え込まれていた私たちは、その文言に対して疑問を持つことをしなかった。親が言うならそうなのだろう、怖いから食べないでおこう。そう思うことで、私たちはチョコレートという得体の知れないものをよく理解しないままに拒絶していた。しかしあの日、私はチョコレートの輪郭や中身を、正確に捉えてしまった。それまで絶対的に『悪』だと思っていたものが、自分にとってはこの上ない『善』だったということを知ってしまった。

 だが結局、チョコレートはお兄ちゃんにとってはそうではなかった。私の訴えを、昆虫図鑑を読みながら興味なさげに聞き流したお兄ちゃんは、立ちあがって本棚に図鑑を収めるとその足で二階にあがり、ベランダで洗濯物を干していたお母さんにその話をそっくりそのまま語って聞かせた。

 チョコレートは甘いにおいと味のするおいしいお菓子で、毒なんかではなくちゃんと人間の食べものなんだよ。そのような意味を含んでいた私の発言はお母さんの逆鱗に触れた。そして『毒を取り込んだ者の言葉に耳を傾けてしまった啓太郎も浄化しなくてはならないだろう』と考えたお母さんによって、お兄ちゃんも連帯責任となってしまった。仏間に閉じ込められ、『憎悪』をおこなっている間、私はお兄ちゃんが戒めを破った妹に対して腹を立てているのではないかと気が気でなかった。しかし結局、彼は最後まで自分の心中を私に打ち明けることはなかった。


 やっぱり、あのときお兄ちゃん怒ってたの? 小さな声で、幾度となく繰り返した質問を再びしてみるが、答えは帰ってこない。犬にしては不自然なほど硬直した状態で、お兄ちゃんはひたすらに私の顔をのぞきこんでくるばかりだ。その姿に、あの『憎悪』のとき、課題を終えて仏間を後にしようとしたときのお兄ちゃんが重なる。一瞬だけ、なにかの意思が宿ったあの瞳。お兄ちゃんの前足の根元を握る手に、自然と力がこもる。


「私はね、あのとき、お兄ちゃんには」


 言葉を継ごうとしたその瞬間、間抜けな音程のチャイムが鳴り響き、仏間の空気が切り裂かれた。来客だ。私はお兄ちゃんの柔らかい体から手を放して立ちあがる。仏間を出て玄関に向かい、インターホンの画面を確認してみると、そこには隼人くんの姿が映っていた。無造作に置かれていたサンダルに足をつっこんで三和土に降り、ドアを開けると、緊張した面持ちの彼と目が合った。この前見たときと同じジャージ姿だ。今日はたしか彼の通う高校は授業がなかったはずだから、きっと部活帰りなのだろう。

「隼人くん。どうしたの」

 私がそう聞いても、隼人くんは変わらず硬い表情のまま押し黙っていた。なにかを迷っているようにも見える。沈黙に耐えかね口を開きかけたとき、彼は私を軽く押しのけ、家の中に入ってきた。

「ちょっと、隼人くん?」

「今、ご両親は家にいない感じっすか」

「え。う、うん」

「お願いします梨穂子さん。やっぱり直接、啓太郎先輩と話がしたいんっす。きっとなにか理由があるはずなんすよ、俺との連絡を絶ったり引きこもったりしてしまっているのには。連絡の件に関しては、俺がナイーブになっている先輩に向かって傷つけるようなことを言ってしまったからだと思うんすけど、引きこもりの件については多分違うと思うんっすよ。だって啓太郎先輩はいつだって優しくて立派な人だったし」


 隼人くんは険しい顔をしながら靴を脱ぎ、床に足を乗せる。お兄ちゃんが犬になった、という話をまるで信じていないかのような口ぶりだ。そんな彼が、お兄ちゃんの姿を見たらどのように思うだろうか。とりあえず、会わせることは避けるべきかもしれない。手始めにダイニングに入ろうとしていた隼人くんの腕を、私は掴む。

「待って隼人くん。あのね、お兄ちゃんはここのところずっと調子悪そうにしてるの。できればそっとしておいてあげてほしいの。だから今日は」

「嫌です。この間ならそれで納得したかもしれないっすけど、やっぱり俺は直に顔を突き合わせて話がしたいっす。そして、俺に至らないところがあったならそれをきちんと話してほしいんすよ。俺が臆病になってちゃだめなんすよ。ていうか梨穂子さん、なんかめちゃくちゃ顔色悪いっすよ。梨穂子さんのほうが先輩よりやばくないっすか」


 それに、もう一週間以上経ってません? いつまでこっちにいるつもりっすか。


 彼の冷たい目がその言葉と同時に私を貫き、二の句が継げなくなってしまう。頭を覆う霧が、よりいっそう濃さを増していく。

 その瞬間、私たちの背後から、なにかをひっかくような音が規則的に聞こえてきた。私は反射的に振り返る。しまった。襖を開け放したまま、ここまで来てしまった。目線の先、廊下の曲がり角から、音の発生源が顔を出す。

「え」

 隼人くんが呆気にとられた顔をする。彼の視線は腕を掴んでいる私ではなく、仏間のほうから歩いてきた、食パンのような色をした生きものに注がれていた。


「啓太郎、先輩? え? 犬じゃん。本当に、は? 梨穂子、さん」

 今しがた、ほんの少しだけ冷たい目をしていた隼人くんが、今度は一転して動揺をまとった目でこちらを見る。ゆっくりと私がうなずくと、彼は私の腕を乱暴に引きはがした。ふらついた足取りで廊下を進み、ちょうど階段の前あたりで立ち止まっていたお兄ちゃんのところで、彼はへたりと座り込んでしまう。

「本当だったんだ」

 静寂に満ちた廊下に、悲しい響きを内包した声が落ちる。隼人くんの肩甲骨が、ジャージの上から浮き彫りになっていた。床板に手をつき、うなだれている彼のてのひらを、お兄ちゃんは桃色の舌でぺろりと舐める。その瞬間、隼人くんが叫んだ。

「触るな」

 今まで一度も聞いたことのないような低い声だった。彼は舐められた指先をジャージで拭うと、背負っていたエナメルバッグの中から水色の水泳ゴーグルを取り出し、床の上に置いた。シリコンの部分の劣化がひどく、ところどころが白くなってしまっている。かなり古いもののようだった。


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