「お酒飲まなくなってからなんとなく気分がいいのよね。パートにも身が入るようになったし」

「ああ、それ俺もだな。仕事中が違うよな」

「そんなこといってお父さん、あんたは仕事でこっそり飲んだりしているんじゃないの。後は飲み会とかで」

「ちゃんと禁酒してるよ。そりゃあ仕事の付き合いってもんがあるから飲み会は行くけどさ。今はアルハラだなんとかって気を使わなくちゃいけないから。まあ、俺も酒好きで通ってたけど、飲まなくなったから気を使われる側の仲間入りだよ」

「なんだ。安心したわ」


 目の前で明るくてふんわりとした会話が繰り広げられていたが、私はそれをひたすら机上の料理を目に映すことで遮断した。笑い声。楽しい会話。お母さんやお父さんが開く口から、それらが唾液と共に料理に降り注ぐ。なにかが銀だらの皮のようにはがされていくような感覚がした。私はそれを振り払おうと、味噌汁を喉に流し込む。


「そういえば、梨穂子は最近どうなんだ? 大学、お前がとても行きたがっていたところだろう。楽しいか?」

「それは、もちろん。友達もできたし」

「よかったわ。ほら、都会って怖い人がいっぱいいるのでしょう? 変な人に騙されたりとかしていない? 大丈夫なの」

「大丈夫だよ。私もう子供じゃない」

「ははは、そうだよな」

 お父さんやお母さんから放たれる言葉たちが、私をちくちくとなぶる。目の前に広がっている光景に、皿や瓶が砕ける音や、肌と肉を打つ鈍くてくぐもった音は存在していない。どこなんだここは。一瞬だけ、自分がどこにいるかわからなくなる。

 ごめん、ちょっとトイレ。早口でそう言うと、私は小走りでダイニングを抜けて廊下に出た。扉を後ろ手に閉め空気を遮断すると、小さくため息をついた。みかんの段ボール。みかんの段ボールだ。あれを見て、私は自分の立っている場所を思い出さなくてはならない。しかし、いくら探してもそれは見つからなかった。その代わりに二年前まで段ボールが置かれていたところには、なにか紙の束のようなものがぎっしりと詰められている紙袋が置かれていた。手を突っ込んでその中身を引っ張り出してみる。どうやら、私たちが『憎悪』のときに使っていたノートのようだった。中にはびっしりとお題目が書かれている。その今にも抜け出てきそうな文字をじっと見ていると、不思議と安堵の感情が湧きあがってくる。


 私はしばらくそのノートを眺めて時間を潰してから、頃合いを見てダイニングに戻り食事を再開した。お母さんたちは相変わらず、野菜が高いとか仕事先の厄介な客がどうとかという、健全でありふれた話ばかりしている。お兄ちゃん以外の家族全員がすでにこの場に揃っているのに、いっこうに彼についての話が始まる気配はなかった。私はそのためにここに呼び出されたはずなのに。

 彼女たちの様子に我慢ができなくなった私は、いったん箸を進める手を止め、口を開いた。

「あのさ、私はお兄ちゃんが犬になったから今後のことを話し合おう、ってことで呼び出されたんだよね。お父さんもいるし、そろそろそのことについて話がしたいんだけど。授業を休んでまでこっちに帰ってきてるんだよ私は」

 お母さんたちはぴたりと話すのをやめ、お互いに示し合わせたかのように同じタイミングで私を見た。そして、くるみ割り人形のようにしゃきしゃきと機械的に口を動かし始める。

「ああそのことね。きっとあの子は疲れただけなのよきっと。引きこもり生活をし始めてわたしやお父さん以外と会話をしたり顔を合わせたりしなくなって、それでなにか異常をきたして犬に変わってしまっただけだと思うの」

「で、梨穂子を呼び戻したら、啓太郎にもなにかいい影響があるんじゃないかと考えてな。ほら、お前たちけっして仲の悪い兄妹ではなかっただろう? 俺たち親世代なんかより全然歳も近いし、啓太郎がなんで犬になってしまったかとか心の問題とか、そういうのを兄妹の絆、みたいなもので感じ取ることができるんじゃないかと思って」

「そうなのそうなの。だから梨穂子、お願い。しばらくここにいてくれないかしら。あんただって知っているでしょ啓太郎が本当はあんな子ではないってことあの子はもうだめかもしれないけど梨穂子がここにいて啓太郎と顔を合わせていてくれればどうにかなるかもしれないわ、そうよねお父さん」

「ああ。あいつはちょっと人と違うところがあるからうまく社会と折り合いがつけられなかったんだと思う。昔から変に真面目だったしな。だから梨穂子。ここにいてくれ。あいつはもうだめかもわからないが、人に戻ってくれるまで。頼むよ」

「啓太郎は犬だけど、梨穂子は人でしょう。お願い」

 お願い、梨穂子。頼む、梨穂子。あの子が人に戻るまで。治るまで。唇同士が擦れて水っぽい音が響くさなか、人工音声のようなお母さんたちの声が私をさいなむ。それは無数の透明な手になって、私をこの家の床に縛りつけようとしてくる。

「ちょ、ちょっと待ってよ私普通に授業あるんだけど。具体的にいつまでいればいいの。ずっとは無理だよ」

「それはもちろんわかっているわ。でも啓太郎が犬になってしまったのよ。家族の一大事じゃない。だから」

「そうだぞ梨穂子。俺たちはお前を、もちろん啓太郎のことも、ここまで育てんだぞ。血のつながりがあるんだぞ。親を安心させてくれよ。治すのを手伝ってくれよ。だから」


 ケイタロウガモトニモドルマデ、ココニイテ。


 二人の声が寸分違わず重なる。その瞬間、私は席を立っていた。廊下へと続く扉は鍵すらかかっておらず、『憎悪』のときとは違って簡単に部屋を出ることができた。戸を閉める瞬間、先ほどとは明らかに違う、黒々とした視線を背中に頂戴した気がしたが、がちゃんという音と共にそれはあっさりと消えてしまった。二人がなにやら話しているのが聞こえてくる。私はそれを無視して、自分の部屋へと続く階段を駆けあがった。




   3


 しかし、あんなことがあったにも関わらず、私は東京には戻らなかった。お母さんたちはあの夜以来、昔のような薄気味悪さと、今その身にまとっている繕った明るさを同居させた状態で私に接するようになった。

「わたし、最近どうも食が細いのよ。それに、もの忘れも少し出てきたような気もするの。これからどんどん歳をとっていってお父さんもおじいさんになったらどうしようかしらー、生活していけるかしらあ」

「職場に田無さんっていう人がいるんだけどな。その人独身なんだよ。もう六十近いのに。いつも毎朝、何事もなく目が覚めて布団から出られることに感謝してるんだってさ。でも、やっぱり恐怖は拭えないらしい。まあたしかに怖いよな、寝たら二度と目を覚まさず、誰にも見つけてもらえないまま体がどんどん朽ちていくなんて。その点うちは安心だなあ」


 リビングでテレビを見ているとき。台所で紅茶を淹れているとき。お兄ちゃんの散歩の用意をしているとき。彼らはそんなときにふらっと私の目の前に現れ、唾液にほんの少しだけ甘さが混ざったような臭気と共にそのような言葉を囁いてきた。ひどいときは、私の部屋の前に二人で立ち、ドアをぎりぎり貫通するぐらいの音量で加齢と老後の恐怖について話し合うこともあった。

 それを聞かされるたび、私は青梅駅前のコンビニで買い漁った安いチョコレートをむさぼり食った。細い蛇のようなものが二人の呼気を通じて体の中に侵入してくるような心地がして、私はそれを毒物であるチョコレートを取り込むことで体内から追い出そうと必死になっていた。そのせいで、体には出ないもののどんどん自分が太っていき、醜い怪物のようなものに変化していくような妄想に取りつかれるようになったが、お母さんたちの放つ物質に脳を乗っ取られてしまうよりはましだった。


 そんな生活をしばらく続けたある日。その日は土曜日だったが、お母さんとお父さんはどちらも朝早くから外出していた。糖分の摂り過ぎか、ここしばらくの間、霧のような倦怠感が絶えず体を覆っていた。階段をあがるのが億劫になってしまった私は、一日の大半をお兄ちゃんと共に仏間で過ごすようになっていた。

 これではあまり昔と変わらないな、と考えていると、頭の隅から急に『憎悪』の記憶が鼻水のように溢れてきた。傍らで寝そべっていたお兄ちゃんを抱きあげ、あぐらをかいている足の上に乗せる。彼が曇りのない瞳でこちらを見あげた。


「お兄ちゃん、私が友達の家でチョコレートを食べてきたとき、お母さんにそれをちくったことがあったの覚えてる? 小学生のときなんだけど」


 早苗ちゃんにもらったチョコレートを食べ、ゲロを吐かされたあの日。実は、お兄ちゃんにだけ、私はチョコレートを口にしたことを打ち明けていた。

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